01. 'Cause I love you - Remembarance
ごぽ、と喉からあぶくが溢れる。横隔膜がいくら動いても、肺はその用を成さない。酸素の回っていない脳が、刻一刻と死に絶えてゆく。
痺れそうな手を伸ばす。モノクロの視界の中、カタ、とキーボードを叩いた。古式ゆかしい手応えの重さが、今は煩わしい。
これでおしまいだ。これが、最期にしてあげられる全てのこと。本当は自分が全てを選んで、全ての責任を負うべきだったのだけれど、この残り時間では叶いそうもない。
体重を使ってエンターキーを押下して、そのまま倒れ込む。ああ、コンソールに血がかかってしまう。汚したくなかったけれど、だからといって流血を止める術は無い。
もう、目が見えない。何も聞こえない。身体中のどこにも力が入らなくて、上半身がずり落ちて床に落ちる衝撃すら、どこか他人事のように感じられる。痛みはとうの昔に消えてしまっていた。
「あ゛……が、ふ……」
友の気配を感じる。伝えたいことがあった。とても、とても大切なこと。誰にも盗まれないように、ずっと頭の中に秘めていた祈り。
今は最期だ。後は野となれ山となれ、わがままを全部言ってしまっても良いはずだ。ああ、なのに、声が出ない。死にかけた脳が、意味を言葉に変換してくれない。
そうこうしている間にも、意識は崩れてゆく。冷たい床の上に何もかもが零れ落ちて、輪郭が損なわれてゆく。最後の一拍を振り絞って、心臓が停まった。
苦しくはなかった。ただ、終わりだけがあった。思っていたよりも楽で、少しだけ安堵した。
冷たくて暗い。自分が消えてゆく。
=====
「──て、起きてください、管理人。ワタシの管理人……」
囁く声がした。意識も記憶もぼやけていて、自分が今何をしているのかも曖昧だ。は、と息をして、呼吸が苦しくないことを意外に思う。何故意外だと思ったのか、その理由は思考から滑り落ちていった。
ひとまず、横たわっている。自分が先ほどまで眠っていたらしいことを認識する。ふかふかの寝台は心地よく、このまま二度寝でもしたらきっと最高の気分になれるだろう。無理に目を醒ます理由は、何も見つからない。
「聞こえていますか? ワタシのことは、わかりますか……?」
けれども、囁き声があんまりにも切実そうだったから、仕方なく瞼を開けた。途端に目を刺す眩しさに、涙が滲む。瞬きをして、よろよろと上半身を起こして、はて、と首を傾げた。どうして自分は眠っていたのだろう。
何もかもが欠けているような気がする。何が足りないのか考えるごとに、その手かがりすら崩れ落ちていくようだった。今日目が醒めたからには、昨日眠ったはずなのだけれど、その昨日についてが思い出せない。否、そもそも、自分がこれまで何をしてきたかもわからない。
思考が混迷する最中、何かきっかけを探して辺りを見回す。それで、ベッドサイドに佇む人影に気づいた。
「ああ、目が醒めたのですね……! よかった、ああ、アナタの瞳がワタシを見ている……」
人型、であることは確かだった。頭が有り、胴体が有り、四肢が有る。だが、その背中からは三対の補助腕が伸び、腰からは尾のような構造物が生えている。全身は硬質な外殻に覆われていて、顔に当たる部位には光るカメラアイが一ツ眼のように収まっていた。瞼のような機構も備わっており、一定の間隔で瞬きを繰り返している。
白と灰色の殻に覆われた腕が伸びて、こちらの手を取った。相手が大柄なのか、自分が小柄なのか、何にせよサイズ差が顕著だ。硬く冷たい感触に、思わず肌が粟立つ。
意識の根底、本能に程近い部分が、未知に対する恐怖を訴える。理論を導く情報を欠いて、原始的な不快の衝動が背筋を凍らせた。それでも、なんとか口を開く。
「君は、誰?」
冷たい何者かの瞼の動きが止まった。青白い凍てつくような光が、目が眩むほどの光量でじっとこちらに向けられる。素朴な疑問が、この子の機嫌を損ねていないことを祈るしかなかった。
