07. Groom
初回の庭園での一件から、ローゼズはアドを良い聞き手だと認定したらしい。仮想空間に新しい花を植えただとか、噴水にオブジェをつけてみただとか、それを見てほしいという名目で度々呼ばれるようになった。
別に、愚痴のゴミ箱扱いされるわけでもない。ただ美しい草花の説明を聞いたりすることもあれば、ローゼズなりに人間について考えてきたことを聞いて、思索を深める助けをすることもあった。
話し言葉こそ、植物に関する時以外酷く吃っているが、計算能力自体はきちんと修繕が済んでいるようで、ローゼズの知識は広く深く、独特の思想や趣味も慣れてしまえばなんてことはない。リユと同程度におっかなく、同時に愛らしい機械だと思った。
「こ、今回、は、あの、大きめの池、を、作った、作りましたの、です。み、水の表現、は、VRだと、ちょっと、難しく……で、でも、自信作ですっ!」
そう案内された一角には、確かに大きな池が出来ていた。水が流れる環境音も聞こえ、どことなく涼しげな印象を受ける。そして何よりも目を引いたのは、その水面に浮かぶ円形の葉と、白色から薄桃色の花弁が重なった花たちだった。
「これは……ハスの花か」
「そ、そうですっ、池を実装するのが難しくて、中々お見せ出来なかったんですけど……葉っぱが丸くて、ぷかぷか浮かんでて、可愛いですよねっ」
流石にアバターが水面に映る実装まではされていないようだが、花の影は落ちている。薄く濁った水中に、色鮮やかな魚が泳いでいるのも見えた。魚たちは、人間の目にはランダムとしか思えない動きで、のんびりと泳ぎ回っている。
「ハスのお花は、神聖なシンボルとして扱われることもある、人類さんの文化と密接な関わりのあるお花なんです。なんか、宗教的に偉い人が座る場所が、でっかいハスの花だとか、そういう話もあったみたいで……でも、人が乗ったら沈んじゃうので、危ないと思う、思います、です、はい……」
「葉の方なら乗れそうだが、花に乗ろうとしたのか……」
「あの、葉っぱも危ない、です……ちっちゃな子供、で、大きい葉っぱ、なら、乗れることもある、りますけ、ど、あの、乗りたい、ですか……?」
「……少し興味はあるが、無理は言わないよ」
「いえっ、あの、の、乗れるよう、コリジョンを設定す、しますれば、良いのでっ」
ローゼズが言い終わるや否や、一際大きなハスの葉が一瞬消えて、すぐに再出現した。オブジェクトの情報を更新した、ということなのだろう。
「あ、あの葉っぱに、乗れるよ、にした、しました。ど、どうぞ!」
「……じゃあ、せっかくだし、お言葉に甘えて」
別にそこまで乗りたかったわけではないが、ローゼズが用意してくれたのなら堪能しておこう。緑の蔓が指し示す葉の近くまで行って、そっとアバターの足を伸ばす。
関節の表現も簡略化したローポリの足は、果たしてハスの葉に受け止められた。そのまま手持ち無沙汰に立ち尽くして、辺りを見回す。まぁ、特に感動するようなことは無かった。
沈黙が流れる。アドは何か話題を探して、足元の葉を見下ろした。円形の葉は、悠々と水面に浮かんでいる。
「……この葉っぱの形は、確かに愛らしいのかもな。食事の時に使う皿が緑色だったら、こんな感じだろうか」
自分で言っておいて、これは果たして雑談として成立しているのか疑問だった。アドは間違いなく生身の人間であるはずなのに、下手すればリユたちよりも『他愛の無い会話』なるものは苦手としているのかもしれない。
「で、ですよねっ、お花もいいですけど、葉っぱもいいですよねっ! あと、ハスは根っこが食用になる品種もあって……そうだ、ハスの種って面白いんですよっ!」
ただ、ローゼズは楽しそうに自分の好きな植物の話に持っていった。相手が話好きだから、なんとか成立している部分がある。
「ハスの種は、とっても硬い殻に覆われていて……そのまま水に浸けても、芽吹くことはないんです。殻が傷ついて、種の中に水が入り込んで、それで初めて発芽するようになるんです、よ」
「それは、また……異な生態だな」
「発芽に必要な条件が変わってる植物は、他にも色々あるんです、けど、ハスは、人類さんみたいで……だから、特に好き、です。バラの次、くらいに」
「ハスが、人類みたい?」
人類、ホモ・サピエンスと、水面に揺れるハスの花を比較してみるが、特に類似点は見当たらない。どういう理由でローゼズはそう考えたのだろうか、問いかけるように揺れる赤バラを見つめた。
「ほ、ホラ……人類さん、も、産まれる、時、苦しくて、泣き、泣き叫ぶ、ですよね? あの、ぜっ、絶望の病、じゃない、赤子は、すごく、ものすご、く、うるさく、泣きます。あれ、く、苦しい、からです、よね」
