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第二十一章:偽りを断つ時――美生子十八歳の視点

美生子の上京と新たに始まった大学生活を描いたこの章は長いです(約三万字なので他の一般的な章の五倍から十倍の尺)。

「で、明日の朝から向こうに行くんだ?」

 ハンバーグやコーヒーの入り混じった匂いのうっすら漂うファミリーレストランのボックス席。

 陽希は苺パフェのホイップクリームを掬いながら訊ねる。

「うん、お母さんと新幹線でね」

 こちらもクリームあんみつのバニラのアイスクリームを溶けない内に――できるだけシャリシャリした内に平らげたい気持ちでスプーンで切り込んだ。

 明日は都内に借りたアパートへの引っ越し、明後日は大学の入学式だ。

「十八歳の誕生日に上京か」

 二日違いで自分も十八歳を迎える幼なじみは何だかドラマや映画のベタな展開を観るような苦笑を浮かべてスプーンのホイップクリームを口に入れる。

「まあいっぺんに記念日が重なる感じだよ」

 こちらはまだ固い氷の感触のバニラアイスの切り取りに苦戦しながら答える。 

“バイト代入ったし、入学祝い兼誕生祝いにファミレスで好きなものおごるよ”

 進学先が決まってからそんなLINEが来て、近所のファミリーレストランでドリンクバーのお茶を飲みながら二人でそれぞれ好きなスイーツを頼んだ。

 一応は自分が食べた分も払えるくらいのお金は持ってきてあるし、このクリームあんみつは苺パフェより二百円以上安いから多分ハルの手持ちで足りなくなることはないだろう。

 そんな算盤を頭で弾きながらいびつに削り取ったアイスクリームを口に運ぶ。

 シャリッと舌の上で小さな霜柱が崩れるような感触がしてうっすらしたバニラの甘みが口の中に広がった。

 冷たさと甘さを中和させるべく淹れたての熱い緑茶を本来の一口の半分ほど含む。

「アパートの最寄り駅まで新幹線と電車を乗り継いで二時間以上かかるんだよね」

 この緑茶はちょっと苦過ぎると思いつつ、また中和させるべくバニラのアイスを下の餡蜜あんみつに和えるようにして掬う。

 クリームあんみつは確かに好きだが、ハルの頼む物より少しでも安い物をと思って頼んだのは否定できなかった。

 親から予備校にまで通わせてもらって東京の私大に進む自分。

 高校生でもうアルバイトしている一学年下の幼なじみ。

 本来なら自分が奢ってもらうような立場でないのは知っている。

「俺もついてこっか」

 向かいの陽希は真顔で言いかけてから冗談だと種明かしする風に吹き出した。

「俺も東京とか京都に行きたいよ」

 何気ない調子で呟いてからハート形に似た苺の欠片を噛む顔が酸っぱくなるのは、多分、食べ物のせいだけではない。

 ハルの再従兄の雅希君(自分には中学時代に清海おばさんのお葬式で一度会ったきりの相手でしかないし、それは向こうにとっても同じだろうが)も京都の私大に行くことになったそうだ。

 両親の揃った、というより、人並みに稼ぐ父親と共に暮らしている自分たちには遠方に出て学ぶ選択肢が持てるのだ。

 俺は頭が悪いし勉強も好きじゃないから、とどこか言い訳する風にこいつはよく語る。

 しかし、今はお祖母ちゃんと二人で暮らすハルには地元を出て大学に通う選択肢が恐らく現実的にないらしいのはまだアルバイトもしたことのないこちらにも察せられることだ。

「まあ、東京もこれから住んでみれば色々危なくて大変だとは思うけどね」

 こちらもどうということのない口調で返してから餡蜜の中で加速度的に柔らかく崩れやすくなっていくアイスクリームをまた一口掬う。

 お前も来たきゃ東京に来いよ、とは言えない自分がいかにも無力で相手からの厚意を分捕るだけの人間に思えた。

――ピン、ポン。

 無言になった二人の間にどこかの席から呼び出しのベルが鳴る音が浮かび上がるように響いてくる。


 *****

「こっちだとまだ『サクラサク』じゃなくて『モモガサク』だね」

 夕焼けの道路の脇に広がる一面の桃畑を見渡して陽希が呟いた。

「本当だ、今が満開だね」

 三月末の柔らかな夕陽を浴びた木々の枝は艷やかな薄紅の花に覆われて、遠くまで薄紅色の霞がかかったように見える。

 こちらの方がソメイヨシノよりはっきりしたピンクで自分は好きだ。

 そこで「女の子の色、花」として押し付けられたものでなければピンク色や桃の花自体は好きなのだと改めて気付く。

 それでも、自分が体通りの女の心を持っているとはやはり思えないのだった。

 そもそも男でピンクや桃の花が好きな人はいるだろう。

 ハルだって苺パフェを頼んで食べていたけれど、あれは女の子が好みそうなスイーツというイメージが何となくあるだけであって、実際には苺パフェが好きでない女の子も普通にいるし、逆に男で苺やパフェを好む人も当たり前にいてハルもその一人というに過ぎない。

 自分の場合は恋愛として好きになるのがいつも女の子で、男の子に対しては「体の違う同性」としか感じられないという本質的な違和感をずっと抱えているのだ。

 知らず識らず俯くと、並んで歩く二人の足が目に入った。どちらも履いているのはスニーカーだが、自分のそれはハルのそれの二回りは小さい。

「東京に行けば、すぐ付き合う相手も出来るかもね」

 隣から流れてきた声に思わずギクリとする。

 ハルは切れ長い瞳にどこか醒めたような、諦めたような光を宿してこちらを見詰めている。

「色んな人に会えるだろうから」

 俺にはもう関係ないから、と突き放された気がした。

 音もなく風という程の勢いも持たない冷えた空気が流れてきて、まだ青臭い桃の匂いがする。

 今が盛りのこの花々の内、熟した甘い実を成す花はどれほどあるのだろう。

 そう思うと、この花霞の景色も、目の前にいる幼なじみも、全てが消え去る前の蝋燭の炎じみた輝きを持って見えた。

 今までハルはいつも側にいてくれた。親にも言えないことも察知してくれた。自分がハルを助けるよりハルが自分の力になってくれたことの方が遥かに多かった。これほど自分を理解して助けてくれた人が他にいるだろうか。互いに一人っ子だが、実の兄弟以上だ。

 明日、十八歳の誕生日から自分は別の土地に行く。そこで新たに分かり合える相手を見つけられるだろうか。そんな関係が築けるだろうか。

 そこで並んで歩くスニーカーの小さい方が止まった。

 大きい方も半歩遅れて歩みを止める。

「本当はもう女の子を好きになるなんて止めたい」

 何て頼りない声だろう。

 舌打ちしたくなるが、相手は黙って静かに自分の肩を叩いた。大きな温かい手だ。コート越しにも分かる。

「好きになる度、俺には辛いことしかないんだ」

 他人の目にはハルの方がよほど苦労していて辛いのに。

 頭ではそう知っていてもこの痛みを打ち明けられる相手は一人しかいない。

「お前はこれから広い所に行くんだから」

 暮れていく道で顔を蔭にした相手はそう告げると促すように背中を押してまた歩き出した。

 結局、また自分はハルに甘ったれているのだと思いながら頭一つ分大きな相手の隣で精一杯背筋を伸ばして歩幅を半歩分広くして進む。


 *****

「やっぱり東京は春が早いね」

 コサージュの付いたクリーム色のスーツを着たお母さんはデジカメのシャッターを切った。

「そうだね」

 こちらは満開の桜の下で出来るだけ自然に見える風に笑顔を作る。

 入学式用に新調した黒のスーツ。下はせいぜい膝が隠れるまでのタイトスカートだ。

 そして、こちらも新たに買ったベージュのストッキングを履いた脚は何だか下半身全体に薄いゴムの膜を貼り付けているような窮屈さを覚える上に少し冷たい風を受ける度に素足よりスースーする感じで落ち着かない。

 足にはローファーの黒い革靴を履いているが、正直、靴の着脱だけでも踵の辺りが伝染しそうで不安になる。

 そんな脆さで普通の靴下と変わらないか少し高めの値段になるのだから、ストッキングとはつくづく不経済な服飾だ。

 女の服装にはそんな非合理が付き纏うのだ。

 入学式後の講堂の広間を見渡すと、まるで新たな制服を纏ったように男子学生はパンツスタイルのスーツ、女子学生は一部を除いて自分と同じタイトスカートにストッキングのスーツ姿だ。