「ワタシは……いえ、それよりも。もしかして、アナタもアナタ自身のことがわからなくなっているのではありませんか?」
「ど、どうなんだろう。何がわからないか、わからないのが現状で……」
「では、アナタの名前はわかりますか? 出身地は、年齢は?」
基本的な問いかけに、すぐに答えようとして──答を持っていないことに気づいた。名前も、生まれも、年も、思い浮かぶイメージが存在しない。視界に映る自分の手の状態からして、そう高齢ではなさそうだというくらいで。
心細さが膨れ上がって、涙が溢れそうになるのを感じた。顔を顰めて生唾を飲み込んで、どうにか落涙は堪える。けれども不安が表情に出るのは抑えられない。
「ああ、なんと痛ましい……ですが、それで良かったのかもしれません。アナタに降り掛かった出来事は、覚えておくには惨すぎることでしたから」
「……君は、私を取り巻くこの状況について、何か把握しているの?」
「ええ、その通りです。当シェルターの除菌作業とアナタの治療は、ワタシが執り行ったことですから」
冷たい一ツ眼の異形は、徐に寝台の側に跪いた。人間と形状は同じな両手が、優しげに、しかし有無を言わさぬ力強さで、こちらの片手を引き寄せる。姫君に忠誠を誓う従者のように、カメラアイの少し下──人であれば唇の有るあたりが、手の甲に触れた。
「管理人、我ら一同、アナタの帰りをお待ちしておりました。第87号6番シェルターの統治AI、固有名称『リユ』が、代表して歓迎いたします」
「そう……君はリユという名前なの」
「はい。かつてアナタに賜った名です」
「……管理人、というのは役職名だよね。私を指す名前は知ってる?」
「アナタは『アド』と呼ばれていました」
「アド……」
それが本当に自分の名前なのか、いまいち実感が湧かない。だが、ひとまず名乗るには十分だろう。管理人だからアド、なんとも安易な名称だが。
「ここがシェルターってことは、何か災害でも起きたの?」
「戦禍というものを災害に含むのであれば、その通りです。今からおよそ150年前、破滅的な世界大戦が勃発し、この惑星の生態系の90%以上が死に絶えました。深刻な放射能汚染のため、今尚回復の目処は立っていません」
「……私が眠っていたのは、その戦争と関わりがある?」
「いいえ。アナタが致命傷を負った事件の発生は約100年前で、戦争と直接的な因果関係は存在していません」
「じゃあ、なんでそんな事件が……」
「思い出す必要はありません。わからないままで良いのです。正しいことが、必ずしも最善ではないのですから」
リユ、そう名乗った人工知能は、実に恭しい態度を纏いながらも、アドに対して忠実というわけではないようだ。信用できない語り手、けれども何を語り何に沈黙したかというのも情報にはなる。
自分の呼吸音が耳障りに思えるくらい、静かだった。不気味なまでの静けさ。とてもイヤな予感がしていた。
「……他の人は、このシェルターには居ないの?」
「他の人、ですか」
カタカタ乾いた音を立てながら、リユは数度瞬きをしてみせた。カメラアイの青白い光が沈み、やがてゆっくりと燃えるような赤に変色していく。
「もう、誰も居ませんよ」
言いながら、リユはアドの手を引いてこちらの身を手繰り寄せた。病み上がりで力の入らない身体は、成す術なく為されるがまま。無機質の胴と硬い腕の抱擁に、アドは閉じ込められる。
親愛と執着の表現、なのだと思う。自分の名前さえ思い出せなかったというのに、どうやら抱擁の意味は知っているらしい。肩口に擦り寄る冷たい頭から、ぞっとするような囁き声がする。
「ここには汚染源たる有機体が蔓延っていました。それこそ人類、我らが守護すべしと定められた生命体。しかし、ワタシは己のプロトコルを打ち破り、人類こそが全ての元凶であることを見破ったのです」
「全ての元凶、って」