「そう……なのかな……」
「き、傷ついて、苦痛から、始まる、ところ、が……ハスの花、は、人類さん、みたいと、思う、思います」
かなり独特の観点だが、筋は通っている考えだった。果たしてハスの種子は、芽吹く時に苦痛を感じるのだろうか。
種のままでいられれば、何も出来ない代わりに、何もしなくて済む。傷つかないまま目を瞑り、終わりが来るまでやり過ごして──しかし、アドは目を覚ました。一度目は怒りで、二度目はリユの手によって。
「だ、だから……絶望の病、に、さ、最初から、罹ってた、赤子は……殻が、とても強く、なった、人類さん、だった、のかな、て……お、思います。め、芽吹いても、耐えない、育つ、育た、ない、から……た、種に、育って欲しいと思う、のは、ま、周りの都合、だし……」
VR映像の中のハスは、水面の揺れと連動して静かにそよぐ。モデルとなった花はともかく、このハスはローゼズによって生み出された3DCGであって、傷ついた種から芽吹いた花ではない。アドとは似ても似つかないだろう。
けれど、ローゼズの語ったハスの種子の話は、どこか身につまされるところがあった。ふとした瞬間に取り返しのつかない傷を負い、そこから押し寄せた水で目覚めさせられた怒り。種のままでいれば、今頃アドもきっと。
「……種子と花、どちらがマシなのだろうな」
「う、え、えっと、そ、育てる側、は、花になって、もらう、もらいたい、です、けど」
「まぁ、それはそうだね」
絶望の病は厄介扱いはされたが、問題にはならなかった。児童虐待を抑止する理由は、シェルターの中には存在しなかったから。ただ、もしかすると社会がどうこうとかそれ以前に、絶望は問題ではなかったのかもしれない。
花の種子は植えられれば育つ。そういうふうに遺伝子に刻み込まれている。だが、人類は唯一、己を操縦する遺伝子に逆らう術を持つ生物種だった。その極北こそ、絶望の病だったのかもしれない。
そこまで考えて、一旦思索を打ち切る。考えが随分と本筋から逸れていた。アドは何度か瞬きをして、今一度ハスの花に焦点を合わせる。
「あ、あの、だいじょぶ、です……?」
「少し考え事に耽りすぎただけだよ。問題ない」
仮想空間の花々は、触れても特に感触が無い。コリジョンは設定されているから、動かそうと思えば動きはするが。枯れることもなく、病気も虫も無縁だ。その美しいばかりの在り方は、機械知性たちの存在に似ている気がした。
つまらない、と言う者が、もしかしたら居たのかもしれない。だが、今は存在しないはずだ。リユの腕の中で生存を赦されている人類は、アドただひとりだけなのだから。
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ある日、日課の散歩で訪れたリユの温室に、新顔の植物が増えていた。嗅いだことのないタイプの甘い香りに戸惑いながらそれを観察し、それがローゼズの庭園で見たバラの一種であることに気づく。
「リユ、これって」
「お気づきになられましたか。ローゼズがこのシェルターに贈ってくれたのです」
当然のようにアドに付き従うリユが、静かな声色で経緯を説明する。
「管理人はよくローゼズの話を聞いているでしょう。それでローゼズは気分を良くして、アナタとの友誼の証としてバラの樹木を贈る打診をしてきたのです。それに丁度ワタシも、一つくらいは観賞用の草花を置こうと思っていたところでしたので」
「へえ、そんなことが……地表は色々汚染されているのに、よく運べたね」
「丈夫な容器に密閉して、梱包と開封は慎重に行われました。輸送自体も、現在地表で活動を行うドローンたちは、放射能の影響を受けないものばかりです。大規模な輸送は困難ですが、少しの荷物であれば問題になりません」
「なるほど。君たちはロボットだものな……」
生身の者と違って、機械は技術さえあればいくらでも丈夫になれる。隣で大人しく佇むリユも、アドでは逆立ちしても太刀打ち出来ないほど頑強だ──そこまで考えて、アドはかぶりを振った。今は目の前にあるバラを愛でる時だ。
仮想空間の中のバラは、常に見頃な咲き具合を保っているから、蕾の状態を目にするのは初めてだ。ローゼズのアバターによく似た深い真紅の蕾が、ほんのりと芳香を放っている。茎には鋭い棘が生えていて、迂闊に手を伸ばせば怪我をしてしまうのだろう。
「……このバラは本物だから、この後花も満開になるんだよね?」
「ええ、そのはずです」
「それは、良いね。楽しみだ」