 私服で混ざっているのはサークルの勧誘に来た上級生たちだろう。

「じゃ、お昼、どっかで食べましょう」

 色柄が異なるだけで同じタイトスカートのスーツにストッキングを着け、足にはハイヒールを履いたお母さんは一点の曇りもない笑顔で告げた。


 *****

「ストッキングとブラジャーはそれぞれ別のネットに入れて洗濯するんだよ」

 お母さんは話しながら洗濯籠から「娘」の脱ぎ捨てたストッキングとブラジャーを取ってファスナー付きのネットに入れる。

「後で自分でやるからいいよ」

 どのみち明日からは自分でやらなくてはいけないことだし。

 小さな丸テーブルの上に食後に淹れた普洱プーアル茶のカップを置いて立ち上がる。

 ネイビーの長袖シャツに黒のジャージのズボンの自分にクリーム色のスーツを纏ったままのお母さんはまだオレンジ色の口紅の微かに残った唇で苦笑いした。

「せっかくお化粧セットも買ってあげたんだからちょっと試していけば良かったのに」

 洗面台の棚に封も開けずに置かれたセットを指し示す。

 ゾワッとするのを覚えながら無頓着な風に答えた。

「新入生がガッツリメイクした顔で行ったら却っておかしいよ」

 つい数日前までは高校生で口紅など手に取れば怒られる身分だったのに、大学生になった途端、女の子なんだからお化粧くらいしなさいと当たり前のように要請される。

 男ならせいぜい体と髪を清潔にして洗濯した服をきちんと着ていれば済むところを女だと無駄とされる部位の体毛を剃り落として顔に色を塗り眉や瞼に線を引く作業までが社会の空気として求められるのだ。

 好むと好まざるとに関わらずそういう追加作業をしなければ「女を捨てている」と嗤われる。

 男が不潔でだらしない様子でいても「男を捨てている」とは言われないのに、女は姿形を世間で美とする形に合わせる行動そのものが本質のように扱われるのだ。

 自分は社会が規定する「女らしさ」を装わないことで「女」という性別そのものを捨てられるのならばむしろ喜んで捨てたいけれど。

「あんた、レスリー・チャンが好きで京劇やら何やらの本を集めて読んでいる割には化粧気もないのね」

 お母さんは思い出したように自分もハンドバッグからコンパクトを開いて崩れた化粧を直し始めた。

 どうやら洗濯の準備はもうしなくて良いようなのでベッドに寝転がる。

 近いような遠いような真っ白な天井を見上げながらうそぶいた。

「あれは昔の女形の化粧だから。伝統衣装と同じ」

 昔の女形だって舞台を降りれば化粧を落として一般の男性として生活していた。

 レスリーだって普段は紅白粉べにおしろいを施してスカートを履いていた訳ではない。

「せっかく東京に出してもらったんだからお化粧より勉強だよ」

 天井を見詰めながら孝行娘らしいことを言ってみるが、本心ではある。

「政治学科だからこれから色々勉強しないと大変だろうし」

 第一志望の国立の文学部は落ちて、第二志望の私立の政治学科に行くことになった。

 それでも、就職には却ってこの方が良いかもしれないという目算はある。

「サークルとか良く選んで入りなさいよ」

 お母さんの目は既にジャージ姿の「娘」から部屋の隅に置かれた紙袋――入学式で新入生に配布された資料一式を入れた物だ――からはみ出たサークルのチラシの束に注がれている。

「大丈夫だよ、テニスサークルとかじゃなくてちゃんと就職に繋がるような勉強する所で探すから」

 インカレのテニスサークルなどはむしろ他大の女子大生がメインで本部校の女子学生(特に自分のような学内では偏差値の高い学科の女子)は敬遠されるようだし、そもそもが男を好きになれない自分などお呼びではないだろう。

「英語とか中国語とか、出来れば留学もしたいし」

 本当の自分で生きられる場所に行きたい。

「もう地元には戻らないの?」

 穏やかな声だがこちらを振り向いたお母さんはどこか寂しそうに笑っていた。

 もしかして、お母さんは知っているのだろうか?

「娘」の心が本当は男であることを。好きになるのも女の子であることを。

 今まで幾度となくその可能性を疑って、その度に敢えて目を逸らしてきた疑懼が底知れぬ恐怖と共に頭をもたげる。

 サーッと血が引いて手に冷たい汗が湧いた。

 昨日引っ越したばかりの部屋の埃っぽい、積み上げた段ボールと壁の塗料の入り混じった匂いが思い出した風に鼻先に蘇って胸の奥が痛みを伴って早打つ。

 そうだ。今こそ打ち明けるべき時なのだ。

 汗と共に握り締めた拳が震える。

 ふっと自分に似た丸く大きな目の、しかし、色は浅黒く中高年の弛みや皺の見える顔が頷いた。

「ミオコの好きなようにしなさい」

「ああ……」

 思わず出鼻を挫かれた格好で口から肯定とも否定ともつかない声が漏れた。

 美生子みおこ。これが確かに「女」として自分に付けられた名前だ。

「ああしろこうしろと言ったってあんたは聞かないんだから」

 これでおしまい、という風にお母さんはストッキングの脚で立ち上がる。

 何だか象みたいな脚だ、と頭の片隅で思う。

 むろん、そこまでの酷い肥満体ではないが、ストッキングの皮膜が膝に刻まれた深い皺の線を浮かび上がらせているので風雨に耐えてすっかり皮の固くなった象の脚じみて見えた。

「じゃ、もう帰るね」

 お母さんは玄関近くに置いていたボストンバッグを持ち上げて告げる。

「ああ……」

 そうだ、自分たちはもう別々の家に帰る間柄なのだ。

 このまだ荷解きも途中のワンルームが俺の帰ってきた家で、お母さんはこれから新幹線に乗って一昨日おとといまで俺も住んでいた地元の家に帰るのだ。

 今更ながらその事実を思い返しながら、自分もベッドから立ち上がる。

 ふと、花盛りの桃畑を背にしたハルの醒めた面持ちが胸に蘇った。

 たった二日前なのにもう随分遠い昔に思える。そうなることを見越したからこその突き放した幼なじみの目であったようにも感じた。

「外も暗くなってきたから気を付けてね」

 家に一人でいる時は鍵を締めてドアチェーンまで掛けなくてはならない。

 女の子は危ないから、とお母さんはこの二日間だけでも幾度となく繰り返した。

 自分も体は女だからそうした危険は地元にいる頃から良く知っている。

 というより、スーツを着て外を歩いている時も平均より突き出た自分の胸の辺りに纏わり付く見ず知らずの男の視線をそこはかとなく感じた。

 お前は女だ、と無言で押し付けてくるような眼差しだ。

「じゃ、何かあったらすぐ連絡して」

 お母さんはまるで近所のスーパーにでも出掛けるような、いつもの気軽さで語った。

「分かった」

 こちらも素直に頷く。

 この人には、こうして「娘」として頼れる部分は頼り、安全に話せることだけ話していけば良いのだ。

 相手の姿がアパートの廊下を曲がって消える頃合いで静かにドアを閉じて鍵を締め、ドアチェーンをす。

 ふと、目の下から頬に冷たい雫が伝い落ちるのを感じた。

 自分は寂しいのだ。手の甲で両目の周りを拭いながらそう認めざるを得なかった。

 だが、これ以上を今は求めることが出来ない。

 取り敢えず、シャワーだけ簡単に浴びて今日はもう寝てしまおう。


*****

“お祖母ちゃんと話し合って、都内での就職を目指すことにした”

“頑張れ”

 LINEを送信して“既読”の表示が付くや否や横からひょいと真っ直ぐな黒髪をゆるくハーフアップに結んだ小さな頭が覗き込んだ。

「それ、彼氏?」

 ほのかな薔薇の匂いと共に美咲みさきは微笑む。

 日本人的な漆黒の髪に比して白人的な彫り深い目鼻立ちは真顔だとどこか冷たいが、笑うと猫を思わせる吊り気味の大きな瞳が柔らかに細くなって赤ちゃん猫じみた人懐こさがこぼれる。

 昔好きだったターシャさんもそうだったが、「こぼれるような笑顔」とはこういう表情、面差しを言うのだ。

 新たに入った英語サークルで一緒になったこの子はお祖父さんがイギリス人のダブルだそうだ(今は『ハーフ』とか『クウォーター』という呼び方は差別用語に当たるらしいので『ダブル』『ミックス』と自分も使っているし、美咲本人の前では極力アイデンティティに関わる言葉自体を使わないことにしている。他人からマイノリティだと言及される時の疎外感を身を以て知っているからだ)。

 そのせいか、ターシャさんと面差しもどこか似通っている。

 このローズじみた匂いは多分、香水か何かだろうけれど、この子に関しては本当に体から花の香りを放っているように思えた。

「男の子でしょ?」

 コーラルピンクのネイルを施した美咲の指が示すLINEの画面には、“笹川陽希”という名前の隣に夕陽を浴びたハルの蒼白い顔が丸く切り出される形で収まっている。

 これは上京する前日、家まで送ってくれたハルと二人で並んで撮った写真だ。

 だから丸いアイコンの中には今と同じくポニーテールに結った自分の顔も上半分だけ侵入するようにして映り込んでいる。

 アイコンをタップすると、自分の家を前に二人で並んだ全身写真の背景が現れた。

「イケメンだねえ」

「まあ、そうかもね」

 赤ちゃん猫じみた笑顔ではしゃいだ調子で告げる相手にこちらも何でもない風な笑顔で返しはするものの、胸の内に黒い火が燻るのを感じる。

 この子の口から他の男を褒める言葉を聞くのは嫌だ。

 望みのない片想いをして、半ば社交辞令として褒められただけの幼馴染みにまで嫉妬している自分が惨めに思えていっそう胸の奥が暗く燃えた。

 大体、ハルとこの子は会ったこともないし、これから知り合って親しく交流する機会があるかも怪しいのに。

 仮に出会ったとしても、横浜のお嬢様育ちの美咲と自分よりも不遇な育ちの幼馴染みとで現実的に付き合う可能性があるとはちょっと考えにくい。

 ハルが俺と同じようにこの美人さんに出会って惹かれたとしても、この子の周りには条件の良い男が沢山いてそれこそ引く手あまただろうし。

 岡惚れしている自分と幼馴染みを残して他の男と笑顔で去っていく美咲の姿までが頭の中に浮かんできて、そういう劣等感に凝り固まった自分が滑稽に思えて苦笑いする。

「お似合いのカップルに見えるけど?」

 ファッション雑誌から抜け出したような相手は液晶画面の中でぎこちない笑顔で並ぶ自分たちをどこか痛ましげに眺めている。

 都会育ちの裕福なこの子からすれば、俺らが随分貧しく野暮ったい風に見えるのだろうか。

 だが、そうなると、自分はともかくハルはお祖母ちゃんと二人暮らしで学校に通いながらアルバイトして家計を支えている偉い奴だ、苦労知らずのお嬢様から憐れまれる筋合はないと反発する気持ちも微かに生じた。

「こいつは母親同士も友達で産まれた病院も同じの兄弟みたいなもんだから」

 ハル、何でこんな写真をLINEのアイコンと背景にしてるんだろう?

