3 なんなの? ここは!
「あああ!」
落ちる! 死ぬ!
思いがけない浮遊感は、恐怖だった。
上も下もわからない中、包むように光る文字に包まれている。文字は下へ下へと渦を巻いて流れていた。
「っ……!」
来るであろう落下の衝撃に備え、美玲は目を固く閉じて、本能的に背中を丸めた。
しかし、叩きつけられるはずの感覚は、いつまでたっても襲ってこない。
もちろん痛みもない。
「……あれ?」
痛くない?
いやむしろ、柔らかい?
もしかして私……本当に?
「死んじゃった!?」
叫んで目を開けると、そこは狭い倉庫の延長ではなく、暗いがなんだか暖かい空間だった。
「な……に? ここ」
仰向けに寝そべったまま、美玲はぼんやりとつぶやく。
「天国……な、わけないか。じゃあ地獄?」
「どっちでもない」
「ぎゃあああああ!」
今度こそ美玲は、明瞭な悲鳴をあげた。
「誰! 誰よ? 閻魔様?」
「エンマ? 私はそんな名ではない。お前は誰だ? どこから現れた?」
「え!?」
言われて初めて、美玲は室内に人の気配を感じ、大慌てで起き上ろうともがいた。
しかし混乱しているせいか、どうにも手足に力が入らない。
やっとのことで肘をついて顔を上げると、目の前には大きくて黒い影が、のしかかるように彼女を見下ろしていた。
影は人間──男のようだった。
顔はよく見えない。
男だとわかるのは、その人物の背後にごく小さな灯りが灯っており、肩幅の広い輪郭を照らしていたからだ。
「ぅ……わ」
声が出ない。
美玲は生まれて初めて恐怖を感じた。
ずっと昔、父親に殴られていた時も怖かったが、その時ですら相手が誰かを疑う余地はなかった。
今この瞬間、美玲は得体の知れない男に、のし掛かるように覗き込まれているのだ。
「誰だ」
男は再び声を発した。
その声は低いが、滑らかな声音だった。威嚇でも威圧でもない声。
耳に心地がいい。
そのことに美玲は、ほんの少しだけ息がつけた。
「あ……あ、あなたこそ誰ですか!? 私はすみれホームヘルプサービスのスタッフ、二級ヘルパーの蒼井美玲です!」
「なに!?」
「ひっ!」
男がぐいと身を乗り出し、顔が近づく。しかし、明かりが完全に彼の背後になってしまい、全く表情がわからない」
「ミレ? ミレだと? そなたミレというのか!?」
「いえ、ミレではなく、美玲です。み、れ、い」
しかし、男は美玲の訂正など少しも聞いてはいなかった。
「ミレ……まさか……そうか! 私が世界を構築してしまったから、もしかしてどこかと繋がってしまったのか? さっきヒロインを名づけた時、妙な感じがしたのはこのせいだな」
自分の陰に沈んだ男は、訳のわからないことをぶつぶつ言っている。
「はぁ? あなたなに言ってるんですか? というか、ここはどこですか? 私さっきまで備品倉庫にいたんですけど。もしかして、隣のマンションの地下の人?」
「ビヒンソウコ? ビヒンソウコとはなんだ」
「だから備品を収納しておく物置です。消耗品が多いけど」
「ほう……物置、物置」
わかったのか、わからないのか、男は感慨深げに頷いている。
「あのすみません。さっきから全然私の質問に答えてもらってないんですけど!? 私お金なんて持ってません。脅したって無駄ですから。警察呼びますし!」
言いながら、美玲はエプロンのポケットを探ったが、そこにスマホは入っていなかった。落下のはずみで落としたのだろうか。
慌ててきょろきょろと辺りを見渡したが、大切なスマホは見当たらない。
「スマホがない! 私のスマホ!」
「スマホとは?」
「だからスマートフォンでしょうが! もういちいち聞かないで! 聞きたいのは私の方だし!」
苛立つ勢いで美玲は立ち上がった。男は少々のけぞったようだが、美玲は構わず辺りを見渡した。
しかし、そこには薄暗い空間が広がるばかりだ。広めの部屋で、雑多なものが置いてあることくらいはわかるが、灯りは窓辺の机上にあるランプしかない。
日が暮れるまでにはまだ時間があったはずなので、やっぱりここは地下なのだと思った。
なにここ、どっかの部屋? 薄暗いけど、結構広いような……?
