第十七章:紅白の庭――美生子十五歳の視点
フェンス越しに見える紅白の梅の香りが漂ってくる中、校庭からザワザワと騒ぐ声が聞こえてきた。
腕時計の時刻は発表のそれを指している。
ハルは大丈夫かな?
校門の外から窺って見るが、同じような学ランやセーラー服の人だかりの中から姿を見つけることは出来ない。
――明日の合格発表、一緒に来て欲しい。
そう頼まれたのでついては来たが、他校生の自分が敷地に入るのは何となく気が引けたので門の外で待つことにした。
普段着の白のハイネックニットとGパンの上にネイビーのダウンコートを纏った俺はふっと息を吐くと、ポケットから取り出したミント色のハンカチで仄かに汗ばんだ首筋を拭う。
今日はこの服装では少し暑かったようだ。
厚手のコートで体の線を覆い隠せる冬の装いの方が自分には安心できるのに、季節はまた暖まってきて脱げと迫る。
正門から新たに入る人がまだいる一方で、少しずつ出て来る顔もある。
「ちょっと、どっかで話そうか」
俯いて声を殺して泣いているセーラー服の背を同じセーラー服を着たもう一人の女の子が擦りながら通り過ぎていく。
あれは友達同士で合否が分かれたのだ。受かった方も喜ぶに喜べないだろう。
見ず知らずの自分からジロジロ見られるのもあの子たちには嫌だろうと知りつつ、何とはなしに二人が安全に帰るのを見届けたい気持ちで目で追う。
「ミオ」
ざわめきの中から自分を呼ぶ声が耳に飛び込んだ。
「受かった」
いつの間にか正門から他の受験生たちに混じって笑顔で出て来ていた黒い学ラン姿のハルは告げる。
「おめでとう」
喜びと安堵が半ばする気持ちで俺は応えた。
「良かったな」
ハルの成績とこの学校の偏差値からすれば合格する可能性の方が最初から高かったわけだが、確定した結果を目にして想像以上に安心している自分に気付く。
ただ合格発表についてきただけで試験自体に関知していなくても、落ちていたら責任の一端があるように思えてしまう。
ふんわりした梅の香りが通り過ぎていく。この匂いが苦い記憶と結び付かなくて良かった。アスファルトの地面に入り混じるようにして散らばった白と紅の丸い小さな花びらを見やりながら頭の片隅でそんなことを思う。
「お祖母ちゃんにも伝えなきゃ」
こちらの思いをよそに相手はスマートフォンを取り出している。
お前、それこそ真っ先にやれよ。たった一人の家族なんだから。
口には出せないままこちらがやきもきする。
ハルのお祖父ちゃんは年が明けてすぐに亡くなった。
一昨年の夏に一人娘である清海おばさんに事故で先立たれてから、見掛ける度に「弱る」というか「衰える」感じだった。
今ではあの古い家にはハルとお祖母ちゃんしか住んでいない。
――今日はお祖母ちゃんがパートだから。
そう言われて自分がここまで付き添ったのだ。無関係な人が見れば姉妹とでも思うだろうか。俺なんかチビだし、ハルの妹にすら見えるかもしれないな。
後数日で自分たちは十六歳になる。
「じゃ、行こう」
お祖母ちゃんへのメッセージを送り終えたらしい陽希がズボンのポケットにスマートフォンを入れて歩き出す。
また背が伸びたみたいだ。
学ランの肩の位置が少し高くなった後ろ姿で改めて気付く。
俺はもう伸びないだろうな。
早足で隣に並んで歩きながら無駄とは知りつつ背筋を伸ばす。
身長百五十五センチ、体重四十八キロ、ブラジャーはD65。受験期にバレエを辞めてから多少太って、胸は余計に大きくなった。
もうレオタードを着て女の役を踊らなくていい。髪もバッサリ切るには至らないものの、最近はハーフアップではなくポニーテールだ(一度一纏めに縛るヘアスタイルに慣れると、今まで何で半分だけ纏めて残りを下ろす中途半端な髪型にしていたのだろうと自分でも不思議になる。幼稚園でバレエを始めてからずっとその髪型にしていたから、鬱陶しくてもそこに慣れ切っていたのだ)。
でも、体は余計に「女」の形に相応しくなった。
フワフワと梅特有の濃い香りが取り巻くように流れてくる。
何となく路地に散らばった紅白の花びらを踏むのが嫌でスニーカーの歩幅を余計に広くした。
「ハルも来月から梅苑生か」
心は男なのに周囲が勧めるままに女子高に進んだ自分に対して、心と体に何の矛盾もないハルは共学校に行くのだ。
「うちは中学と大差ないセーラー服だけどそっちはブレザーだからかっこいいよ」
もし自分がこの学校に行ってもやっぱりブレザーのスカートを履くことになるのだろう。
学校には男の子も女の子もいるけれど、体の性別に合わせた制服を着る決まりに変わりはないから。
ジーンズを履いたスニーカーの足で大股に進んでいくアスファルトの上には、白と濃いピンクの花びらが相半ばする形で落ちている。
白、紅、白、白、紅、紅……。
一つ一つの花びらは小さな丸だが、いずれも他方の色に染まることはない。