 後ろに映っているのだって花盛りの桃畑とかならともかく何の変哲もない俺の家なのに。

 自分はLINEのアイコンは「覇王別姫」の虞姫の装いをしたレスリー、背景は香港の夜景にしている。

 本来の自分の顔や日常より好きな物や憧れのイメージにしたいからだ。

「ミオコにはそうなの?」

 そそくさとスマートフォンをポケットに仕舞い込む自分を相手はまだ痛ましい何かを含んだ目で見詰めている。

「彼氏とかそんな色気のある話、私にはないよ」

 男物のダボッとした黒いTシャツの胸の前で手を横に振った。

 胸を含めた体の線が紛れるように敢えて男物(身長一五六センチ、体重四十八キロの自分の体格的には男性のSサイズでもかなりダブダブになる)のTシャツにハーフパンツを合わせて着ている。

 だが、今はそういう自分がいかにも垢抜けない、どちらの性別に転んでも全く魅力のない姿に思えた。

「何、恋バナ?」

 不意に後ろから声がして振り向くと、中背くらいの、さほど派手でもなく地味過ぎもしないシャツに紺地のジーンズを履いた、顔立ちもこれまた特徴に乏しい男子学生が笑顔で立っていた。

 あれ、これは誰だったかな?

 英語サークルの慣習として名前を呼び捨てにし合ってはいるものの、正直、まだ知り合って日も浅い同士である。

 美咲は赤ちゃん猫じみた笑顔で答えた。

「ミオコの幼馴染が写真見せてもらったらイケメンなの」

「ああ」

 名前の分からない男子学生は打って変わって気のない顔つきでこちらを見やる。

――何だ、こいつかよ。

――美人の隣に並んだ田舎臭えブス。

 そんな心の声が聞こえてきそうな無愛想さにこちらもムッとする。

 俺もてめえになんか一ミリも興味ねえ。名前も覚えてないし。そう叫びたくなる。

 男子学生はそんな自分の顔からTシャツの胸、爪先まで眺め回してフッと含み笑いする顔つきになった。

「彼氏、いるんだ?」

――そんな垢抜けない風なのにもうヤッた相手がいるのか。

――どうせ田舎だしヤリ目の男だろうけど。

 そう言われた気がした。

「違います」

 これは角の立つ応対だと知りつつ棘を含んだ声でそれだけ答えて書きかけのスピーチの原稿に目を落とした。半月後のスピーチコンテストまでに何とか形にしなくてはならない。自分は受験生として英語は苦手な方ではなかったが、帰国子女もゴロゴロいるこの英語サークルでは所詮中の下レベルだ。

「今日は一限から今までぶっ続けで授業あったからきつかったよ」

「大変だねえ」

 新たに現れた男子学生と美咲は親しく話し始める。

 結局、彼女はどこでも目を引いてあっという間に周囲と繋がれるのであり、自分もその一人に過ぎないのだと思わざるを得ない。

 自分が仮に本当に男でも美咲のような女の子は高嶺の花だろう。

 女性同士の恋愛にしたってもっと綺麗でお洒落な人がやっぱり好かれるのだろうし。

 そう思うと、ジリジリするような焦りを覚えた。

 とにかく自分が変わらなければ、東京でもずっと一人のままだ。


 *****

 まるで画材だ。

 お母さんが買ってくれた化粧セットの中身を床にひっくり返して頭を抱える。

 正式な名前は分からないが、顔の各部位に塗るためのあらゆる色付きの粉を収めたパレットと形の異なる数本の筆。

 朱色とピンクと紫のクレヨンじみた三本のルージュだけが辛うじて自分にも使用法が分かる物だ。

 化粧とは顔というカンバスに思い思いの色を付けて少しでも美しく見せるための絵を描くことなのだろうか。

 社会で大人と見なされた女性にはこんな画材を使いこなす技量が当たり前に要求されるのだろうか。

 いや、買ってくれたお母さんだって普段はこんなパレットみたいな物を持って何本も筆を使い分けて化粧している訳じゃないし、俺も出来そうなことからでいいんだ。

 そう思いつつ、三色の中から一番抵抗のない朱色のルージュを取って鏡の前に立つ。

 パカリと蓋を取ると、仄かに判子の朱肉めいた匂いがした。

 確かにこれは判子の朱肉の色だなと苦笑いしつつ中身の先を少し出して、鏡を見ながら下唇をなぞるようにして引いてみる。

 すると、鏡の中の顔が下唇だけうっすら朱色の華やぎを点したように見えた。

 もう少し塗ってみよう。

 上唇をなぞれば、今度は唇全体があかい色彩でそこだけ別な生き物のように浮き上がって見えた。

 不思議に胸がざわめくのを感じる。

 自分にはやはり化粧して自分を美しく見せることを好む、女の心が備わっているのだろうか。

 髪を解くと、ふわりとシャンプーの匂いがして天然パーマの髪が顔の周りを縁取るようにして垂れた。

 自分はそのままでも緩く巻いた風に見える髪質だ。

おんな

 呟くと、鏡の中の顔が赤い唇を歪めて笑った。


 *****

「何かミオコ、急に目覚めちゃったねえ」

 相変わらずファッション雑誌から抜け出した風な美咲はからかうような、しかし、意地悪さのない調子で猫じみた目を細める。

「今までが酷すぎたからね」

 天然パーマの髪を下ろし、朱色のルージュを引き、黒のチュールスカートにぴったりした白い花模様のレースのトップス。

 靴はスニーカーのままだが、足から上は大変化だ。

 ほんのり匂うシトラスの香りはバッグに小汗をかいた時のために入れている携帯用デオドラントスプレーのそれだ。

 汗臭い状態で美咲に会うわけにいかないのでここに来る前もトイレで一吹きした。

「休み中にちょっと服を買いに行ったんだ」

――新幹線の予約席はもういっぱいだし、レポートの課題も出ていて資料の本を探したりしたいからGWは帰らない。

 実家やハルにはそう伝えたが、実際のところは資料の本は休み前に図書館から借りてレポートを休みの初日に片付けた後は街に服やアクセサリーを見に行ったのだ。

「まあ、安物だけど」

 赤文字のファッション雑誌に載っているような服やアクセサリーは親の仕送りで暮らす自分には高過ぎるので(あれはお金持ちの実家住まいか器用にアルバイトしてそれだけのお金を稼げる人がターゲットだ)、飽くまで小遣いで帰る範囲でのおしゃれだ。

 それでも作ろうと思えば「おしゃれな女の子」という形は作れる。

「すっごく綺麗だよ!」

「ありがとう」

 この子は元から他人に否定的な言葉を好んで浴びせかける真似はしないとは知りつつ、嬉しかった。

 周囲からそれとなく向けられる眼差しも決して自分を冷笑する風ではないと空気で判る。

 むろん、化粧してスカートを履いたところで自分が隣にいる美咲より一般には見劣りする容姿であることには変わりはない。

「おしゃれな女の子」というイメージに忠実に従う、そう見られる努力をするようになった人間に世間は概して優しいのだ。

「あれ?」

 不意に後ろで上がった声に振り向く。

 こいつはタケシだったかな?

 休み前からの変わり映えしない、無難な色柄のシャツに紺地のジーンズを纏った男子学生の姿から当てはまる名前を頭の中で探す。

「ミオコ?」

 相手もやっとこちらの名前を思い当たった風に、だが、まだそれが信じられない風に目を丸くする。

「今日はちょっと女の子らしくしてみた」

 お前という男のためじゃないけど。

 心の中でそう付け加えつつ、来る前にトイレで化粧直しして引き直したルージュの落ち着いてきた唇ではにかんだ風に笑い掛けてみる。

 どうせ女装してるんだ。徹底的になりきってやれ。

「そうなんだ」

 今まで素っ気なかった相手は頬を緩ませると、しかし、どこか釘を刺す風な口調で付け加えた。

「地元の彼氏もびっくりだな」

 そうだ、こいつは俺が今まで格好がもさいだけの普通の女の子でハルが地元の彼氏だと思っているのだ。

――俺の前では無理して女のフリしなくていいんだよ?

