第十二章:赤ちゃんの産める体――陽希十二歳の視点
九月の半ば過ぎた習い事の教室は、どこか不安だ。
もちろん、新たに加わる顔ぶれもある。
だが、夏休み前は当たり前に目にしていた面影がぽつぽつ消えていて、それが単に夏休み明けの体調不良等による一時的な欠席なのか、本当に習い事自体を辞めてしまったのか、今一つ分からないからだ。
率直に言って、さほど親しい子でなくても「辞めた」と聞くともの寂しい感じを覚えるし、家も近所でなく学校も別な子だと「もう会うこともないのだろうか」と切なくなる。
「はい、指先までしっかり伸ばして」
ピアノの演奏曲が流れる中、バーに捕まって一斉に同じポーズを取っていると、自分がまだ群れの中にいる安心感といつそこから抜け落ちるのかという不安が入り交じる。
小学六年生ともなるとバレエ教室でももうベテランの部類だ。
中学生以上ともなると教室でも巧くてかつ本人にも続けたい意思の強くある人に限定されてくる。
ふと、少し離れた場所でバーに捕まってポーズを取るサーシャの一際手足の長い後ろ姿が目に入った。
こちらがわざわざ探す努力をしなくてもこの王子様はまるで石ころの中のダイヤモンドのように集団の中から浮かび上がるのだ。
同じ動作をしているはずなのにサーシャと自分たちとでは段違いの差がある。
自分は決してバレエを嫌いではないけれど教室でも真ん中どころだし、何が何でもダンサーになりたいとかいうほどの思い入れもない。
眼差しは自ずとすぐ前の、まだ真新しい群青のレオタードを着た美生子の背中に戻る。
一足先に中学生になったミオが続けているのだから、俺もやっぱり続けようか。
少なくとも練習着を新調したばかりなのだから相手もまだ辞めることはなさそうだし。
濃い群青のレオタードの張り付いた体は後ろから見ても夏休み前よりもっと胸や尻が丸く突き出てきていて、痩せぎすで平たい体つきの多いバレエ教室の他の女の子たちと比べても「女」という感じがした。
カッと体の芯が熱くなる。
教室全体に漂う、上の女の子たちが着けているデオドラントスプレーや汗の入り交じった匂いが思い出したように鼻孔を衝いてきて胸が微かな痛みを伴いながら騒ぐのを感じた。
ミオは嫌がるだろうが、やっぱり元から女の子にしか見えないし、体はますます「女」そのものになってきている。
「はい、目はしっかり前を見て」
先生の声に我に返ってから、いや、俺は目自体は前をしっかり見ているから大丈夫だとも思い直す。
あっ……!
思わず声にならない声が喉の奥で詰まる。
すぐ前に立つ美生子の白いタイツの片足には鮮やかな赤い線が一筋引かれていく所だった。
生理だ。
そう思った瞬間、美生子本人も異変に気付いたらしく棒立ちになる。
振り向いた円らな瞳とぶつかってこちらもまるで倣うように棒立ちになった。
相手の顔色は常の薄いピンクからたちまち紙のように白くなっていく。
「美生子さん、ちょっとこっちへ」
先生は「何でもないことですよ」という風に穏やかに微笑んで手招きする。
早足で俯いて教室の外に出ていく美生子と講師を前後する年配の少女たちはどこか恐れる風に、もっと年嵩の少女たちはどこか痛ましげに眺めていた。
*****
九月も半ば過ぎると日暮れが早くなる。
まだ青々とした葉の繁る街路樹も、半袖で道行く人影も、街全体の眺めは夏休み中と大きく変わってはいないけれど、今まで明るかった時刻に夕陽が射し込むようになって秋に踏み込み始めたと知れる。
「うちのクラスでさ、中学受験する子が何人かいるよ」
本当はどうでもいい話題だが、とにかく先ほどの出来事を二人の間から追い払いたくて言葉を継ぐ。
「ミッション系受ける女の子が多いけど」
美生子は去年、国立大学の附属中学を受験したが、抽選で落ちて近くの公立に通っている。
「俺は頭悪いから最初からどこも受けないけど」
美生子が附属中に落ちて近くの公立に通うことになった時には正直、嬉しかった。
「来年からはまた同じ学校だよ」
笑顔で告げてから、海色のTシャツから抜き出た相手の頸から顔がまだ蒼白で円らな目を伏せているのに気まずくなる。
「ミオ、まだ具合悪いの?」
俺はまた余計なことを口にしているのではないかと新たな不安を覚えつつ問わずにいられない。
自分は生理になったことはないが、体から血が出るのだから人によっては貧血を起こしたりするのかもしれないし、「生理痛」という言葉があるくらいだからミオも今、体のどこかが痛いのかもしれない。
「大丈夫だよ」
