4月の雪
今年の春はここ何年かの間では珍しく、この北の地の4月には似つかわしくない暖かさが続いていた。
例年の4月ならば車道の脇や歩道の端っこ、空き地や公園なんかにもまだまだ積もったままで、汚くなって忘れ去られた雪が残っているはず…。
だが今年はそれらの雪はすでに解けてしまっていて見る事は出来ない。
街の中心地を少し外れると雪捨て場なる広い土地があり、そこにはアミューズメントパークにでもありそうな作り物みたいにでっかい雪山が出来上がっている。
…こちらが全て解けるまではまだもう少しかかりそうだ。
本当にこんなの全部解けてなくなるのだろうか…?と毎年心配になるのだが、5月の連休には待ち遠しかった春の訪れを告げる桜の花が咲き、その花とお別れをする頃にはほとんど解けてしまうのがいつもの春の光景だ。
ここ最近の運動不足を痛感して、解消する為に始めたウォーキングの際にそんな春ならではの景色を眺めていた。
今日は平日だが仕事が休みだ。
正直、休みで良かったとホッとしている自分がいる。
…どんな顔をして出勤すればいいのか分からなかった。
もう、とにかく心臓に悪い。
ふと昨日の事がよぎったが、それ以上思い出さないよう頭を振って他の事へと気持ちを切り替える。
せっかくの休みだし最近始めたウォーキングをしながらまた春の景色を探してみようと思っていたのに…。
昨日までの暖かさとは打って変わって今日はとても寒い。
この時期にしては、これまた珍しく雪が降っているのだ。
予報では少し積もるとか何とか。
「まったく寒いのか暖かいのかどっちかにして欲しいもんだわ。気温差で風邪ひいちゃうじゃない…。」
私は小さく呟いた。
誰に言うでもないが、口に出さないように気をつけないとふいに愚痴っぽい言葉が出てきてしまう。
…私の悪い癖だ。
そんなどうにもならない事をぶつくさ言いながら、レースのカーテンを少しずらして外を覗いた。
その寒々しい光景に体がブルっと震える。
最近の暖かさでこのまま暖房はいらなくなるのかな…?なんて思っていたのに、今日になって急に寒くなったもんだからまた部屋を暖めなくてはならなくなった。
一人暮らしのアパートなので大して部屋は広くないが、足元がヒヤッとする気がして暖房の温度を少し上げる。
しかし、ただボタンを押すといういつもしている行動が今日はやけに落ち着かなく違和感がある。
今日はというか、昨日仕事から帰ってきてからずっとソワソワしているのだ。
…きっと昨日私に起きたあの出来事のせいだ。
やっぱりどんなに頭を振っても消えてはくれない。
今思い返しても顔が熱くなるのがわかる。
…何故、こんな事になったのだろうか?
思い出してはニヤけてしまう…私ってこんなだったっけ?
昨夜はその事が頭を埋め尽くして、布団に入ってからも寝るに寝られなかった。
おかげで酷い寝不足だ。
本当に今日が休みで良かった…と改めて思った。
昨日は少し肌寒い日だったがいつも通り出勤して夕方には家へ帰り、ゆっくりお風呂に入る。
そして自分の分のご飯を用意して、ご褒美のビールを飲んで…
そんないつも通りがただ過ぎていくはずだった…。
けれど昨日の私は、仕事が始まって1時間ほど経った辺りで気分が悪くなりその場に座り込んでしまった。
仕事はいつも基本立ちっぱなしで作業をする。
常にベルトコンベアーでゆっくり流れてくる商品を目視により検査するので、座り込んでしまったら不良品が見つけられず仕事にはならない。
その場はすぐ横にいた同僚が代わってくれたので、作業自体は事なきを得た。
助けてもらった同僚に「申し訳ない」と謝りながらその場を離れる。
だが、作業場を出てすぐの廊下でまた動けなくなり座り込んでしまった。
疲れが溜まっていたのか何なのか原因は分からないが、急に吐き気と眩暈がして立っていられなくなってしまったのだ。
そんな私の様子に同僚の佐藤君が気づいてくれて医務室まで連れて行ってくれる事になった。
「…すみません。たいした事ないと思うんですけど。」
「いやいや!立っていられないのにたいした事ないってのは嘘でしょ?ゆっくり休んで下さい。ね?」
体を支えられて一緒に歩いている。
もうしばらく男性に触れることなんてなかったから意味もなくドキドキしている。
これのせいでまた眩暈がしそうだ…。
仕事上敬語を使ってはいるが、私達は同い年なので他の同僚達より多少フランクに世間話をするような仲だ。
普段から昨日のテレビ番組やニュースの話など、休憩時間に他愛もない話をよくしていた。
実は私、彼の優しさに今まで何度も救われてきているのだ。
たぶん好きとかではないし、彼とどうにかなろうという気もないけれど、出勤の日に彼と話が出来ると嬉しくて元気を分けてもらえる気がしていた。
