スポットライト
地方紙の新人記者である私は、取材のためにある人物を訪ねていた。六・七面の端に載る、小さなコラムの記事を任されたのである。十年ほど前から続くコーナーだったようだが、前任者はちょうど私と入れ替わりで寿退社したらしい。内容としてはよくありがちで、この地方の様々な職業の人々にインタビューし、各人の人生観や働きがいを話してもらう。それから社に帰り、世知辛い愚痴や生々しい金銭の話題をカットして、小綺麗な十センチ四方の記事に仕立てるのである。
私の担当はこれで三回目だった。前回の取材対象は同僚の記者、前々回は印刷所の職員。新聞業に近しい者だらけなのは、新米故に腰が引けているからではない。メジャーな職は前任者が取材し尽くしてしまったのだ。だからこんな禁じ手に頼るしかなかったのだが、今回のネタを「自社の清掃員」にしようと編集長に報告したところ、彼はふっと口角を上げて息をついた。嘲笑とも苦笑ともとれたが、多分どちらの意味も含まれていただろう。それから私の目をじっと見つめ、諭すように言ってきた。
「いいかい、このコラムは目立たないが、うちにとっては大事なものだ。毎日大勢の人が日の目を浴びないまま、汗水垂らして働いている。僕らだってそうだ。そんな人々にとって、似た境遇の人が記事になることはいい気休めになる。いつかは自分の仕事も取り上げてもらえるかも――そんな希望を持たせられるんだ。だから手を抜くんじゃない。ネタがないと嘆くのは、全住人を調べ上げてからにするんだな」
彼の目には確かな熱が宿っていた。この言葉は至極もっともな内容であり、私の心に干ばつ明けの雨のように染み渡った。正直私は、こんな手のひらサイズの記事を押しつけられたことに不貞腐れていたのである。同期の中にはいきなり政治部の最前線に立ち、市議会議員の背を忙しなく追っかけている者もいる。一方の私は、ぱっとしない取材先と狭苦しいデスクを往復する日々。いつかは私のこれも報われるのだろうかという不安に苛まれることもしばしばあった。どうやら私の仕事は、私みたいな人間にうっすらと光を当てることらしい。
単純な頭かもしれないが、結果として編集長の言葉は見事な推進剤となった。私は取材のアプローチについて色々と試行錯誤し、結果的に地域住民への聞き取りを行うことを決めた。従来のように取材対象と直接コンタクトをとるのでなく、新たな視点を取り入れることで、幅広い職業の人々を認知できると考えたのだ。
初めに聞き込みへ行ったのは郊外に位置する海沿いの地域だった。前任者も私も、取材対象が街中に集中してしまっていたのである。あの辺りは社から近く、多様な人々が集まるのは確かだが、私はいっそ遠くへ出てみようと決めた。別の地方紙を購読する人間がちらほら現れそうなエリアではあるものの、きっと誰も知らない情報が眠っていると踏んだのだ。
電車に揺られて五十分ほどだろうか、小さな駅へと辿り着いた。ホームの鉄柱は節々が錆び付き、線路向かいの森は鬱蒼と茂っていた。ここで降りる者は私以外にいない。時刻表に目をやってみれば、時刻を示す黒文字がまばらに散っていた。一つだけある改札を通り、小さな降車場に出る。二車線道路を挟んだ通りには個人店らしき小さな定食屋や服屋が連なっていたが、建物の外壁は軒並みひび割れていて、淋しげな空気を醸し出していた。この通りを抜ければすぐ海沿いに出るはずだ。まだ水面は少しも見えないが、仄かに潮の匂いが感じられるような気もする。私はバックパックを背負い直すと、一つ息を吐いてから歩き出した。
やがて私は海岸沿いの堤防へとやって来た。平日の昼間故か、途中の道には忙しない労働者しか見て取れなかったのである。だから仕方なく、目の前に広がる穏やかな海を見つめていた。今日は風が弱いせいか、波も雲もゆったりとした速度で流れるばかりで、視界は風景画のように静かであった。辺りは閑散としていて、側にある波止場に一人、釣りをしている老人が見えるだけだった。蛍光色の赤ジャケットが嫌に目立つので、私の視線は自然と彼へ寄っていた。彼は折りたたみチェアに腰掛けて微動だにしない。竿受けに置いた釣り竿が、時折海風に吹かれて所在なく揺らめいている。私に背を向け、うつむいたような姿勢を取っているので、ふと彼が眠っているのではないかという懸念が湧いた。釣りに関する見識はないため、それが危険なことか否かは分からない。しかし私には、事実がどうであろうと彼の様子を伺いに行ける口実があった。
