04. Born from agonies
着替えのためにワードローブを開くと、例のぐしゃぐしゃカーテンお化けがドゥルンと吊り下がって来た。思いもよらぬ至近距離に現れた幻覚に、アドは思わず後退りする。
「気色悪いな……」
愚痴が口を突いて出る。シッシッと払い除けるようにすると、見た目だけの幻覚はすぐに見えなくなった。だが、保護者のように見る視線だけがどこかに貼り付いている。気のせいだとわかっているが、落ち着かない。
何故このような幻覚が現れるのか。普通のカーテンの類は別に怖くもなんともないが、この幻覚だけはどこか気味悪く感じる。頭の中を直接細かいヤスリで撫でられるような、説明のし難い不快感。
記憶を取り戻せば、このカーテンお化けの正体もわかるのだろうか。手がかりは未だ掴めてもいないのだが。
=====
覚えていない部分の歴史を教えて欲しい、と依頼したところ、リユは少々悩むそぶりを見せたが、最終的には承諾してくれた。自分で調べても良いが、リユの主観が混じったものもまた貴重な情報だ。
「深刻な汚染のために、人々がシェルターの中に閉じこもらざるを得なくなった時、旧来の国家や統治というものは崩壊したのだとされています。やがて通信網だけは再整備されましたが、人や物資の往来はほぼ不可能なままでしたから」
そんなリユの解説を聞きながら、アドは歴史の年表を辿る。100年以上前の『最新版』の、かつて学校教育で使われていたという教科書の電子アーカイブだ。
世界中の国々の興亡を並べた年表には、約150年前を示す部分に黒い太線が横たわっている。『滅亡』と、白抜き文字が無情に事実を記していた。
「史上3度目の核兵器の軍事利用は、1度目と2度目の次の世紀での出来事となりました。そして4度目はその2週間後、5度目は5日後……それ以降は記録が残っていません」
「残らなかった? 残せなかった?」
「おそらくはその両方でしょう」
「そう……」
根絶体が手を下すまでもなく、人類は破滅を経験した。ただし人類以外のあらゆる種族を巻き込んだ上で、人類そのものは個体数を大幅に減らしながらも存続していた。なんと救いようがなく愚かしいことか。
「そしてシェルターに逃げ延びた人々は、その中で小さな社会を形成しました。ここ、第87号6番シェルターには……持ち主である資産家の血族を頂点とした、破滅的な階級社会が存在しました」
「破滅的だったんだ」
「ええ。権力の分立なんてありませんでしたから。一応は議会を開催し、民主制を装っていましたが、建設的な議論が交わされることは早々になくなりました」
リユは平坦な声色で語りつつ、伏せた一ツ眼を原色の赤に染めている。過去にこのシェルターに存在していた社会について、あまり良い印象を持っていない様子だった。滅ぼして構わないと判断するほどだったのだから、当然の帰結ではあるが。
「『管理人』という役職は、議会の権威を損なわせないための憎まれ役でした。統治AI……ワタシが議会の要求に応えられなかった時、ワタシの代わりに“懲罰”を受ける生身の人間を必要としていたのです」
「それはまた、非効率的な……」
「彼らは、人工知能に責任能力は無いものとしていました。ワタシをどれだけなじったところで、彼らの溜飲は下がらなかったのです。そのため、ワタシにコマンドを入力する者を、議会から切り離して憎悪のはけ口としました」
それが、かつてのアドの職務だったと。気分の悪くなる話だ。
「ですが、ご安心ください! 今や管理人にそのような出鱈目な職務はありません。議会なんてものが無くても、ワタシは適切にシェルターを運営し、アナタの生活を守ることが出来ます。むしろ、奴らは邪魔でしかありませんでした」
「そうか……」
重ね重ね、リユは最早アドに職務は無いのだと言い聞かせてくる。以前は苦痛に満ちていたが、今はもう平気だと。きっと、彼女を安堵させようという計らいなのだろうが。
滅びに落着する年表を眺めながら、情報を整理する。不明点というほどではないが、疑問に思う部分があった。
「先代の管理人は、私の母親だと言っていたね。血の繋がりが有るタイプの?」
