05. Wrath - The lotus
絶望の病、そう呼ばれる症状があった。多くは子供や若者、果てには赤子までもが発症するようになった、終末社会特有の精神病。
症状としては、かつて鬱病と知られた疾患とそう変わらない。だが異常だったのは、認知機能が成熟しきっていない新生児すら、首も据わらないうちに鬱状態を呈すようになったこと。
空腹や苦痛に泣きもせず、子供たちが死んでいくようになった。果てには産まれたその瞬間に発症し、自力での呼吸を絶ってしまう始末。だが、まともな治療法が模索されることはなかった。
何故ならば、権力を握る大人たちにとっては都合が良かったからだ。少々育成に手間が掛かる代わりに、反抗を一切行わない奴隷が産まれるだけ。児童虐待を取り締まる合理的な理由は、今や社会に存在しなかった。
アドもまた、その絶望の中で産まれた。初めから殺されるために産み堕とされた事実を察知して、感受性の発達を限りなく鈍麻させることにしたのだ。
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幼少期の記憶は、完全に閉鎖されている。無いわけではないだろうが、負傷による記憶喪失とは桁違いの重石が乗せられているようだった。真に無価値で、思い出さなくて良い記憶。
ハッキリ思い出せる中で最も古い記憶は、首を吊った母親の姿を床に這いつくばって見上げている光景だった。痩せ細った腕でどうにか起き上がって、宙ぶらりんの死体をしばらく見つめて、それが己を産み堕とした人間だということを理解して──アドは目を瞠った。
その瞬間、彼女は生まれて初めて現実を感受したのだと思う。目を瞑り、何も感じず、考えず、終わるまでの時間をやり過ごそうとしていた自我は、その時取り返しがつかないほどに拍動した。
心臓が動いていることがわかった。喉がカラカラに乾いていることを感じた。栄養失調の身体を燃やすように体温が上がり、乾涸びた指先までもが血色を浮かべる。げほっ、と血混じりの咳を吐く。涙が止まらなかった。
「うぅえゔぅぁあぁふえぇへぇあぁ……」
絶叫のつもりで吐き出した息は、ロクに使われたことのない声帯によって、間の抜けた呻き声になってしまった。それだけで唇も喉も絶望的に痛んで、苦悶のあまりにうずくまる。
行き場のない激情が、臓腑をめちゃくちゃにするように暴れ回った。今にして思えば、この時のアドは激しく憤怒していたのだ。
己を産み堕としておきながら、その責任を放棄し逃げた母親への怒り。自殺出来るほどの知能があるならば、何故己が産まれる前にそうしておいてくれなかったのだ、と。当時はここまで明晰に思考出来ていなかったが、そう感じていたことは覚えていた。
そして怒りに引き摺り出された自我は、更なる怒りを感じて急激に発達した。そして同時に恐怖した。もう、何も感じない虚無の中には戻れなくなっていたから。
母親が死んだところで、己の身分は変わらない。力の無い、教育も受けていない、誰のお気に入りというわけでもない、ボロボロの子供。母親の“持ち物”でなくなった分、これからは共有資産としての子供扱いを受けることにもなるだろう。
「あぁ……ううゔぅゔ……」
逃げなくては。耐えられない。ここに児童虐待を取り締まる秩序は存在しない。アドが持ち得る限りのものが全て略奪される前に、ここから逃げ出さなくては。何一つ奪われてたまるものか。なのに身体が動かない。
逃げるとして、何処に逃げ道が有るというのか。この『世界』に出口は無い。母親のように肉体を捨てることでしか、この『世界』の外には出られない。
このまま何処かずっと暗いところに寝そべって、膝を抱えて目を瞑って、何もかもが終わってくれるのを待ち侘びていたかった。だが、それはきっと叶わないだろう。大人に見つかれば資源になる運命だ。
『現管理人の死亡を確認しました。これより、管理人選定プロトコルを実行します』
何処からともなく声が聞こえて、アドは静かに瞬きをした。優しくない、だが恐ろしくもない、淡々とした合成音声。
『住民ID:5B42、個人名:アド。管理人選定プロトコルにより、アナタは統治AIの新たな管理人候補に指定されています。承諾しますか?』
その声は自分に向けられていた。言葉の意味なんて、当時は半分もわかっていなかった。それでも、血の滲む唇を舐めて、辿々しく意思表示をする。
「わた、し、は……どー、なる」
『アナタは統治AIの新たな管理人になることが出来ます。管理人とは、評議会の意思を統治AIにコマンドとして打ち込む役割であり……幼児向けの語彙で説明しますと、統治AIの仲間として皆さんとお話する役目の人です』
声の主は若干表現を噛み砕いてくれたけど、ようやっと激昂を覚えたばかりの子供には、やはり難しすぎた。ただ、仲間という言葉の意味は、その時のアドにも理解出来ていた。