「あの、すみません」
波止場に歩み寄って小さな背中へと声をかける。すると彼はのっそりと頭を回し、皺に囲まれた丸い目をこちらへ向ける。肌はひどく日に焼けているようだった。一瞬の沈黙の後、彼はしゃがれた声で返事をした。
「なんだい。ここらの人じゃなさそうだけど」
そのいぶかしげな声に突き動かされ、シャツの胸ポケットから急いで名刺を取り出し、簡単な自己紹介をする。すると彼は、どこかばつの悪そうな顔をするのだった。
「記者さん? 悪いけど、新聞はしばらく読んでなくてね」
「いえいえ、うちも小さな会社なので。ところでその、釣りを続けていただきながらでいいのですが、少し取材をさせていただいても大丈夫でしょうか?」
「ああ、いいよ」
あまりに明瞭な返事に少々戸惑う。変に罪悪感を抱かせてしまっただろうかと不安を覚えつつ、メモ帳とボールペンを手元に用意し、彼の横に体育座りをした。
「新聞のコラムで、色々な職業の方にインタビューを行っていましてね。今回はその下調べなんです。この辺りで気になっている、あるいは深掘りしてみたい方がいらっしゃれば、ぜひそちらに取材へ行かせていただきたいと思います」
彼は一通りの話をぼんやりと聞いていた。視線は眼下の水面へと向けられているが、時折首をこくりと曲げて相づちを返してくるため、内容は呑み込めているのだろうと推測していた。説明が終わると、彼は「ううん」と静かに唸った。心臓に響くような低音に思わず動揺してしまう。
「ここらだと、とりわけ記事に出来る職っていうのはないだろう。もっぱら漁師か、こじんまりとした水産加工会社か、何にせよ華はないよ。俺だって足を悪くする前は沖まで出て……」
その言葉の後には、主題と関連のない身の上話が二十分ほど続いた。釣り竿はその間にも全く動じず、そもそも餌を付けているのだろうかという疑問が脳裏に浮かんだ。
「……それで、なんだったか。俺はもう定年だし、記事に出来ないよな」
「その、申し訳ありませんが。できればまだ現役の方がいいですね。どんな職業の方でも、日々頑張っている方を取材させていただければ」
「ううん……一人思いついたが、彼は駄目かもしれないな」
「いえいえ、思い当たる方がいらっしゃればぜひ」
「でもなあ、働いているんだかどうだが、そこから分からないんだよ。本人は『研究中』だと言っているが、俺たちにとってはただの不審者だ」
彼の話によるとその男は自称学者らしいが、どうにも怪しいのだという。毎日波止場近くの岩場に現れては、ひときわ大きな岩に腰掛け、ノートにひたすら何かを書き込んでいるらしい。
「記者さんが取材して素性を明かしてくれれば、俺たちも安心できるかもしれない。だが、君の言う記事にはそぐわないだろうさ」
確かに本来の取材とは雰囲気が異なってきそうではある。その変わり者が光を当てられたがっているとは思えないし、真っ当な記事にできるのかも怪しい。しかし、私の記者魂――新人が言うにはおこがましいだろうが――には小さな火が灯った。コラムの趣旨とは違えど、小さな謎を解明することは記者の使命の一つであろう。誰かへ光を当てることで、影にいる人が助かるケースもあるならば、それだって悪くないことだ。
「いえ、ご協力ありがとうございます。その方に取材してみたいと思います」
そうして私は取材場所を移すことにした。去り際、彼の連絡先をメモ帳の端に書いてもらった。その自称学者について、記事に出来たか否かを連絡するためである。また、これから新聞を購読するとも言ってもらった。彼の声色から察するにお世辞ではないだろう。「言わせてしまった」というべきだろうか、何にせよ、私はほっと胸をなで下ろしながらその場を去るのであった。
岩場の場所は彼に教えてもらうまでもなかった。何やらワニの形をした岩があるらしく、「この先 鰐岩」という錆び付いた標識が続いていたのである。もっとも、鰐岩を目指す人や車は一つとしてなく、私はひび割れたアスファルトの上をぽつぽつと歩いていった。横に広がる海は相も変わらず穏やかであった。