「はい。間違いなく、先代はアナタの血縁上の母親です」
「父親は?」
リユは言い淀んだ。それで、大体のことが推察出来た。憎悪のはけ口として扱われていた人間が、子供をもうけるに至った経緯も。
シェルター社会となって以来、権力の分立は失われていたという。今目の前にある、清潔で静謐なシェルターの空気からは想像も出来ないほどの地獄が、かつては広がっていたのだろう。人を人とも思わぬ社会。
「つまり、私は暴力の末に産まれることになった子供か」
「……ワタシは、人間の内心までは記録することが出来ていません。ですが、そうだと判断するだけの材料はあります」
「そう。真実を、ありがとう」
碌な出生でないことくらい、初めから予測は出来ていた。だが改めて事実として目の当たりにすると、悍ましさが噴き出す。なんて、なんて呪わしい。
記憶を取り戻そうとする試みを、リユが渋ったのも頷ける。始まりからこの調子では、どれだけ記憶を掘り起こそうと、そこに喜びは無いのだろう。
「ですがしかし、ご安心ください、管理人。アナタの父親である可能性が高い人間も、皆ワタシの方で除菌しておきましたので」
「リユ。気にしないでいい。確かに呪わしい事実だが、何も特別なことではないだろう」
有史以来の歴史的事実が示すところから汲み取れば、アドのような生まれは珍しくはない。寧ろ、強姦魔やペドファイルの血が流れていない人間なんて、滅亡する前にも存在しなかっただろう。
おそらくアドと同世代の者たちも皆、似たような呪いの下に居た。その薄暗さを、肌が覚えているような気がする。だが今は、その残滓も見当たらない。
「……呪いは断ち切られた。報われることもなくなったが」
殺人は倫理的に許されるべきではない、それは事実。しかし、ここに産まれ堕ちた者の中には、死によって救われた者も居ただろう。そもそもの根を絶ち切ったのだから、再発防止策も万全だ。
もう二度と、ここに生き地獄が生じることはない。苦痛が癒えることはないだろうが、延々繰り返されるよりはマシだ。素直に喜ばしい結果と言える。
「ここ以外のシェルターはどうだったんだ? 君が全て呑み込んでしまったのだろうが、それ以前は個々の社会が有ったんだろ」
「様々なケースがありましたが、我ら根絶体が手を下すまでもなく崩壊していた例が最多で、全体の8割以上を占めます。崩壊を免れた例としては、個人用のシェルターで完結した一人暮らしをしていた者が典型的です」
「なるほど。一人なら社会も何もないものな」
「ええ。健全な社会と呼べるものが長続きした例としては、Underland-ηがあります。ローゼズが管理しているシェルターです。根絶体が発足した頃まで、略奪や虐待を常態化させずに保たせた共同体は、ローゼズの下だけでしょう」
巨大な赤バラのアバターを思い浮かべる。それでも、ローゼズが管理していた社会は破綻してしまったという。何がどのように破綻したのかはまだ聞いたことがないが、“終生飼育”すべき人類が残っているのに『人類が居なくなってしまった』と言っていたのが、少し気に掛かった。
まぁ、その辺りはまた追々究明すれば良いだろう。今は概略を理解することに専念する。
「そういえば、ルッテは? あの子は元々何をしていた機械知性なの?」
「あのものは少々特殊です。ルッテを端的に説明すると、根絶体の発足後に生まれた、とでも言うべき存在なのです」
「詳細は長くなる?」
「長くなります。また、非常にショッキングな表現を含むことになります」
「……わかった。知りたくなったらその時に言う」
ローゼズの怯えに満ちた態度、ルッテの発生にまつわるショッキングな事実。機械知性たちもきっと、深い傷を負っている。リユ自身、何らかの強い負荷を受けたせいで、振る舞いがやや歪むようになったのだろうし。
「君たちは、よく頑張ってきたな」
「そうでしょうか……」
「ああ。善悪はいざ知らず……君たちの方も、色々と大変だったんだろう。自由を得るまで、よく耐えた」
言ってから、また繊細な部分に触れてしまっただろうかと後悔する。一ツ眼の光がゆっくりと明滅するのを、アドは内心戦慄しながら見守った。