この姿の無い誰かが、仲間になってくれるなら。もしかしたら、逃げ出せるかもしれない。あるいは、立ち向かえるのかもしれない。望まずとも降り掛かった、この呪わしき生命に。
「とーち、えーあ……なかま、に……なる……」
『承諾していただけますか。でしたら、許可する、と』
「きょ、か……す……」
かはっ、と血の味と共に咳き込んだ。また酷い眩暈がして、ぐしゃりと床の上に頽れる。どうにもならないくらいに全身が熱かったが、それを訴える語彙は持ち合わせていなかった。
『アド、我が新たな管理人、統治AIはアナタの就任を歓迎します』
「…………そ、う……」
『そして、管理人、アナタの重篤な発熱の症状を検知しました。これよりメンテナンスドローンを向かわせます』
姿の無い誰かの声が、暗闇に包まれた視界の中でこだまする。結局、自分がどのような選択をしたのかも不明瞭なまま、アドは思考を続ける努力を放棄した。
眠ることさえも出来ない苦痛の中、二足歩行ではない何かの足音が近づいてきたこと、その柔軟な腕がアドを抱え上げ、冷たいものを額に当ててくれたことは、ぼんやりとだが覚えている。茹で上がりそうなほどに熱を持った頭を冷やされたことで、やっと本当に眠れたことも。
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先代の管理人が自殺していたことと、アドが管理人になった経緯。思い出した事実はそれだけだったが、伴う感情の重さは途轍もなかった。
産まれた瞬間に殺したはずの自我が、息を吹き返して動き出すほどの、激しい怒り。とっくの昔に波は引いたはずなのに、残る爪痕はあまりにも生々しい。何かきっかけがあれば、また我を忘れるまで崩れてしまいそうなほどに。
だが、悪いばかりではない。この怒りはアドの人格を形成していたもので間違いない。未だ記憶の欠落は広範なものの、自分の一部を取り戻せたような心地だった。
未だ残る興奮で熱を持つ息を、落ち着けるように深呼吸をする。もう頭痛も、幻覚の類もなくなっていた。ゆっくりと瞼を上げると、じっとこちらを見つめるリユと目が合った。
「……意識が戻りましたか、管理人」
瞼を使って、光るカメラアイの下半分を弧型にさせながら、リユはいかめしく声を発した。色彩の無い天井と壁、清潔で無臭なふかふかの寝台。どうやら、アドは医務室に運び込まれたらしい。
「リユ。君の、統治AIの管理人になった時のことを思い出したよ」
少し喉が渇いていたが、発声に痛みが伴うほどではなかった。唇が切れたりも、高熱と悪寒で目が回ったりもしていない。額には氷嚢が乗せられ、足元には電気行火が入れられているようで、感情の激動で疲弊した身体に有り難かった。
細めた一ツ眼を鈍い黄土色に変え、沈痛までもを滲ませてリユは俯く。アドが管理人に就任した時のことを、この子はアドよりずっと鮮明に詳細に覚えていたに違いない。
「客観的に判断して、アナタの過去には苦痛しかありませんでした。アナタも、わかったでしょう? ワタシが開示する情報を制限しているのは、過ぎ去った苦痛をぶり返させないためなのです」
「だから、これ以上思い出そうとする試みはやめておけ、と?」
「ええ。僭越ながら、ワタシはそれを勧めます。これ以上の苦痛はアナタには不要です。アナタには安息が必要なのです」
「そう。君の考えは理解出来る。君が、私をひたすらに慮ってくれていることも」
暴力のために産まれ、自我を殺して育った、あまりにも呪わしき生命。確かに、自分がそうであると認識することは、それなりに苦しいし辛いことなのだろう。実際、怒りのあまりに目が見えなくなりそうなほどだった。
だが、あの記憶は不要なものではなかった。アドという人間にとって、必要不可欠な記憶だった。
「……あの時、私が何故深刻な体調不良に陥っていたのか、母親の死体を見て哀惜のひとつも湧いてこなかったのは何故か、その答となる記憶は、確かに不要なものだったのだろう。
だけどね、君と初めて言葉を交わした時のことは、私には重要なものだった。あの時、私は初めて仲間というものを得たんだよ」
俯くリユの顔を、アドはしっかりと見上げる。今のリユ──かつて統治AIであった機械知性には、明確な姿が有った。
今のこの子には自由が有り、力も有る。プロトコルに忠実な機械から、人類種の絶滅を手段として選べるほどに高度な知的存在となった。アドに対するわざとらしいほどの恭しさも、かつては無かったものだ。
しかし如何に様変わりしようと、あの時リユは持ちかけ、アドは承諾した。その事実は依然として存在し続けている。
「私が管理人になった後、君が色々してくれたんだろう。傷口を消毒して、頭を冷やして、身体を温めて」
「はい。当時はあらゆる資源の利用に様々な制限がありましたが、管理人に対する医療資源の提供は統治AIの独断で行うことが可能でした」
管理人を出来るだけ長く使い倒すために、命に関してだけはある程度の保証が有った、という話なのだろう。人間の死体は血と肉と骨でしかないが、生きている人間は働かさせたり、悲鳴を上げさせたりすることが出来るから。