やがて海岸沿いには黒っぽい岩々が現れるようになった。岩場と道路の間はくすんだガードレールで仕切られていたが、あるところで途切れ、そこには海側へと降りる階段が続いていた。階段の向かいには小さな駐車場があり、その隅にはママチャリが一台、ぽつんと停められていた。岩場へと目をやって大きめの岩を探す。その多くはガードレール近くにあったが、一つだけ離れた位置に楕円形の大岩があった。その様は孤独なママチャリと似通っているように感じられ、ふと岩の上へと目を凝らした。直感の通り、そこには人影があった。
階段を慎重に降りて、おもむろに彼へと近づいていく。ジョギングでもするかのような黒ジャージ姿であったが、老人の言ったとおり、少しうつむいたままノートへ何かを書き込んでいた。私はわざと足音を立てて岩の元へと寄っていった。それでも彼は私の存在に気付いていないようで、仕方なく私は声を上げた。
「あの、すみません」
彼はペンを走らせる手を止め、ゆっくりとこちらを向いた。その顔は野性味のある無精髭で縁取られていた。よれたチェックのシャツはひどく年季が入っているらしく、所々が擦り切れて白く褪せていた。眼光は鋭利だ。その姿を見た途端、うやうやしく名刺を取りださんとしてしまった。しかし、私の手は内ポケットの手前でぴたりと止まった。彼の一声によるものであった。
「この岩に用があるのかい」
「いえ、その、私はこういう者でして」
止まった手を再び動かし、手をぐっと伸ばして彼に名刺を差し出す。彼は身体を傾けて受け取ると、文面に目を凝らして「ふうん」と零した。そのまま名刺をひらひらと指先で弄んだあと、ノートの脇に挟んでから、ようやく私に向き直った。
「新聞記者さんが、何の用?」
問いかけは率直だった。こちらの出方を試しているような調子でも、警戒している風でもない。ただ単純に、理由を知りたいというだけの顔だった。私は、例の釣り人の話からここまで来た経緯をなるべく簡潔に説明し、それから彼自身がどんな研究をしているのか知りたいと伝えた。記事にするかどうかは、そのあとに決めればいいと思っていた。すると彼はふっと笑うように息を吐いた。
「『学者』は方便みたいなものさ。ある種、そう呼べるかもしれないが……世の中に役に立つようなもんじゃないよ。そう言うと、みんな興味をなくすか、逆に興味を持ったふりをする。記者さんは職業柄、気になっちゃうんじゃないかな」
少し考え、「正直に言えば、まだよく分かりません」と答えた。彼は目を細めて笑った。表情というより、顔の筋肉がわずかに動いた、という程度の笑みだった。
「それでいいんだよ。何が分かるっていうんだ、話も聞いてないのに」
彼はノートを閉じて、膝の上に置いた。黒い表紙の、どこにでもあるキャンパスノートだ。私はそれに一瞬だけ視線を落としたが、内容を見ようとはしなかった。
「俺がここに通ってるのは、海の音を記録しているからだ」
「音、ですか」
「そう。波の音とか、風の音とか、鳥の鳴き声、漁船のエンジン、そういうやつ。もちろん録音なんかはしてない。ただ耳で聴いて、感じたことを文字にしてる。擬音語にするとかじゃないよ。たとえば、今日の海の音は、昨日のよりも少し丸くて鈍い。風が弱いからだ。そういうことを、文章にして残してる」
「それは……なぜ、ですか?」
私は馬鹿な質問をしてしまったかもしれないと思った。だが、彼はあっさりと答えた。
「なぜ、ね……昔は少し作家業をやっていたんだ。その名残というか、ただ、そうしていたいと思っただけだな。人間ってのは、意味がないことにこそ救われるときがある」
「それは研究、なんですか?」
「さあ、どうだろう。誰も認めてくれなければ、研究とは呼べないのかもしれない。けど俺は、名前なんかどうでもいいと思ってる。やってるうちに、意味のあることになるかもしれないし、ならないかもしれない。それでいいんだよ。人間なんて、大体そんなもんだろ?」
彼の語り口には、熱意というほどの熱さはなかった。ただ、長い時をかけて自分の考えに向き合ってきたのだと分からされる、静かな重みがあった。