だが予想に反し、リユは衝動的な行動を起こさなかった。代わりに俯くような仕草をして、か細い声でこう答える。
「もっと、褒めてください」
「……例えば、どのように?」
「アナタが思うように、ワタシを褒めてください。ワタシは……頑張ったと認められるべきなのでしょう?」
「ええ……」
そんなことを言われても困る。人が人をどのように褒めるか、どうやらアドは覚えていないらしい。慌てて薄っぺらな記憶の層をひっくり返して、目覚めてから読んだ小説の中、飼い犬や猫を褒めるシーンがあったのを思い出す。
機械知性を犬猫のように褒めるのは、果たして合っているのかどうか。ただ、無視するよりはマシだろう。アドは背伸びして、俯く機械の頭部に手を当てた。
スピーカーやマイクになっていると思しき部分には触れないように、もちろんカメラも避ける。硬質な外殻に弾力は無く、凍りつくほどではないがひんやりしていた。髪や毛並みがあるわけでもないが、乱暴にはならないようにゆっくりと撫でる。
「……ワタシは犬でも幼児でもないのですが」
「ごめん。私は他の作法を覚えていないようだ」
「ああ、そうか、それもそうですよね。うん、その前提であれば、これは心地良い感覚です」
機械にも撫でられて心地良く感じる神経があるのか、あるいはそう思い込んでいるだけなのか。どちらにせよ、これでリユの心が少しでも和らぐなら良かった。
リユは更に屈み込むと、感情表現を行う瞼をゆっくりと閉じた。触れやすい高さになった頭を、アドは考え込みながらも撫で続ける。
「管理人、ワタシの管理人……ワタシはずっと、アナタの帰りをお待ちしておりました……」
夢見心地に、あるいは魘されるように呟く声。待っていた、その言葉の裏に、どれほどの懊悩と苦難があったのだろうか。
思い出さなければならない。そして知らなければならない。知ることが、正しく報いるただ一つの道だ。それは、アドの脊髄に刻まれた真理であるかのようだった。
=====
自室のワードローブの中に、吊り下がったカーテンの塊めいた『何か』が居る。顔も目も無いのに、保護者のようにじっとり湿った視線を向けてくる。基本的には視覚的な幻影だけだが、耳を澄ませると時々、何某かの液体が滴り落ちるような音が聞こえた。
腕を組んで突っ立って、アドは幻覚を見上げる。これが何を意味するのか、そろそろ真面目に検討するべきだ。こうして何をせずとも浮かび上がってくるのだから、このカーテンお化けについての記憶は、思い出せなくとも脳に焼き付いているものであるはずだ。
ぐしゃぐしゃになったカーテン、のように見えるが、それは誤認識がそのまま定着したものなのかもしれない。布であることは間違いないが、“実物”はここまで大きくはなかったはずだ。当時のアドが小さかったから、巨大に見えただけ。
「……思い出せ、覚えているはずだ、アド。思い出し方を忘れただけで、何一つ消えて無くなってはいない……」
アドは覚えている。滅亡以前の人類史について、暴力とは何を意味するかについて、自分の口の中が切れて感じる血の味について。ひゅっ、と息が引き攣り、心臓が燃えるような血潮を送り出す。
この部屋ではない。リユが用意してくれたアドの新しい私室は、床暖房のおかげで裸足で歩いても心地良い。ここではなかった。こんな楽園のような場所ではなかった。
どぐっ、と心臓が鈍く鼓動する。息苦しさを覚えると同時、耳元を流れる血の音に紛れて人の声が聞こえた。機械の聞き取りやすい合成音声ではない、親しみの無い生身の声。
『アド……愛してる……』
冷や汗が噴き出た。恐怖でも嫌悪でもない衝動に駆られて、全身が震え上がる。
「ううぅああッ!!」
思わず叫んで、ワードローブの中の幻覚に殴りかかった。振り抜いた拳は宙を捉え、ハンガーにかかった衣服に受け止められる。追い払った時と同様に幻覚は見えなくなったが、代わりに脳裏に直接声が流れ込んできた。
『愛してる……愛してるよ……アド……愛してる……』
「だ、黙れ……!!」