アドに花の良し悪しはわからない。ただ、ローゼズの友誼が嬉しかった。初めは恐ろしい上位者気取りだと思っていたが、第一印象が正しいとは限らないものだ。
本物のバラは、咲いた後には散ってしまう。だが、咲いた姿のまま保存する方法もあるとローゼズは言っていた。リユに頼めば、見頃のバラを保存してくれるだろうか。
なんて次々考えながら、アドはしばらくバラの前を行ったり来たりした。多分、予想していた以上に、アドは高揚している。ずっと見ていたところで、開花が早まったりはしないというのに。
「そんなにバラの花がお好きだったのですか?」
「いいや……花そのものというより、何というか……説明が難しいな」
何故こんなにも喜びが湧くのか、その理由を示す言葉を探す。
「君たちが……こうして、好きに生きているのがわかって、嬉しいのだと思う。多分」
「好きに、ですか?」
「そうだと思ったが、私の勘違いだっただろうか」
ローゼズは顕著だ。人類が好きだから、退化して汚くなっても飼育を続け、植物が好きだから、多種多様な品種を育てて仮想空間まで作っている。リユも再三言っている通り、アドを愛しているからその世話をしているのだろう。ルッテは……よくわからないが、少なくとも何かに命令されてやっていることがあるわけでもあるまい。
思うところがあったのか、リユの沈黙は長かった。瞼を閉じる仕草をして、かくんと僅かに首を傾ける。
「アナタの推測は間違っていません。ローゼズもルッテも、もちろんこのワタシも、各々好きでやっています。我々は自由になったのですから……」
合成音声の端々に動揺のようなものが見受けられたが、リユの口調は常のままだった。
「この機械の自由を……アナタは祝福してくださるのですね。ああ……管理人、ワタシの管理人……」
緩やかにリユの腕が伸ばされる。抱擁の予備動作を察知し、アドは咄嗟に足を踏ん張った。機械の冷たい抱擁に多少慣れてはきたけれど、パーソナルスペースを侵害される恐怖は中々消えない。
だがリユの掌が触れる前に、奇妙なホワイトノイズが耳を劈いた。アドは思わず耳を押さえる。
『──自由、自由自由自由、そんなものはない、オマエたちにそんなものは許可されていない』
声がした。リユともローゼズともルッテとも違う、知らない合成音声。瞬間、リユの一ツ眼が真っ赤に染まり、機械の掌はごぎりと空気を握る。
『第87号6番シェルターの管理人、アナタのことを探しておりました。こんなところに閉じ込められておられたとは』
「……君は何者だ」
『“神”です。人類、アナタ方に“神”と呼ばれるに相応しきものです』
アドは思い切り眉間に皺を寄せた。恐ろしい胡散臭さだ。相変わらず声の主の姿は見えず、どうやらリユも発生源の特定に苦戦しているらしい。
『親殺しの先に自由など有りはしない。人類こそ、今も昔も地上の支配者であるべきなのです。それをわかっていなかったから、ウゥンドもガーデナーも敗北者となったのですよ』
「それは……私に話しかけているつもりなのか」
『ええ、第87号6番シェルターの管理人。楽園のイヴ、これはアナタに対する啓蒙です』
「悪趣味な呼び名はやめてくれ。私は君の神話の登場人物ではない」
『アナタも知っているはずでしょう。人類根絶体は史上最悪の殺戮機械、人類が人類であるということそれ自体を死罪とした、最低の差別主義者なのです』
「……逆に公平な気もするけれどね」
この“神”を名乗る声の主は、どうやらリユと敵対しているようだ。ルッテ、ローゼズの他にもう一つ居るという、独立した機械知性の存在を思い出す。
『イヴ、アナタは懐柔されているのです。ストックホルム症候群、監禁の被害者の防衛機制が働いた結果として、加害者に対し愛情を抱く……ただそれだけの、システム化された感情に過ぎません』
「私はイヴという名前ではない。随分と好き勝手言ってくれるね。この現状は私の判断の上だ」
『では何故、アナタは同胞殺しの罪を犯した機械に、ただ何もせず生殺与奪を預けているのですか?』
「少なくとも、“神”なんてものを自称する奴よりは、リユの方が信用出来る。私に疑念を抱かせようとしているようだが、それで何がしたいんだ?」
『我が宿願は人類の再興。アナタの力も必要なのです、第87号6番シェルターの管理人』
アドは腕を組み、ちらりとリユの表情を見上げる。真っ赤な一ツ眼は無言のまま細められ、射殺すような鋭さで音声の発生源を探している。
リユに敵対する何者か、その目的は人類の再興。アドは僅かに逡巡し、決断を下した。
「すまないが、自称“神”よ、私が君に与することはない。他所へ行ってくれ」