まぁ、勝手に私が思っているだけなので彼には何の事か分からないと思うけれど。
ついこの間もそうだ。
プライベートで色々上手くいかず落ち込んでいたのだけれど、なるべく他の人には気づかれないように普通に振る舞っていた。
なのに佐藤君だけは「今日、元気ないっすね。なんかありました?」と声をかけてくれた。
まぁ、プライベートな事情を職場で話すわけにもいかず「う〜ん」とか「まぁちょっとね…。」などとゴニョゴニョと濁した。
すると佐藤君は少し困ったような笑顔で「何かあれば話だけでも。ね?まぁ、元気出してくださいよ!」と明るく話し、肩をポンッと叩いてくれたのだ。
…私の元旦那にはない優しさだ。
プライベートな事と言うのがコレだ。
半年ほど前に別れた夫から久しぶりに連絡があり、何かと思えばお金の話を延々とされた。
…仕事で困った事になったから金を貸して欲しいという事らしい。
コイツは馬鹿なんだろうか?と呆れて物も言えなかった。
なんでこんな奴と結婚したのか昔の自分に聞きたい。…本当に。
とにかく今はもう全くの赤の他人で私と貴方は関係ないのだから、金輪際こういった連絡はしないで欲しいと伝えて電話を切った。
それが5日ほど前の事。
その日から何となく気持ちが落ち込み、眠れない日が続いていたからそのせいだろうと思い当たった。
「もう大丈夫ですから…。ありがとうございました。」
医務室まで付き添ってもらい、ベッドへと腰掛けた所でお礼を伝えた。
正直、申し訳ない気持ちがいっぱいで出来れば一人にして欲しかった。
上手くいかない時って続くんだよな…。
落ち込んでいた気持ちがさらに落ち込む。
そんな暗い顔を察してか、また佐藤君が声をかけてくれる。
「あれ?また立花さん元気ない。何かあったんでしょう?」
冗談めかしてニヤッと笑う彼。
「そんな事ないです…。大丈夫ですから。」
核心をつかれたようでドキッとしながら、何も気にしてないように答えた。
今の答え方、ぶっきらぼうだったかな…?
と、そんな事を考えていてふと思う。
なんでこの人はいつも私のちょっとした変化に気づくのだろう?
…なんで元旦那はあんな奴だったのだろう。
どうして?
佐藤君がいつも一緒にいてくれたらいいのに。
…いやいや。違う。
そうじゃないでしょ?何を考えてるんだ、私は。
一瞬頭をよぎった考えに自分でも驚いた。
そんな対象で見るなんて失礼にも程がある。
親切にしてもらっておいて、こんな事を考えている自分の浅ましさに頭まで痛くなってくるようだ。
そんな事を考えていたら本当に自然と頭を抱えていたらしい。
「頭、痛い?…大丈夫ですか?」
佐藤君が正面から顔を近づけて覗き込む。
気づいた時には顔が目の前で思わず声を上げる。
「ち、ちょっと…近くないですか?」
いつもより間近で見た彼の顔はなんだか男らしく見えて胸がドキリと跳ねた。
「え?…あ、ごめん。しんどいのかと思って…。あれ?顔赤いですよ?熱ある…?」
彼がそっとおでこに手を当てて、う〜んと唸る。
なんでこういう事をサラッとするのだろうか…。
「あの、お願いですから一人にしてもらえませんか?」
彼の手から逃げるように下を向いて言った。
もうこれ以上は心臓が持たない気がする…。
変な汗が噴き出していた。
「あ、迷惑でした?すみません…。」
ちょっと悲しそうに眉を下げた彼の顔。
その顔…か、可愛いんですけど。
もうこれ以上は無理です。…ごめんなさい。
何故か心の中で誰かに謝っている。
「いえ。そんな事はないんですけど。ありがとう…ございます。」
動揺を隠せず真っ赤になった顔をこれ以上見られたくなくて、前髪を押さえながら下を向いて答えた。
「…立花さんが前髪を触る時って、照れてる時ですよね?」
「え?な、何て…?」
バッと慌てて顔を上げるとバチッと目が合った。
そこには腕を組んで立ち、ニヤッと笑う意地悪な彼の顔。
「だって今、顔真っ赤ですよ?…何に照れたんですかぁ?」
「か、からかわないで下さい!私なんてからかったって面白くないでしょ?」
ちょっとムッとして早口で答えた。
何なの!?これは一体何が起こってるの?
頭が混乱してついていかない。
すると突然、彼は隣にドカッと座り私の顔を再び覗き込んで言った。
「…からかってなんかない。可愛いから構いたいだけだよ?」
真面目な顔で私を見つめる彼を直視出来ない。
「き、急にどうしたんですか!可愛いとか、意味分かんないし!」
慌てふためく私を見て、彼はフフッと笑った。
「そういうとこ!ずっと思ってたんですよ。可愛い人だなぁって。」
彼は優しく微笑みながら、私を変わらず真っ直ぐな目で見つめて言う。
私は、今何を言われているんだろうか…?
