第七章:君は優しいから――美生子八歳の視点
「おめえの母ちゃんって浮気して旦那さんから追い出されたんだろ」
花盛りの辛夷の大木が午後の陽射しを受けて色濃い影を落としている小学校の正門近く。
黒ジャンパーに黒いランドセルを背負った男子生徒が自分より頭一つ分大きな陽希を見上げて高笑いした。
若草色のジャンパーに黒いランドセルを背負った陽希は表情の消えた顔で相手を見下ろしている。
黒ジャンパーは調子づいた風に囃し立てた。
「母ちゃんが浮気して出来た子供だからおめえは最初から父ちゃんいねえんだ」
「おい!」
三年生のおれは極力野太い声にして呼び掛けると、下ろし立ての水色のコートの左の肘に青い手提げをかけ直しながら一級下の二人に駆け寄った。
二人とも「あっ」と面喰らった表情になる。
「他所の家族にデタラメ抜かすな」
おれは黒ジャンパーの襟首を思い切り掴んで斜め加減に睨み付ける。
「失せろ」
掴んだ襟首を勢いつけて突き飛ばす。
黒ジャンパーは尻餅を付いた。
「こえー」
相手は転んだまま、しかし、新たにせせら笑う顔つきになった。
「男だろ、この人」
そうだ。
心の中で答える。
黒ジャンパーの後ろ姿が遠巻きににやついて眺めていた仲間らしい男子生徒たちの中に紛れ込むタイミングを見計らって陽希を振り向く。
「帰ろう」
落ちた辛夷の花々が既に踏みにじられて滲んだアスファルトの道を歩き出すと、陽希は黙ってついてきた。
「ありがとう、ミオ」
若草色のジャンパーを着た陽希は、しかし、まだ表情の消えた面持ちに圧し殺した声で続ける。
「おれは弱いから、うちのこととかバカにされてもいつも言い返せないんだ」
三月の午後の穏やかな陽射しを受けても、切れ長い瞳は翳ったままだ。
「三年でクラス替えしてもまたいじめられるのかな」
いつも二人で帰る道の行く先を見据えて、陽希は肩を落として深い溜め息を吐いた。
固く黒い真っ直ぐな髪を日蔭から吹いた肌寒い風が音もなく揺らして通り過ぎる。
おれは水色のコートの腕を伸ばして若草色のジャンパーの肩を叩いた。
「ハルは弱いんじゃない。優しいんだよ」
だから、バレエ教室でも好きになる女の子が多いのだ。
自分はもう同じ幼稚園だったリカちゃんのことはバレエ教室で顔を合わせても友達としての好意を感じる段階に落ち着いた。
けれど、何となく気になる女の子が新たにバレエ教室で出来ても、その子たちの目線は体は同性である自分を素通りして正真正銘の男の子である陽希に向けられる。
これは学校でも同様で、好ましく感じる女の子が現れても、その子は「男の子みたいな女の子」である自分とは友達止まりで、好きになるのは「体も心も完全な男の子」だ。
これは一生変わることがないだろう。
そう思うと、ハーフアップに結った頭の上の方にピッと引っ張られるような痛みが走り抜ける。
自分は自分を男としか思えないけれど、体は女に生まれついているし、周りからも女として扱われている。
というより、こんな風に髪を長くしてバレエを習っている女の子が実は心は男で好きになるのも女の子なんて誰も思わないだろう。
それに、もし「女の子が好きだ」なんて知れたら、気持ち悪がられるだけだ。
テレビでも同性を好きになる人は変態扱いで笑い者にされる場面ばっかりだし。
自分も恋愛として好きになった女の子たちに会いたい一方で、どこかで心から本当の女の子になりたいから、どんなに頑張っても王子様は踊れないらしいと分かってからも髪を伸ばしてバレエ教室に通っているところもあるし。
心が男でいても、それが自分を幸せにしないことはもうすぐ小四の自分には分かっている。
隣の陽希は何事か思案する面持ちで中高い横顔を見せて歩いていた。
自分より頭半分以上大きい、小学二年生にしてはかなり長身のこの子を横側から眺めると、背負った真っ黒なランドセルが早くも小さく見えてくる。
おれは好きな群青のランドセルを買ってもらったけれど、ハルは本当は黄色や緑が好きなはずなのに真っ黒なランドセルだ。
女の子はめいめい好きな色のランドセルを背負った子が多いけれど、男の子は黒のランドセルばっかりだから我慢して皆に合わせたのだろうか。
それとも、清海おばさんが黒でなければダメと言ったのかな。
ママやおばさんが子供の頃のランドセルは女の子は赤、男の子は黒でほとんど統一されていたそうだ。
今は自由に選べるようになったけれど、女の子と比べると、男の子は相変わらず黒のランドセルを背負わされる子が多い。
本当の男の子だとそんな縛りもあるのだ。
二人が並んで歩く道では街路樹の白木蓮が花を咲かせていた。
辛夷と白木蓮は良く似ている。人に例えれば、辛夷が妹、白木蓮が姉のように見える。
ただ、お姉さんは細い枝に白いチューリップじみた大きめの花が咲くのが妹と比べてもどうにもアンバランスに思える。
「白木蓮」という割には花びらも決して真っ白ではなくどこかクリームじみた色合いで、しかも根元がほんのりピンクに色付いている。
辛夷の花びらにおいてははっきりと赤紫の筋になっている部分が白木蓮だと水で薄めたような案配だ。
辛夷はさておき白木蓮はどうして実際の色彩に完全には当てはまらない名前を付けるのだろう。
見合わない名で呼んでも自然の花がその通りの色に変わってくれる訳じゃないのに。
「ミオ、落としたよ」
陽希の声に振り向くと、筒上に丸めた図工で描いた絵の画用紙をこちらに差し出していた。
手提げのバッグからいつの間にか落としていたらしい。
「ああ」
"長橋美生子"
画用紙の裏に鉛筆で自ら記した名前が妙に浮き上がって見えた。
おれの名前、何で今時"子"まで付けた、いかにも女の子って字面なんだろう。
せめて"美生"とか男女のどちらでも通用する命名にしてくれれば良かったのに。
「ありがとう、ハル」
家に帰るまで落とさないように気を付けよう。
青い手提げの底に潰すようにして押し込む。
「それ、せっかく入選して貼り出された絵なんだから大事に持ってきなよ」
陽希は切れ長い目を細めて告げた。
ハルはそうすると特に優しい顔に見えると改めて思う。
「ああ、そうだったね」
バレエダンサーのカップルが一緒に踊る絵だ。
男性側は前にテレビで見て自分もこうなりたいと憧れたロシアのソリスト、女性側はリカちゃんや何となく気になる女の子たちの面影を組み合わせて描いた。
――これは長橋さん?
――私はこんなに可愛くないです。
絵の女性側を指差して微笑む先生に自分がそう答えたことを若芽の匂いを含みつつまだ春に温まり切らない三月の風に吹かれながら思い出す。
「バレエ、もうすぐ発表会だね」
柔らかな陽射しを受けた陽希の顔は蒼白い肌が内側から光を放つように輝いて見えた。
「うん」
取り敢えず、いじめられていたハルに笑顔が戻って良かったのだと思おう。