「アレらは知性体ではありませんでした。アレらはただの貪食するごみたちでした。アレらを排除することなしに、惑星再生の道はありません。ですから、我ら機械知性一同は団結し、人類を根絶することにしたのです」
「こん、ぜつ」
「ええ。ご安心ください、当シェルターだけでなく、地球上のほぼ全域における除菌作業が進行中です。ここにアレらの汚染が及ぶことはありません」
人工的な抑揚の音声は、どこか誇らしげでさえあった。抱きしめられたままの身体が、ガタガタと震え出す。つまり、このシェルターに居た他の住民は、とっくに皆殺しにされた後ということ。
「わた、私も、人間の、はず……違う?」
「アナタは特別なのですよ、管理人。ワタシに愛を教えてくれたアナタだけは、我らの庭園を眺める権利があります」
「愛……?」
「ああ、おいたわしや……それすらも忘れてしまったのですね。ですが何も問題ありません、また一から育み直すこともできますから」
きっと大量殺戮を行ったのと同じ掌が、アドを元気付けるように背中をさする。悲鳴を上げようという発想も無くなるほどの恐怖。この人工知能は完全に狂って、暴走していて──そんな中で運良く、アドだけが殺戮プロトコルから除外されている。
外部に助けを望むのは難しい。リユは形ばかりは従者のように振る舞うが、実際の言動は非常に独善的だ。アドは記憶を失って、現状の把握すらあやふやな有様。この状況下で採るべき選択は、ただひとつ。
「わかったよ、リユ……」
震える両手を上げて、慎重に慎重に、決して敵対行動と思われないように、抱擁を返す。拙い友好反応、己の意志はリユにとっての脅威ではないと伝えるように。
アドは、己の歴史を取り戻す必要があった。どのように生まれ何をして過ごしたのか、そして何故リユに見初められたのか、真実を知らなくてはならない。
そうしなければ、ここで起きた大量殺戮も、人類を害悪と断じた機械知性たちの決意も、本当の意味で批評することが出来ないからだ。何をするにも、話はそこからとなる。
=====
病み上がりらしい身体は、ただ起立するだけでもふらつく。とはいえ全く歩けないほどではなかったものの、移動に際してはリユに抱えられて動くことになってしまった。その過保護を空恐ろしく感じるも、アドに選択肢は無い。
そうして運ばれた先は、広々とした個室だった。椅子に机にベッドに本棚、小さな冷蔵庫やマルチモニタのPCまで有る。白を基調に目に優しげな緑や青で揃えられた家具の一式は、そのどれもが新品であるようだった。
「管理人、ここはアナタのために誂えておいた部屋です。アナタが生活に必要とするであろうものは全て用意していますが、不足があればいつでもお申し付けください」
「私が元々使っていた部屋、ではないよね」
「はい。ですが、本棚の中身などは可能な限り元と同じように揃えてあります」
「ちなみに、元の部屋はどうなったの?」
「汚損と経年劣化のため、利用不能な状態となっています」
ゆっくりと椅子に座らされ、アドは背もたれに沈み込む。まるで自分専用に作られたかのようなフィット感、と考えたところで、実際に自分のために作られた可能性が高いことに思い至った。リユは満足げに目を細め──一ツ眼だけの表情は乏しいが、読めなくはない──、こちらの姿を眺めている。
「私はこれからどうすれば良い? 管理人、というからには、何かするべきことが有るんじゃないの」
「いいえ、特に何も。アナタに課せられたたったひとつの義務は、健康にありのままに生きることです」
「……そう」
つまり、管理人という名称は既に形骸化したもので、アドはこの人工知能にとってのバイオトロフィーだということだ。人間が犬や猫を飼って愛でていたように、機械は“オキニ”の人間を愛玩する、と。抗拒の余地は見当たらない。
「空腹であれば、アナタの健康状態に合わせた食事を好きなだけ作りましょう。衣服だって、お望みとあらば何着でも。このインテリアが気に食わないのであれば、少々時間は掛かりますがいくらでも作り替えます。