「君の取材には向かないだろうな。日々頑張ってる、っていう感じでもないし。社会的な成果もない。君の上司は、きっと良い顔をしない」
「……そうかもしれません」
それを認めるのは少し悔しかったが、事実だった。編集長の語ったコラムの意義――人知れず働く人々に光を当てること――に照らせば、この男は対象外に見えるかもしれない。
だが、それでもなお、私は彼の言葉をもっと聞いてみたいと思った。海の音を文章にするという行為は、どこかで記者の仕事と似ている気がした。形のないものを、言葉に変えて誰かに届ける。受け取る人がいようといまいと、自分の耳と目を信じて、記録し続ける。その姿勢には、確かに芯があった。
「でも、記事にしたいです」
私はそう言った。驚いたように彼が顔を上げる。
「……一労働者として紹介するのは難しいかもしれません。でも、こうして毎日同じ場所に来て、何かを見つめて、言葉にしようとしていること……それはきっと、読む人の心を動かすと思います」
彼はしばらく黙っていた。海風に揺れる髪が、乱雑に額を覆っていた。やがて、鼻の奥で静かに笑ったような音を立てると、横に置いてある擦れたトートバッグから、一冊のノートを私に差し出した。
「じゃあ、これを貸してあげよう」
「え?」
「見てもいいよ。一冊分だけなら。記事を書くために必要なら、参考にしてくれ」
私は慎重にノートを受け取った。思ったよりも重たかった。
「ありがとう……ございます。でも、これは本当に」
「どうせ、見せたところで分かるもんじゃない。書いた本人にしか。だが、それでも読んでみようというあんたの気持ちは、ありがたいよ」
私は深く頭を下げてから、ノートをバックパックにしまった。こういうものを扱うとき、いつも少しだけ緊張する。大切なものを預かるというのは、何も形ある品物に限るわけじゃない。
「……あ、あと、あなたのお名前をうかがっても?」
「ああ。浜野と言う。浜野啓一郎。昔は大学にいたこともあるが、もうだいぶ前の話だよ」
「浜野さん。ありがとうございます。本当に」
私は少しの沈黙の後、ふと一つの疑問をぶつけた。
「今日の海の音は、丸くて鈍いって言ってましたよね。それって、どういうふうに言葉にするんですか?」
彼は少しだけ考えてから、ぼそりと答えた。
「そうだな……たとえば、『ひと晩置いたミルクパンのような音』……そんな感じかな」
私は笑ってしまった。だが、それは決して馬鹿にする笑いではなかった。むしろ、その比喩がとても自然に感じられたからだった。
「それでいいんだよ。わからないまま、少し気にかけてくれる人が一人いれば、それで充分だ」
彼はそう言いながら、膝の上のノートに視線を戻した。ページの端には、縦書きの走り書きが幾重にも重なっている。私がちらと覗き込むと、彼は何も言わずにページをめくり、白紙の見開きを開いてみせた。風にめくれないよう、指で押さえながら静かに口を開いた。
「ここに書いているのは、海の言葉みたいなもんだ。とは言っても、科学的な話じゃない。言語学や民俗学にも当てはまらない。もっとこう、誰かが一人で勝手に思い込んでいるだけの言葉。それがどうしても、俺には聞こえてしまうんだ」
唐突な言葉に面食らったが、私はできる限り相槌も顔色も抑えて、彼の語りを促した。彼の言う「海の言葉」が結局何を指しているのか、まだ見当もついていなかった。
「ある日ここに座っていたら、ふっと言葉が浮かんだんだ。何かを考えていたわけじゃない。ただ風と波の音を聞いていた。すると、まるでそこに何かがいるような気がして、ノートを取り出して書き留めた。それが最初だった」
彼はノートを軽く叩いた。そこに記された言葉は、どうやら断片的な詩のようなものらしい。韻を踏んでいるようで踏んでいない、意味があるようで曖昧な表現ばかり。中には、誰かへの手紙のような書き出しもあるという。
「こんなものを何年も書き続けていて、まともだと思われるわけがない。オカルトか、スピリチュアルか、なんて馬鹿にされた日もある。でもな、これが俺の仕事だと思っている。誰かに頼まれたわけでも、評価されたこともない。でも、これを書かないと、俺は満足して眠れないらしい」
