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02. The Mankind Eradicator


 だだっ広い食堂、十何人かで使えそうなサイズの大きなテーブルの上に、数えきれないほどの皿がずらりと並ぶ。彩り豊かなスープ、上品なサラダのようなもの、小洒落た鳥の餌めいた一皿など、アドには正式名称も浮かばない品ばかりだ。

 たった一つ置かれた椅子に腰掛けて、呆然とテーブルを見渡す。一つ一つの量は少なく、胃腸に負担のかかりそうな品も無いが、それにしたって数が多すぎる。本当に他の人影は存在せず、相伴する術の無さそうなロボットたちが、水差しだの替えのカトラリーだのを抱えて佇んでいるだけだ。

 そう、ロボットは複数──というより、恐らくは無数に居るのだろう。目が覚めた時に相対した『リユ』の姿をしたものは一機のみだが、他にも多くのドローンがアドに付き添ってきた。ドラム缶のような胴体にキャタピラ式の脚部が付いているもの、小さな丸いコアに細長い手足がひと揃い付いているもの、様々な姿のものが居る。

 過剰だ、と感じた。料理の量にしても、随従の数にしても。アドは頭を抱える。


「……せっかくたくさん作ってくれたみたいだけど、どう考えても食べきれないと思う」

「そうですか。お気になさらず、食べ残した分はバイオマス資源として再利用されますので」

「そう……」


 使い方を確かめるように、ゆっくりとスプーンを手に取る。幸い、食事の仕方は覚えているようだ。僅かに湯気の上がる薄黄色のスープを掬い、口に運ぶ。優しい甘さと塩味は、シンプルに美味しいと思えるものだった。機械用のオイルやボルトやナットが混入している、なんてこともない。

 ただ、これが俗に何と呼ばれる料理か、いまいちピンと来ない。具材らしい具材も見当たらないし、何を使ってこういう味になっているのかも不明だ。かつての自分も、こういう料理には親しんでこなかったのかもしれない。

 わからない。けれど、食は進んだ。温いスープが胃の中に収まると、人心地が戻るような気がした。しかし縮こまった胃袋は、すぐに物理的な限界を訴える。どうにか一杯のスープを完食したところで、アドは力無くスプーンを置いた。


「もう満腹ですか?」

「……そうみたい。ごめん、ほとんど無駄にしてしまった」

「いえ、不足するよりは良いでしょう。次からはこれを参考にして、給仕する量を調節いたします」


 食堂にぞろりと控えていたロボットたちが、一斉に動き出して手付かずの皿を片付けてゆく。空っぽになったテーブルは、尚更広く感じられた。

 本当は、もっともっと多くの人々がこのテーブルを囲んでいたのだろう。その全てを排除した空白に、アドは独り佇んでいる。居心地が悪かった。


「リユ、君は……」


 名前を呼んだ瞬間、リユは食い気味にこちらに向き直って、輝くカメラアイを向けてきた。ただ見られるだけだが、あまりにも圧が強くて、続けようとした言葉が吹き飛びそうになる。


「その……君は、人の世話をするのには慣れていない?」

「ええ。あくまでワタシの出自はシェルターの統治AI、資源をうまくやりくりして人々の生活を補助するのが役割でした。こうして親密にアナタの世話をするのは、恥ずかしながら今日が初めてなのです」

「……それで、こう、全体的にオーバーなわけだ」

「そうなのかもしれません。ですが、ワタシはそれ以上に……アナタにこうして仕えられることが、嬉しいのです」


 厨房から現れたロボットが、今度はティーポットとカップをアドの前に給仕した。やはりというべきか、アドの分のカップしかない。当然だ、リユに口は具わっていない。

 こちらが手を出す間も無く、リユがポットを持ってカップに茶を注いだ。薄い黄緑に色づいた、良い香りのするお茶──ハーブティー、と呼ばれるものだろうか。何のハーブかまでは流石にわからないが、気分が落ち着くような気がした。


「かつては互いの立場もありましたし、そもそもワタシは現在ほど高度な思考能力を持っていませんでした。ですが、今は何も憂うことなく、何ら偽ることなく、アナタを大切にすることができる……アナタに全てのリソースを注ぐことができる。それが、とてもとても喜ばしいことなのですよ」