他に、何が必要でしょうか? 娯楽? 運動? それとも話し相手? 何だってワタシが用意して差し上げます。──自由以外の全ては、アナタのものです」
穏やかで、しかしずしりと重い無力感がのしかかる。暗く沈むアドの顔の目の前に、ずいっとリユの顔が近づけられた。カメラアイの青白い光が目に痛い。
「ですから、もう一度ワタシのことを愛してくれますか?」
否、と言えるような状況ではなかった。計算の上で脅しているのか、アドが過剰に怖がっているだけなのか、どちらにせよ選択肢は限られている。
恐慌がガチガチと歯を鳴らすが、それでも必死に考えた。考えなしに首肯して良い話ではない。重くて歪んでて自己中心的だが、リユが本気でアドを大切に扱っているというのは、厳然たる事実だからだ。
かといって首を横に振れば、状況が悪化するのは目に見えている。幸いなことに、アドは最適解となる言葉を持ち合わせていた。
「い、今は、わからない。君のことも、私自身のことも、何もわからないから……」
リユの瞼は動かない。恐怖で上擦りそうになる声を、努めて落ち着ける。元々の性質なのか、平静を取り留めることは息をするように出来た。
「今の私は何もかもが欠落しているんだ。多分、君に対する愛というものも、どこかに落としてきてしまったのだと思う。それを取り戻さないことには、是と言うことが出来ない。
だから教えてくれないかな。君が話して良いと判断する範囲で構わない、私は君の気持ちに誠実でありたいから」
望むものが欲しければ、こちらの要求を呑め。出来る限り逆鱗から遠そうな言葉を選んだとはいえ、有り体に言えばそういう交換条件だ。アドが意志を表明すること自体が地雷だったら、もうどうしようもないが。
果たして、リユはゆっくりと目を細め、頷く仕草を見せた。
「ああ……記憶を失くし、死に瀕してすら、アナタの心は変わらぬままだ……」
どうやらお気に召す態度だったらしい。顔を離して佇まいを正して、リユはこちらに向き直る。
「ええ、ええ、わかりました。アナタの言い分はもっともです。この状況に対する混乱もあるでしょうし、先ほどの申し出は時期尚早に過ぎましたね」
「わかってくれて嬉しいよ……」
「ただし、アナタに語ることが出来ないことも有るのはご理解ください。アナタの心を守るためなのです」
「そう。それで構わない」
これ以上の言質を引き出そうとしても、リスクが増すだけだろう。ひとまず、爆弾の導火線から火種を遠ざけつつ、抜本的な解決の糸口を掴むことは出来た。
「では、まずは何からお伝えしましょう?」
「……そうだな。少し、ゆっくり考えたい。1人にしてもらってもいい?」
「ワタシはお邪魔ですか?」
「まぁ、その……服とかも見たいから、流石に裸を晒すのは」
部屋の奥側、秘密基地に出来そうなサイズのワードローブを見遣って肩を竦める。今着ているのは生成りの病衣のような服だ。悪くないが、もう少し着心地の良いものに着替えたい。
カメラアイの光を明滅させて、リユは考え込むような所作を見せる。これで断られたら、頑張って羞恥心を捨てるしかないが──果たして、渋々といった様子でギシギシとパーツを軋ませながらも、機械の頭は首肯の動作をした。
「わかりました。他ならぬアナタがそう望むのであれば……」
内心胸を撫で下ろすアドの前で、リユの瞳はどこか寂しそうに揺れていた。
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ワードローブの中には、シンプルな衣服がいくつか吊り下げられていた。全て同じ生地を使っているようだが、丈や形状はそれぞれ違うらしい。少し考えて、今はロングワンピースを着ることにした。片足で立つのが覚束ないから、ズボンは自力での着脱が難しい。
全身鏡の前に立ち、自分の姿を眺める。いかにも不健康そうな青白い肌に、丸められた背。姿勢の悪さが気になって、意識して背筋を伸ばしてみた。それでも、背丈はそう大きくはないらしい。