「やっぱりここって倉庫かな? 床が腐っていて、隣のマンションの地下と繋がっているとか?」
「そなた妙な服を着ているな」
「ソナタ? ソナタってなに? って、ああ、私のことか。すみませんね。仕事着なもんで」
美玲は周囲に目を凝らしながら言った。少しずつではあるが目が慣れてくる。
「仕事中だったのか」
男が立ち上がる気配。部屋が暗いのと、顔を隠すような長髪のお陰で、やはり顔はよく見えない。
ただ背が高いということだけはわかった。
「……わ」
美玲は急に怖くなって、思わず後ずさる。しかし、男からは攻撃性が感じられなかった。
幼少期に父親から散々受けた暴力のおかげで、美玲は攻撃の気配には敏感なのだ。
「仕事をしていたのか?」
男は繰り返した。別に怒っているようではない、むしろ高揚感を抑えている様子さえ伝わる。
「そ、そうです! だから困ってんです! えっと……もしかして私、不法侵入になるんですかね?」
美玲はやや警戒を解きながらも、用心深く聞き返した。
「多分ならない。で、そなたの身に何が起きた?」
戸惑いを隠せない美玲に構わず、男はなぜか食いつく。
「私にだってわかりません! 職場の倉庫を片付けていて、奥に妙な扉を見つけて入ったら、床に文字があって……思わず手をついたら、吸い込まれるように落っこちたんです」
「なるほど……そうか」
「……で、ここはどこなんです? やっぱり隣のマンションの地下?」
「まんしょんではない。私の屋敷だ」
「お屋敷? 昔ここにあったとかいう?」
「多分違う」
よく見たら、ここすごく格式の高いお部屋のような……?
かなり目が慣れてきた美玲である。そして視力も自慢である。
明かりが小さいので、細部まではわからないが、美玲の知っている日本の洋室ではない。ただ、家具も天井も床の敷物も、上質な素材だということは理解できた。
なんだか図書室、いや書斎……って感じ?
棚や、その下には書物や荷物が山積みだ。
壁や天井の様子はテレビで見る、欧州のお屋敷によく似ている。
似ているが、しかし、明らかに「異質」なものがある。ぼんやりと見える本に記された文字は、日本語ではなく、もちろんアルファベットでもアラビア文字でもない。
高卒だから、世界中の言語を知っている訳ではないが、明らかに文明が異質だと、美玲の感覚がつげている。
美玲はじわじわと湧き上がる、嫌な予感を必死に抑えて尋ねた。
「あの……間抜けだと思うんですけど、もう一度伺います。ここはどこか教えてもらえますか?」
「ここはギンジシという国の首都の郊外だ」
発音はよくわからなかったけれど、言葉の意味はなぜかわかった。
ギンジシとは銀獅子だ。
「ぎ、銀獅子……国? そんな国聞いたことないですけど、つまり日本じゃないってことですかね?」
「そうか。多分そなたの世界にはないだろう」
「……世界、ですか?」
「多分、そなたの現れ方、そして様子からして、そなたはこの世界とは別の世界から来た……と私は判断する」
「……意味がわかりません。あなたはどなたですか?」
「私はシルバーフォレスト公爵という」
「こ、こうしゃく」
それは貴族の階級、称号だろう。そのくらいは美玲にもわかる。
「そうだ」
男──公爵はつと振り向いて背後へ進むと、窓際の机の上からランプを取り上げた。この部屋における唯一の灯りである。
「これでよく見える。そうか……そなたがミレなのか」
そう言って公爵はゆっくりと近づいてきた。彼が首を振ると髪と炎がゆらめき、男の顔を照らだした。
「……っ!」
美玲の目が見開かれる。
何この人……すごい綺麗!
白髪……じゃない、銀髪? 西洋人ぽい顔立ちだけど、ちょっと雰囲気が違うような……。
「驚くのも無理もない。実は私も驚いた」
自分の顔に見とれる美玲を見て、公爵はすいと目を逸らせた。
「つまり……私はまたやってしまったのだな」
「はぁ」
美玲は訳がわからないながらも、目の前の男が危害を加える様子がないことに、少し理性を取り戻す。
「あの、すみません。とりあえず、私帰りたいんですけど。どうやったらいいんですか?」
男は黙って、部屋の壁に取り付けてあるランプを次々に灯していった。
最初は背後の机上に一つ明かりがあるだけの暗い室内が、男が進むごとに明るくなっていく。
「……」
やはり、ここは見たこともない場所だった。
広くて、天井が高い、明らかに異文化、異文明。
なのに片づけられてない机上や棚、使い方のわかる調度品は、どこでも変わらない人間の営みと知れるものばかりだ。
そしておそらく、全部高価な品なのだろう。古びてはいるが。
ああ、なんだかすごく不思議だ。
美玲は頭を打って幻影を見ているか、それともやっぱり自分は死んでしまっていて、あの世に行く途中なんだとぼんやりと考えた。
再び頭がぐらぐらしはじめ、視界が滲んでいく。
まぁいいか。私が死んでも、誰も悲しむ人なんていない。
やりかけの仕事のことは気になるけど、私じゃなくちゃダメって訳でもない。
死んでもいいかな? いいのかな?
初恋もまだだけど……こんなイケメンを見て死ねるならいいのかも……。