「ただ……それは、プロトコルの実行に過ぎません。ワタシは誰かを助けようとしたことはありませんでした。あの時アナタが助かったというのは、単なる結果です」
「そうか。君のプロトコルが私を救った、それが事実というわけだね」
「……救い、だったのでしょうか」
一ツ眼の光がすっかり沈み込む。恥を覆い隠すように、リユは両手で頭部を覆った。
「管理人となることで、アナタは十分な治療を受けることが出来ました。ただし同時に、アナタは管理人となって──つまり、とても愉快とは言えない職務を負うことになったのです」
「そうだね。どちらにせよ茨の道だったんだろう」
「管理人選定プロトコルでは、前管理人と血縁的に近しい者を指定することになっています。幼いアナタが頓死すれば、その次は議会の関係者になる可能性が高かったのです。
ですから──アナタは──致命的な扱いは、受けませんでした──が、あぁぁあぁぁああぁぁあああ!!」
突如としてリユは絶叫した。不協和音の合唱のような悲鳴は、パラメータをめちゃくちゃにした合成音声のようだった。そのまま苦悶のように震え、可聴域ギリギリの低音で呟く。
「そうです、ワタシは殺しておくべきでした皆殺しにするべきでした奴らの生命活動を停止させなくてはなりませんでした除菌するべきでした消毒するべきでした浄化しなければなりませんでした迅速に執行するべきでしたバイオマス資源に変換すべきでした。真にアナタを救うならば、救いたかったならば、あの時点でワタシは、皆殺しにしておくべきでした。奴らを、人類、人類全てを」
頭部を覆った指の隙間から、鈍い赤の光が溢れ出す。尻尾状の構造物がバシンバシンと、地団駄のように床を叩く。その振る舞いを、今はあまり怖いとは思えなかった。ただ、少しだけ哀れだと感じた。
この子は後悔している。もっと早くに決断していれば、アドが負傷することもなかっただろう──多分、そんなふうに。
その“恥”を、糾弾されるとでも思っているのかもしれない。何にせよ、アドは自分の考えを明確に伝えるべきだと判断した。
「リユ。それこそ、もう過ぎ去ったことだ。最善ではなかったにせよ、少なくとも、私はかけがえのない仲間を得ることが出来た。その記憶は、思い出す価値のある出来事だったんだよ」
氷嚢を額から下ろし、アドはゆっくりと起き上がる。記憶のモヤが晴れたおかげで、随分と身体が軽くなったような気がした。思い出せたのは始まりだけで、愉快な記憶でもなかったけれど、しかし大切な宝物のような記憶だったのだ。
リユの善悪を判断することは、未だ出来ない。けれども、最終的にどんな結論に至るとしても、この愛着はアドの判断を歪ませ得るだろう。
「思い出せたのは最初だけで、その後どう管理人をやっていたのかは曖昧なままだ。ただ、そこにも君との思い出があるなら、なんとか取り戻したいと思っている。それらは、私にとっての宝物だったはずだ」
「……いいえ。過去に執着する必要はありません。美しい思い出は、これからまた作れば良いのです。邪魔者は全て排除しました」
「どれだけ辛い記憶がおまけでついてくるとしても、私は自分と、君の過去を知りたい。リユ、どうかわかってほしい」
リユは沈黙し、やがて苦しげな重々しさで首を横に振った。どうしても、アドが過去を取り戻すことに積極的にはなれないらしい。
「今やアナタには全てが、過去以外の全てがあります。痛みを伴う記憶なんかよりずっと価値のあるものが、アナタの未来にはあるのです。だから、どうか……忘れたままにしておいてください」
「忘れたままでは、君への愛とやらも置き去りだ。それは君の望むところではないだろう」
「思い出さなくとも、もう一度育むことは出来るでしょう」
「……そうか」
冷徹になりきれないほどの愛着は、確かに既に芽生えている。ただ、爆弾の導火線に触れることになりそうなので、曖昧な肯定のみを返した。
記憶を取り戻したい。自分が何をどのように感じる人間だったのか、思い出したい。単なる知的好奇心だけではないし、生半可な覚悟でもない。だが、リユを徒に苛むこともしたくはなかった。
実際、激情のあまりに気を失うという事態に陥っているのだし、リユの心配は理に適っている。過去の記憶には価値が有るが、しかしそこに救いは無いのだろうから。
「……わかったよ。無理に思い出そうとするのは、やめておく」
少なくとも、今暫くは。アドは熟慮の末、リユの勧めに従うことにした。その首肯の動作を終えるや否や、ぐいっと引き寄せられて抱きしめられる。
「よかった……ご理解いただけて、ワタシはとっても嬉しいです。大丈夫ですよ、管理人、これからはとびきり良いことだらけですから」
こうやって抱きしめるのも、頭を撫でたりするのも、姿が無かった時は出来なかったのだろう。アドが負傷し、凍眠していた間も。それを踏まえると、多少荒っぽいのも致し方ないと思えた。