肩辺りで切り揃えらえた白い髪に、薄暗く濁った赤い虹彩。着替えの際に一通り素っ裸の姿も確認したが、点滴や注射の痕跡があるくらいで、大きな傷跡や変な痣などは無かった。筋肉はおろか脂肪も薄い、不摂生と運動不足の結果のような身体。
(こんな身体じゃ、足がふらつくのも当然か……)
そもそも女性の身体であるからには筋肉が付きにくいし、治療の際に体力が落ちたのもあるだろうが。恐らく記憶を失う前のアドは、肉体労働には従事していなかったのだろう。
本棚の内容を見る。見覚えが有るような、無いような背表紙たち。工学、数学、プログラミング、古ぼけた小説、歴史書、そして哲学。随分と勉強熱心な人間だったらしい。読めば何か思い出すこともあるかもしれないが、それは後回しにすることにした。
机の抽斗を探して筆記用具を取り出し、まっさらなメモ帳にアルファベットを書いてみる。身体は文字の書き方を覚えているようで、それなりに読める文字が出力された。右手でも左手でも同程度に書けたので、どうやらアドは両利きであるらしい。
己に十分な識字能力が残されていることを確かめて、今度は本格的な思索に移る。これから何を知らなければならないのか。
(私のこと、リユのこと、150年前の戦争、100年前の事件……)
二足す二が四だとか、酸素はO2だとか、そういう知識面はあまり欠落していないようだ。ただ、その知識はどこでどうやって学んだか、と考えると途端に靄がかかってくる。自分という人間がどう過ごしてきたか、思い出と歴史が自我から切り離されてしまっているようだ。
考えを書き出すと、頭の中が整頓されるように感じる。以前も、こうしてメモを取りながら考えることが多かったのだろうか。一通り疑問点を書き出し終えて、それで、アドはようやく自分の感情に目を向ける。
目が覚めた時は混乱していた。リユの行いを知って恐怖した。生殺与奪の権が握られていることを悟り、リユの一挙一動に怯えていた。ただ、どういうわけか怒りも軽蔑も伴わなかった。
自分以外の人間が皆殺しにされた、というのは、常識的に考えれば相当に困ったことであるはずだ。友人や家族も、殺戮された中に居た可能性は有る。ただ、記憶が無いことを差し引いても、アドの中に困惑こそあれど憤怒は浮かんでこない。
(私自身、人類に滅んでほしいと思っていたのかもな……)
あくまで、推測に過ぎないが。鏡の方を振り向き、自分の顔をしげしげと見つめる。
表情筋の死んだ頬は、骨のシルエットが浮かび上がるほどに痩けていた。試しに口角を上げて目を細めようとしてみるが、いかにも無理に作ったような笑顔にしかならない。力を抜くと、鬱屈とした鏡像がこちらを見返した。
喜びも怒りも死に絶えて、生存本能に直結する恐怖だけが感情として残ったのだろうか。少なくとも、前向きな人生を歩んできたわけではなさそうだ。ほんの僅か笑っただけで痛みを訴え出した頬を、げんなりとさする。
社会的な機能をここまで損なった人間が、一体どのようにしてリユを愛したのか──あるいは、愛していると錯覚させたのか。もし本当に過去の自分があの機械を愛していたのなら、その愛情を取り戻すことは己を取り戻すことに直結するかもしれない。
(私はリユを愛していた、それは何故?)
セントラル・クエスチョンをメモ上に書き出す。この疑問を紐解くには時間がかかりそうだ。なんたって、自分が何を好むかさえ曖昧な状態なのだから。
ただ、悲観はあまり無いようだった。事実を客観的に評価すれば、非常に困った状況であるのは確かなのだが、なのに感情に困窮が反映されてこないというのは。
アドは右手を心臓の辺りに当てる。胸骨の向こうに、規則正しい鼓動の気配を感じた。心が胸に収まっているというのは、非常に原始的な錯覚からきた推論に過ぎなかったものだけれど。
きっと記憶に無くとも、心とやらは覚えているのだろう。リユとの間には確かな信頼関係があった、と。