第十六話 月影に泣く 中編
満面の笑みでそこに立っていたのは、地を這うほど長い黒衣を身に纏った、長身痩躯の男であった。
背は尋常ではないほどに高く、黒衣の裾から覗く腕は、枯れ木のように痩せ細っている。開かれている口から漏れ出る笑い声が、男の得体の知れなさをより強く印象付ける。
細い切れ長の眼は、爬虫類のような瞳の輝きを放ちながら、オーリンを舐め回すように見ていた。
そして何よりも異常なのは、目の前に確かに存在しているその男を、オーリンが上手く認識出来ていないということであった。
それは、顔を見ても少し経てば忘れそうな程に朧げで、白昼夢といわれれば納得してしまうくらいに、存在が希薄であった。
「いやあ失敬、驚かせてしまったかな?」
「あんた、人間なのか?」
「はははははははははは。とても面白い事を言う」
男は細い腕を眼の前で叩きながら、大きく開いた口から一際高い笑い声を漏らす。
「我を定義するのならば、そうだな。混沌の大魔ハラルハルラと言うのが正しい」
「混沌の大魔……だと?」
「その通り。だがその顔を見るに疑問は尽きぬかね? そうだろうそうだろう。しかし時間は有限だ。物は相談なのだが、悩むのは後にして、君のその美しい魂を我にくれないか? 同意してもらえると助かる。実に助かるのだが」
ハラルハルラと名乗った男の眼が、怪しく光りながら、オーリンの眼と交差する。
発せられる度に耳に残る粘着質な声。
それは正しく言葉を理解させぬ、不快な音色のように。
「まさか、大災害の魔物……」
「はははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」
オーリンの言葉に被せるように笑い声が木霊する。甲高い笑い声が波のように押し寄せると、急激に周囲の温度が下がってゆく。
オーリンの言葉を聞いて、ハラルハルラという名の男は、眼を見開きながら笑い続ける。耳鳴りがするほどに続く笑い。オーリンはその声の不快さに耳を塞ごうとするが、繰り返される笑いは何もかもすり抜けて鼓膜を揺さぶり続ける。
しばらくして、笑い声が止まる。オーリンの耳奥には、ハラルハルラの笑い声がこびりいて離れない。
「懇切丁寧に聖女が予言した大災害。あれは実に良かった。我が大望の手助けとなる、善き標であった。我は大災害そのものとは無関係であるが、丁度いいので利用させて貰っている。疑問には答えた、さあ、その魂を我におくれ」
言葉がどこかチグハグであり、通じているようで全く通じていないような感覚。ハラルハルラと合った目が、吸い付くように離れない。オーリンは瞼を閉じることも出来ずに、その眼を見続ける。昏く、濁ったハラルハルラの眼差しに、オーリンの冷や汗と動悸が止まらなくなる。確実に強大な力を持つであろう存在を前にして、オーリンは口を開く。
「……断る」
「だろうね。そんな眼をしている。少し前にも見たよ……君のような美しい眼をしている者をね。まあ、死んでしまったのだが……」
ハラルハルラの口から事も無げに語られる言葉。それは、独り言のようでもあり、自問自答のようにも見えた。しかしその中身は物騒な事この上ない。オーリンはそこで違和感を覚える。
「無理だぞ。混沌の呪法、魄体静止の呪いというやつだ。今の君は、カラカラと頭は回ろうとも、その指先の一つも動かす事は叶わぬさ」
ハラルハルラの激しく明るかった口調が一転して、より悍ましいものへと変質する。目の前の男が発しているのに、別の何かが喋っているような、そんな風に思えるほどの歪みが生じていた。
「ああ、それともう一つ忠告しておくが、この場所に助けが来ることはない。混沌の呪法、迷いの森というやつだ。諦めろ。ここに至った時点で、君の運命は生命の終着点へと辿り着いたのさ。良い人生であったと、その儚く美しい追想を懐きながら眠るがいい」
その声は暗く、低くオーリンの精神に入り込んでくる。抗う事すら許されぬ、ただの現象として。
黒衣の男、ハラルハルラの後ろに、大きな影が掛かる。オーリンが辛うじて動かせた視線の先にあったのは、先程オーリンが倒したものと同種の、巨大な緑青鬼達であった。
「しかし、こんな所で手駒を失う事になるとはな。まあ、それに見合うだけの収穫もあったのだ、痛み分けといった所で我慢すべきか。グアラドラへの攻め手が減るのは少々頂けないのだがね」
無数の紅い眼がオーリンを捉える。ハラルハルラに従順な姿勢を見せる巨大な緑青鬼達。そして、その場に小さな緑青鬼や魔獣の群れも集まってくる。
そのすべてが、眼前にいる男の支配下にある事を、オーリンは理解する。
「一体……何をしようとしている」
「ん? 分からぬか、分からぬかね。世界征服だよ」
至極当然の事のように、あっけらかんと言い放つ男。
「五百年前は、魔導王という忌まわしい化物に邪魔をされたが、もはやそれも過去のこと。これより行われる、グアラドラの滅亡こそが開幕の狼煙となるのだ。そして! 君の魂を手に入れることで、我はより大きな存在へと至れる。魔導王なぞ恐れるに足りぬ。悲願がここに成就するのだ」
天を仰ぎ、感動に打ち震える男。
黒衣の男。
ハラルハルラは、まごうことなき、ただの怪物であった。
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次回更新は月曜日夜の予定となります。
『魔導の果てにて、君を待つ 第十六話 月影に泣く 後編』
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