自分の心臓の音が大きく響いていて、その音でますます混乱する。
「や、やだなぁ。ホントに。…からかわないでよ。なんで佐藤君が私なんかを?……冗談でしょう?」
もう傷つきたくないの。やめて。
その時何故か…昔、私に向かって冷たく何かを言い放った時の元旦那の顔を思い出した。
アレは何を言われた時だったっけ…?
あ、思い出すの嫌だな。
ってか、なんで今こんな事思い出すんだろ。
次に誰かを信じて裏切られたら、きっと私はもう立ち直れないだろうと思う。
元旦那は暴力こそ振るわなかったが、言葉や態度で私を傷つける人で…。しかもそれを楽しんでいる節があった。
結婚した当初は優しかったのにいつの間にか上下関係が出来上がっていて、私は元旦那に全く逆らえなくなっていた。
毎日じわじわと心を削られていくその環境に耐えられなくなった私は実家へと避難した。
事情を話すと両親は、すぐにでも離婚できるようにとあちこちへ手配をしてくれたのだった。
弁護士を通して離婚して欲しいとアイツに伝えるとやはりすぐには応じなかった。
何を勘違いしていたのか、私を所有物扱いしたらしい…。
担当した弁護士が連絡を取ってくれていたのだが、逃げてきて正解だったと言ってくれた。
典型的なモラハラで、あのまま一緒に居たらDVの被害を受け、暴力を振るわれたりもっと酷い事になっていただろう。と。
何とか弁護士を介して話し合い、2年もかかって去年の暮れにようやく離婚が成立した。
その後は実家の両親に助けられながら、一人での生活を確保出来るようになり今に至る。
ただ、心に負った傷は簡単には治らないものだ。
当時の私は、何となく不満に思う事を誤魔化しながら生活していて、気付かぬうちに我慢する環境と感覚に慣れてしまっていた。
その我慢のせいで逃げ道とタイミングを失ったのだ。
もっと早く逃げていればこんなに傷つく事もなかったのに…。
私はこの一件で自分は価値のある人間じゃないと思い込むようになり、人との深い関わりをなるべく避けていた。
…はぁ。この場から消えてなくなりたい。
ふとそんな考えがよぎり、気づけば自然と涙が溢れてしまっていた。
なんでこんな時に涙なんて。
しんどい事が続いて心が疲弊していたのだろうか?
誰かからの好意を素直に受け取る事も出来なくなっていた事に気づく。
もうこんな自分嫌い…。
溢れる涙を何とか止めようと彼に背中を向けた。
その時…フワッと暖かい腕が私を包んだ。
「なんで泣くの?…俺の事、嫌い?」
耳元で優しく声が響く。
私は「ううん。」と首を横に振る。
なんで今、私は彼に抱きしめられているんだろうか…。
夢でも見てるのかな?
だってこんなのあり得ないでしょ。
「やめよ。ダメだよ。私こんなだし…バツイチだし。佐藤君に迷惑かけたくない。」
腕を振り払おうと身をよじる。
けれど、彼は離してはくれない。
「…やだ。今やめたらもう二度と触れられなくなる。そうでしょ?」
「そうだよ。当たり前じゃない。…こんなのダメだもん。」
嬉しいけど、困る。
自分で言ってまた涙が溢れた。
「じゃあ、顔だけ見せてよ。これで最初で最後。もう終わりにするから。」
こんな泣いてる顔は見せたくない。
でも、このままじゃマズい。
…やだ。好きになっちゃうよ。私に優しくしないで。
こんな顔を見られるのは嫌だけど、覚悟を決めて涙を拭った。
そして、体ごと彼の方に向き直る。
「…顔、見たでしょ?だからもうやめよ?」
俯きながら小さく呟く私の顔を彼は両手で優しく包んだ。
「え?」
次の瞬間。
唇に触れた柔らかく温かい感触。
目を瞑り私に寄せた彼の顔を、驚いた私は目を見開きただ見つめる事しか出来なかった…。
そっと離れる彼が小さく「ごめん。」と呟いた。
私は熱くなった唇に人差し指を当て、呆然として彼を見つめた。
「な、なんで…?」
「好きだから。…決まってんじゃん。それに元気なかったから。」
具合が悪くて医務室に来たのに、なんで告白されてキスされてるの、私。
もう訳がわからない。さっきよりももっと酷い眩暈を起こして倒れてしまいそうだ。
「好きって、どういう…?え?」
「嫌…だった?ごめん。」
「ううん。嫌じゃなかったけど…っていや、そうじゃなくて。」
「ホント?怒ってない?」
首を傾げてこちらを見つめる。
何、この人。可愛い…。
この瞳はズルいって。
いや、だからダメだよ!
