第二十三話 グアラドラ 前編
そよそよと吹く風が、見渡す限り一面に広がる草原を揺らす。
カナン山を越えて辿り着いたグアラドラの大地は、彼方まで続く碧色の世界であった。
遮るものもなく、遠い地平線を抜けるように空の青と大地の緑が交わる世界。草むらには野生の鹿が悠然と闊歩し、子鹿がその後を着いていく様子が見えた。
空に目を向ければ、色鮮やかな鳥が飛翔している。
視線を近付ければ、蝶や昆虫達も小さいながらに生の営みを見せている。
この草原を越えた先には海があるのだろうか、時折混ざる潮の香りが、オーリンの鼻孔を微かにくすぐった。
「別世界に入り込んでしまった」という言葉が、オーリンの脳裏に浮かぶ。
わけもわからず心は高揚している。得も言われぬ不思議な感覚に陥りながらも、オーリンはその光景を瞳に収めていく。
皆はこの景色を見て、一体どんな感情を覚えているのだろう。ふとそんなことが気になって、オーリンは背後を振り返る。
そして気付く。ついてきていたはずのマシュー達の姿が見えなくなっていることに。
「……マシュー? ……クイン導師?」
どこかで経験したことのあるような、ふわふわとした感覚がオーリンを包む。
「待っていたのである。オーリン」
唐突に名を呼ばれた。
声のする方へオーリンが振り返ると、そこにいたのはオーリンにとって、とても懐かしい人物であった。
「……ヤン導師?」
それはかつて、大いなる魔導を用いてオーリンの道を切り拓いてくれた存在。
「オーリン……ここより先は最果ての地、グアラドラ。全ての始まりの大地」
言葉を発しながらも、どこか寂しそうにしているヤン導師の姿がオーリンの印象に残る。オーリンの記憶の中にある彼は、もっと自信満々で、常に泰然としていた存在であったはずだ。
だが目の前の彼からは、当時のような感覚が薄れている。姿形は同じであるし、発せられる音もヤン導師のそれだという記憶が残っているのに。
オーリン自身の記憶が曖昧になってきているのかもしれない。オーリンはボンヤリとしている頭を振ると、ヤン導師の言葉の意味に注目し直す。
「……始まりの大地?」
『──オーリン。我は魔導門の中で待っているのである』
オーリンがその疑問を口に出した瞬間にはもう、ヤン導師はオーリンに背を向けていた。それに伴い少しずつ声が遠のいていく。何かを言っていることは聞き取れた。だけれども、意味までは理解出来なかった。
オーリンとしてはヤン導師にはまだ聞きたいことが山ほどある。オーリンのその心を写すように、必死に手が伸びる。
それでも、水中にいるような緩慢なオーリンの指先は、どんなに急ごうとも遠ざかるヤン導師の背を掴む事はできなかった。そして──
「──オーリン」
誰かの呼ぶ声。
「オーリン」
聞いたことのある声で、
「オーリン!」
名を呼ばれる。
朧気な所から景色が少しずつ鮮明になる。
オーリンの目の前に広がるのは、最初と変わらぬ景色であった。
グアラドラの大地、その入り口。
碧色の世界。
強く肩を揺すられている。
それに気付くと同時に、オーリンは目の前にいる人物にも気付く。それは真剣な眼差しのクインであった。
「クイン……?」
「オーリン、良かった」
ほっとした表情は、焦燥を隠すように即座に正されてゆく。
「兄貴、大丈夫なのか?」
心配そうなマシューの顔も見える。その隣にいるシュザ導師の様子は、仮面以外の部分を手で隠しているせいか、オーリンのいる場所からは見ることができなかった。
「あぁ、大丈夫、……だと思う。だけれども、行かないといけない場所が分かった気がする」
草を掻き分ける音。
耳を傾けた先には、遠くからこちらに向かって草原を歩く、白衣に身を包む人物が見えた。
「あ、ナーニャ姉様……」
クインの言葉を横で聞きながら、オーリンはその姿を見る。
人であるというのに、まるで景色のようにも見える。それは長い年月を経て得られる、自然と調和した姿。クインより少し歳上であろうナーニャと呼ばれしその女性は、オーリン達の目の前にまでくると、ごく自然に柔らかな微笑みを見せる。
「グアラドラへようこそ。そしておかえりなさい、オーリン」
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次回更新は来週月曜日夜の予定となります。
『魔導の果てにて、君を待つ 第二十三話 グアラドラ 中編』
乞うご期待!