 幼馴染の涙を浮かべた目と声が蘇って、レースのトップスから抜き出た手首に思い切り握り締められた時の痛みが一瞬通り過ぎた気がした。

 ハルが今の自分のこの姿を目にしたら、どう言うだろう。

 判子の朱肉じみた匂いのする口紅を引いた唇が笑いの形を作ったまま引きつるのを感じた。

「地元の友達なら、元から私がどんな格好しても女と思ってないから」


 *****

 やっぱり無謀だったか。

 すっかり街路樹の緑の深くなった、アスファルトに草いきれじみた匂いのじる歩道を走りながら自分にだけ聞こえるように舌打ちする。

 この曜日は一限に語学のクラスが強制的に組み込まれているものの、後は四限まで空いているため一限の後は神保町の古書街に行った。

 そこで昼食を取って古書探しをしてまたキャンパスに戻ったわけだが、上京してまだ二ヶ月に満たない人間には駅の出入り口探しやら構内の移動やら乗り換えやらに手間取って行く前に逆算した時刻から随分遅れてしまった。

 走りながら財布や定期、ハンカチ・ティッシュ、生理用品と化粧ポーチの「女の子の基本セット」以外にもデオドラントスプレーや複数のテキストやノートを入れたショルダーバッグが揺れて紐が肩にいたく食い込むのを微妙に後悔する。

 リュックサックではレース付きのぴったりしたトップスにチュールスカートの服装に合わない。

 そこで、フリマアプリで本来の定価の半値以下になったそれなりのブランドのショルダーバッグの中古品を買った(服はさておき毎日使うバッグは多少値段が高くてもしっかりした物を買う方が結果としてはコストパフォーマンスが良いのだ)。

 だが、そもそもショルダーバッグという形態が両腕の自由になるリュックサックと比べると、格段に動きづらくなるのだ。

 まして、今のようにショルダーバッグに入り切らない昔の全集物の一冊として出された大きめの古書を抱えていると。

 ハンカチやティッシュも男物のハーフパンツを履いている時はポケットに楽々入れられたが、チュールスカートだとそうは行かないのでバッグに入れて持ち歩くしかない。

「女らしい装い」にはとにかくそんな不便が付き纏うのだ。

 自分はいつまでこんな装いをするのだろう。

 吹き出てくる汗を拭いながら、今の顔は化粧が崩れてさぞ悲惨なことになっているだろうと鏡を確かめられないまま何となく伏し目がちになる。

 いや、普通の女の子だってリュックサックにハーフパンツ、ノーメイクの人はいるし、そこに戻っても世間から後ろ指を指される訳ではないのだが。

 答えが出ないまま、変わらぬスニーカーの足で教室への階段を駆け上がる。


 *****

 あれ……?

 教室に足を踏み入れた瞬間、担当の教員とは別人と分かるYシャツの後ろ姿が黒板に“本日”と白いチョークで記すのが目に入った。

 今日は休講?

 そう思う内にも“休”の字が新たに黒板に書き添えられ、教室内のあちこちからバサバサと机に広げたテキストやノートを片付けて立ち上がる気配が起こった。

“本日休講”

 白チョークの四文字の最後の字が完成して並ぶ頃には、何人かの人影が自分の脇を擦り抜けて出て行っている。

「今日は先生が急病とのことで休講になります」

 Yシャツの職員はまだ律儀に黒板を眺めている何人かに言い渡す風に告げた。

 休みなんだ。

 教室の後ろに立ったまま、汗だくの体にどっと疲れが押し寄せる。

 とにかく遅刻にカウントされなくて良かったのだという安堵。

 重い荷物を抱えて脇腹を痛くしながら走ってきたのが徒労に終わったという空しさ。

 今日はもう授業はないから本来は神保町からそのままアパートに帰っても良かったのだ、むしろ大学に戻るまでの交通費が余計にかかったという口惜しさ。

 三つが入り混じってきて何となくそれまで抱えていた本だけを近くの机に置く。

 休講にはなったけれど、すぐに教室から出ていけとは言われないだろうから、ちょっと息をつこう。

“海上花列伝”

 図書館で借りるには飽き足らず、古書街の一角でやっと見つけた一冊だ。

「ホイションファ?」

 不意に前から声が飛んできた。

 実際の所、“ホイションファ”と日本語のカタカナでは表し切れない、習い始めの普通話プートンホア――いわゆる中国語の標準語でもない、しかし、どこか聞き覚えのあるアクセントの強い響きの言葉だ。

 目を上げると、背の高い、色の浅黒い、切れ長い目に銀縁眼鏡を掛けた白い開襟シャツにベージュのチノパンを履いた男が黒革の鞄を手にして立っていた。

 年の頃は二十代の後半だろうか。装いのせいか学生というよりは講師じみて見える。

「“Flowers of Shanghai”、ですよね」

 流麗な英語とそれに続く日本語の硬さで外国にアイデンティティのある人だと知れた。

「あ、はい」

 この中国古典文学の講義ではいつも斜め後ろ辺りに座っているけれど、一度も話したことはない相手だ。

 まさか中華系とは思わなかった。

 すると、相手は浅黒い小さな顔をふっと綻ばせた。

「あなた、いつも一番前に座っているけれど、今日は来ないから休みかと思った」

「そうですか」

 今の自分の顔はきっと化粧が汗で崩れて酷いことになっているだろうと思いつつ、努めて微笑んで言葉を続ける。

「もしかして、あちらのかたですか?」

 あちらとはどちらだとは口にする自分でも思わなくはないが、とにかく日本こちらではない側だ。

香港ホンコンから来ました」

 笑顔で頷くと、相手は黒鞄からペンを挟んだ手帳を取り出した。

「タム・ガーミン」

 日本語で話す時よりもくぐもった声で告げながら罫線の引かれたページの上に記して示す。

 その所作と共にサッと青葉の樹木めいた香りが鼻先を通り過ぎた。

“譚嘉明”

 画数の多い漢字でも潰さずにはっきり綴る、確固としていながらおおらかな筆跡だ。

「英語名はテディと言います」

 テディ、とそこだけ癖のない英語で発音すると銀縁眼鏡の奥の切れ長い目が人懐こい風に細くなった。

 この人、ハルに似てる。

 最初から漠然と感じていた印象がはっきりそう固まると、胸の奥が温かに和らぐのを感じた。

 この人なら、女の心で本当に好きになれるかもしれない。

 真っ白なシャツを着た相手からまだうっすら漂ってくる青葉の樹木に似た匂いを吸い込みつつ、これはきっとコロンだ、地味に見えて案外お洒落な人だと推し量る。

 同時に事あるごとにシトラスのデオドラントスプレーをトイレで吹き掛け直している自分を暑苦しく感じた。

 今は汗だくで駆けてきたけれど、それまでのスプレーの匂いと混じって他人には凄く臭いかもしれない。

 目の前の相手は飽くまで穏やかに微笑んでいる。

「テディさんとおっしゃるんですね」

 微かにまた胸の奥で暗い穴が渦を巻き出すを感じつつ故郷の幼馴染みに似た異邦人に微笑み返した。


 *****

「香港が本土回帰したのは僕が本当に小さな子供の頃だったよ」

 五月も半ばを過ぎてすっかり夏仕様の冷房の利いた喫茶店。

 コーヒーの甘い香りの漂う中で、温かな抹茶ラテを啜りながら母語でないからこその正確な日本語で話すテディは三十歳。自分のちょうど一回り上だ。

「周りの友達が次々外国に行っちゃったり大人同士が難しい顔して話し合ったりしていたのは覚えている」

「そうですか」

 抹茶クリームフラペチーノ上部の真っ白なクリームをスプーンで掬って――「フラペチーノ」と名前は付いているが、自分にとってはストローで飲むドリンクというよりスプーンで掬って食べるかき氷に近いスイーツだ――口に運びながら頷いてはみるが、こちらにとってはそもそも生まれる前の話だ。

“香港は元はイギリスの植民地で一九九七年に中国に本土回帰したが、結果は言論の自由が弾圧されるなど元からの住民には不幸な状況になっているらしい”程度のことしか分からない。