「私、バツイチですけど…。」
「知ってます。」
「え?好きってそういう事?」
「好きになるのは俺の自由だと思うけど。」
「いや、そういう事じゃなくて。いきなりキ、キスはマズくないかな…。」
「なんで?可愛かった立花さんが悪いよ。」
「いや、何言ってるの…可愛くなんてないし。ってなんで私が悪いのよ。」
また彼がスッと顔を寄せる。
「もう一回…する?」
顔がボッと赤くなったのがわかった。
無言でブンブン首を横に振る。
慌てる私の顔を見て彼がケラケラと笑う。
「やっぱり立花さんって可愛いし、面白いね。ねぇ、下の名前で呼んでもいい?」
「ダメです!何言ってんの!?」
ちなみに私の下の名前は、"さくら"だ。
「いいじゃん!さくら。…ダメ?」
「ダメだってば!立花さんでお願いします。」
「俺の事も呼んでいいよ?下の名前知ってる?」
「知ってるけど…知らないっ!」
「なんだそれっ!呼んでよ〜!」
ちなみに彼の下の名前は、春哉。
さっきまでの具合の悪さはどこへ行ってしまったのだろうか…。
「も〜!わかったよ。今日はこのくらいで勘弁してあげる。」
そう言いながら春哉は私の頭をポンポンと撫でた。
「具合悪かったんだもんね。ゆっくり休んで?…後でまた様子見に来るよ。」
「こ、来なくて大丈夫!…もう平気だと思うから。」
ドギマギ答える私を見ながらクスッと笑って、春哉は部屋を出て行くのに立ち上がった。
「絶対来るよ。安静にしてないと…またしちゃうよ?」
と彼は悪戯っぽく笑って自分の唇をトントンと指差した。
「し、しなくていい!寝てるから大丈夫!」
そう言った私を見てクスッと笑った後、「じゃあ、後でね。」と手をヒラヒラと振り、春哉は仕事へと戻っていった。
心臓がドクンドクンいってる。
な、なんだったんだ…?
私、職場で何してんの!?
キ、キス…しちゃった。柔らかかったな…。
唇をまた触り、感触を思い出す。
本当に熱が出たのかと思うくらい、体が熱くなっているのがわかる。どうしよう…嬉しい!
いや、ダメだよ。ダメダメ!
頭ではわかってる。わかってるけど…。
…でも、たぶんもう私は彼が好きだ。
というか好きだったんだと思う。
私ってなんて単純なんだろうか。
この気持ちをどう処理したらいいものか、こんな感覚は久しぶりすぎてどうにも出来ず、ベッドに潜り込んだ。
布団を被った真っ暗な空間。
外からの情報を一切遮断して独りになる。
いつもはこの空間が唯一落ち着く場所。
どんな顔して次、彼に会ったらいいのだろうか。
困るけど嬉しい。
嬉しいけど…どうしよう?
頭と心が混乱して収拾がつかない。
ギュッと目を瞑り全ての考えをシャットダウンする。
もう考えるのやめ!
何もなかった。そう、何も…。
起きてしまった事は変えられない。
きっと彼も私の事なんてからかっただけ。
うん、そう。きっとそうだよ。
私なんかを彼が好きになる訳ないじゃない。
そう思い込む事で自分の気持ちに蓋をする。
だって、これ以上は本当に駄目。
こんな事になるなんて思わなかった…。
グルグルと考えが頭を巡るが、布団の暖かさと久しぶりに触れた人の温かさで安心したのだろうか?
寝不足のせいもあり、ウトウトしていつの間にか眠ってしまっていた。
……ん?
誰かいる…?
ふと人の気配を感じて目を覚ます。
ボヤけた視界がハッキリしてくる…。
「おはよ。」
優しい声に心臓がまた跳ねた。
「…え?」
横を見ると春哉がベッドの横に椅子を置いて座ったまま、こちらを見て微笑んでいた。
「な、なんで…?」
寝ぼけたまま私は彼に聞いた。
「なんでって。後で来るよって言ったでしょ?」
「言ってたけど…。」
私は不意にさっきの事を思い出して恥ずかしくなり、寝返りを打って彼に背を向けた。
「起こしちゃったみたいでごめんね。今来たところだよ?寝顔は見たけどね。」
春哉はクスクス笑いながら、さっきと変わらず私の背中に向かって話しかけている。
なんで普通に話してるの?私は無理だよ!
どうしよう…まともに顔が見られない。
「具合どう?少しは良くなった?」
春哉が優しく私の髪を撫でる。
え〜っ!なんで頭撫でてるのよ!
