第二十六話 ヤン 後編
その幼子には名前がなかった。
産まれてからずっと、自らの親の存在すら知らずにいた幼子。
幼子にはずっと誰かに必要とされたいという想いがあった。
当てもなく彷徨い歩いていた幼子は、ある日、とても穏やかな灯の光に誘われて、とある孤児院へと迷い込む。
グアラドラ孤児院。
そこで初めて見た己以外の存在。
泣き、笑い、喜び、悲しむ。
それは眼が眩むほどの衝撃であった。幼子の内側に生まれたのは涙が溢れ出る程の憧憬。
同じように、泣き、笑い、喜び、悲しむ。
それをすれば、幼子は何かが変わるような気がした。
最初は模倣から始まった。
だけれど幼子にはそれが難しかった。
泣き、笑い、喜び、悲しむ。
泣き、笑い、喜び、悲しむ。
まるで親鳥を見る雛鳥のように。
ひたすらに模倣をする。
泣き、笑い、喜び、悲しむ。
泣き、笑い、喜び、悲しむ。
うまく泣けているのか分からなかった。
うまく笑えているのかも分からなかった。
だけれど幼子は何かを取り戻すように、がむしゃらにその行為を繰り返す。
泣き、笑い、喜び、悲しむ。
泣き、笑い、喜び、悲しむ。
点滅しながら、泣き。
大きく発光し、笑い。
暖かさで包み込むように、喜び。
寒さに震えるように、悲しむ。
何度繰り返しただろう。
何度失敗したのだろう。
それでも幼子は恋焦がれた。
そしてある日、いつものようにその行為を繰り返していた幼子は、声を掛けられる。
「やあ、君はいつもそこにいるんだね。何をやっているのか、僕にも教えてくれないか?」
幼子にとって孤児院に来てから誰かに話し掛けられるのは、初めての事であった。
「名前はなんていうの? え、名前がない? それじゃあちょっと不便だね。うーん……じゃあ、アムリアの古い言葉なんだけど、明星ってのはどうだい? 君はきらきらしてて、とても奇麗だから、素敵だと思うんだ」
* * *
空の階段を歩く。
足元には踏みつける物質も何もありはしないのに、ふわふわともせずそこには確かな感触があった。最初はおっかなびっくりであったオーリンも、一歩ずつ歩を進めていく内に慣れてゆく。
オーリンにはこれがどんな理屈でこうなっているのかは分からない。だけれども、前を歩くヤンの淀みのない足取りを見ながら、遥か天空から空の階段を通り、大地へと下りてゆく。
向かっている先に見えたのは、オーリンの記憶にも新しい場所であった。
赤煉瓦の外壁に、様々な花に彩られた館、グアラドラ孤児院。オーリンの記憶に残るものと少しだけ違うのは、その場所の表にある庭園にあった。そこはオーリンが見た孤児院には存在していなかった、ぽつりとした空間。
やっとの事で目的の場所に辿り着いたという不思議な感覚に包まれながら、オーリンは庭園の前で立ち止まったままでいるヤンの背中を見る。
「やあ。今日はとても良い香りの紅茶が用意出来たんだ。さっそくだけれど、ティータイムにしよう」
そこに居たのは黒髪の少年。記憶にも新しい魔導王レフその人が、ヤンとオーリン、二人の目の前にいた。レフは一つの卓に着き、その四方に用意された四脚の椅子の内の一つに座ってこちらを見ている。何かいたずらでも考えてそうな、少年特有の微笑みを見せながら。
「こうして会ってみるとなんだか不思議だね。ずっと、夢の中で見ていたから。この気持ちは……うん、懐かしいというのが近いのだろうか」
「レフ兄……」
オーリンの位置からはヤンの背中しか見えなかったが、ヤンの口から零れ出た言葉から察せられるのは、幾重にも重なる万感の思い。喜び、悲しみ、寂しさ。一体どんな感情をヤンは抱いているのであろうか。
オーリンは、それでも何かを言わねばと思い、レフに呼びかける。
「魔導王レフ……俺を導いてくれたのはあなたか?」
「ふふっ。見れば見る程グラムにそっくりだ。オーリン。君を導いたのは、君の事を今も心配そうに見守っている、僕らの隣人さ」
「隣人……?」
「話をする前に、紅茶の準備が出来たようだ。ヤンもオーリンも座っておくれ」
「あら、もしかしてヤン? それにグラム……ではないみたいね。あなたはオーリン?」
透き通った声が響く。オーリンはその声の主も見覚えがあった。
「っ、サアラ姉!」
「あらあら、ヤンは大きくなっても泣き虫さんね」
ヤンは声を聞いて息を吞み、身を震わせる。
サアラはそんなヤンの姿を見て、そっと近づきやさしくヤンの頭を撫でる。そして、ゆっくりと椅子へと座らせる。
「ヤン、大丈夫よ。私たちはここにいる」
「サアラ姉……」
ヤンは落ち着きを取り戻したのか、それでも神妙な顔を見せる。
「聖女サアラ・フォンも……ここにいたのか」
淡い緑の髪と、透き通るような瞳。オーリンはここに魔導王が居る事はうっすらと理解していた。だけれども聖女までもがいるとは思ってもみなかった。そして眼の前にいる二人の姿はオーリンに違和感を与えた。