 だが、実際に現地から来た相手の言葉を耳にすると、そんな漠然とした認識しか持てない自分がいかにもおさなく呑気に思えた。

 舌の上にふんわりした牛乳の味が生温かさを持って浮かび上がるように広がるのを感じる。

 このクリームはいかにも甘そうに見えてそんな生成きなりな無糖の乳の味しかしないのだ。

「日本の年取った人たちは皆、中国に戻って香港の良い時代は終わったと言うんだけど、僕が育ったのは本土回帰してからの香港なんだよね」

 お決まりのように繰り返し言われて困ったという調子で首を横に振ると、テディの小さな浅黒い面が苦笑いする。

 白いシャツを着ているせいか抜き出た首も顔も鮮やかに浅黒いというか、肌全体が濃い蜂蜜を塗ったように見えた。

 そういえば高校の頃に好きだった紗奈ちゃんと付き合っていた大河君もこのくらい色黒だったと思い出す。

 恐らく彼は生まれつきだろうが、亜熱帯育ちのテディの肌の色も果たして生まれつきなのだろうか。

 似通った顔立ちのハルは雪の降る郷里に相応しい蒼白い肌をしている。

「自分の育った所を貶されたら嫌な感じですよね」

 安全な日本で生まれ育った自分がこう言うのも相手にはまた別な形で嫌味なのではないか。

 そんな懸念を底に抱えつつ言葉を返した。

「日本は平和でいいよ」

 テディの顔も声も飽くまで穏やかで、皮肉や当て擦りめいた色など見えない。

 そこにホッとすると同時に、結局のところは自分が子供で相手が大人だから安全な振る舞いだけを見せてくれているのではないかとも思う。

「まあ、そこが取り柄ですね」

 自分も地方から上京してきてまだ戸惑うことも多いが、街を普通に歩いていて警官に発砲されるとか逮捕拘束されるとかいう不安を覚えたことはない。

 ネットに“今のこの国の政府はまるで駄目だ”と書き込んだとしても逮捕投獄はもちろんサイトとして処罰を受けることもないだろう。

張國榮チョン・コーウィン、レスリーが亡くなったのは中学生の時だったかな」

 銀縁眼鏡の奥の切れ長い目が一瞬、天井の微妙に曖昧な境界を見極める風に走った。

 つい二ヶ月前まで高校生だった自分にとっては小学生、中学生、高校生の頃の記憶は明確に色分けされているが、この人が中学生だったのはそんな遠いことなのだと改めて思う。

「街で号外が配られてね。テレビもずっとチョン・コーウィン、チョン・コーウィン」

 広東語読みの“張國榮チョン・コーウィン”が本来の芸名としては一番正式なのだろうが、何だか自分のイメージするレスリーとは同じ顔をした別人に思える。

 もっとも、こちらの思い描く彼は映画で演じた架空のキャラクターたちの融合、延長であり、そもそもの前提が既に虚構なのだが。

「僕のハハも彼のファンだから大騒ぎだったよ」

 ハハ?

 一瞬、間を置いて「母」と変換される。

 え……?

 虚をつかれるこちらをよそに一回り年上の相手は抹茶ラテを一口啜って付け加えた。

「チョン・コーウィンは僕の両親とオナイドシだから」

 オナイドシ、と耳に届いた音声が頭の中で「同い年」というこなれた日本語に書き起こされる。 

「そうですか」

 こちらも相手に合わせてスプーンでクリームに切り込む。

 シャリッと下の若草色のフラペチーノまで掬い取れた。

 何だか新雪の下の根雪みたいだと思いつつ口に運ぶ。

「レスリーも生きていれば、もう子供どころか孫がいてもおかしくない年ですよね」

 別に驚くような話ではない。

 口の中で生温かい牛乳味のクリームと舌触りは氷そのもののようでうっすら甘苦い抹茶フラペチーノが入り混じるのを感じながら、頭の中で逆算する。

 レスリーは存命ならもう六十代。今、三十歳のテディくらいの息子がいても全くおかしくないのだ。

 ただ、四十代でも二十代で通るような風貌だったのに加えて四十六歳で亡くなっており、しかも自分が彼を知った時点で死後数年を経ていたので、そうした実年齢に即した想像がしづらかった。

 日本の俳優で言えば、真田広之が確かレスリーの三、四歳下だったかな?

 むろん、レスリーと真田広之で俳優として出てきた経緯も演じてきた役柄も必ずしも似てはいないけれど。

 そんな対応関係を改めて思い巡らしても違和感があった。

「僕の父みたいなおじいちゃんになったチョン・コーウィンはちょっと想像できないな」

 固く真っ直ぐな黒髪の頭を傾けてテディは笑った。

――こっちはある日突然、置いてけぼりですよ。

 不意に、清海おばさんのお葬式で会った、まだそこまでの年齢ではないらしいのに髪の真っ白だったハルの父親の顔と声が蘇った。

「私も思い浮かびません」

 いや、レスリーが仮に年を取ったとしてあんな性根の卑しい爺さんになるわけがない。

 テディのお父さんだってもっと品の良い老紳士とかそんな雰囲気の人ではないだろうか。

「でも、案外孫を可愛がる優しいお祖父ちゃんの役なんてやっていたかもしれないですね」

――どうして私を置いていくんだ。

「ルージュ」で梅艶芳アニタ・ムイ演じる恋人の霊に呼び掛ける、かつての育ちの良い美青年から堕落した老人になってしまったレスリーの姿が浮かんだ。

 日本では「香港返還」とまるで香港が住む人たちごと品物であるかのように称された本土回帰の十年前に作られた作品だ。

 あの映画では、実年齢では三十一歳のレスリーと二十四歳のアニタが――視覚的にはむしろ逆でアニタが姉さん女房じみて見えるが――戦前の香港で結ばれなかった恋人同士を演じていた。二人共もう亡い。

「チョン・コーウィンがお祖父ちゃんだったら子供や孫の役をやる人たちの方が大変だよ」

 浅黒い笑顔がいたずらっぽくなった。

 そういう表情をすると、いかにも快活そうに見える。

 ハルよりこの人の方が大人だし、同じくらいの年の時もきっと明るかったのだろう。

「そうですね」

 自分の答えに被せるようにして横から声が飛んできた。

「ここ空いてる」

「良かった」

 隣のテーブルに学生風のカップルが腰掛けた。

 自分たちは一体、どう見えるんだろう。

 向かいのテディは穏やかに微笑んだ目でこちらを眺めている。

 何となく目を落としてそろそろ溶けてきたフラペチーノをスプーンで掬う手を速めた。


 *****

“GWは貴海おばさんたちと琵琶湖に行った”

 LINEに投稿された写真に映る風景は説明されなければ湖というより海だ。

“水が澄んでいてびっくりした”

 粒子のやや粗い砂浜に小波さざなみが押し寄せた写真では、透き通った水の底に光る水紋が描かれ、湖水は深まりと共に澄んだ浅葱あさぎ色を帯びていた。

 これもまるで珊瑚礁の海だ。

 琵琶湖って確か淡水湖のはずだけど、水の成分は何だったかな?

“一時間半のコースに乗ったらさすがにちょっと船酔いしてきつかったよ”

 その後に投稿された写真には、蒼白いハルを真ん中にして似ていてやや浅黒い顔のマサキ君と小学二、三年生になったお下げ髪のシノちゃんの三人が甲板に並んで笑顔で映っていた。

 三人ともどこか雛人形じみた切れ長い目の端正な面差しや日本人としては手足の長い体つきが一見して似通っており、事情を知る自分の目にすら、「年の離れた兄妹と再従兄弟」よりも「年子の兄弟と幼い末妹」という雰囲気だ。

 マサキ君が清海おばさんのお葬式で会った中学生時代より色黒さが薄まった感じなのは、恐らく元の肌はさほど黒くはなく今は外で長時間スポーツする生活ではないからだろう。

 一番小さなシノちゃんは撫子なでしこ色というかほのかに紫を含んだ薄いピンク色のワンピースを着て赤白のギンガムチェックのリボンをお下げ髪に結び、隣のハルの肩に凭れかかるように小首を傾げた体勢で映っている。

 何だかこの年齢の子にしても却って気恥ずかしくて避けるようなステレオタイプな女の子らしい装いだ。

 この子は自分が可愛いと知っていてそれを分かりやすい形でアピールしたいのだろう。

 歯を見せない少し澄ました笑顔からもそう察せられた。

 でも、それはこの子がきっと素直で健全だからなんだろうな。

 生まれつき女であることに違和感がなく、ピンク色やリボンといった女の子らしいとされる物を疑問なく好んで受け入れているからこそ、自意識が出てくる年齢になっても妙な変化球をつけずにストレートな「女の子」になれるのだ。

 そこに羨望と清々しさすら覚えた。

 自分がこのくらいの時には頭はバレエ向けにハーフアップに結っているのに男の子向けのジャンパーやズボンを穿く中途半端な装いだった。

“しのちゃん可愛いね。大きくなった”

 きっとこの子の方では親戚のおばさんのお葬式で一度見掛けたきりのセーラー服の自分のことは覚えてないだろう。

 そう思ったところで自分のメッセージの脇に「既読」の表示が付いて新たにハルからのメッセージが来た。

“ミオの話をしたら自分も東京の学校に行きたいって”

“お兄ちゃんは京都に行ったしね”

 シノちゃんが東京に行きたがっているのは一度会ったきりの俺がこちらに進学したからではなくお前が就職しようとしているからではないのか。

 送られてきた写真の「女の子」の見本のような装いで十歳年上の再従兄に凭れ掛かる姿からは思慕めいた空気が感じられた。

 自分も今のシノちゃんくらいの頃はターシャさんが好きだったし、あの頃のターシャさんは今の自分たちくらいだ。

 と、見詰める液晶画面の上部に新たな黄色い雨傘アイコンの通知が現れた。

 テディだ。

 トクン、と胸がざわめくのを感じた。それが罪悪感なのか、高揚感なのかはアイコンの黄色の傘を人差し指で叩く自分でも計り兼ねる。

 画面がハルとのやり取りからテディとのそれに切り替わる。

“明日は美術館前に現地集合で大丈夫かな?”