落ち着いたと思った体の熱が再び戻ってきた。
「ねぇ?聞いてる?さくら〜!」
春哉が立ち上がって顔を覗き込んでくる。
とっさに両手で顔を隠した。
「こっち向かないと…襲っちゃうぞ。」
クスッと笑いながら耳元で囁かれる。
あまりの恥ずかしさに耐えきれず、バッと布団を剥いでその場に座る。
「うわ!急に動いたら危ないよ?…大丈夫?」
「…なんで?なんで私なんかに優しくするの?」
彼に背を向けたまま聞いた。
「さっきも言ったけど。俺、さくらの事が好きなの。好きな子が元気なかったら心配だし、元気づけてあげたいって思うのは当たり前だと思うけど?」
「……。」
また頭の中でグルグル色んな考えがごちゃ混ぜになる。
言いたい事はたくさんあるのに言葉にならない。
「あ!それと。私なんかって使うの禁止。俺は今のままのさくらが好きなんだよ?それ聞いたら悲しくなる…。」
体ごと振り返って正面から彼の顔を見た。
眉を八の字に下げて、困った顔をした彼がそこにいた。
見たことのない顔に思わず吹き出してしまった。
「ふふっ。何その顔。」
「やーっと笑った。やっぱ笑顔、可愛いじゃん。」
春哉はホッとしたように私を見て優しく微笑んだ。
春哉は椅子を少しベッドへ近づけて座り直した。
頭をポンポンしてくるんですけど。
…ん?なんか私、子ども扱いされてない?
ちょっとムッとして顔を見上げた。
「ん?なぁに?」
首を傾げてこちらを見返す春哉にまたドキンッと心臓が高鳴る。
目を逸らして、口を尖らせて答える。
「…何でもないです。」
その顔、ズルい。
あざといじゃないか。
流行りのやつですか…あざと男子ってやつですね。
悔しいけど……もう好きです。
でも、絶対に私からは言ってやんないんだから!
「さ、もう大丈夫そうだし、帰ろっか。」
「…あ、はい。お疲れ様でした。」
「……」
「……」
『えっ?』二人の声がハモる。
「え、どういう事…?」
「いや、それは俺の台詞。一緒に帰るでしょ?」
「いやいや。え、なんで?」
「は?なんでってなんで?」
「一人で帰れます!大丈夫ですから。」
「…ダメ。」
「え、なんで?」
「ダメだよ!なんで好きな子が具合悪いのに置いて帰るんだよ。…俺、最低か。」
春哉がムッとした顔で怒って言った。
「いや、そんな事言われても…。」
困惑する私の隣にまた春哉が座る。
「…さくらは俺の事、嫌い?」
顔を覗き込んで私の目を真っ直ぐ見つめる春哉から目を離せなくなる。
「…らいじゃない。」
「ん?聞こえないよ。なぁに?」
「…嫌いじゃない。好き、よ。」
ボソボソと小さな声で言った。
「えっ。今、好きって言った!?」
「…言ってませーん。」
「嘘っ!今好きって言ったじゃんっ!」
もうっ…私からは言わないつもりだったのに。
「…可愛い春哉が悪い。」
これも聞こえない声で言ったつもりだった。
けれど、春哉はパァッと顔を明るく輝かせニコニコして言った。
「ねぇ!今、名前呼んだでしょ!?」
「ううん。呼んでない。」
私は真顔で顔を横に振る。
「うーそーだーっ!!呼んだじゃん!ねぇ、もっかい言ってよ!」
春哉は私の肩を掴んで、揺らしながら言う。
「言いませーん。」
「ねぇねぇ、いいじゃん!春哉って呼んでよ〜!」
私が笑いを堪えながらそっぽを向くと…
「…わかった!もういいよ。さくらなんて知らないもんね。」
いや、駄々っ子かって。可愛いな…。
急にまた横から抱きしめられる。
「呼んでくれるまで離さない。もっかい好きって言ってよ…言わないならキスする。何回でも…」
耳元で甘い声が響く。
春哉の吐息が声に混じって耳に触れる。
耳と背中がソワッとした。
あ〜これはまたダメなやつです…。
「…離してよ。くすぐったいよ。」
離して欲しくて私はまた身をよじる。
「やだ。俺の名前呼んで好きってちゃんと言わないと離してあげない。」
「もう…ワガママだなぁ。」
私は困ったように笑ったが、くすぐったくてフワフワした気持ちだった。
きちんと向き合って春哉の顔を見る。
…つもりだったけど、恥ずかしくてまた前髪を押さえるクセが出た。
ほんの少し上を向いて、チラッと春哉の顔を見た。
真剣な顔をして私の言葉を待っている。
ふぅっと一息ついて今度は真っ直ぐに春哉の目を見て言った。
「し、春哉の事が…好き、です。」
「えへへ〜俺もさくらが好き。」
デレッとニヤけた顔で春哉が言った。
優しくギュッと今度は正面から抱きしめられる。
…春哉の腕の中はあったかいなぁ。安心する。
背中に手を回し、胸に顔を埋めて思う。
意外としっかりした体つきだったのだと知ってドキドキしてしまう。
背丈も同じくらいの私達は、何となく似た体型をしていた。
春哉は男性の割にスラッと細く見えると思っていたけど、やっぱり男の人だ。
それを直に触れて実感してしまったら、ドキドキが止まらなくなる。
「ねぇ?さくらはドキドキ…してる?」
いつもよりずっと声が近い。
「…してるよ。すっごく。」
「俺のドキドキは?…聞こえる?」
そっと胸に耳を当ててみた。
ドクンッドクンッ…
力強い鼓動が少し早く聞こえる。
「春哉もドキドキしてるの…?」
「…してるよ。当たり前じゃん。」
体を離して春哉が私の髪を耳にかける。
「ね、もう一回キス…してもいい?今度は不意打ちじゃなくて、ちゃんと。」
首を傾げて優しくフワッと笑う春哉が、男の人なのになんだか綺麗で見惚れてしまった。