私は不意に、自分の仕事を思い出した。名も出ず顔も出ない、十センチ四方のコラム。誰に読まれるとも知れないそれを、日々の責務として書いている自分。今の彼の姿に重なるような、そうでもないような、不思議な感覚があった。
「このノートの詩、どれか一篇でもいいので、載せてもよろしいでしょうか」
気づけば、私はそう問いかけていた。彼は一瞬だけ目を伏せ、それから首を横に振った。
「駄目だ。これはまだ完成していない。というより、完成するようなものじゃない。記事にするなら……そうだな、君がこれをどう読んだかを書いてくれ。それなら構わない」
「……私が、どう読んだか」
「記者だろう。なら、出来なくちゃならない。俺という人物を解明しようとするんじゃなくて、君という人間を通して俺を見せてみるんだ」
難題だった。しかし、その提案に対して、私はなぜか心が動いた。記者という職業の輪郭が、少しずつ自分の中で形になっていくような感覚があった。
彼とはその後、いくつかのやり取りを交わした。昔読んだ本の話、雨の日に波がどう変わるかといった雑談も含めて、互いの距離はほんの少しだけ縮んだように思う。それでも彼は一貫して、自分の探求の行く先には口を濁したままだった。
「また、来てもいいですか」
そう尋ねると、彼は海を見たまま「ご自由に」とだけ返した。弱くもなく、強すぎもせず、まるで海の波と同じ調子の返事だった。
私は礼を言い、彼の背中を後にして岩場を去った。見上げると、雲の切れ間から光が差していた。淡く、しかし確かな光が、黒っぽい岩を斑に染めていた。
会社に戻り、私は貸してもらったノートを恐る恐る開いた。黒いキャンパスノートには、本文の彼が言っていた通り、海についての散文詩のようなものが書き連ねてあった。しかし、読み進めるにつれて、その内容の凄みをひしひしと理解していった。
それは単なる擬音語や比喩の羅列ではなかった。確かに海の音を表現しているのだが、そこには同時に、彼の感情や記憶、あるいは全く別の何かが入り混じっているように感じられた。あるページには、荒々しい波の音が、まるで誰かの怒鳴り声のように記されている。またあるページでは、穏やかな潮騒が、遠い故郷への郷愁を誘うメロディーのように綴られていた。
私は記事の方向性に迷っていた。彼の言う通り、一労働者として紹介するにはあまりにも異質だ。しかし、このノートに記された言葉を、そのまま記事にすることもできない。読者が置いてけぼりになるだろう。それに、彼が望むのは「私がどう読んだか」を書くことだった。
私はノートを閉じて、大きく息を吐いた。天井を見つめていると、不意に編集長の言葉が蘇った。「全住人を調べ上げてからにするんだな」。その言葉が、今の私には全く違う意味を持って響いた。全ての住人とは、そこに暮らす人々だけではない。その土地に宿るあらゆる声、あらゆる記憶、あらゆる営み。それら全てが、この地域の「住人」なのかもしれない。
私はもう一度ノートを開いた。今度は、ただ読むのではなく、彼の言葉を自分の中に染み込ませるように、ゆっくりと、何度も読み返した。すると、不思議なことに、彼の言葉が少しずつ私の中で形を変え、新たな意味を持ち始めるように感じられた。それは、まるで彼の見ている景色を、私のフィルターを通して再構築するような作業だった。
締め切りが迫っていた。私はキーボードを打ち始め、これまで自分が経験したことのない文章を綴っていった。それは、浜野啓一郎という人間の断片であり、同時に、彼の言葉を通じて私が見た「海の心」の物語でもあった。
記事は完成した。読み返してみると、それは通常のコラムとはかけ離れたものだった。職業紹介でもなく、かと言って人物評でもない。しかし、書かれている内容は、間違いなく彼の人生の一端であり、読む人に何かを問いかける力を持っていると信じることができた。
翌朝、新聞が刷り上がった。私は自分の書いた記事が載っている六面を開き、じっと見つめた。そこには、小さな十センチ四方の記事が、確かに存在していた。
