2 孤独なおひとり勤労娘
2024.8.13 エピソード6まで改稿しました。
その日、蒼井美玲は、センター長の冬木から、とんでもないことを申し渡された。
美玲は、すみれホームヘルプサービスのスタッフだ。高校卒業と同時に働き始め、ようやく二級の資格を取ったばかりである。
季節は秋へと移り変わる。美玲の一番好きな季節だが、体調を苦うす利用者も多いので、仕事も立て込む時期である。
「蒼井さん、悪いけど、来月からもう二つのお家の受け持ちになってほしい。菊川さんと、鳥井さんなんだけど」
は? と美玲は思った。
「あのでもセンター長……私は、半年間の初任者研修期間が終わってまだ二ヶ月ですし、今でも、週五回、午前午後で十四軒のサービスを担当しています。そして、もう一日は病院内での仕事が」
美玲の受けもつサービスは、老人の出張介護の補助、事情がある子どもの支援などである。
これはかなり広範囲に及ぶサービスだ。
今のところ、リーダーから指導を受けながらサブで行うことが多いが、美玲はこの仕事に自分の適性を感じている。
コミュニケーションが得意な美玲は、要支援者や家族の要求に臨機応変に対応し、適切な言葉をかけて関係を築ける。そして、一件単位の仕事の始まりと終わりがはっきりしているからだ。
しかし、まだ慣れないことも多く、見えないところで苦労もある。今抱えている仕事がギリギリのところなのである。
「ああ、その通りです。ですが、ご存知の通り、今は人手不足でね。菊川さんと、鳥井さんを担当してくれていた、中村さんが来月から妊娠軽減で事務の方に回ってもらうから」
「では臨時の人を雇っては?」
「もちろん求人は出してる。けど、今即戦力になれるのは蒼井さんしかいないんだよ」
センター長は、すまなそうに言った。
「ほら……菊川さんは、ちょっと難しいお宅だろう? なかなか他の人には頼みにくい。その点、君は研修成績も優秀だったし、利用者さんからの評判も概ねいい」
この概ねというところが、微妙なところなのである。
『三十分くらい、タダで時間延長サービスしてくれたっていいじゃない! うちの子が嫌いなの!?』
『お掃除の後、置き物の角度が曲がっていたけど。もっと丁寧にできないの?』
『おばあちゃんが、若い人に暴言吐かれたって泣いてるんですけど、一体どういうこと!』
これは美玲が実際に受けたクレームである。
最後のものは、介護中にいきなりピシャリと続けざまに頬を叩かれ、思わず「すみませんが、叩かないでください!」と言った件だが、後にセンター長に呼び出された。
「君が暴言を吐いたってクレームがあったんだけど」
これが「概ね」の正体だ。
施設自体も、今は選べる時代なので、評価ばかりを気にしている。だから、余程のことがない限り、若手の新人を庇ってくれることなどない。
幼い頃から培ってきた危機察知のおかげで、今ではクレーマーな家がわかってきたから、回避技術も身についてきたが、最初は泣くほど辛かったものである。
美玲は心の中で大きくため息をついた。
「……ですが、今更シフトの入れ替えなんて」
「いや……それは私が責任を持ってやるよ。今蒼井さんが受け持ってる吉住さんを別の人に回すから。なんとかなる」
吉住家は、美玲が週一で終日ハウスキーパーを務める比較的裕福な家庭で、介護ではなく家事手伝いだ。クレームなどもなくやりやすい。業界用語で言うところの”しやすい”お宅なのである。
「……でも、菊川さんは、結構なクレーマーで……」
菊川家は、タダで時間延長サービス要求の家である。
重度な障害をもつ子がいる家庭の大変さはわかるが、常に要求が高く細かく、常に介護士にマウントをとりたがる。一生懸命に支援をしても満足しないで、粗探しをするので有名なクレーマーだ。
「わかってます。どうか変わりの人が決まるまでお願いします。あなたは若いし、仕事も真面目なので悪いようにはしないから」
なんとか抗おうとする美玲に、センター長は被せて言った。ついでに二十も年下の美玲に頭も下げる。無理を言っている自覚はあるのだろう。
「少しだけだけど、ボーナスもあげてあげる。君にしか頼めないんだよ。ではよろしく!」
やってらんないわよ!