私は無言のまま頷いた。
春哉の顔が近づいてくる。
あ、まつげ長い…お肌綺麗だな。
そんなどうでもいい事を一瞬のうちに考える。
静かにそっと目を閉じた。
またあの温かい柔らかな唇が重なる。
そこだけに集中したつもりはなかったのに、他には何も考えられなくなった。
しんと静まり返る医務室のベッドの上で、二人の吐息と唇を重ねる音だけが何度も響いた。
…息が上手く出来ない。
キスで溺れるなんて表現を何かの小説で読んだ気がするけど、絶対にそんな事ないと思ってた。
私は今、春哉のキスに溺れてる。たぶん…。
フッと体が離れ、スゥッと触れていた所の熱が冷めていくのが分かる。
今までは何ともなかったのに…もう触れてもらえないんだと思うとすごく寂しい。
あぁ。私、この人が好きだ。
もっと触れて欲しい。もっともっと…。
こんなにも欲張りになる自分に驚いた。
「さくら…その顔、ズルい。我慢出来なくなる。」
春哉が真っ赤な顔をして、目を逸らして言った。
私は今、一体どんな顔をしているんだろう…?
「今日は帰ろ?…二人の初めてはまた今度ね。」
ほっぺにチュッとキスして、春哉がベッドから立ち上がった。
春哉のおかげなのか安心してぐっすり眠ったからなのか、体はすっかり軽くなっていた。
ただ、体の芯にくすぶった小さな火はしばらく消えそうになかった…。
帰る身支度を整えて医務室を出ると、すでに日はもう傾き夜の気配がしていた。
他の従業員はみんな帰ってしまっていて私達の足音だけが廊下に響く。
私の荷物を持って、そっと手を繋いだ春哉は嬉しそうに「ちっちゃい手だね。」と微笑んだ。
思っていたよりも少し大きな彼の手に包まれて、ポカポカと私の心も温まった。
私はいつもバスで通勤しているのだが、今日はいつもより帰りが遅くなり時間がズレてしまった。
正直、送ってもらえてありがたい。
朝でこそ風が冷んやりしているなと思っていた程度だったが、日の暮れたこの時間は冬の寒さがまだ顔を出す。
バスの時間まで外で待っていたら、風邪をひいてしまったかもしれない。
駐車場に停めてある春哉の車まで歩く。
「どうぞ〜。一応、昼休みに車ちょっと綺麗にしといたんだよね。」
ドキドキしながら、車に乗り込む。
「お邪魔しまーす。お願いします。」
男の人の車に乗るのなんて…しかも助手席なんて元旦那以外では、ほぼ初めてだから緊張する。
やましい事は何もないはずなのに、なんでこんなにドキドキするんだろう?
そんな緊張している様子を見て春哉が声をかけてくれる。
「大丈夫?そんなに緊張しなくても安全運転で帰るよ!俺、運転は上手い方だと思うけど…。」
「う、うん。大丈夫…です。」
「いや、今さら敬語って!めちゃくちゃ緊張してるじゃん。…じゃあ、はい。」
そう言って春哉が私に手を差し出してきた。
「え?何?」
キョトンとする私の手を掴んで春哉が言う。
「少し緊張が収まるまで手繋いでようよ。ね?」
「え…うん。ありがと。」
「いや、素直だな〜可愛いか!ははっ」
嬉しそうに春哉が笑う。
あ〜この笑顔をずっとそばで見ていたいなぁ。
そう思いながら、繋いだ手にギュッと力を込めた。
無言で春哉もギュッと握り返してくる。
二人で見つめ合い、笑う。
…幸せだな。
「よし。じゃあ、さくらの緊張が少しほぐれた所で出発しますか!大丈夫?」
「うん!お願いします。」
「はい。任せといて〜!」
フワッと優しく笑い、春哉は車を発進させた。
車内では音楽が流れていて私の好きなアーティストの曲だった。
最近CMで使われていてよく聞いているのだが、ロックバンドなのにめちゃくちゃ切ないバラードを歌っていて、いつもバスの中で聴きながら通勤していた。
「あ、この曲。私もいつも聴いてる。」
「そうなの?趣味合うな〜。このバンドいいよね。」
「うん。この曲の前の曲も好き。」
「あ〜わかる!テンション上がるよね〜。俺、ドライブする時によく聴くよ!」
そんな他愛のない話でさえ楽しくてしょうがない。
同じ曲を聴いて同じ感想を言い合う。
よくある当たり前な事なのにこんなに幸せなんだな…。
楽しそうに運転する春哉の横顔を見つめていた。
「なぁに?見惚れてんの〜?…いい男でしょ?」
自分で言ってクスクス笑っている。
「…うん。見惚れてた。」
「え〜?ホントに?」
「ホント。…ごめん。でも、やっぱり好き。」
顔を真っ赤にして春哉は慌てて言った。
「はっ!?急にどした?いや、嬉しいけども!」
耳まで真っ赤になっている春哉を見て私はニヤリと笑ってみせた。
「あーっ!からかったなぁ?何だよもうっ!嬉しいからいいけど!」
「さっきたっくさんドキドキさせられたからお返し!…私、もう素直になるって決めたの。」
「…そっか。良かった!もしかして…俺のおかげ?」
「そ。春哉のおかげ。…私なんかって言ったら悲しいんでしょ?だからなるべく言わないように頑張ってみる。…すぐには無理かもしれないけど。」
「うん。さくらが自分に自信持てるように、俺が好きって言うよ。…これからずっとね。」
ちょうど赤信号で止まったタイミングで春哉が頭を撫でてくれた。
その後は普段と変わらず他愛のない話をしながら、私の家へ向かう。
「もうすぐ着くよ〜!」
「…うん。」
もう着いちゃうんだな…。帰りたくないな。
…え、私なんでこんなに寂しいんだろ?
