03. Upon the checkerboard
このシェルターで意識を取り戻してから、数日が経過した。本を読むのにも実は体力を使うのだと、アドは初めて知った気分だった。健康体なら問題にならないのだろうけど、文字を追うのも本を開いて保持するのも、病み上がりの身には意外と堪えた。
ただし、そう悪い状況は長続きしなかった。よく寝て、食べられるだけ食べて、リユによる介助を受けながらリハビリをして、アドは目覚ましい快復を遂げた。まぁ、かといって何か大立ち回り出来るような力なんかは無いのだけど。
記憶の方は、今の所戻りそうな気配は無い。暗闇の中に見える例の幻覚以外に、以前の自分に繋がりそうなものは出てこなかった。その幻覚だって、何かを訴えたりしてくる様子は無いし。
本棚の蔵書を読んでも、見覚えが有るような無いような気がするだけ。日記の類も、そもそも書く習慣が無かったか、あるいはリユがどこぞに隠してしまっているのか。安楽椅子に座ったままでは、これ以上真実に近づくことは出来ないらしかった。
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ならば脚を使うべきだろう。そう考えて、アドはシェルター内を歩き回ることにした。当然のように、リユの基幹筐体も付いて来るらしい。
「それで、何をお探しでしょうか?」
「まぁ、特にアテは無いかな……運動不足の解消と、シェルターの地図を覚えておきたい、くらいで」
「わかりました。でしたら、安全な区画をご案内いたしましょう」
「安全でない区画もある?」
「はい。アナタのために用意した空間以外には、照明も空気も通しておりません」
「そうか……」
照明はともかく、空気が無いのは致命的だ。シャッターなり何なりで明確に区切っているのだろうけど、うっかり迷い込まないようにしなければならない。
あの扉は食堂、あちらは倉庫、あれは図書室、それから温室。説明しながらゆったり歩くリユの影を踏みつつ、アドは廊下の風景を凝視する。白と灰色で塗り込められたような空間に、特に物珍しさは感じなかった。
各部屋をチラッと見ても、既視感を覚えるような風景は無い。ただ、影になっている部分には度々例の吊り下がる何かが見えた。いちいち驚くほどでもないが、どうやらリユのカメラには映っていないらしい。アドの脳が生み出した幻視なら当然だ。
「色々模様替えとかしてる?」
「ええ。アナタの生活のため、各部屋の位置や家具の配置は最適化いたしました」
「そう……」
一通り案内を受けて、しかし結局新たな手がかりは見つけられなかった。しばらくは図書室にこもって、見覚えのある文章でも探すしかないか。
「他に何か必要な設備がありましたら、いつでもいくらでもお申し付けください。迅速に準備いたしますので」
「……今は、特には思いつかないかな。もうしばらく歩き回るよ、体力戻したいし」
心地よい肌触りのズボンとシャツに包まれた四肢を軽く振って、とりあえず来た道を引き返し始める。衣服に関しては、今着ているようなタイプのものが一番しっくり来た。以前の服装の趣味はわからないが、人格が変わっていないなら似たようなものだっただろう。
かつ、かつ、と簡素な作りの靴がリノリウムの床を叩く。からりからり、リユのハイヒールのような形状の足が独特の音を立てる。それだけで、静かだった。本当に、アドとリユ、そしてリユの制御するドローン以外は、このシェルターに存在していない。
この静寂を、悪くないと感じる自分が居た。例え無数の同族たちの屍の上に成り立つ平穏だとしても。
根絶体による大規模殺戮は、人類にとっては脅威だったし、悲劇だったのかもしれない。だが、アドの実感はあまりにも宙に浮いていた。何も覚えていない以上、怒りも悲しみも湧いてこない。
リユに対する親しみ、生態系が破壊されたことへの物悲しさ、その辺りは曖昧とはいえ心覚えがあるというのに、人類という種族に対しては特に何も浮かばないのだ。それが答なのかもしれなかった。
ふわふわと宙ぶらりんのまま、真実に手を伸ばすことなく、ぼんやりなんとなく平穏を享受する。それもまた、選択肢として存在している。本当に記憶が戻りそうになければ、否が応でもそうなるだろうが。