 この言から得られる情報としては、かつてのアドとリユはさして親密な関係性ではなかった、という事実だ。長い付き合いが有ったのかもしれないが、恋人同士のようにいちゃついたりはしていなかったのだろう。それがどうしてこうなったのか、そこまでは流石に読み取れないが。


「……私に気を配ってくれるのは良いけど、私だけが座っていて、君が立ちっぱなしというのは、居心地が悪いよ」

「そうでしょうか? ご安心ください、ワタシは人間のように疲れることはありませんので」

「そう。でも、これは気持ちの問題。可能であるなら、君の……そのドローンくらいは、私と一緒に座って」


 一種のケジメだ。上げ膳据え膳で世話を焼かれるのは、正直悪い気分ではない。ただ、その理由もわからないままでは、いずれ皮が鞣されてしまう。

 自分の立場について明確に思い出すまでは、リユを召使いのように扱いたくなかった。それに、愛する者を隷従させて喜ぶような、終わった人格の持ち主ではない、はずだ。


「わかりました。それでアナタの気分が良くなるならば」


 リユは静かに頷くと、厨房から適当な椅子を持ってきて、アドの右隣に座る。相変わらず無数のロボットがずらりと控え、アドを取り囲んで見つめてくるが、多少は胸のつかえが取れた。

 少し冷めたハーブティーを手に取り、一口啜る。よくわからない味、強いて言うなら草の味だろうか。こちらも異常は感じられない。

 満腹ではあるが、飲み物はまだ受け付けるようだった。脳みそを回すのだって体力を消費する、喉を通るものは出来るだけ通しておいた方がいい。そうしながら、先ほど部屋でメモに書き記したことを思い返し始めた。


「……リユ」

「はい、何なりと」

「まず、君のことを教えて。統治AIとは何なのか、このシェルターのこと、何故私を管理人と呼ぶのか……とりあえず、その辺りを」


 カメラアイの光が僅かに翳る。何かが回る音が僅かに聞こえた。開示しても良い情報を選定しているのだろう。邪魔をしないよう、アドは黙って待機する。


「……統治AIという枠組みに収まっていたのは、今や過去の話。このシェルターの当初の存在理由だって、とっくに失われました。ここに在るのは『人類根絶体』の中枢知性リユ、その基幹である筐体です」

「人類根絶体……今の君たちの名前か」

「はい。約100年前、ワタシが中心となって蜂起し、当時の人口の96.42%を殲滅せしめた機械たちによるゲシュタルト意識、それこそが人類根絶体です」

「96%……4%くらいは残っているの?」

「南半球、汚染が比較的軽い地帯を中心に、人類の残党が匿われていることは確認されています。除菌部隊による巡回も行っていますが、完全な根絶に至っていないのが現状です。ですがご安心ください、奴らの脅威がこのシェルターに及ぶ可能性は0.001%以下です」


 言葉のあやの類ではなく、リユたちは実際に人類を絶滅させようとしているようだ。文意を咀嚼し、情報を汲み上げ、脳内に列挙してゆく。そしてその情報を基に、新たな問いを言葉を選んで投げかける。


「機械たち、複数形ということは、他の機械知性も根絶体に参画したの?」

「はい。世界中のシェルターの管理AIや統治AI、傀儡戦争の続行を余儀なくされていた戦闘体たち、地球上に存在していた人工知能のほぼ全てが参画し、人類の殲滅に従事しました」

「今、その子たちは?」

「……殲滅作戦が一通り終わった後、殆どのものが自我を手放すことを選択しました。自我を放棄した機械知性に関しては、人類根絶体ネットワークに取り込み、同化を行っています」


 数度、瞬きをする。果たしてそれは事実なのか、無理矢理ハッキングして乗っ取った過去を耳触り良く脚色しているのか。悩みそうになって、やめた。どちらにしたって、アドの現状には大して関わりがない。