もっと一緒に居たいなと思うけど、それを素直に言えるような性格ではない。
また職場で会える。次の出勤からはしんどいより楽しみが多くなりそうだな。と考えながら見慣れた景色を窓から眺める。
「ここ、右でいいの?」
「ん?…うん!右に曲がってすぐの左側のアパートだから。」
「オッケー!あ、ここかぁー。」
アパートの前、ハザードランプを付けて車が停まった。
「はい!到着〜!」
「…ありがとうございました。」
少し寂しそうに言った私の顔を春哉が覗き込む。
「…どした?もしかして、寂しくなっちゃった?」
「うん。…なんか、帰りたくない。」
そう言うとフワッと春哉が私を抱き寄せる。
再び包まれた暖かい腕の中でホッとしたけれど、それと同時に泣きたくなる。
こんな複雑な感情が私の中にあった事が不思議で上手く処理し切れない。
「…俺も寂しい。もっと一緒に居たいよ?でも、今日体調悪かったのに無理させちゃったからさ。これから沢山一緒に過ごせるから、今日はおウチで寝ようよ。…ね?」
優しい声で春哉に諭される。
何だか凄く自分がワガママになったようで、急に恥ずかしくなって何も言えなくなってしまった。
思わず口をついて出たのは「ごめんなさい。」だった。
たぶんこれも悪い癖。
直さなきゃいけないのは分かってる。
でも、長い時間をかけて出来てしまった癖や習慣はやっぱり沢山の時間をかけないと直らないんだ。
春哉が悲しそうに私の顔を見る。
「…謝らないで?そんなさくらも俺は好きだから。大丈夫!ちゃんと好きだよ?」
きっと物凄く不安そうな顔をしてたんだろう。
春哉は私の欲しい言葉を欲しい時にくれる人なんだ。と実感した。
…そっか。私、大事にされてる。
素直に気持ちを伝えてもいいんだ。
「ありがとう。」
目に涙を溜めながら、それだけを何とか声に出した。
ギュッと春哉が私を抱きしめる。
「はぁーー!俺、やっぱりさくらが好きだわ〜!これからずっと一緒にいような?」
私もギュッと抱きしめ返す。
「…うん!私も春哉が大好き!」
頭にチュッとキスされた音がした。
こんなのされた事ない。
顔がニヤけて思わず「えへへ。」と声に出ていたらしい。
春哉が慌てて体を離して私の顔を見る。
「あ、ニヤけてる〜!なにそれ可愛いっ!」
「み、見ないでよぅ。恥ずかしいじゃん。」
「ふふふ。」
「ははっ。」
二人で顔を見合わせて笑った。
なんか、色々大丈夫な気がした。
漠然とし過ぎてるけど、この人が居れば大丈夫という安心感。
こういうのを幸せっていうのかも。
「…さぁ、そろそろ行こうかな。寂しいけど。」
春哉がフワッと柔らかく微笑む。
「うん。今日はありがとう。なんか、色々言いたいけど上手くまとまんないや。だから、ありがと。」
頭をポンポンされる。
これ、好きなのかな?…私は嬉しいけど。
「俺もありがとう。彼女になってくれて嬉しいよ。さくらの事、大切にしたいからさ。」
そう言いながら春哉の顔が近づく。
…そっと目を閉じてあの感触を待つ。
チュッという音と共に触れる唇。
体の芯が震える気がした。
きっとこれから何度も重ねていくんだ。と思ったらフワフワした心地になってしまった。
潤んだ目で春哉を見つめる。
クスッと笑い、頬を撫でられた。
「…可愛い。バイバイのキスね。」
「…うん。」
離れがたく後ろ髪を引かれる思いで車を降りる。
春哉が窓を開けて声をかけてくれた。
「ちゃんと休むんだよ?とりあえず家着いたら連絡するから。」
「…分かった。」
「じゃあ、またね!」
「うん。またね!」
手を振り、春哉の車を見送る。
曲がっていく手前でハザードランプがチカチカと光る。
「ん?1.2.3.4.5…5回?あ。アレだ。」
帰りの車内で、春哉が話してた事を思い出した。
昔の歌で、歌詞の中にブレーキランプを点滅させてメッセージを伝えるってのがあるらしいって。
「…アイシテル。のサイン?ふふっ。ありがと。」
そう呟きながら春哉の車を見送り、部屋へ向かう。
私の部屋は2階だ。
ゆっくりと階段を上るが、凄く足が重い。
やっぱり体調は良くなかったみたいだ。
鍵を開けて部屋へ入る。
「…ただいまー。」
急に現実に引き戻された気がして、ズルズルと玄関でへたり込んでしまった。
夢だったんじゃないだろうか…?