「お祖父ちゃんお祖母ちゃんも行けるなら公立がいいし、梅苑ならそこでいい成績取って推薦とか狙えばいいって」
振り向いたハルは何だか諦めたような笑いを浮かべていた。
角を曲がって、他のセーラー服や学ランの子たちの群れと分かれた所で秘かな声で付け加える。
「まあ、俺は橘高なんて端から無理だし、女でも蓮女には行けなかったよ」
蓮女は自分の通う女子高だが、橘高とはこの地域でもトップの男子高――紗奈ちゃんの彼氏である大河君の通う学校だ。
ふと去年の、といっても正確には四カ月と少し前のハロウィンパーティーでサンとアシタカの仮装をした二人が付き合っていると分かった時の胸の痛みが一瞬、蘇った。
「梅苑だって、俺には何とか入れたって話だ」
あの日、ずっと前から自分の秘密に気付いていた、もう隠さなくていいと言ってくれた幼馴染みは、すっかり窮屈になってもうすぐ新たな制服に脱ぎ代わるのを待つばかりの学ランの肩を竦める。
「うちはもうお祖母ちゃんしかいないし、無理して大学に行くのがいいとも思えない」
ゴワゴワと耳元に風が吹き付ける音がして、自分たちの周りにふんわりと纏い付いていた梅の香りが一息に流されるのを感じた。
「父親からは一応成人まで金出すとは話し合ったらしいけど」
声変わりのガラガラした感じが落ち着いた代わりに幼さのすっかり消えた声で相手は語る。
――俺はお前みたいに甘く生きてない。
そう告げられた気がした。
太って胸の突き出た体にまだ新しいネイビーのダウンコートを着込んだ自分がいかにものんきな甘ったれに思える。
何でこんな間の抜けた厚着してきちゃったんだろう。
こんな格好したって男になんか見えないのに。
冷たい風の吹き抜ける日陰ではダウンコートの背中の温かさは本来心地良いはずだったが、それすら自分の甘えや愚鈍さを裏書きするものに感じられた。
世間からすれば、母子家庭で、お母さんにもお祖父ちゃんにも死に別れて、進学にも制限が出ているハルの方がよほど気の毒な境遇だし、苦労してもグレずに生きている立派な子だろう。
両親揃った家庭で、特に虐待されているわけでもない、このまま勉強すれば入れる大学には行かせてもらえるであろう俺なんか、他人から見れば可哀想でも何でもない。
何とはなしに相手の靴より二周りほども小さな自分のスニーカーの爪先に目を落として足を進めていると、隣から打って変わって上擦った声がした。
「ま、せっかく共学だし、頑張って彼女でも作ろうかな」
振り向くと、相手はどこか挑むようにポニーテールに結って白いハイネックセーターの首をダウンコートの襟元から突き出した自分を見下ろしている。
「高校デビューって言うだろ」
「ああ」
言葉を濁してから、そういえばハルが自分の好きな子の話をしたことはないと今更ながら思い当たる。
いつも俺が舞い上がって好きな女の子の話をするのを聞くだけだった。
というより、こっちがこいつの気持ちなどお構いなしに聞かせていたんだろう。
本当は同じ女の子を好きだった時期もあったのかもしれないと思い至って申し訳ないというより空恐ろしくなった。
「お前ならすぐ出来るよ」
優しいし、見た目もいいし、何より体も本物の男なんだから。
相手のどこか挑発する風なギラついた光を宿した目からシュッと表情が消えた。
「だといいけどね」
きつそうな学ランの肩を微かに落として帰っていく道の先を見詰める。
自分としては本心から言ったのだが、ハルの中で求めていた答えではないのだろうか。
隣のペースに合わせて大股に足を進める内に仄かな梅の香りがまた鼻先を通り過ぎていく。
そういえば、ここの神社の境内にも梅の木があったな。
そう思いつつ見やると、境内の奥の、華奢な枝に白ともピンクともつかない花を咲かせた木の下のベンチに、セーラー服が二人並んで腰掛けていた。
おや、あれはさっきの子たちだ。傍の自販機で買ったらしいお茶のペットボトルを揃って所在なげな面持ちで啜っている。
淡く優しい色合いの花びらが時折こぼれて二人の周りに落ちるが、気に留める様子もない。
自分たちもあのように見えるのだろうかと思う一方で頭に閃くものがあった。
「ハル、今日予定ないなら、うちに寄ってく?」
この一年は学校も別々で相手は受験生なので、互いの家に行き来することもめっきり減っていた。
「お母さん、ちょうどカステラいっぱいもらったって言ってたし」
相手の蒼白い面にパッと懐かしげな笑いが灯った。
そうすると、もうすぐ十六歳のハルの顔はあどけなくなる。
「おばさんにも合格報告するか」
そうだ、うちのお母さんはお前のもう一人の母親だし、お前は俺の二日違いの弟だ。
この繋がりだけは守っていかなくてはならない。
日なたに出てまた微かに汗ばんだ首の下を手の甲で拭うと、自分より頭一つ分大きくなってしまった幼馴染みの一歩先に出るようにして道を進む。