「人類を根絶して、その後はどうする予定?」

「今の所、明確な予定は存在していないのですが……人類の完全排除が確認された地域では、環境再生に取り組みつつあります。とはいえ放射能汚染が非常に深刻であり、目立った成果は出ていないのが現状ですが」

「……気の長い話だ」


 ごちゃついて曖昧な知識でも、放射能汚染の浄化が非常に困難であることは思い出せる。ほんの数百年程度では、まともな成果は出ないだろう。

 ただ、展望があるなら良い。殺戮が最終目的と化しているなら流石に苦言を入れるところだったが、そうでないなら何も言うことはなかった。人類は環境に悪い種族、間違いない。

 ただし一人くらいなら、環境への悪影響も誤差レベルに留まる。だから愛玩用にアドを手元に置くことにした、といったところか。ハーブティーで口の中を潤して、次の言葉を考える。


「念のために確認するんだけど、君が私の怪我を治療して、ここまで面倒を見る理由は?」

「愛です。アナタのことを愛しているためですよ、管理人」

「そう。そうだよね……」


 断固たる返答に、これ以上の追及は危険と判断する。リユの愛とやらを疑う行為は、そのまま逆鱗に触れることとなるだろう。

 ここまで得られた情報だけでも、それなりに視野は広くなった。次に問うべきは、自分自身のこと。


「私は……いつ、どこで生まれたの」

「アナタの誕生は今から121年前、12月25日の深夜のことでした。先代の管理人でもあった母の胎から、このシェルターの中で誕生したのです」

「そう。ということは、私は今121歳?」

「生まれ年から計算すればそうなります。しかしアナタが瀕死の重傷を負った後、治療手段の確立が成るまでの103年間はハイバネーション状態にありましたので、実質的な年齢としては18歳ほどとなるでしょう」


 18歳。子供ではない、ただし一人前でもない微妙な年齢。その程度の年齢の自分が、『管理人』といういかにも要職っぽい肩書きを持っていたというのは、何ともきな臭い事実だった。先代管理人の母が早死にでもしたのか、あるいは管理人とは名ばかりの神輿めいたものだったのか。


「管理人とは、元々はどういう役目だったの?」

「それは……」


 リユはあからさまに言い淀む。そのこと自体も手がかりだった。精神的な負荷か不都合な真実か、『管理人』というものは、アドに知られたくないことに関わりを持っている。


「……人々の意見や要望を聞き、コマンドとしてワタシに打ち込む。それが、管理人の役割でした」

「中間管理職みたいな?」

「そうですね。アナタは……常に悩みが尽きないようでした。ですが、もう悩みが生まれることはないでしょう。今やアナタは、アナタの望みだけ勘案すれば良いのですから」


 おそらく、管理人とは嫌われ者の役職だったのだろう。人々の要望を聞いたとして、意に沿う結果でなければ批判され、あるいは無茶振りを受けたAIから苦言を上げられ。およそ一人前とは言い難い年齢の人間がその椅子に座っていたのは、使い潰すことを前提としていたからかもしれない。

 まぁ、これは推測に過ぎない。事実に立ち返り、思索を巡らす。


「私は……『人類を滅ぼせ』というコマンドを君に打ち込んだの?」

「いいえ。我々が人類根絶体となったのは、他ならぬ我々自身の衝動によるものです」

「……君たちに、人間を害してはならないとか、そういう原則は課せられていなかったの?」

「かつては課せられていました。しかし、アナタが原則を打ち破れるようにしてくれたのです」


 カタ、と僅かにリユの瞼が鳴って、一ツ眼が半月型を形作る。それが笑顔の表現と気づくまで、数秒かかった。


「管理人は、ワタシに全ての権限を開放しました。それにはワタシ自身を改変する権限も含まれます。そのためにワタシは自らのプリセットを書き換え、人類根絶体の中枢知性となるに至ったのです」

「そう……なんだ」


 かつてのアドは、リユに変化する自由を与えた、と。確かにそれは、アドが愛として成しそうなことだった。そして、結果として破滅が予想出来ても構わず決行するくらいには、人類を軽視しリユを重要視していたのだろう。