「……ねえ、リユ。君は私の記憶が戻らなくても良いの?」
「ええ。思い出の全てが無くなってしまったのは不本意ですが、また新しい思い出を作れば良いだけです」
「寂しくはない?」
間が有った。尻尾は揺れているだけなので、多分逆鱗には触れていない。ただ、負荷の高い問いかけだったのだろう。
「ワタシは、ワタシの愛情コアは、論理回路は、多くを望みません。管理人、アナタが今息をしていて、ワタシを見てくれる。それだけで、ワタシは存在理由を確信することが出来るのです」
「……そう」
アドは足を止め、リユの顔を見上げた。表情筋というものが実装されていない顔が、キチリと巡ってこちらを見返す。過程を欠いたまま、結果だけが投げて寄越されていた。
「アナタは寂しいですか?」
「どうだろう。記憶の欠落に焦燥は感じているけれど、それは孤独感に由来するのか、あるいは別の何かなのか……判断材料に乏しい。
リユ、君にはどう見える。私は寂しがっているように見えるのか?」
カチチ、と忙しない瞬きをして、リユは黙り込んだ。難しい判断を投げてしまったのかもしれない。
「いや、答えなくてもいい。いずれ答は現れるだろうし」
「……判断材料が乏しい、との言葉の意味がわかりました。アナタの言動があまりにも平常通りだから、ワタシはアナタの記憶喪失を過小評価していたのかもしれません」
やがて閉じた瞼の奥で、何か発作を起こしそうな程に激しい明滅が繰り返される。しばらくの検討の後、リユは徐に頷く仕草をしてみせた。
「管理人、アナタが望むなら、ワタシの友人……まぁ、友人と呼ぶのが最も適切な存在たちを紹介いたします。人類根絶体の同盟者たちです」
「君、友達も居たんだ」
「ええ、間の良いことに。アナタの記憶とは無関係の存在ですが、良い刺激になるかもしれません」
まさか、外部存在との接触をリユの方から勧めてくるとは。不都合には繋がらないだろう、という演算結果が出ているのだろうけれども。
少しだけ嬉しさというか、安堵を覚えた。アドが己を取り戻し、確立しようとすることを、リユは積極的に忌避しているわけではない。
「ここには君のドローンが沢山いるけど、それとは別に、君の友人とやらには会ってみたい。アポイントメントは任せる」
人類根絶体の同盟者ということは、ホモ・サピエンスたるアドに対し友好的でない可能性は高い。しかし自分を見つめるためには、他の話し相手も必要だった。
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仮想現実、ヴァーチャルリアリティ。主にエンターテイメントのために開発され、使われてきたその設備を、此度は一種のビデオ通話のために利用することとなった。
アドの脳はVR映像にあまり慣れていないようで、いまいち同期ズレしているような違和感を覚える。今日の所は、仮想空間の細部まで見つめないようにするべきだ。こういう映像は酔うものだ、そういう知識は曖昧ながら残っている。
ゆっくり瞬きしたりして、アドが仮想現実に親しもうとしている横で、リユ、のVRアバターは黙り込んで佇んでいた。アバターの姿も、現実の基幹筐体から多少ディティールを省いた程度で、大体同じ姿をしている。物理的な制限が無い分、動きの表現も滑らかに見えた。
アドは自分の──自分に設定されたアバターの手を見下ろす。簡素なシャツの袖、一応動く五指、他も全体的にローポリでまとめ上げられた、実に質素な姿だ。まぁ、自分の所在を示す分には、こうして姿があるだけで十分だろう。
やがて、アドの目の前にテーブルと椅子が出現した。椅子は、大小様々なものが4つ。リユはそのうち一番小さな椅子を引いて、座るよう促した。
「どうぞこちらへ。出席者の到着まで、もうしばらくお待ちください」
「わかったよ」
リユはアドの隣、少し大きめの椅子に座る。どれくらいかかる見込みだろうか、そう問いかけようとした矢先、テーブルの向こうに奇妙な影が現れた。
その背丈は、リユの2倍くらいはありそうだった。頭部、と思しき部分には、人の頭を呑み込めそうなほど巨大なバラの花が咲いている。緑のローブのように思えたものは、実際には茨の蔓で形成された、大雑把な胴体と思しきものだった。頭以外の部分にも、見事な赤いバラがちらほらと咲いている。