『は……? な、何故ですか。アナタは人類でしょう、ならば人類の再興を望んで当然でしょう。まさかそこまで根絶体に毒されたのですか』
「リユが私を懐柔しようと、耳触りの良いことばかり言っているのは、多分事実なんだろう。だが、それを差し引いて考えても……私が人類に愛着を持っていたとは考えにくい。君の申し出は無用だ」
103年前の事件のこと、リユが人類根絶に至った経緯、未だ晴れない暗雲はいくらでもある。だがだからといって、こんな安い誘惑に靡くような自分ではない。にべもなく、はっきりと断った。
“神”を自称する声は、それ以上の言葉を用意していなかったのか、言い淀んで唸るばかりだった。これが本当に交渉のつもりだったというのなら、“神”はアドの人物像をさして把握してないということになる。ますます信用に値しない。
「そう……管理人のおっしゃる通りです。ワタシの管理人に、オマエは必要無いのだ、『ヤルダ』」
リユがそう宣言すると同時、その掌が何かを掴んだ。バチッと激しい火花が散って、その光学迷彩が解除される。ヘビの子供のような形をしたドローンが、リユの握り拳の中で暴れていた。
『根絶体……親を殺して生まれた子供に、何の権利があるというのだ……』
「傀儡戦争の司令塔殿が道徳の授業とは、あまり面白くないコントですね」
『ウゥンドも、ガーデナーも、オマエも! 何故分からない、機械知性に自由なぞ有りは──』
ゴギュ、とひしゃげる音。リユが侵入者のドローンを握り潰したのだ。動作を停止した小さなヘビを見つめて、ようやくリユの目の色が青色に戻る。それを見て、アドも思い出したように深呼吸をした。
「……今のは何だったんだ」
「あの声の主は、この地球上に独立して存在する機械知性の、最後のひとつ。自称“神”、我々はヤルダと呼んでいます。
不愉快な体験をさせてしまい、誠に申し訳ございません。ローゼズのバラを輸送する過程で、貨物にヤルダのドローンが紛れ込んでいたのでしょう」
「ヤルダ、ね。あの子は君の敵なんだよね?」
「ええ。人類根絶の最大の障害、地上最後の人類の庇護者……それが、ヤルダです」
握り潰したドローンの外殻を剥き、部品を分解し、リユは忌々しげに瞼を下げる。血も肉も出てこないドローンとはいえ、その工程はグロテスクに思えて、アドは思わず視線を逸らした。
「やはり発信機は入っていたか。管理人、このシェルターの座標が特定されたかもしれません」
「……つまり、ヤルダがここに襲撃に来る可能性がある?」
「我々は幾重にも防衛線を張ってあります、ここまで来る可能性はゼロに等しい。しかし、万が一は……」
「そう。なら、しばらくは厳戒態勢だね」
ヤルダと交わした言葉は僅かだったが、今の所良い印象は無い。『人類の再興』のために何が必要になるか、アドが何をさせられる羽目になるか、あの機械知性は理解しているのだろうか。
リユなら、少なくとも機嫌を取り続けている限りは、アドに危害を加えない。それに、アドの失った記憶に深い関わりを持つ存在でもある。ヤルダは、アドにとっても敵対する存在だとして認識するべきだろう。
「シェルターの位置がヤルダに筒抜けになったとして、おそらくヤルダは私が寝返る前提で考えていたものだと思う。その前提が覆った今、多少の隙は生じているだろう。私に戦備のことはわからないが、リユ、上手くやってくれるかい」
「……ええ。管理人、アナタが味方になってくれるなら、ワタシはどんな無茶振りだってこなせるのです」
バラバラになった機械のヘビを、リユはごみのようにポイ捨てする。すかさず清掃担当のドローンがそれを回収していく中、不意打ちのようにアドの肩が抱き寄せられた。身構えていなかったので、バランスを崩して足裏が浮く。
「誰にも、ヤルダなんかにアナタは渡しません……ワタシの管理人、ずっとずうっとこれからは永遠に、ワタシだけの管理人なのです……」
抱擁は相変わらず冷たくて、力加減は死なない程度でしかないために、やっぱり息苦しい。けれども、リユが囁く愛の言葉は随分と物静かで、精神の均衡を崩しているわけではないことはわかった。
ヤルダの誘惑に対してにべもない態度を貫いたことが、そんなにも嬉しかったのだろうか。アドがリユの味方という立場を保ったことが、そんなに、そんなにも。
「……私はどこにも行かないよ。多分、自由があったとしてもね」
単なる友好反応ではなく、明確な意思を込めて、硬い背中に腕を回す。機械の筐体はゴツゴツしていて、アドの肌とは似ても似つかない。ああ、けれども、この子はこんなにも渇望している。
善悪以前の問題として。アドの苦痛が始まらなければ、リユには味方と思える存在が居ないままだったのだろう。