第三十二話 深淵を歩くもの 中編
其れがいつからそこにいたのか、その場にいる誰もが姿を見るまで認識できなかった。
果てまで続く黒の大地の底に、頭を垂らし、怪物は静かに睨めつける。
僅かに開いた口からしゅうしゅうと漏れる吐息が耳に残る。
ぬるい空気が地面を這うと、その場にいた人間達を包み込んだ。
数瞬前まであった肌寒さを忘れ、怪物が創り上げた異様な邪気に、最前線にいた魔導騎士が呑まれる。
「先陣、敵を捉えたまま後退! 第十三から十五、光壁準備!」
部隊の状態に危機感を抱いたリーン・フェイの号令を受けて、最前線にいた第一、第十二組は怪物の動きを備に観察しながら、ゆっくりと後退を試みる。
怪物の生み出す邪気に当てられていない中衛の魔導騎士は、防御の為の魔導を張れるよう、固唾をのみながら待機する。
怪物は動かない。
身じろぎすらない。
怪物にとって、すべてのものは歯牙に懸ける必要もない矮小な存在であると示すように。
だというのに、怪物の死線はどんどんと領域を広げてゆく。
入り込んだが最期、待ち受けるのは絶対なる死。
ユリスはそれを本能で理解していた。
ただ見られているだけだというのに、臓腑をぐしゃぐしゃに掻き分けられているような気持ち悪さ。意識を保たなければすぐさま魂を奪われてしまいそうな程の、命を削る怪物の瞳。
だがそれも少しの変化を迎える。
大地に置かれていた其れの頭がピクリと動き、緩慢な動作で、ぐぐ、ぐと迫り上ってゆく。怪物は、一群に紛れる一人の人間に、興味を抱いた。
ユリス・エドという、小さな存在に──
「風よ……。悠久の時を流るる風よ……。我が呼び掛けに耳を傾け、全てを時の流れの中へと還せ。──水天一碧!」
ユリスを突き動かしたのは、身体中に巡る己自身の魔導であった。ユリスの呼び掛けに応えて風が集まり形を創る。一つが二つになり、次々と影を増やしてゆく。無限に近しい数を目指して。
ユリスの魔導が意思を持ち動き出す。嵐となり、怪物を目指す。
──ガ
怪物が、音を放つ。
「うわああああああああああああ」
ユリスは身体の奥深く、髄のさらに内側へと何かが入り込むのを感じ、次の瞬間、今まで経験した事の無い激痛に襲われる。喉の奥から自然に漏れ出る絶叫。止まぬ痛みに耐えきれず指で胸を掻きむしる。
「ユリス!」
シルバスが異常な様相を見せるユリスを見て歯噛みする。
「ちぃっ、あれの脅威は邪眼と吐き出す言霊だ! 二人とも気を付けろ!」
エミリオ・ワーズワースは練り続けていた魔導を自らの足に集約させると、爆発的な勢いを持って怪物の視界から外れるように壁面を駆ける。
「はぁ、まじですか。やるしかないのかよ」
レイン・フレデリックは腰の剣を抜き、エミリオの忠告を受けて怪物と視線を合わせぬよう自らの瞳を刀身で隠しながらエミリオと逆方向へと走る。
「地生、遍く命を、砂と散らす。迷々砂華」
シルバスは周囲の砂を集め、怪物とユリスの間に吹雪のような砂を撒いて視界を閉ざす。
「く、……水天一碧」
怪物の不可視の攻撃から一時的に開放されたユリスは、顔を苦痛に歪めながら再度魔導を行使する。怪物の視界を塞ぐように、幾重にも。
「魔導剣、展開!」
最も素早いレイン・フレデリックが怪物の懐に到達する。
腰を溜めて膝の反動を使い、一息に剣を振るう。
金色に輝く魔導の剣は、怪物の巨大な前脚を切り裂く。
──グ
半ばまで刃が入った時に、頭上から怪物の言霊が降る。
超至近距離。全身に一気にのしかかる圧力に、レインは地面へと叩きつけられた。
「ぐっ」
「動け!」
地に張り巡らされたシルバスの砂が、レインの身体を怪物から遠ざけるように運ぶ。
一瞬の攻防の刹那、エミリオは怪物との距離を詰める。
手に持つのは雷と暴風と流水を纏った剣。
普通であれば三人の魔導騎士が創り上げる三種の魔導を、エミリオは一人で構築する。
「森羅万象、天蒼雷雨」
──ギ
怪物の放った言霊を受け止めるように、ユリスの魔導の衣が間に入り霧散する。
「尻尾を撒いて、どこかにいきやがれ!」
エミリオが振りおろした剣は、空間を通る毎に周囲の魔導を得て姿を大きくする。
「天叢雲剣」
地に流れる激流が怪物の脚を止める。
暴風が巻き起こり、雷鳴が轟く。
怪物はエミリオの渾身の一撃を受けて、巨大な頭部の右半分を吹き飛ばされた。
──ゴ
「がっ」
視えない衝撃波が、未だその身を中空に残していたエミリオを岩壁まで吹き飛ばす。
怪物はゆっくりと頭部を元の位置に戻すと、エミリオの一撃で損傷した身体を少しずつ修復していった。
「……こいつも再生能力持ちか」
全身に走る痛みに耐えて、エミリオは左腕に手を当てる。
魔導で強化はしているが、衝撃波の直撃受けた腕の内側は見るも無残なほどに粉々になっている。
エミリオは呼吸を整えると魔導を集中させて治癒を試みるが、すぐに復帰するのは難しそうだった。
シルバスが魔導の砂を再度ばら撒き、怪物の目くらましをする。
「エミリオ隊長!」
「本隊は少し下がれたか。隙を見て一度俺たちも体勢を立て直す……」
シルバスもユリス達と合流した、その時。
「ああ、あああ、ああああ、ああああああああああ!!」
激しい雄たけびが耳に飛び込んでくる。
それは淡く光る黄金の髪を持つ男、レイン・フレデリックのものであった。
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次回更新は月曜日夜の予定となります。
『魔導の果てにて、君を待つ 第三十二話 深淵を歩くもの 後編』
乞うご期待!