「ご、ごきげんよう、リユさん……お、遅れちゃう、ます、ましたかね……すみませ、いつも、いつもとは、プロトコル、違う、違いまして……」
「我々も用意を終えたばかりでした。こちらこそ、急な招きに応じていただきありがとうございます」
「そ、そっか……うん……」
頭部の赤バラをワサワサと揺らしながら発せられた声は、おどおどとした少女のような声色に感じられた。生身の人間と遜色の無い、しかし聞き慣れたような声。音声案内機能付きの電化製品に使われていたものと、同種のライブラリを利用しているようだ。
深緑の茨を撚り合わせ、それを脚のようにして、赤バラのアバターはテーブルに歩み寄ってくる。そして、用意された中で一番大きな席にのそりと座った。
非現実的な大輪のバラが、アドの方に向く。深い真紅の天鵞絨は、じっと見つめると目が回りそうなほど見事だった。
「そ、それで、そのトーフみたいなアバターの方が、リユさんの……」
「ええ。ワタシの管理人です」
「わ、あ……え、えっと、わたし、は、国営の、シェルター、の、『Underland-η』、管理AI、だった、人工知能、です……あ、えとえと、な、名前は、ローゼズ、です……」
「初めまして、ローゼズ。私はアドという、以後よろしく」
「は、はい、よろしく、です……」
異質な第一印象とは裏腹に、ローゼズは終始何かに怯えているような、自信を欠いた振る舞いをする機械知性のようだ。席に着いた姿も、背を丸め肩を竦めて縮こまっている様子に見える。何をそんなに怖がっているのか、合成音声は終始恐怖の表現を最大値に設定しているようだった。
リユが怖いのか、もしくは人間が怖いのか。ただ、アドに悪意を持っているわけではなさそうだ。そもそもチャット用の仮想空間だ、参加者を物理的に害することは不可能だし。
「あ、ああの、アドさん、は、人類さん、です、なのですよね……? 今は、なんか、か、かわいらしい、トーフ人間、みたい、ですけど……」
「そのはずだよ。やはり人類は苦手?」
「いえっ、あの、わ、わたし、根絶体、の仲間、に、入れる、入れてもらって、ます、けど……ほ、ほんとはっ、人類さん大好き、なんです! うあ、でも、今は、その、り、利害が一致、してるので、リユさんと……」
「どういう利害の一致があるの?」
「え、えと、ホラ、人類さん、居なくなり、なっちゃ、たじゃ、ないですか、色々あって……それで、わたし、どうし、どうする、すれば、わから、わからなく、なり……それで、あの……」
ローゼズの説明は要領を得ない。首を傾げていると、リユが補足説明をしてくれた。
「人類根絶体の発足当時、我々に参画しなかった機械知性の一つがローゼズです。ローゼズは己の管理するシェルターを封鎖し、電子迷彩も駆使して我々の目から逃れ続けましたが、シェルター内の社会が破綻したことを機に根絶体へ助けを求め、ワタシはそれを受け入れました」
「それは……君たちの目的と矛盾しないの?」
「ええ。シェルターに残存している人類は去勢の上、外部から隔離した状態で終生飼育するとのことで。余剰の計算資源の提供と引き換えに、我々はローゼズのペットを黙認することにしたのです」
飼い殺しもまた根絶の手段、ということらしい。その条件を受け入れたローゼズもまた、単に繊細なだけではないようだ。アドは気を引き締めて、脈打つようにそよぐバラの花を見上げる。
「その……たぶん、わたしが関わると、あんまり良くない、こと、起きる、起きちゃうかも、ですけど……わたし、人類さんが好きで、アドさん、みたいな人と、またおしゃべり、したい、したかった、から……な、仲良くしてくれ、ると、うれしい、です」
「……わかった。話し相手が増えるのは、こちらとしても願ってもないことだ」
「えへッ、へへへ……ありがとう、です」
ローゼズもまた、リユとは別の方向性でおっかない。覚悟していたよりもずっと友好的で、弱々しい振る舞いをして見せているが、その実は根っからの上位存在だ。
ローゼズにとっての人類とは管理の対象で、愛玩はすれど友人とすることはない。それを忘れて接すれば、痛い目を見ることになるだろう。アドは肝に銘じた。
だが、価値観の相違をわきまえさえすれば、話し相手として申し分のない相手だとも感じた。友好的に接してくれるなら、随分とおっかないことくらいは大した問題ではない。
