第十六話 月影に泣く 後編
身体の自由が効かない。
ハラルハルラの瞳の奥底に、怪しげに揺らめく光芒。それが何らかの働きかけをして、オーリンの身体から自由を奪っている。そうオーリンは確信を得る。
深く息を吸うと、オーリンは思い出す──
『人というものは皆、魂魄というものを宿しておる。魂魄とは、自我を形成しておる思念たる魂と、魂を留める器たる魄というもの分かれておってな。それらは互いに影響しあい、干渉しあってはじめて形を維持しておるのさ。理屈としてはそう難しい事ではない。だが、単純であればあるほどに、それ自体が身体に大きな影響を与えやすい。理を知らねば、対処の出来ぬ技よ。そしてそれは、逆もまた然りということ』
それはいつか聞いたシュザ導師の言葉。
シュザ導師に不思議な技で眠らされたオーリンは、気になってその技の原理を聞いた事がある。
導師曰く、魂魄の内の、自我である魂に作用して意識を眠らせたという。いうなれば現在の状態はその真逆。ハラルハルラの力によって強制的な干渉を受け、魂魄の内の魄を切り離された状態にある。
オーリンは目を瞑り、さらに意識を集中させる。
動かぬ魄を無視して、内側にある魂を操る。身体の隅々を葉脈のように巡っている力の流れ。それが不自然に途切れている場所。その奥深くへと、魂を動かしていく。
ゆっくりと、ゆっくりと。
意識の底に、沈んでいくように。
* * *
「──やぁ、また会えたね」
そこは真っ白な世界であった。
一瞬前まで対峙していたハラルハルラの姿は影も形もなく、いつ迷い込んだのかも分からぬままに、オーリンはその場所にいた。
色のないその場所では、己の存在を認識する事が難しかった。そんな中でオーリンは、いつか聞いたことのある声を聞く。
「どうしたんだい、そんな顔をして。困ったことでも起きたのかな?」
オーリンに問いかけてくる存在。それは、真っ白な中でも色を持ち、微笑みを絶やさぬ少年であった。
優しげな瞳がオーリンを見つめる。時の流れすらも忘れて、ただその場所を揺蕩いながら、オーリンは心地良い空間を泳ぐ。
──魔導王?
「世間ではそう言われているみたいだね。全てが全て、僕の力ではないのだけど、みんながそれを喜ぶから、そのままにしているんだ」
──みんな?
「そうさ。君にも感じ取れるだろう?」
──感じ取る……。
「構える必要はない。臆病になる必要もない」
目の前の少年は、オーリンを見続ける。
「それは、君の中に芽吹いているものを、育くむ水のように」
オーリンの存在を象る枠が、次第に変化していく。
「それは、目で見る必要のないものであり」
色が無数に現れては、消え去る。
「それは、音も形もなく──」
見えないけれど、温かいものに触れる。
「誰にでも感じる事の出来る、確かにそこにあるもの」
──そこにあるもの?