相手は青ざめた顔のまま、何だか乾いた、突き放すような笑いを浮かべて答える。
「そう」
ミオは俺を何も知らないガキと思っているのだろうか。
所詮は生理には一生ならない男だし、こいつより二日遅く産まれただけでまだ小学生だから。
そう受け取ると、少しムッとした。
リベンジしたい気持ちで、頭の中に得ている教科書的な表現を動員して出来るだけ何でもない風に告げてみる。
「別に病気じゃないし、赤ちゃんの産める体になった印なんだよね」
語り終えた次の瞬間、隣を歩く美生子の栗色の髪がまるで逆立つように激しく横に揺れた。
一足後れて椿じみた、どこかきつい感じに甘い香りがふわりとこちらまで届く。
これはミオの髪の匂いだ。胸の奥がざわめくのを感じた。
「俺は赤ちゃんの産める体になんかなりたくない!」
紙のように白くなっていた美生子の顔が一気に常の薄桃色よりもっと濃い紅に染まってグシャグシャになる。
「絶対に嫌だ!」
言うが早いか、海色のTシャツの背を見せて走り出す。
駆けていくジーンズの尻が前よりきつそうでやはり「女」らしい体になったと感じてこんな状況ですら胸がどきついた。
立ち止まって眺める内にもハーフアップの揺れる栗色の髪も海色のTシャツも藤色のリュックサックも小さく遠ざかっていく。
ひやりと冷えたものを交えた風が半袖の腕を撫でて通り過ぎた。
街路樹の葉はまだ緑だが、吹く風はもう夏の暑さをそろそろ失っている。
ぼんやりしてないで俺も帰らなくちゃ。
ミオは今日はもう一人で走って行って、戻って来ないから。
早足で家の待つ前に進み出す。
今月からお母さんはこの曜日は遅いシフトになったし、お祖父ちゃんも今日は新しい職場の飲み会があると言っていたから、うちにはお祖母ちゃんしかいない。
洗濯物を畳むのや夕飯の準備を手伝って、風呂掃除は自分がやれば喜んでくれるはずだ。
後は早めに一番風呂を済ませて自分の部屋に引っ込もう。
「宿題やって寝るよ」と言えば、それ以上ケチが付くことはない。
家族では一番楽な人だけが家で待っている安堵とそんな風に自宅ですら相手の顔色を窺う自分への嫌悪が競うように込み上げる。
――絶対に嫌だ!
それは「女」に変わっていく美生子本人の体のことなのだろうが、何だかこんな風に取り残された自分のことも含んでいる気がした。
まあ、大丈夫だ。
多分、来週のこの曜日になればまた美生子がいつもの場所に立っていてまた一緒にバレエ教室に行けるはずだ。
俺もいちいち今日のことを持ち出して謝ることを要求したりするつもりはないし、何でもない風にしていればミオも安心するだろう。
――ガラガラガラガラ……。
近付いてくる車輪の音に我に返ると、向こうから若い母親がベビーカーを引いて近付いてくる所だった。
夕陽を浴びて穏やかに微笑んでいるお母さんと、白地にミントグリーンの草木の模様をあしらったタオルを首の下まで掛けられて安らかな寝顔を見せている赤ちゃん。
――ガラガラガラガラ……。
あれは男の子かな? 女の子かな?
まだ髪の毛も疎らな寝顔からは判らないまま擦れ違う。
――ガラガラガラガラ……。
赤ちゃんは可愛い。
これは大人になっても産めない男の自分でも感じることだ。
うちのお母さんだって赤ちゃんの詩乃ちゃんのことは可愛がって笑顔で抱っこしていたし、と思い出す。
同時に、もしかしたらお母さんだって俺がまだ赤ちゃんの頃は温かな笑顔で抱き締めてくれたのかもしれないと想像してまた寂しくなる。
ミオはどうして赤ちゃんを産める体になるのが嫌だと言うんだろう。
やっぱりまだ男になりたいのかな?
俺みたいな男の体でいたって何も楽しいことなんかないのに。
美生子と二日違いで生まれた十二歳の自分だって元から背丈は大きい部類だったが、最近は肩も張って性別に相応しい体つきになってきた。
鏡張りの教室でバレエのレッスンをしていると、女の子たちに混ざって並んで踊っている自分がシルエットからしてますます異質になっていくのが分かる。
――あんたは男だし、大して上手くもない。本当はバレエなんてやって欲しくないんだから。
――俺は赤ちゃんの産める体になんかなりたくない!
――絶対に嫌だ!
頭の中で母親と幼馴染みの言葉が次々鳴り響く。
お母さんも、ミオも、完全に捨てることは出来ないだけで俺のことは心の底では邪魔なんだろうか。
湿ったアスファルトの匂いを含む冷えた風に粟立った自分の両の腕を擦ると、前より骨太く頑強になった体を却って厭わしく感じた。
中で震える心はこんなにも小さくひ弱なのに。