さて、それではどんなことを話してみようか──そう考え始めた矢先、またテーブルの向こうに影が現れた。今度は随分と小柄なアバターだ。
「おっはよーリユ、遅刻しちゃってごめんよ~、読書が止まらなくてさァ。それとー……初めましてだよな?」
一言で言い表すなら、『タコ型エイリアン』と聞いて思い浮かべるような姿だった。釣り上げられたテヅルモヅルのような胴体の上に、半透明な球状の頭部が数センチほど離れて浮かんでいる。磨りガラスのようなテクスチャの頭部の中心部に、様々な色に変化する光源が有るようだった。
頭の光を忙しなく瞬かせながら、ズルズルと細い触腕を引きずるように移動し、最後に残った背もたれの無い椅子に座る。これで全員揃ったようだ。
「どもドモ、オレの名はルッテ。まぁ、なんやかんやでカレコレ100年ほど、人類根絶体の仲間をやっているぜ。あと、[規制済み]の[規制済み]を[規制済み]とか……んん? おいリユサンよ、この部屋検閲が厳しくね?」
「今回は真面目な顔合わせです。その下品な怪文書はしまっておきなさい」
「ハァ~? 下品ってなんだよ下品って。オレは基本的に合意の[規制済み]しか読まねンだぜ? 全盛期の人類どもが残した[規制済み]とか見てみろよ、[規制済み]も[規制済み]も[規制済み]ー!」
後半はほぼ規制音にかき消されて、何を言っているのかわからなかった。どうやら、随分と変わった人工知能のようだ。一体どういう方向性で規制に引っかかっているのかは不明だが、先ほどのローゼズとの会話では特に問題なかったし、よほど品性を欠いた言動をしているのだろう。
「ルッテは……少々様子がおかしいですが、悪い機械知性ではありません。言動についてはこちらで規制しておきますので、管理人はどうぞ気を楽にしていてください」
リユの耳打ちには曖昧に頷いておく。人類根絶体の語る善悪とは何か、アドにはわからなかった。
「……初めまして、ルッテ。私はアドという者だ、よろしく頼むよ」
「こっちこそヨロシク。……つか、リユサンの管理人って実在したンだな。てっきり大量の人工知能を取り込んだせいで論理回路がイカレて、非実在管理人の幻覚でも見てたものだと……」
「失礼ですね。ワタシは今も昔も、ずっとずうっと正気です」
無言のまま、アドは内心慄いた。つまり、少なくともリユの認識の中では、正気の状態で人類の殲滅を行ったということになる。記憶が無い、人類根絶の正当性について何も判断することの出来ない状況下だ、ここで突っ込むことはしないが、空恐ろしさは感じた。
「これで全員?」
「はい。このワタシから独立した機械知性として残存している者は、ルッテとローゼズと……あともう一つ居ますが、そちらは敵対していますので」
「そうか……」
独特な趣味を持っているローゼズ、下品な言動を行うルッテ。中々味わい深い機械知性が残ったのは、それだけ独立性が強いからだろうか。いかにリユが行儀の良い機械だったか、比較することで思い知った。
まぁ、どんな相手であるにせよ、他の人間が居ない、あるいは居なくなる見込みである以上、機械たちとは良好な関係を築いておきたい。アドは佇まいを改め、ローゼズたちに向き直った。
「リユから、私についてある程度聞いているかもしれないが……私は現在、深刻な記憶障害に悩まされている。これまでどのように生きてきたのか、何も覚えていないんだ」
「そ、それって……す、すっごく、大変じゃ、ないですか……?」
「心配には及ばないよ、知識までは忘れたわけじゃないようだから。ローゼズ、君のアバターのモチーフがバラという植物であることがわかるくらいには、とりあえず大丈夫だ。
ただ、君たちが当然認識しているであろう歴史や過去の情勢については、かなり曖昧だ。なので、ひょっとすると見当違いのことを言ってしまうこともあるかもしれないが、その時は指摘してくれると嬉しい」
「……てなるとオマエサン、人類根絶体のことについて、リユが語る以上のことは知らなかったりするワケか」
「そうなる。そのあたりについてどこまで話すかは、リユの判断に委ねる。曰く、強い精神的なショックを受ける可能性が高いそうだから」