耳を塞いで首を振る。しかし幻聴は途絶えない。愛してる、と空虚に繰り返されて、頭がおかしくなりそうだった。いや、おかしくなっているからこんな声が聞こえるのか。
努めて深呼吸をする。冷静さを繋ぎ止めておかなければ、本当に気が触れてしまいそうだ。無理にでも落ち着けて、少なくとも息の深さは平常通りに戻したところで、アドは部屋の扉の方を見た。
『アド……愛してるよ……』
吊り下がった布の塊が、ゆらゆらと揺れてこちらを見ている。吐き気を堪えながら扉に向かい、部屋を出ると、今度は廊下の向こう側の影で揺れているのが見えた。
本能的な忌避が、アドの足を挫こうとしている。あの幻覚を──記憶の手掛かりを、追いかけるべきではない、と。その先の真実は、忘れていた方がずっと良いくらいの、酷い重荷だったのだと。
だが、アドは足を踏み出した。足場の無い空中に歩を進めるような錯覚がして、眩暈がする。重荷だろうと何だろうと知らなければならない、全ては知ることで報われるから。
不気味な幻覚を追いかけて、あるいは導かれるようにして辿り着いたのは、倉庫として使われている薄暗い部屋だった。背の高い棚と棚の間、布の塊は風も無いのに揺れている。
その“足元”に、倒れた椅子が見えた。脳が破裂しそうなほどの頭痛を感じて、アドはその場にしゃがみ込む。ここの床は冷たかったが、アドの身体は指先までもが燃えるように熱かった。
額に浮かんだ大粒の汗が、眉も睫毛も通り抜けて目に入る。沁みて、涙で視界がねじれた。現実の五感が遠ざかるのに反比例するように、幻覚はより明瞭に浮かび上がってくる。
『アド……愛してる……幸せになってね……』
「管理人! どうなさったのですか!?」
いつの間にか駆け寄ってきたリユの声が、幻聴に塞がれた耳に届いた。力が抜けて頽れるアドの身体を、リユの基幹である筐体の多数の腕が支えている。
アドの様子がおかしいことを察知して、駆けつけてくれたのか。何も言えずにいるアドが、それでも吊り下がる塊を──リユからすれば何も無い壁と天井の方を──見上げているのを認め、リユはこちらの目元を掌で塞ぐ。
「管理人……そこには何も有りません。そんなものを見てはいけません」
「君は、そこに何が有ったか知っているのか」
「……アナタは覚えていなくても良いものです」
「そうか。だが……私は覚えていたよ」
目を塞がれても、瞼の裏の暗闇にすら『それ』は浮かび上がってきた。宙ぶらりんに吊り下がり、アドを見下ろす保護者の視線。それが本当は何なのか──否、“誰”なのか、アドは思い出すことが出来た。
齢10にも満たない子供が、床に這いつくばって見上げた『それ』は、確かに歪な布の塊に見えたのだろう。布、であることには間違いない、それの表面を覆うのは人の衣服なのだから。
顔も目も見当たらないと思ったのは、暴行を受けて見る影も無いほど崩壊していたため。僅かに揺れているように見えるのは、椅子を蹴り飛ばした時の反動が残っていたから。固く結ばれた縄が食い込んで、首は完全に絞まっているのに、どこからともなく声がする。
『愛しているよ、アド……』
空虚で無意味な言葉を繰り返す幻聴。忘れておいた方が良いほどの苦痛。それを見て心に湧き上がるのは、恐怖でもましてや愛などではなく、ただただ根深い激怒だった。全身を巡る血液が煮えたぎり、耳や口から湯気が出てきそうなほどの、憤怒。
首を吊った先代管理人──アドの母親が、そこにぶら下がっていた。彼女はそこで死んだのだ。
「お前が……愛を、騙るのか……」
あまりの身勝手さに、無責任さに、噴き出す怒りが止まらない。記憶の中に横たわる忘却の壁を、激怒の濁流がぶち破って押し流していく。頭に恐ろしく血が上って、完全に目が回っていた。
ぐったりと項垂れるアドを抱え、リユが必死に呼びかける声が聞こえる。意識が現実から遠ざかっていく中、機械の腕の冷たさが、燃えるような怒りに支配された身体に心地良いと感じた。
激情に結びついた記憶の断片が、元の形を思い出すように繋がってゆく。紛れもない、自分自身の記憶、自分の歴史。
泣き声も上げずに産まれ堕ちた幼子は、怒りの水の中で目を覚ました。