 自分も何となく気になっていた展覧会のチケットをテディは二枚買って誘ってくれた。

“没問題”

「問題ない」は北京語でも広東語でも漢字にすれば同じ表記だから楽だと思いつつ、傍らの箱から出して蓋の上に置いた新しい靴を見やる。

 今日の講義の帰りにぶらついたショッピングモールの靴屋で偶然見つけた、セール品の水色のエナメルのハイヒール。

 明日はこれを履いてテディに会いに行こう。

 こういう靴を履いて出掛けるのは初めてだが、一応は試着して自分の足幅にもゆとりがあると確かめたし、「ハイヒール」というほど極端に高く先尖ったヒールではないからきっと大丈夫だろう。


 *****

「綺麗だ」

 まだ梅雨に入る前の白々と煌めく陽射しを浴びた、肌がどこかキャラメルじみた滑らかな薄褐色に見える相手は銀縁眼鏡の奥の目を細める。

 青葉じみた匂いが微かに漂ってくるのは、周りの緑からだろうか。それともこの人からだろうか。

「ありがとう」

 降ろした長い天然パーマの髪に、やや緑の勝った濃いセルリアンブルーのフリルブラウス、それより淡い色合いのロング丈のチュールのギャザースカート、そして水色のエナメルのハイヒール。

 目尻にうっすらピンクのシャドウを入れ、唇にもパールピンクのグロスを塗った(いつもの判子の朱肉じみた色のルージュだと何だかブラウスの色から浮き上がって派手過ぎる感じがしたので色自体は大人しめにしてツヤを出すことにした)。

「フィニの絵を観るから、あんまりみっともない格好は出来ないなって」

「君は最初から可愛いよ」

 そうだ、この人はちょっと前の化粧気もなくダボッとしたTシャツにハーフパンツを穿いていた自分を知っている。

 そこに今はむしろ安堵を覚えた。

「じゃ、もうチケットは買ってあるからそのまま行こう」

 満員電車で立ち続けて駅からここまで歩いてきたハイヒールの爪先は少しきつかったが、ほんの少しだけ目線が高くなって、背も年も上のこの人に僅かに追い付いた感じも嬉しかった。

 そう思うということは、やはり自分はこの人を好きなのだろうか。

 中途半端に爪先立ちして足の先に靴を押し当てられた感覚を覚えつつ、新しい靴を引き摺らないように足を進める。


 *****

「綺麗な人だよね」

 隣のテディがぽつりと呟いた。

 レオノール・フィニ。

 イタリア人の母とアルゼンチン人の父の間に生まれ、幼い頃に両親は離婚、少女時代は自分を取り戻そうとする父親の手を逃れるために男装していたという。

 展示されている写真は中高年以降で一般的な女性の服を纏った写真だが、吊り気味の黒い瞳にほとんど「一」の字に近いアーチ眉の鮮烈な、画家というよりむしろモデルや俳優にこそ相応しい洗練された風貌だ。

 自分も頷いて返す。

「絵に似てる」

 これは猫の顔だ。

 吊り気味の鋭い目だが、狐というほどに他人を陥れる狡猾さや計算高さの見える表情ではない。

 フィニの顔は気紛れさも残忍さも隠さない猫にこそ似ている。

 むろん、猫にも「猫かぶり」という人の欺瞞を投影したイメージはあるが、フィニは身を守るために強者である人に擦り寄って甘える猫ではなく野性に戻った猫の顔をしていると思う。

 実際、画集で見た作品にはどこかこちらを見据えるような不気味さを秘めた猫が良く出てきた。

「近寄ってきた男を殺しそうだ」

 テディは銀縁眼鏡の奥の目を細めてカラカラと笑う。

 いや、これはこの著名な画家に対しての評だ。

 自分は化粧した今の顔でも素顔でもフィニとは似ても似つかないし。

 だが、何故か胸のうちに淡い影が差すのを感じた。


 *****

「これは若い頃みたいだね」

 入り口で取った目録を手にしたテディは、しかし、絵と横のタイトルを照合する風に交互に見やる。

 そうだ、この人にとって日本語は外国語でその下に記された英語の方が理解が早いのだ。

 相手の所作に今更ながら思い当たる。

 自分を含めた周りの日本人であろう客の中でただ一人、本来の母語でない言葉に囲まれているのだ。

「初めて観たよ」

わたしも」

 自然に“私”という一人称が口から出たことに安堵しつつ絵を眺める。

“サソリの自画像”

 これはさそりの甲殻を思わせる海老茶色のトップスを着てアッシュブロンドの巻毛を頭頂部で盛り上げつつ短く切り揃えた、美女というより美少年じみた風貌の自画像だ。

 口を固く結んで横向き加減にこちらに鋭い眼差しを向ける表情からも敢えて女性らしい柔和さを拒絶するような、反抗期の少年めいた印象を受ける。

 片手には灰色の手袋を半ば脱ぎかけた格好で嵌めており、その下からは小さな蠍の尻尾がはみ出している。

 この肖像画から蠍のような毒を含むアーティストの自我の強さを読み取ることはむしろ容易だろう。

 だが、ところどころ破けたトップスから覗く肘や腕からは傷付きやすさやむしろ本人が蠍に毒されているのではないかと思わせる痛々しさも浮かび上がるのだ。

 ふわりと青葉じみたテディの匂いが鼻先を通り過ぎる。

 我に帰ってまた爪先立ちめいた水色のヒールの足で追った。


 *****

「ちっちゃい絵だね」

 周りの客にうるさがられないように声を潜めてテディに告げつつ、展示品の中でも一際小さなその絵に見入る。

“守護者スフィンクス”

 これは暗雲立ち籠める空の下、上半身はチリチリした長い黒髪に蒼白い肌、ふくよかな乳房を持つ若い女性、下半身は黒っぽく滑っこい毛に覆われた猛獣のスフィンクスが佇む絵だ。

 この半人半獣の生き物の背後には昼顔じみた淡いピンク色の大きな布が近くの木の枝に引っ掛かって広がっている。

 これはスフィンクスの居場所を示す旗のようでもあり、半身は乳房も露わにした若い女性を背後から護るとばりのようでもあり、柔らかにめくれ上がった形状からするとシーツのようでもある。

 ピンクは恐らく海外でも女性の色という扱いだろうし、この枝に引っ掛かった布も前方に佇む半人半獣の乙女のセクシュアリティを示す背景に思える。

 これがもし水色だったら、後ろの暗い空の色と相俟って全体が寒々とした印象になってしまうだろう。

 そう思うとピンク色の布がスフィンクスを暖かに守るマントじみて見えてくるのだ。

 一方で、スフィンクスのうら若い女性の顔は蒼白でまるで眠っているかのように瞳を閉じている。

「このスフィンクスはエロティックだけど、何だか死にかけているみたいにも見えるね」

 テディの眼差しもスフィンクスの豊満な乳房より青褪めた瞳を閉じた顔に注がれているようだった。

 その様を目にすると、何故かブラジャーのワイヤーが胸の下に食い込む窮屈な感触が思い出したように蘇る。

 服に模様や色が響かないように表面がツルツルしたベージュのブラジャーにしたが、表地の色柄がどうだろうと暑い日にはカップの裏地が汗で蒸れて胸の下にワイヤーが食い込むことに変わりはない。

 家に帰ったら汗疹が出来ないようにいち早くブラを外してシャワーを浴びなくてはいけないだろうな。

 それとも、今日は家でないところでブラジャーを外すことになるのだろうか。

 この人の目の前で。

 ゾワッと背筋に震えが走って、それでいて全身に嫌な汗が滲み出るのを感じた。

「寒い?」

 こちらに向けられた銀縁眼鏡の奥の眼差しは飽くまで穏やかだった。

「あ、大丈夫です」

 何だか先走った想像をしていた自分の方が嫌らしくてゲスな人間に思える。

 大体、この人からまだちゃんと告白されて付き合い始めたわけでもないし、自分より一回りも上の大人なんだからいきなりそういう関係を迫ってもこないだろう。

 こちらの思いをよそに相手はやや急ぎ気味に次の展覧室に足を進める。

「ここのクーチョー、ちょっと強いからね」

 耳に飛び込んできた「クーチョー」が一瞬、間を置いて「空調くうちょう」だと理解された。

 日本語を外国語として学んだテディの方が母語として無意識に身に着けてきた自分よりある面では正確だと頭の片隅で妙に感心する。


 *****

「やっぱり混んでるね」

 小さな顔も長い頸もキャラメル色をしたテディが苦笑いして振り向く。

 そうすると、美術館自体のカーペットや漆喰、そして周りの見物客の汗じみた匂いに混ざって青葉めいた香りが浮かび上がった。

「宣伝に使われた絵ですからね」

 これ、訊いたことないけど、きっと高いオーデコロンか何かだろうな。

 笑顔で返しながら推し量る。

 自分もシトラスのデオドラントスプレーを点けているけれど、所詮はドラッグストアやコンビニで大量販売している安物だし、それ自体の芳香より汗の匂い隠しになれば良いというのが主目的だ。

 テディの目には随分安っぽい匂いを漂わせて子どもじみた化粧を頑張っている女の子に映っているのだろうか。

 確かに今日はまだ暗黙の恋愛関係としてのデートだと思ったから精一杯綺麗な女に見える装いをしたけれど。

 そこにまた罪悪感と空恐ろしさが混ざるのを感じる。

 さっと目の前にいる人の波が退いて、並んだ二人の前に絵が現れた。

 目の前に現れた一幅の絵、というよりカンヴァスの上に切り取られた異世界の風景に背筋に震えが走る。

 画集でも広告でも繰り返し目にしたイメージのはずなのに。

“世界の終わり”

 これは文字通り、世界の終末の光景を描いた作品だ。

 山火事のように赤く灼ける夕陽(終末の光景だから朝陽ではないだろう)と山の影を背に黒い泉が広がっており、そこに半ば沈んだ鳥や得体の知れない生き物に混ざって、豊かな銀髪の少女がゴム毬めいたふくよかな丸い乳房の半ばまで水に浸からせて冷たく碧い目を画面のこちら側に向けている。

 画面の手前側には泉の畔の枯れ葉や枯れ枝が描かれており、画中の世界では動物はもちろん植物も枯死してしまったと知れる。

 輝く豊かな白銀の髪と乳房、そして氷のように煌めく瞳の乙女だけが活きているのだ。

 肢体は官能的だが、鋭い瞳の顔立ちや小さな唇を結んだ表情は中性的で気高く見える。

 これは破滅する世界で一人だけ神仏のような永遠の命を得た乙女だろうか。

 自分もこの絵のヒロインのように超然とした存在であれたら良いのに。

 終末の世界を描いた作品なのにそんな羨望と憧憬を覚える。

「ファム・ファタルだね。破滅の女」

 隣のテディを見やると、どこか痛ましげな眼差しで絵を見詰めていた。

「水に映っているのが本当の姿なんだろう」

 え……?