「──僕はそれを、魔導と呼ぶ」
魔導──
「全てのものが育んでいる、自立のための力さ」
真っ白な空間が消失すると、急激に視界が晴れる。オーリンが目を開いた先には、ハラルハルラが未だに歪な笑い声を繰り返していた。
オーリンは目を落とすと、拳を握る。
「──いけるのか」
オーリンは、己の魂魄を取り戻す。
心も身体も、オーリンの元へと還ってきた。
「ん? ……何をした」
ハラルハルラの笑い声が止まる。
「全て返してもらった」
地面に寝ているガルムを一瞥すると、オーリンは槍のある場所へと歩き出す。近くにいた小型の緑青鬼がそれを見てオーリンへと迫るが、流れるように繰り出されたオーリンの掌打が顎を捉えると、緑青鬼を一撃で昏倒させる。
身体が軽い。指を握りしめると、今まで以上の力が溢れているのを感じる。身体の内側で渦巻く、大いなる力の奔流。
「悪いが魂はやれん。これは俺のものだ」
槍を取り、構えると、オーリンはハラルハルラに再度眼を向ける。
オーリンはそこでさらに気付く。ハラルハルラを包み込む禍々しい気が可視化して見える事に。邪なる力を伝えるように、幾重にも連なる糸が周囲にいる緑青鬼達へと繋がっている。
ハラルハルラの瞳が鈍く光ると、その内の一本がオーリンへと伸びた。
──ブンッ
オーリンは槍を回転させ、向かって来た糸を両断する。
力が頭の天辺から足に至るまで、ひいては槍の先にまで循環している。魔導が作用し、魂と魄を強固に保護している。オーリンの視線がハラルハルラといくら交わろうとも、もう魂魄を奪われることはなかった。
「はははははははははは、人間風情が、調子に乗る」
* * *
周囲には無数の魔物がいた。
巨大な緑青鬼の力はその中でも強力なのであろうが、今のオーリンはそれらに驚異を感じなかった。
「ほんの少し魔導の恩恵を受けたからといって、我とやれると思っているのか? 君はとても面白いなぁ」
どす黒い混沌の力がハラルハルラを包み込み、黒衣を不気味に揺らす。闇が迫る時の中で力がどんどん増幅していく。ハラルハルラの混沌の糸が赤黒く明滅すると、魔物達へと指示を出す。
──バリンッ
甲高い、何かが割れるような音。
「炎?」
薄暗い闇に包まれている空間に、無数の炎が見える。燃えるような赤が闇の住処を追い払う。
「ここが目的地かぁ?」
間延びした声がする。
「スウェイン殿、確かに目的のものはここにいるようだ。助かりました」
オーリンが炎の先に見たのは、松明を持ち、辺りを照らす白髪の大男と、武装した集団であった。
「……どうやって入ってきた」
男達を見て、ハラルハルラの声が一段と低くなる。
「ああん? 知らねぇよ。何だこいつは」
スウェインは、目の前にいる痩せた細った黒衣の男、ハラルハルラにぞんざいな言葉を吐き捨てる。
そんなスウェインの言葉の脇から、一つの影が飛び出す。
「ガルム!」
ハサンが倒れているガルムを見て声を上げる。
「待て、ハサン」
ガルムの元まで走ろうとしたハサンを静止したのは、スウェインと最初に話をしていた人物であった。背筋はピンと真っ直ぐではあるが、齢としてはかなり高齢でありそうな老人。老人は年齢に似合わぬ大柄な鎧を身に纏い、剣を提げている。
「ヴァル村長……」
不安げな表情のまま、ハサンは老人に目を向ける。
「まだ生きておる。大丈夫じゃ」
「しかしなんだ、骨のあるやつも居るみたいだが、残りは化物ばっかりじゃねーか。ヴァル! 本当にお前たち行けるのか?」
オーリンを見たあとに、顎で緑青鬼の群れを指すスウェイン。
「なに、大丈夫ですじゃ。老いたとはいえ、我らとてヤマツミの戦士。まぁ、ご先祖に剣を向けるのは、これで最後にしたいものですがな」
ヴァルは腰の剣を手慣れたように軽く引き抜く。ヴァルが引き連れていた集団も皆剣を抜き、魔物へとその切っ先を向ける。
「──そうか。そういうことか。忌々しい。魔導が優勢になっているせいで、混沌の力が弱くなっているのか。羽虫共が……」
「あー、槍の兄ちゃん、いけるかぁ?」
スウェインはハラルハルラに向けて、背の長大剣を引き抜きながら、オーリンへと語り掛ける。
「オーリンだ。いざ、尋常に──」
「ははっ、スウェインだ! 推して参るぜぇっ!」
大地が鳴動し、雄々しい声が木霊する。
鬨の声が上がり、今、カナン山の戦いが幕を切る。
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次回更新は木曜日夜の予定となります。
『魔導の果てにて、君を待つ 第十七話 その先にあるもの』
乞うご期待!




