第二十話 王都炎上 中編
『それがたとえ千年であろうと、二千年であろうと、君が戻るまでここを守り続けるよ』
エイリーク・フィテスが遺したその言葉は、旅をする決断をした親友に向けた、餞の言葉であった。
輝かしいところばかりが取り沙汰される英雄譚の裏側には、寂寞たる心の揺らぎと、そこに込められた万感の想いがあった。永久に紡がれゆく時を経て、確かに繋がっている現在を見た時に、彼等は一体何を思うのであろうか。
最近のシイナは、そんな事を考える時間が多くなっていた。
シイナ・フィテスには兄がいた。明るくて、自信家で、たまに皮肉っぽい事も言うけれど、とても力強く優しい兄がいた。兄を一番近い場所で見ながら育ったシイナが抱いていた感情は、尊敬というものが大きかったのだろう。だけれどシイナはいつの頃からか気付いていた。兄に対してのシイナの感情が、それだけではないのだと。
何でも出来る兄と比較して、何者にもなれていない自分を知る毎日。理想と現実との乖離に耐えきれず、自己表現の発露の仕方も未熟なシイナは、感情を爆発させることもあった。それが嫉妬という感情であるということに気が付いたのは、シイナがもう少し大人になってからだった。
複雑な感情を処理しきれないままに幼少期を過ごしていたシイナ。そんな中、フィテスにとって衝撃的な出来事が起こる。
フィテス家の当主であり、シイナの父親であるクロードの死。それが周囲に与えた影響は、シイナが思うよりも甚大なものであった。
クロードが帰ってこなかったあの日、ユーリは気丈に振る舞っていた。だけれどその姿は、シイナが目を離した瞬間に、すっと消えてしまいそうな儚さを感じさせた。幼いシイナは怖くて、弟のマークと一緒にずっとユーリの手を掴んでいた記憶がある。
まだ小さかったシイナは、父親が亡くなったという実感が薄かった。だけれど、いつも兄の姿を見ていたシイナは、皆が思うよりも不安は少なかった。現実を理解できていないというのも大きいのであろうが、何よりも兄の存在が、シイナの中ではとても大きなものであったからだ。
だが、純粋なシイナの思いは打ち砕かれる。
ある日シイナは、人知れず父の書房にいた兄が、泣いている姿を見た。嗚咽を上げ、髪を振り乱しながら慟哭している姿を。時が来れば、勇者や英雄と並び立つであろう兄をもってしても、自分と同じように涙を流している。その姿はシイナとなんら変わることはなかった。
兄が少しだけ寡黙になったのはその後からだった。シイナが話し掛けても、優しげに笑うだけで、言葉も少なくなり何を考えているのか分からなくなった。
その頃を思い返してみると、シイナは兄の笑い声を聞くことすらなくなっていたような気がする。兄妹としての接し方も、肉親としての付き合い方も、近すぎるがゆえに何もかもがぎこちなくなってしまった。
アルバート叔父様の薦めで、兄が長期の演習に身を置くという話を聞いた時、シイナは少しほっとした。でもそれと同時に悲しくもなった。そんな感情が自分の中に眠っていただなんて、気付きたくはなかった。
兄からはよく手紙が届いた。
それらは全て、シイナやマーク、ユーリを心配するような事であった。こっちは大丈夫だと言いたかったが、フィテスの長子としての責任感もそこにはあったのだろうか。次第にシイナの取る筆は重くなる。一体何を書けばいいのか。一体何をしてあげればいいのか。もう何もかもが霧の中だ。
兄が家を出て半年ぐらいが過ぎた頃、手紙の内容が少し変わった事にシイナは気付く。
手紙の中に出てくるのは、オーリンと言う名の、ひとりの変わった人物の話であった。
武者修行の旅に出ている途中、立ち寄ったグラム王国の演習に興味を持ったらしいその人物は、軍に直に掛け合っていきなりその演習に合流したという。しかも自らの力を見せつけて、とてつもなく強引に。
話を聞いただけでも、その人物はちょっと普通ではなくて、シイナは兄が心配になった。それでもオーリンという人物の事を語る兄の文は楽しげであった。
兄は剣技に関して、卓越した技術と才能を持っている。
英雄エイリークの再来とも呼ばれたクロードの直々の指南を受けているのだから、兄が強いのは当然の事だとシイナは思っていた。だが兄は、兄のその剣を持ってしても、オーリンという人物に勝てないと言う。
最初は冗談なのだと思っていたシイナであったが、続いて届く手紙にも、何度やっても勝てないと書いてあった。そして兄としては、それがとても楽しいのだとも。
その時、シイナは兄の苦悩が何であるのか理解した。それはシイナが、兄を見ていた時に感じていたものと同じだったからだ。
嫉妬と、紙一重の位置にあるのは、憧れ。
絶対なる壁であるクロードがいなくなって、兄はたぶん、追い掛ける目標とするもの、目指すべき標を見失ったのだ。その気付きは、シイナの懊悩にも光をみせる。
シイナは兄が帰ってきたら、言いたい事が出来た。
* * *
「だけれど、それはもうできないのかもしれない」
シイナは自らの内を流れる感情より溢れ出た言葉を、消えそうなくらい小さな声で呟いてみる。
兄の手紙が途絶えてから、もう一年以上経つ。
大災害の齎した混乱の際に、兄は行方不明になってしまった。
母であるユーリは、兄の生存を信じているようだが、便りのない心細さはシイナの希望を少しずつ奪っていく。
昨日は帰ってこなかった。
今日もきっと帰ってこないのだろう。
じゃあ明日は……。
今、どこで何をしているのか。
シイナは、兄と話がしたくて仕方がなかった。
「兄様……」
シイナ・フィテスは今、多くの人間を連れて一つの建物に隠れていた。息を潜め、グラム王都を破壊しようとする悪意からその身を隠すために。咄嗟の判断ではあったが、行動は迅速に行えた。
暗がりに無数の息が潜む。シイナの視線の先には、怯えている無数の目が物音一つに敏感になっている。この場所に隠れているすべてが、戦うことの出来ない、力を持たぬものたちであった。
たった一人、フィテスであるシイナを除いて。
「……それがたとえ千年であろうと、二千年であろうと。君が戻るまでここを──」
エイリークが魔導王に向けて贈った覚悟の言葉は、シイナにはまだとても重く感じられた。
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次回更新は来週月曜日夜の予定となります。
『魔導の果てにて、君を待つ 第二十話 王都炎上 後編』
乞うご期待!