 思わず画中の黒い水面に目を落とすと、そこには冷たい目をいっそう光らせた、湖面から抜き出た姿と本来は同じ表情のはずなのにどこかおぞましい顔が映っていた。

 ザワザワと今度は胸の奥から暗いものが湧き出てきた。

 忘れて見ないフリをしてきた穴から思い出させようとするように。

「こっちには気付きませんでした」

 画集でも広告でも繰り返し目にした絵なのに、見落としていた。

 この人と一緒に見て教えられなければ、気付かないままだっただろう。

 だが、知らなければ良かった、言わないで欲しかったという思いが纏い付いてくる。

「これ、観たかったんだあ」

 斜め後ろから飛んできた、どこかに聞き覚えのある訛りを微かに帯びた少女の声に振り向く。

あ……。

「カナちゃん、ずっとそう言ってたね」

 おっとりした口調で隣の中学生くらいの若草色のワンピースにセミロングに太く真っ直ぐな黒髪を切り揃えた女の子に語り掛ける背の高い――ちょうど自分の隣りにいるテディくらいの――男子大学生の姿に一瞬、息が止まった。

 こちらの視線と微かに強張った気配に気付いたのか、琥珀じみた浅黒い肌に太い一文字眉、そして、ややギョロついた大きな目をした、一見すると兄妹じみた二人も振り返った。

 四個の瞳が天然パーマのロングヘアを降ろした、パールピンクのグロスを唇に塗った、フリルブラウスにチュールスカートを穿いた、いかにも気合を入れてデートの装いをした女子大学生そのものの自分の姿に注がれるのを感じる。

 サーッと全身の血の気が引くのを覚えた。

 いや、俺は体に相応しい格好をしているだけだ。

 頭ではそう知っていても、心には知り合いに派手な女装をして男と一緒にいるところを見つかったという後ろめたさが先に来る。

「長橋さん?」

 相手はどこか信じかねるていで大きな目をいっそうギョロつかせると微かに首を傾げた。

 隣のセミロングの少女もこちらの名前を耳にするとやはり驚いた風にこちらも大きな目をいっそう丸くする――と、自分の隣に立つテディの姿を認めると、その目がまるで裏切られたように虚ろになった。

「はい」

 極力何でもない風にグロスを塗った唇の両端を強いて上げてごく何でもない風な友好的な表情を作る。

 そうだ。確かこの坊ちゃまは慶應けいおうの経済に入ったと聞いた。

 同じ中学だった宮澤大河みやざわたいがは地域トップの男子高である橘高からやはり東京の私大の雄に進んだのだ。

 隣にいる従妹いとこ果那かなちゃんは小学校は地元だったが、中学からは都内の私立に行ったと風のたよりでは聞いていた。多分、今は中学二、三年だ。

 この子については「バレエ教室で年下の子たちの中にいた一人」という印象が強い。

 人目を引く手足の長い姿形で踊りもそこそこ巧く、何より家が裕福なので――バレエを習わせる家庭の人間はこうした事情には特に敏感だ――同年配の子に対してはいかにも勝ち気な、はっきり言って威張った風にすら見えるお嬢さんだった。

 その一方で、自分とハルがレッスンに連れ立って行き帰りする姿をことさら表情を消した風な固い面持ちで眺めていることもよくあり、四、五歳年下でどうやらハルを好きらしいこの子の中では自分たちの関係が何となく誤解されているようには感じていた。

 と、真っ直ぐな太い黒髪を肩までのセミロングに切り揃え、ヒールを履いた自分とほぼ同じ目線にまで丈の伸びた体に若草色のワンピースを纏った相手はどこか皮肉な笑いを浮かべる。

「すっごく変わりましたね?」

――それ、凄くおかしいけど?

――あの子、下手だったけど辞めたんだ?

 これはこのお嬢ちゃんが自分より下と見なした相手に対する時の顔と口調だと思い出しながら、こちらは飽くまで最初の友好的な笑顔を貼り付けたまま問い返す。

「そうですか?」

 すると、相手の顔から皮肉な笑いすら消し飛んでギョロついた目が冷たく光った。

「おしゃれというより何か別な人に見せる変装みたい」

――ごまかすな。

――あんたなんか嫌い。

 見掛けに比してまだ幼い声に込められた棘がフリルブラウスの胸を刺す。

「カナちゃんはずっと会ってないから」

 大河はおっとりした声――彼にどうしても好意を持てない自分にすらこれを聞くと嫌でも育ちの良い人と分かる――でまだ中学生の従妹と大学デビューした同級生女子(としか彼にも見えていないであろう)に声を掛ける。

 いや、お前だってあのハロウィンパーティの後は予備校の講習でたまに顔を合わせたくらいでずっと会ってないし、俺がこんなフリフリした服に化粧までして随分変わったと思ってるだろ。

 庇われているはずなのに、そこに反発を覚えた。

「ミオコのお友達?」

 隣のテディを見やると、むしろ自分が昔なじみに会ったかのように人懐こい笑いを浮かべている。

 すると、言葉の微妙なイントネーションからこちらの連れが日本人ではないと察したのか、旧知の従兄妹の浅黒い顔に微かに固い表情が現れて、次の瞬間に少女はことさら感情を消した顔つきになり、年長の従兄の方は平生の穏やかな面持ちに戻す。

 確かにこの同郷の二人は自分と同じ日本の雪深い地域の出身者よりも香港人というか中国の南方の人にこそ相応しい面差しをしていると頭の片隅で思いつつ頷いた。

「はい」

 実際のところ、「友達」というほど親しくはない顔見知りだし、恐らくは相手も同じ認識だろうが、「違う」と答えると、相手への侮辱になって余計に嫌な空気になる事態しか想定できないのでそう答える。

 いつの間にか笑いの消えていた自分の顔をテディの面に浮かんでいる人懐こい笑いに近付けるようにして続けた。

「学校や習い事の教室で一緒でした」

 雑な紹介だが嘘はついていない。

「そうなんだ」

 三十歳のテディは一回り下の自分たち三人を見回してごく明るい、どこにも皮肉や意地の悪さのない調子で頷く。

 そうすると、若葉じみたコロンの匂いが仄かにこちらにまで漂った。

「じゃ、また地元に帰った時にでも」

 大河は飽くまでおっとりした声で告げると、まだ固い面持ちで旧知の女子学生と初見の異邦人を見詰めている従妹を促すようにして歩き出す。

「ハルキくんに似てるよね」

 小さく潜めつつどこか咎める風な少女の声が耳を刺した。


 ***** 

「さっきの彼、イケメンだね」

 美術館から出て湿気とアスファルトの匂いをたっぷり含んだ空気が押し寄せる中、テディはカラカラと笑った。

 この人の笑いには日本人にありがちな妙な照れや意地悪さがない。

「そうですか?」

 大河は決して不細工ではないが、テディやハルの方が切れ長い涼しい目をしていて一般にはより端正ではないかと思う。

「元カレかと思った」

 眩しい陽光を浴びた銀縁眼鏡のレンズには長い天然パーマの髪を降ろして胸の線の際立つフリルブラウスを着た自分の影が反射して映っていた。

「そんなんじゃないですよ」

 あはは、と気の抜けた笑いが口から溢れる。

「あの人は私の友達のカレだったんです」

 紗奈ちゃんは地元の大学に行ったから、今はもう別れたのかな?

 それとも、遠距離恋愛なのかな?

 変わらずに蘇るのはあの二人が付き合っていると知った時の胸の痛みだけだ。

「私はどちらかと言うとあの彼は苦手だったし、向こうも私のことは多分好きじゃないと思う」

 少なくともこれは嘘ではない。

 いちいち自分に向かって確かめる自分が後ろめたい。

「そんな風に思うことはないよ」

 首を横に振ってカラカラ笑う銀縁眼鏡の奥の目はおおらかに細まっていた。

「君はとてもいい子なんだから」

 目尻に微かに刻まれた皺を含めてこの人は自分たちよりずっと大人なのだと今更ながら感じる。

「じゃ、どこかの店でお茶にしようか」

 青葉の匂いと共に白シャツから抜き出たキャラメル色の腕が伸びてきて自分の手を取った。

 え……?