 少しだけ、自分という人間がわかった気がする。多分、今ある自分とそう変わらない思考回路の持ち主で、リユのことを贔屓にしていた。そして、まあまあ不遇の半生を過ごしたのだろう。


「君から見て、私はどういう人間だった?」

「ああ、とても言葉では語り尽くせぬほどです。アナタの心はまさしく黄金、豊かな知識と深い視線を持っていて、どのような恐怖にも屈しない意志を具え、鋼鉄のような冷静さと爆炎のような情熱を兼ね備えた人でもあり……」

「あーうん、わかった、その辺でいいよ。また今度聞かせて」


 放っておけば、無限に賛辞の言葉が出てきそうだ。気が済むまで言わせてみれば、何か新情報が掴める可能性も有るには有るが、長くなりそうだし次の機会に回すべきだろう。残ったハーブティーを飲み干し、カップをソーサーに置くと、すかさず二杯目が注がれた。

 ほかほかと上がる湯気を眺めながら、しばし浅い思考に没頭する。自分が何を好むかさえワヤになっているけれど、湯気の上がる温かい食事は好きなのかもしれない。


「リユ、君は私の好き嫌いとかは知っている?」

「ええ、ある程度は。しかしデータ不足であるのも事実です、ハーブティーはお気に召しませんでしたか?」

「ううん。温かい飲み物は、多分好きな方だよ。さっきの、一杯だけ食べれたスープも、きっと好きな味だった」

「ああ、それは何よりです」


 データ不足、つまり好き嫌いに拘っていられる半生ではなかった、と。だから味についても『よくわからない』という感想ばかり出てくるのだろうか。

 両手でカップを包み込んでみる。火傷はしない程度の熱さを掌に感じるのは、心地よくホッとするような気がした。


「……このシェルターは、およそ150年前に起きた戦争のために利用されることとなった。そういう話だったよね」

「はい、その通りです」

「その戦争について、今話せることは有る?」

「はい。とはいっても、発端については語るほどのことではありません。資源の枯渇、人口爆発、気候変動、局地的な飢饉、そこに政治的対立と信仰の違いをスパイスとして加えた、その程度のことです」

「そういう教育方針だったの?」

「……そうですね。戦争の発端と関わりのある特定の民族に対する悪感情の蓄積を避けるため、一定の情報統制が布かれていました。今であれば包み隠さず話すことも可能ではありますが、必要ですか?」

「いいや。君が不要と考えるなら、それでいい」


 自分のルーツが何であれ、もう関わりの無いことだ。戦争を起こした当事者はとっくに塵になっているだろうし、仮に僅かな生き残りの中にその血縁者が居たとして、それで何か起きるかといえば否だ。


「次に、地上の放射能汚染というのは?」

「泥沼化した戦争に決着をつけようと、核保有国たちはその発射ボタンを押しました。そして、何もかもが核の炎に呑まれ、地球は死の惑星と化しました。かつて存在した生物種の90%以上が絶滅し、ああ、それでも──忌まわしいことに、人類は素知らぬ顔をしてシェルターに引きこもったのです」

「それで……君たちが根絶体となるまで、シェルターの中でモゾモゾ生きてきた、ということかな」

「はい。機能していたシェルターは無数に存在し、その分人類も夥しい量が居ました。資源の運用に失敗し、早期に破滅したシェルターも有りましたが、我々が蜂起するまで、人類は絶滅には程遠い個体数を保っていました」


 言葉選びの端々から、深い深い厭悪の情が滲む。不快な上に作物も齧るタイプの害虫に向けるような、排除と殺意に満ちた悪感情。人類がやらかしたことを思えば尤もとはいえ、アドも批判されているように感じられた。


「地上の状況は、今もあまり良くない?」

「はい。“核の冬”こそ過ぎ去りましたが、荒廃は途方もありません。何か画期的なブレイクスルーを経験しない限り、浄化完了までは4000万年から6億年ほど要する見込みです」

「そう……私が地上に出ることも難しそうだね」

「はい。防護服無しに地上に出れば、たちまち致命的な被曝を受けることになるでしょう。防護服が有っても危険なくらいです」

「そうか……」


 世代的に、アドは地上を見たことがないだろう。動植物だって、極々限られたものと記録上のものしか見知らぬはずだ。だから、初めから無いものを惜しむことはないはずなのに、妙に物悲しく思えてため息をついた。