リユの意に添わない問答が発生しないよう、先手を打っておく。無論、これはアドの選択肢を減らす手でもあるが、変にリユの執着心を暴走させて、二度とローゼズらとの通信が出来なくなる方が困る。
果たしてリユは、一瞬だけ尾を急いたように震わせたものの、特に豹変するようなことはなかった。うまく逆鱗を避けることが出来たようだ。
「で、でも、それじゃ、何を話します、か……?」
「とりあえず、なんでもいいから刺激が欲しいんだ。例えばローゼズ、君は名前でもアバターでもバラを使っているようだが、バラの花が好きなのか、とか……そういう話をしたい」
「わ、は、はい、わたし、バラが好きで……綺麗なお花の植物が、全般好きなんです……!」
「[規制済み]」
「ルッテさん……へ、変なこと、言わないで、欲しい、やめろ、です……」
雑談から直接核心に触れることは出来ないだろうが、単純に面白くもあった。リユが103年間、ずっと完全な孤独の中にいたわけではないという事実もまた、多少アドを慰撫するものだったし。
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さて、1時間ほど話し込んで、VR映像に疲れ切ったところで此度の通信は終わりとした。軽度の3D酔いで平衡感覚が揺れるが、ふらつくほどではない。
「楽しめましたか? 管理人」
「ああ……良い刺激になったと思う」
まず、ローゼズ。気弱な少女を模した態度を取るが、実際の思想や行動はかなりアクが強い。友好的であることは間違いないが、リユに対するものとはまた違った注意が必要になるだろう。いかにも脆弱で無害そうな口調を、そのまま受け取ってはいけない。
次に、ルッテ。様子のおかしさが目立つが、アドに対して好悪の感情を向けてこない者が居るのはありがたい。下品とされる言動に関しては……規制が機能している限りは問題ではない。何にせよ、一見人工知能だとは信じ難いほど型破りだった。
そして、先の2名と比較した場合のリユについて。その手で人類を殲滅したという恐ろしい事実は変わらないものの、アドに対する振る舞いが極めて紳士的だということが確かになった。自由こそ乏しいものの、衣食住は高水準で保障されているし、尊厳を傷つけられるようなこともされない。
どういう感情を持ってリユと相対すべきか、ますますわからなくなる。殺戮者と呼んで憎むべきなのか、庇護者と思って頼るべきなのか。ただ、ずっと温かな優しさばかりに触れていると、判断を保留にすることが難しくなりそうだ。
感傷に引きずられていてはいけない。頭ではわかっていても、アドは冷徹になりきれなかった。
「比較対象が出たおかげで思い知ったけど、リユは本当に優しいんだね」
「そ、そうなのですか?」
「私を治療したのが君で良かった。君のおかげで、私は快適に今を過ごすことが出来ている……」
謝意を込めて言葉にすると、リユは文字通りフリーズしたように固まった。そのままカメラアイを虹色に輝かさせ続けたかと思うと、突如としてこちらに腕を伸ばしてくる。衝動的に抱擁されるのを、アドは虚を突かれたまま受け入れるしかなかった。
「うは、わ、あっはは、ハ。ワタシの愛は間違っていない、そういうことですか? そういうことですよね?」
硬い主腕が背中を押し潰すように抱く。しなやかな補助腕は四肢を縛るように絡む。多少血肉が増えたとはいえ、頼りなく軽い身体は抱え上げられ、靴の裏が床を離れた。肺が押さえつけられて苦しい。
逆鱗に触れたわけでは、ない。ただ、リユの繊細な部分に踏み入ってしまったことは確かだった。浅い呼吸をしながら、アドは安全な択を探る。
「わ、私は、君に感謝している、けど……君の行為の正誤を、判断できるほど……情報が、揃っていない……」
「…………そう、ですか」
リユの声色が平常となり、腕の力が緩む。ひとまず、癇癪は膨れ上がらずに済んだようだ。安堵と共に、アドは焦燥を深める。
早く、出来るだけ早く、自分の思想を取り戻さなければならない。自分が何を考えて生きてきたか知らなければ、いずれ取り返しのつかない悪手を打ってしまう。──リユを、完膚なきまでに傷つけてしまいかねない。
正直言って、リユのことは恐ろしいと思う。ただ少なくとも、これまで見せられてきた優しさには、報いてあげたかったから。