美玲は、休憩室のロッカーの扉を乱暴に閉めた。幸い、中途半端な時間帯なので誰もいない。
「やっと、少しだけゆとりができ始めたって思ったのに!」
両親は、美玲が小六の時に離婚した。
父親はDVのクズ野郎で、今は所在不明だ。
残った母はしばらくは夜の店で働いていたが、やがて無気力になり、わずかな貯蓄を食い潰した挙句、美玲が高校に合格した春に、その頃できた男と去った。
『ごめんね』
そんなメモを残して。
十五歳の美玲は「おひとり様」になった。
幸い古くて小さい平家だが、家は母親の持ち物なので、住むところはある。母のせめてもの罪滅ぼしだろう。
けれど、家があるだけでは暮らしていけない。学業は奨学金でなんとかなったが、学校にしゃべる友達はいても、放課後のカフェや、休日の買い物はどには付き合えないし、部活なんてもってのほかだ。毎日バイト、時には二つ掛け持ちしてのバイト人生。
バイトと最低限の勉強。働ける体力と働く意欲、最低限の教養。自分の武器になるものは、たったそれだけなのだ。
成績は良かったし、進路指導の先生からは是非とも大学に行けと言われたけれど、一刻も早く独り立ちしたかった美玲は、すぐにでも役に立つ資格を持ちたかったのだ。
両親を見ていると、堅実な職業に就き、安定した収入を得たいと思うのは当然だろう。
それが介護職。家事ならずっとしてきたし、学校に行きながら勉強もできたので、ほとんど迷いなく決めた。身元保証は担任と校長が助けてくれた。
実際には考えていたよりも、結構な仕事の種類と量だったけれど。
ああ、憂鬱だぁ。
働くことには不足はないし、忙しいのも嫌いではないけれど、若干十九歳の美玲に、大人とは、時に大変理不尽な存在だった。
一人暮らしの美玲には相談できる相手もいない。同年代の同僚もいず、学生時代の友人も少ない。
「ま、いいか! なんとかなるか!」
なんとかなる。してみせる。
それは美玲の口癖だった。
決して楽とは言えない高校以来の一人暮らし。でも、ほとんど遊んだり、買い物したりせずに地道にやってきたのだ。
「センター長も、ちょっとはボーナス上げてくれるって言ってたもんね。あの人ちょっと馴れ馴れしいけど、とりあえず今日は、もう終わりだし!」
美玲は、消耗品倉庫の片付けをしようと思った。
ここは美玲の好きな場所である。どんなに掃除をしても、掃除用品や介護用品などが常に搬入されてきて、気をつけないとすぐに乱雑になる。
奥の方から取ればいいものを、皆忙しいからと手前から取ってしまうので、いつも開けっぱなしの段ボールで溢れている。奥行きはあるが細長く、使いにくい倉庫なのである。
美玲は、ここを使いやすいように整理するのが好きだ。
少し置き方を工夫するだけで、目に見えて綺麗に使いやすくなるし、終わりがあって達成感のある仕事は自己肯定感に繋がるから、自主的にやっている。
ちゃんと気がついてくれる人もいて、ありがとうと言ってもらえる時は素直に嬉しい。
「よし、今日は奥の方まで見てやろう。古い消耗品がそのままになってるかもしれないし」
美玲が倉庫に入ると、早速新しい段ボールが開封もしないで山積みされていた。たった一週間見ないと、この始末である。
人気のない倉庫内は埃臭く、冷え切っているが、美玲は腹立ちまぎれに古い段ボールの山とアングル棚の間を縫って、ずんずん奥まで進む。
「あれ? こんなところにドアがあったかな?」
細長い倉庫の一番奥に古い煉瓦塀が露出しており、そこに小さな扉が見えた。人が屈んでやっと入れるくらいの扉だ。見たことはないが、茶室のにじり口のような大きさである。
そういえば、この施設のある地所って、以前は古いお屋敷があったって話だわ。綺麗に解体されたということだけど、使える部分は残したのかな?
もしかしたら、倉庫の延長になるかもしれない。
ちょっと見てみよう。
美玲は棚の奥に身を滑り込ませる。痩せているのはこういう時に便利だ。体は細くとも、体力と力があるのは密かな自慢だ。
おかげでここまでやってこれた。
古い棚の間に身を滑り込ませ、露出した煉瓦塀に手をかける。そこに美玲の背丈よりも低い木製の扉がはまっていた。
「わ……これ開くわ」
内開きの扉は少し力を込めると、すぐに奥の暗い空間を覗かせた。
美玲は意を決して中を覗き込む。扉は小さいが、中はそれなりの空間があるようだ。真っ暗だと思っていたが、少し入ったところにぼんやりと光るものがある。
「なんだろ? 反射板かな? 意外と広いのね。これなら普段使わない物品をしまい込めそう」
美玲は用心しながら、四つ這いで光る床の方向へと進んだ。
「なにこれ……光で文字が……何語だろ?」
そこには、アンティークな装飾のような見たことのない文字がぼんやり光っている。
美玲が見つめる前で、文字を描く光が強くなった。
『私には君が必要なんだ! 出てこい私のミレ!』
苦しげな男の声だった。
「えっ!? ミレって、私? 誰?」
『ミレ! 来てくれ』
「はい! ただいますぐ!」
再び叫ばれた声に、仕事の癖でつい返事をしてしまった美玲だった。
美玲の尻の向こうで、入ってきた扉が音もなく閉まる。
「え? ちょっと! わ……わぁっ!」
思わず文字の中についた手は、そのまま床に飲み込まれた。
「きゃあああああ!」
あっという間に美玲の体は光に包まれ、空間は元の闇となった。
ヘルパーの仕事内容な、知り合いからの聞き取りです。
全ての事業所を代表するものではありません。