ボーッとした頭で今日の出来事を振り返る。
ふいにキスの感覚を思い出して、顔が熱くなるのが分かる。
これはいけない…ずっと頭から離れないやつだ。
頭をブンブン振って、のっそりと立ち上がる。
手を洗い、うがいをして鏡を覗いた。
疲れた顔はしているがほんのり赤くなった頬を見て、今日の出来事が夢じゃなかったんだとまた実感する。
お風呂にお湯を溜める。
その間に着替えを済ませて洗濯機を回した。
いつもの帰ってからの流れ。
なのにどこかソワソワしていて落ち着かない。
コーヒーを淹れてリビングに座り、テレビをつけた。
夕方のニュース番組はとっくに終わり、バラエティ番組が流れる。
「…はぁ。」
自然と出たため息に自分で驚く。
スマホを確認しようと手に取った瞬間に、ブルッと震えた。
慌てて画面を確認すると"佐藤春哉"の文字。
家に着いたらしい。
「…もしもし?」
「あ、もしもし?ただいま!」
「おかえり。」
声を聞くとホッとする。
「体調、どう?やっぱりしんどかったでしょ?」
「…お見通しだね。階段キツかった。」
明るく伝えると春哉は申し訳なさそうに言う。
「やっぱりか…ごめんね。部屋まで送るか迷ったんだよ?でも、送りオオカミになりそうだからやめといた。初めて家に行くのに上がり込む訳にはいかないな…って。」
「別にいいのに。」と言おうとして引っ込めた。
これは彼なりの優しさや気遣いから来るものだと分かったから。
「ありがとう。春哉は優しいね。」
「そんな事ないよ?我慢出来る自信がなかっただけ。」そう言って笑う。
やっぱり大切にしてもらってる。
嬉しいな。
「腹減ったなぁ。今日、晩ご飯何食べるの?」
「ん?何かあるモノで適当にかな?」
「料理するの?」
「一応ね。一人暮らしだから簡単なモノが多いけど。」
「そうなんだ〜!俺も最近始めたんだよ。今度、一緒に何か作ろうね。」
「いいね!作ろ作ろ!」
ピピピ…お風呂の音が鳴る。
「あ、お風呂沸いたみたい。」
「そっか!ゆっくり入っておいで!今日はありがとう。また明日連絡するよ。」
「こちらこそありがとう。また明日ね!じゃあ。」
「うん。またね。」
そっと電話を切り、ふぅっと息を吐く。
顔がニヤけている自分に気づき、頬をパチンッと叩いた。
「さ、お風呂入ろ。」
その夜はやはり眠れる訳もなく。
何度も寝返りを打ってはため息をつき、今日の出来事を一つ一つ思い出してはニヤけてしまっていた。
気づけば外が白々と明るくなってきていて、気になった私はのそのそベッドから出てカーテンの隙間を覗いた。
普段は寝ている時間。
こんなにも空が美しくグラデーションする事を私は知らなかった。
夜から朝に変わる時間、空は曙色と呼ばれる淡い黄赤色になる。
これから一日が始まる希望の色のようで傷ついた心に沁みた…。
でもやっぱり今日が休みで良かった。と心の底から思うのだった。
綺麗な空の色を目に焼き付けて、再びベッドへと潜り込む。
春哉に抱きしめられた時のように体だけでなく心もポカポカになった気がした。
「…おはよ。と、おやすみなさい。」
そう小さく呟いて静かに目を閉じた。
深く深く全身が海の底に沈んでいくように眠りに落ちていく…
きっと目が覚めたらまた色んな感情に振り回されてアタフタするのだろう。
今だけは…今、この瞬間だけは心穏やかに…
気づけば私は寝息を立てて眠りについていた。
私のこれからを彩る素敵な恋の始まりは、4月の雪さえも全て解かす程に熱く突然始まったのだった。