 いや、いわゆる指と指を絡める「恋人繋ぎ」ではない。ただ、軽く片手を片手で取られただけだ。

 頭の中でそう自分に言い聞かせても、どっと嫌な汗が吹き出て、フリルブラウスの背中とブラジャーの裏地が体にじっとり貼り付き、繋いだ手と手の間がぬめるのを感じた。

「今日は暑いね」

 キャラメル色の滑らかに小さな顔が優しく微笑む。

 繋いでいない方の手がそっと伸びてこちらの汗ばんだ頬に貼り付いた髪を剥がすと、それを払う格好で顎からうなじにかけてをなぞった。

 さりげない所作だが、そこに微かに込められた纏い付く気配に背筋がゾクリとする。

 ヒールを履いた自分よりなお頭半分背丈の高い、白いシャツを纏った肩は角張った形に広い、抜き出た頸は太く根を張った相手は不安定な足元から小刻みに震えているこちらを察して引き摺り込むように汗でぬめっている指と指をゆっくり絡ませてきた。

「君の好きな所で休もう」

 銀縁眼鏡を掛けた顔は優しく微笑んだまま、しかし、自分の手指より一回りは太く長い指が静かに締め付けてくる。

――嫌とは言わせない。

 そんな無言の圧力が纏い付くように降りてくるのを感じた。

 罠に嵌められた。

 そんな気がした。

 自分はこのまま本物の男であるこの人と恋愛の名目でキスして、女の形をした体を晒して、男の姿をした体と触れ合って、こちらは妊娠するかもしれないという恐怖と共に受け入れるのだろうか。

「疲れたよね?」

 囁く声と共にテディの大きな掌が今度ははっきりと確かめる風に頬を撫でる。

 もう逃げられない。

 死刑宣告じみた確信と同時にゾワッと尻から背筋に電流じみた震えが走って全身の肌が粟立つのを覚えた。

「ミオコ?」

 この声は……。

 不意に斜め前から飛んできた柔らかな呼び掛けに強張っていた顔がふっと綻ぶのを覚えながら見やる。

 あ……。

 そこには真っ直ぐな漆黒の髪をハーフアップに結ってシンプルな黒のワンピースを着た、それ故に彫り深い華やかな顔立ちとすらりとした肢体が際立って洗練されて見える美咲と初めて目にする男が立っていた。

 これは美咲の彼氏だ。

 何だか地味な、今、自分と指を絡ませているテディと比べても全く美男子ではない人だが、美咲のすぐ横にさりげなく、しかし、臆することなく寄り添っている姿に直感で察する。

 と、その目立たない、特徴らしい特徴もない顔にふっと柔らかな笑いが浮かんだ。

――君が美咲の友達だね。僕も知ってるよ。

 そんな心の声が聞こえてきそうな、ごく好意的な、嫌らしさや意地の悪さ、見下しなど全く見えない表情だ。

 こいつは初見の自分にもそつのない応対が自然に出来る男なんだ。

 だから美咲とも付き合えるのだ。

 引きつった笑顔を返しながら、胸の中で墨を含んだ筆を水に浸したように敗北感が濃さを増しながら広がるのを覚えた。

「そっちも彼氏さんと一緒なんだ?」

 指と指を絡ませた自分とテディに向かって美咲はこぼれるような笑顔で問い掛けた。

 彼女の立つ場所から風に混ざって薔薇の匂いがほのかに漂ってくる。

「ああ……」

 違う。

 言葉が喉の奥でつかえたまま、ただ、目の前にいる彼女の笑顔を壊したくなくて作り笑いを浮かべた顔を戻せない。

 唐突に現れた美咲も、その彼氏も飽くまで温かに笑っている。

 テディもどこか寂しいものを含んだ笑顔でこちらを見詰めていた。

 自分が一番、嘘にまみれた醜い人間だ。

 梅雨時の湿り気を含んだ風に吹かれて、汗に崩れたファンデーションで微かに肌が突っ張り、唇に塗ったグロスも半ば剥げたであろう顔で思う。

 テディだってこちらが恋愛を装いさえしなければこうした振る舞いに出ることはなかっただろう。

 俺が煽って恥をかかせたんだ。

 水色のエナメルのヒールを履いた爪先が狭く硬い型に締め付けられたままぐっと地面に押し付けられて痛むのを感じた。

 どうしてこんな靴を履いてきちゃったんだろう。

 バレエやってる時もトゥシューズなんか嫌いだったのに、「女」を演じるためにわざわざ歩きづらい飾り物に逆戻りして。

 ふと、美咲の足元を見やると、きらびやかなゴールドの革製だが形としてはフラットなサンダルを履いていた。

 本当にお洒落な女の子は自ずと無理のない服や履き物を選べるのだ。

 そう思うと自分が余計に偽物じみた、何か悪いことをやらかして逃走するために急拵きゅうごしらえの女装をした犯人のようなグロテスクな姿に思えた。

「ミオコ、最近凄く綺麗になったと思ったら、こんな素敵な彼氏さんがいたんだね!」

「そうなんだ」

 やめてくれ。

 格好だけは指を絡ませたままどちらも相手を繋ぎ止めようとする力の失った自分たちを前に、薔薇の匂いを漂わせながら本物の恋人同士が無邪気に笑い合う。

 この二人は自分たちが幸せで余裕があるから他人を冷笑したり侮辱したりする必要がないのだ。

 すぐ近くにいて彼女がいつも香りまでするのにまるで透明な障壁バリアでも張られた向こうにいるように思えた。

「じゃ、また学校で」

 赤ちゃん猫じみた笑顔で告げると、美咲は自分にとっては名前も知らない男と寄り添って去っていく。

 俺は明後日にはまた大学で他の男と付き合う美咲と顔を合わせるのだろうか。

 自分も彼氏持ちの女の子みたいなフリして。

 視野の中で黒ワンピースに真っ直ぐな漆黒の髪をハーフアップに結って垂らした後ろ姿が小さくなる。

 影のように連れ立って歩く男と共に。

――ゴーッ……。

 ビルとビルとの間を吹き抜ける風と共に電車の通り過ぎる音が響いてきた。

 まるでピエロだ。

 こんなフリフリの服着て、顔に色々塗ったくって、足痛くなりながらヒール履いて、それで、本当に好きな人からは端から視野にも入れられてない。

「ミオコ」

 風に紛れるほど密かな声だったが、確かに耳に届いた。

 振り向くと、テディが寂しい面持ちでこちらを見詰めている。

 形だけ指を絡ませていた二人の手がどちらからともなくはらりと離れた。

 次の瞬間、銀縁眼鏡を掛けたキャラメル色の顔がジワリと熱く滲む。

「ごめんなさい」

 俺なんかピエロ以下だ。

 ピエロなら観た人から笑ってもらえる。

 それなのに、今、すぐ隣りで手まで繋いでいたこの人は悲しそうだ。自分がそうさせたんだ。

 両の目を潰したい気持ちで目の下から額までを押さえつける。

「あなたは本当にいい人だけど」

 閉じた熱い瞼の裏は真っ暗だが、ブラジャーの上にフリルブラウスを着た背を静かに撫でられるのを感じた。

「いいんだよ」

 穏やかな声が続ける。

「君の気持ちは君のものなんだから」

 自分なんか可哀想でも何でもない。「普通になりたい」なんてエゴのために何も悪くないこの人を騙した加害者だ。

 今だって、こんな道の真ん中で急に泣き出して甘ったれてる。事情を知らない他人が見れば、テディの方が年下の恋人を泣かせている悪い外国人の男と誤解するかもしれない。

 どんだけ迷惑な人間なんだろう。

 いっそ、テディも

「実は自分の心は女で君に恋愛感情は持ってない。偽装のために付き合った」

と言い出してくれないかな。

 そうしたらいい友達になれる。

 何なら偽装結婚して仮初かりそめの妻としてあなたと他の男の恋愛を一生応援して添い遂げたい。

 あなたが死んだら秘密を共有する仲間として心から涙を流したい。

 しかし、隣からは静かに背中を擦る温かい手の感触しかしてこなかった。

 それにはもうゾワゾワするような違和感を覚えなかったが、だからこそ悲しかった。


*****

 洗面台の鏡には涙に崩れた化粧を洗い落としてもなお目と鼻はうっすら赤い、顔周りの髪の毛は濡れて貼り付いた素顔が映っている。

 これが今まで「女」として自分を偽ってきた自分の姿だ。

 鏡を見ながら、耳のすぐ上の髪を一房掴んではさみを入れる。

――ザク。

 長く伸ばしてきた髪は造作なく切れて足の甲の上に落ちた。

――ザク、ザク、シャキリ。

 鏡の中の「女」がどんどん髪を切り落とされていく。


*****

 鏡の中には殆ど刈り上げに近いベリーショートになった自分が映っている。

 首を回すと、後頭部などは不揃いで中途半端に長い所も残っているが、そんな不格好さも含めて自分なのだと思った。

 他人の目で見れば、「セルフカットで男みたいな野暮臭い刈り上げ頭になった女の子」でしかないだろう。中身が普通に女の子でも髪を短くしている人はいるし。

 しかし、もう自分は「女」を装うことはしない。


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