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第二十八章:鎹《かすがい》――陽希十九歳の視点

「やり過ぎだよ」

 新幹線の改札口から出てきた、白いロングTシャツ――短いワンピースにも見える――に黒いハーフパンツの脚をのぞかせた美生子が開口一番、苦笑いする。

 ミオが笑ってくれた。

 まずそのことにホッとすると同時にそうした自分をいかにも小心で頼りなく感じる。

「恰好だけでもきちんとしないとさ」

 見てくれだけだけど。

 それはそれとして、確かにこれは普段は会社にも着ていかないようなスーツだ。

 これは入社祝いにとお祖母ちゃんが買ってくれたもので、入社式以来着ていなかった。

 そして、ミオから誕生祝いにもらったシルバーのネクタイを初めて締めた。

 盆休みの今の郷里の気候ではYシャツがすっかり汗だくで背中に貼り付き、この分ではジャケットにも滲み出しているのではないかという危惧をうっすら覚える。

「お祖母ちゃんはもう知ってるの?」

 知らないわけはないがどうしても確かめずにいられない様子で相手は尋ねた。

「うん」

 極力明るい笑顔で頷く。

「だからこれを持たせてくれた」

 昨日、祖母が地元のこの駅に近いデパートで急遽買ってきた箱詰めの最中もなかの紙袋を見せる。

「何か悪いね」

 真っ白な服を纏った、簡易な花嫁姿じみて見える美生子は円らな瞳を伏せて呟いた。

 これは俺ではなくお祖母ちゃんに対しての言葉だ。

 前向きな笑顔に努めつつ首を横に振って答える。

「ミオは気にしなくていいよ」

 駅の構内を出ると、どこか錆び付いたコンクリートの匂いがしてジメジメと熱を孕んだ風が並んだ二人に吹き付けた。


*****

「お父さんお母さんにも昨日電話で話したけど」

 テーブルのすぐ隣に座ったため、白いTシャツの胸元が突き出て――これは一般的なブラジャーを下に着けた格好だ――かつ伸びかけた栗色の後ろ髪が微かに先を丸めた形で襟足に垂れている姿が認められる美生子が切り出す。

「お腹にはもう赤ちゃんがいるし、ちゃんと結婚して産んであげようと思うんだ」

 “結婚して産んであげよう”なのだ。

 決して“結婚して産みたい”ではない。

 今更ながらにまた胸に影がさしたところで向かいからの視線を感じた。

「二人で話して決めたことなのかい」

 美生子に良く似たピンクの勝った肌をした、しかし、風貌としては黒く真っ直ぐな髪は既に薄く、物柔らかな一重瞼の細い目をした父親は疑問と確認ともつかない、曖昧な口調でこちらに語り掛ける。

 どこか虚ろな表情にも、この時期の部屋着にしては明らかに堅い紺の開襟シャツを纏った男にしてはやや小柄で華奢な肩にも、まだ学生の娘が妊娠した事態やその相手への怒りよりも戸惑いが色濃く漂っていた。

「ええ」

 極力落ち着いた、むしろ美生子より年上の社会人に見えるように意識してゆっくり頷く。

「僕が無理に産んで欲しいと言ったので、産まれた後は保育園に預けるなり何なりして働きながら子供は育てます」

 無理に、という言葉を耳にした瞬間、向かい合う相手の薄い眉の間にピッとひびじみた皺が寄った。

――馬鹿野郎ばかやろう

――娘はやらん。

 ドラマのこうした状況によくあるように向かいに座る相手が立ち上がって拳骨で殴り付けてくる場面を想像しながらグッとスーツのズボンの膝に置いた拳を握り締める。

 そもそも俺は子供を産む以前に無理にしたのだ。そうとこの人が知ったら、殴られるどころか刺されてもおかしくない。

 スーツの上から胸を刺され真新しいシルバーのネクタイを赤く血で染めて目を見開いたまま死んでいる自分と汚物でも始末した風に冷然と見下ろす父娘の姿が浮かんだ。

 しかし、向かいに座す父親も、隣に腰を下ろしている美生子も、まるで大切な人の通夜のように沈痛な面持ちでこちらを見返すだけであった。

 斜向かいの陽子おばさんだけがどこか知っていた風に穏やかに頷いている。

「今の会社は育休も取れるようなんで」

 どこか諦めたような、しかし、どうにも沈鬱な気配で細い目を伏せたおじさんに対して美生子に良く似た円な瞳で真っ直ぐこちらを見詰めているおばさんに向かって極力落ち着いた声で語る。

「軽率なことをしたのは判っています」

“せっかく東京の大学に入れた自慢の娘を孕ませたろくでもない男”

 おじさんはもちろんおばさんの目に映る今の自分も本当のところはそんなものだろう。

「ミオだってまだ大学の途中だし」

 高校と違って妊娠しても処罰的な退学にはならないが、それでも在学中に妊娠出産すれば就活など進路に大きく支障が出るだろう。

「でも、僕には大切な我が子です」

 子はかすがいになどならない。俺の両親が正にそうだった。

 だが、今、ミオの中に宿った命を葬り去る選択だけはどうしても取れないのだ。

 真っ白なお包みの中で円な瞳を開いた赤ん坊を抱く自分の姿が浮かんだ。

 むろん、生まれてくる子がそんな都合良く美生子に似ているとは限らない。

 むしろ、自分そっくりのいじけた息子が生まれてくるのかもしれない。

 あるいは生まれつき重い病気や障害を抱えていたり。

 しかし、どれほど最悪な事態を想定してもその子が自分にとっての命綱であり、自分も生きている限りはその子にとっての命綱であろうという気持ちは揺るがないのだ。

 おじさんおばさんだって俺のことは憎くても娘が産んだ自分たちの孫である子を邪険にする人たちではないだろう。

 少なくとも、陽子おばさんだけは。

「そうなの」

 テーブルの斜め向こうに座す相手は美生子そっくりの――そもそも美生子が母親のこの人に似ているのだが――円らな瞳を細めてゆっくり頷いた。

「キヨが生きてたら、どう言うか分からないけど」

 キヨ、と温かな声で呼ばれているのがあの怨霊じみた自分の母親だとは未だに信じ難い。

「私は二人に協力し合って生まれてくる子を大事に育てて欲しいし、こちらとしても出来るだけのことはするから」

 もうすぐ五十に手が届く母親はテーブルの向かいに並んで座る自分と美生子を見据えて言い切った。

 陽子おばさんにとっては娘の腹に宿った命に対して“出来るだけのことはしたい”ではなく“する”なのだ。

「ありがとうございます」

 この人ならそう言ってくれるだろうと思った。ホッとして胸が温まると同時にそうした自分をどこか卑劣で後ろめたく感じた。

 目線は自ずと隣の美生子に移ろう。

 突き出た胸に白い服を纏った相手は小さな桜貝じみた丸っこい爪をした両手で麦茶の入った白い半透明の摺りガラスのグラスを抱えている。まるでその中に注がれている冷え切ったもので暖を取ろうとするかのように。

 これで親ぐるみで外堀を埋められた、俺にはめられたとミオは内心恨んでいるのだろうか。

 栗色の髪の襟足まで伸びた、小さな薄桃色の横顔が俯いたまま押し殺した声で答えた。

「ごめんなさい」

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