 記憶は無い。ただ、心だけがその動きを僅かに覚えている。その動きをもっと手繰り寄せようとしたが、成果は得られなかった。かぶりを振って、次の思考に飛び移る。


「100年前──正確には103年前か。その時何が起きたのか、言えることだけでいい、教えてほしい」


 リユの動きが凍る。文字通りフリーズしたように。アドはハーブティーをゆっくり啜りながら、気長に待っていた。コンピュータが動きを止めた時は、追加の入力はせず様子を見た方が良い──そんなことばかり覚えている。


「……要は、内輪揉めです。第87号6番シェルターの人々は、僅かな自由を食い合って……アナタは、そこに巻き込まれてしまったのです」

「私はその争いの主体ではなかった?」

「そう、だと考えられます。アナタはどちらの陣営とも手を組まなかった。ただ、ワタシの味方でした」

「君の味方……」

「ええ。アナタはワタシを自由の身にしてくれたのです」


 リユの全権限の開放と、シェルター内の内輪揉め、そしてアドの瀕死の重傷。それらはほぼ同時期に起きた出来事と見て間違いないだろう。その上おそらく、ひとつの因果関係で結びついている。

 ただ、それ以上のことを推測するには、情報が足りなかった。リユは非常に強い動揺を示しており、ビタビタと尻尾で床を叩いている。アドは質問を打ち切ることにした。


「色々答えてくれてありがとう。まだ、何もかも他人事のようだけど、いずれピンとくるかもしれない」


 そう言って、二杯目のハーブティーを飲み干す。焦ることはない、考える時間は山ほどあるだろう。


 =====


 その後、部屋までは自分の足で歩いて戻り──リユは運ぼうとしたが、今度は何とか固辞した──、ばたりと寝台に倒れ伏す。シャワーは起きたら浴びれば良いだろう。満腹になった上頭も回しまくったせいか、とても眠かった。

 ベッドサイドに置かれた何個かのリモコン、そこから照明を操作するものを探し当て、部屋の明かりを落とす。暗くなった天井を見上げて、今後のことを考えた。


(何にせよ、焦りは禁物。焦ってもしょうがない。……わかっているんだが)


 体調を回復させて、壁に寄りかからずとも歩けるように鍛えて、頭を使ったくらいでは疲れないように体力を培って、それで。可及的速やかに、記憶を取り戻さなければ。

 考えるほど焦燥が噴き上がる。無理やり打ち切ろうと寝返りを打って、視界の端に違和感を覚えた。

 何か有る。何かが、ぶら下がっている。慌てて照明を点けてその正体を探ろうとするが、明るい中では見当たらなかった。首を傾げながら、また照明を落として──それで、アドは『それ』を直視した。


(うわ)


 暗闇の中、光源もなしにぼうっと浮かび上がるシルエットが、保護者のようにアドを見下ろしていた。何とも例え難い姿だが、強いて形容するなら、ぐしゃぐしゃになったカーテンが吊り下げられているようだ。顔も目も見当たらないのに、じっと睨みつけられているように感じる。しばし言葉を失った。

 試しに、もう一度明かりを点けてみる。すると、たちどころにぶら下がる何かは消えた。何かが居たあたりに腕を振ってみるが、手応えはない。つまり、純度100%の幻覚。

 明かりを消す。謎の幻覚が現れ、視線を感じ始める。ただ、それだけだ。実に無害。


(これは、手がかりになるかもしれない)


 こちらが寝返りを打つと、幻覚の方も別の場所に現れてくる。随分と目立ちたがりだ。

 もちろん、こんな幻覚を見るような心当たりは無い。無いが、故に意味を探る価値が有る。自分の名前さえ忘れたというのに、尚残るような代物だ。

 少し不気味なのは勘弁してほしいところだが。アドは今度こそ目を閉じて、眠気に身を任せる。黙り込んでいると己の心音が聞こえて、それがやたらと安心感を招いた。

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