記事のタイトルは、「『海の言葉』を紡ぐ人」。本文には浜野さんの言葉を引用しつつ、彼が海の音をどのように感じ、どのように言葉にしているのかを、私の視点から表現した。最後には、私自身がその「海の言葉」に触れて感じたこと、つまり、形のないものに意味を見出し、それを記録し続けることの尊さを、そっと記した。
新聞が配布されてからしばらくして、私はいつもと変わらずデスクワークをこなしていた。編集長からは特に何も言われなかった。それは、「可もなく不可もない」という評価なのか、それとも「問題ない」というだけの意味なのか、判断に迷うところだった。少なくとも、褒められることはなかった。同期の政治部記者が、市議会の裏金を暴いたとして表彰されているのを横目に、私は小さなコラム記事の担当であることを再認識させられた。
しかし、数日後、思わぬところから反響が届いた。読者からの手紙だった。普段は意見広告や誤字脱字の指摘がほとんどだが、今回の手紙は違った。「浜野さんの記事を読み、心を打たれました」という温かい言葉で始まっていた。手紙の主は、地方で細々と陶芸をしているという老女だった。彼女は、誰も評価してくれない自分の作品と、浜野さんのノートが重なったと綴っていた。
「形にならないものを、それでも信じて作り続けること。それがどれほど孤独で、尊いことなのか。この記事を通して改めて認識できました」
私はその手紙を読み終え、静かにデスクに置いた。編集長が言っていた言葉が、じんわりと心に染み渡った。私の書いた記事は、華々しいスクープではない。社会を大きく動かすような力もない。しかし、一人の見知らぬ誰かの心に、確かに届いたのだ。
記事が掲載されてから一週間ほど経った頃、私は再びあの海岸へと足を運んだ。浜野さんに記事の感想を直接聞きたかったのと、彼が読者からの手紙をどう思うか知りたかったからだ。
「この先 鰐岩」の標識は相変わらず錆び付いていたが、私の足取りは前回よりも軽かった。駐車場には、あのママチャリがいつも通り停まっていた。私は階段を降り、彼が座る楕円形の大岩へと向かった。
「浜野さん」
声をかけると、彼はおもむろに顔を上げた。変わらず無精髭を生やし、シャツは頼りなくよれていた。彼の膝の上には、いつもの黒いノートが置かれている。
「ああ、あんたか」
彼は少しだけ目を細め、静かに私を迎えた。私はすっと掲載された新聞のコピーを差し出した。彼はそれを受け取ると、ゆっくりと記事に目を走らせた。
「ふむ……あんたが、俺をどう読んだか。そういうことか」
彼は記事を一通り読み終えると、一度目を閉じ、それから静かに息を吐いた。
「悪くないな。いや、むしろ、よく書いてくれた」
その言葉に、私は安堵した。褒められたからではない。彼が、私が書いた「海の心」に耳を傾けてくれたことが、純粋に嬉しかったのだ。私は、あの読者からの手紙についても話した。
「そうか。それは、よかったな」
浜野さんはそう言って、再び海へと視線を向けた。彼の言葉は多くを語らなかったが、その表情はどこか穏やかに見えた。
「俺は、これからもここに通うだろう。あんたも、あんたの『言葉』を書き続けてくれ」
彼はそう言うと、ノートを開き、ペンを走らせ始めた。波の音が、心地よいリズムを刻んでいる。
私はそれからも、六・七面のコラムを担当し続けた。相変わらず、地味で目立たない記事ばかりだった。しかし、私の心境は大きく変わっていた。かつては陳腐に思えていた小サイズのコーナーは、今では私にとってかけがえのないものになっていた。
ある日、編集長が私のデスクにやってきた。
「今回の記事も、なかなかよかったぞ」
彼はそう言って、私の書いた記事を指差した。それは、小さな商店街の服屋で働く、人見知りの店主を取材した記事だった。
「地味だが、こういう記事が大事なんだ。お前は、こういう光の当て方がうまい」
編集長はそう言って、私に優しく微笑んだ。私は何も言わず、ただ彼の言葉を噛みしめた。この仕事に大した華はなく、大きく賞賛されることもないだろう。だが、名もなき人々の日常に、そっと光を当てること。それが、今の私の芯なのだ。
私はペンを握り直し、次の取材対象を考え始めた。この広大な地方には、まだまだ知られざる「海の言葉」が眠っている。それを探し出し、私なりの言葉で紡ぎ続けること。それが、私の選んだ道だった。