「それに、年齢がグラムの記憶のままで止まっている?」
「あぁ、魔導門の中では、時間が色んな方向に向かって進んでいるのさ。その中でもこの孤児院のある場所は丁度時の狭間にあって、時間が流れるのがとても遅いんだ」
「時間の流れが遅い……想像がつかないな」
「ふふ。ここでは私の未来視の力も働かないの。レフの魔導の力が大きいのだけど、大災害の悪夢を見ないのは本当に助かっているのよ」
「二人はずっとここで、大災害に対抗する為に魔導を満たしていたのか?」
「うん……そうだね。補足をするとすれば、全ては常闇の王を封印する為にも、必要な事だったんだ」
「常闇の王を封印? かの存在は疾うの昔に死んだはずじゃあ?」
「そこからは我が話そう。臆病者で弱虫の我が、レフ兄やサアラ姉達をこの場所に留める要因にもなっているのであるから……」
「ヤン……」
レフが心配そうにヤンを見ている。
サアラも同じようにヤンを見ていた。
心配そうに、見守る様に。
「ヤン導師、どういうことだ?」
「……それは、大国ギリエラとの戦の話まで遡るのである」
滔々と語り始めるヤン。
言葉の端は震えてはいるが、しっかりと二の句を続けてゆく。
* * *
「神剣に選ばれしルード帝国の第十代皇帝、ノール・ヴァン・ミドナの力を借りて、我らは常闇の国と呼ばれし大国ギリエラとの戦を進めていた。グラム王国の根幹となる、強き者達が集まっていたのも大きかったが、それを後押しするように、魔導の力は強国であるギリエラの侵攻を押し留めるのに大いに役立っていた。それでも、多くの国を併呑したギリエラの資源の力は大きく、戦いには長い時が必要になった」
「ギリエラとは、それほどの存在なのか」
「正真正銘の化物国家であったよ、あの国は。しかし真に恐ろしいのは、常闇の騎士以上の力を、一国の王が持っていたという所にある。無慈悲な王グィルデ。かの王の振る舞いの全てが恐怖でしかなかった。勢力を拡大し天下統一を目前としていたギリエラであったが、敵を多く作りすぎたせいで、ゆっくりと自滅への道を辿ってゆくこととなる」
「常闇の終焉……」
「……ギリエラという大国は滅びる。しかし、王の存在こそが、ギリエラを大国たらしめる大きな意味をもっておったのだ。対峙するまで我らの誰一人として気付くことが出来なかった。人を超えし超人グィルデ王。かの存在は、人の中にある強者が束になろうとも、止めることのできるものではなかった。其れは既に大災害に等しいものであった」
「超人だと? 何だ、それは」
「グィルデ王は、元々高名な魔術師であった。そしてその魔術により、死をも超越した存在となる。グィルデ王は、我らと対峙した時には既に不滅なる存在であったのだ」
「一人の人間が不滅の存在となるだなんて、そんな馬鹿な……」
「そんな馬鹿なものが実在したのである。グィルデ王を倒す為、グラムが、エイリークが、エドが、レフ兄が。そして皇帝ノールと、放浪の神ナーダ。最後に我も含めた全員で、決戦を行う事になる」
「最終決戦……まさか」
「うむ……そこでグラムは皆を守る為に死んだ。不滅と知れたグィルデ王を封じる為、レフ兄は魔導門の奥深く、時の回廊へとグィルデ王の魂を封じ込めることとなる。そして、グィルデ王の不滅の肉体は、今も帝国にあるノール砦の遥か地中で魂が戻るのを待ち侘びながら眠っているのである」
「じゃあレフとサアラがここにいる理由とは、それをずっと見守る為でもあるのか……」
「ここは意外に居心地がいいんだ。サアラには悪いことをしたけどね」
「あら、私も嫌いじゃないわよ、レフといると心が安らぐもの」
「だが、何もかも、全ては我がやれた事なのだ。……我が、我こそがやるべきだった」
「ヤン導師……それは」
「ヤン、君は勘違いをしているよ」
レフの真剣な眼差しが、ヤンをとらえる。
「レフ……兄」
「僕は君のお兄ちゃんだからね。弟にそんな無茶をやらせる気はそもそもないし、それに、グィルデは遅かれ早かれどうにかしないといけなかったんだ。だけれど五百年前、グィルデを唯一倒せる可能性のあったグラムが死んで、僕たちは長い時を待つことになった。グラムの魂は魔導となり世界に溶けて、理不尽を打ち壊そうと今でも戦っている。ヤン、君も一緒に戦ってきた。僕たちは後ろ向きではなく、未来を生きる為に今を過ごしているんだ」
「未来を生きる為に」
「そうだよヤン。ヤンの名前は僕が付けた。教えたろう? その名は天に輝く星を意味する。君は導となって、多くの子供たちをその輝きで導いた。君が生きてきたこれまでの道は、とても素晴らしいものであったろう? それが答えさ」
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次回更新は木曜日夜の予定となります。
『魔導の果てにて、君を待つ 第二十七話』
乞うご期待!




