第十二話 エドの灯火 中編
鳴き声が聞こえた気がして、シグニールは空を見上げる。
ルード帝国のシグニール将軍は、馬上にあって魔鳥の群れを狩っている最中であった。
風が吹き抜ける草原にて、シグニールは大きく弦を引き絞って矢を放つ。強弓から放たれた矢は一瞬にして空に在る魔鳥へと突き刺さる。矢に頭を吹き飛ばされた魔鳥は絶命し、勢いを失って、他の魔鳥へとその身を打ち付ける。
帝国の誇る、帝国騎士団のシグニール将軍。武芸百般と呼び声の高いその評判通りに、シグニールの武威はどのような化物を相手にしても留まることをしらない。シグニールは空を飛ぶ魔鳥の中でも、一際大きなものに狙いを定める。普通の兵卒では引くことすら難しい強弓の弦を軽々と引くと、撓る音ともに弛ませ弾けさせる。次の瞬間には、矢は魔鳥の頭を寸分違わず飛ばす。
息を切らすこともなく容易く続けられる行為。その場所では、シグニールが飛ばす矢とは別に、時雨のように間断的に矢の雨が降っていた。
──帝国の南東に位置するサルヒュート大草原
ルード帝国の帝国騎士を含む五千名の兵士が、グラム王国の前線に立つ王国騎士二千名と肩を並べるように、大草原に陣を取り、魔鳥を狩っていた。
飛び交う矢は潰えることなく、空の魔鳥を打ち落していく。それまでに何千、何万と矢が放たれたのか数える術もないが、大地に累々と横たわる魔鳥の残骸を見れば、その大規模な作戦は着実に成功へと天秤を傾けていた。
漆黒に覆われた空を少しずつ取り戻す。その一点において、両軍の意思は固く一致していた。
喧囂としている戦場で、大地を轟駆ける乾いた音がシグニールの耳に入る。軍馬に跨って、王国の陣より一人の騎士がシグニールの元へとやって来た。グラム王国の正規軍二千名を率いる、大騎士クアトロその人であった。
「シグニール殿、北東の空で竜を見たとの報告が入った」
「……それは?」
「大災害にある不滅の魔竜ではないかと言う話だ。ここの兵も動かさねばならぬかもしれぬ」
「ノール砦のことであれば、グリークが対処している。大事はなかろう」
帝国の大英雄シグニールが断言した言葉に、クアトロは珍しいと思った。国を通しての交流として、シグニールとの付き合いはクアトロ自身長くあるが、将軍にそれ程のことを言わしめる存在をクアトロは知らなかった。
「魔導兵団の団長殿は、シグニール殿に買われているようだな」
「あぁ。……こちらは魔鳥を狩る事に専念をしたほうがいい。集中を欠けば、どのような状況であれ容易く命を落とす事に繋がる」
二人の将が言葉を交わす間も矢の雨が止まることはない。
空を暗雲たらしめる魔鳥は、その姿を一つ、また一つと消していく。
ゆっくりと、だが着実に、ルード帝国とグラム王国の混合軍は、サルヒュートの地を混沌から取り戻そうとしていた。
* * *
「この壁を抜けることは叶わぬか」
紺碧の壁に両手を付き、ルディ・ナザクは溜息となる深い息を吐いた。グリークの魔導結界は広域に広がっていた。
このような状況でルディ達の元まで辿り着いた大蜥蜴の化物は、結界が張られる前に外に逃れた一群であったようだ。
今もなお維持されている結界が、中にいるグリークの安否を示してはいたが、それでもノール砦から伝わる異変は、結界の外からでも感じ取ることが出来た。
漆黒の竜と、グリークが操る魔導の激しいぶつかり合い。
それらの多くは広範囲に破壊の雨を降らせ、グリークが形成したこの結界まで届く物もある。一直線に光が奔ると、眩い閃光が紺碧の壁を揺らす。しかし、それすらも吸収するように、グリークの結界が受け止めていた。
それを見ている事が、ルディ達がこの壁を通れぬ一つの理由として付随する。この結界を通ろうとすれば、人が通れる穴を空けるしかない。しかしルディはこの結界を壊して良いものかと、逡巡していた。グリークが張ってある以上、迂闊に穴を開けては、その後のグリークの戦略を破綻させることになるかもしれないからだ。
ルディの口から、二度目の深く重い溜息が出る。
「私があける」
ルディが隣を見れば、シルバスが既に魔導を練って壁に手を当てていた。
「お、おい」
焦りの見えるルディの瞳が、シルバスの瞳を捉える。
シルバスの瞳は滾々とその意志を伝えるように、ルディの瞳を捉える。紫紺の瞳は微かに揺らぎと不安を覗かせるが、その奥底には強い決意を秘めていた。
その瞳を見て、ルディは自分自身が秘めている決意を、心の奥底から見つけることになる。
「……分かった。頼む」
ルディは覚悟を決める。
動く動かざるを考えた時に、シルバスの瞳を見た時に動いたルディの心は、今が動くべき時であると伝えていた。
シルバスは視線をルディから眼の前にある紺碧の結界へと戻す。
そしてシルバスは、淡く輝く琥珀の魔導を両手に練る。それはかつてグリークに教えてもらった魔導。
光が集まると、それは淡く優しく光りながら、紺碧の魔導へと浸透していく。紺碧と琥珀が混ざり合うと、結界はそれ自体が意思を持つように、人が通れる程の穴を空ける。壁に穴が空いたときに、空いた分だけ何かが満たされたような不思議な感覚をシルバスは覚えた。時間にすれば一瞬の事ではあったが。
意識を取り戻すとシルバスはそのまま横にいるルディに目を向ける。ルディは揺るがぬ決意を宿らせた瞳でシルバスを見ては、頷いた。
背後で固唾を呑んでいた団員達に、向き合うルディ。
「ここから先に一歩足を踏み入れれば、何が起きるのかは分からん。だが、それでも俺達は行かねばならん」
ルディは皆を見る。
その姿はまるで移し鏡のようで、静かに滾る団員たちの闘志が熱気となり、脈動しながらその想いを後押しする。
「行くぞ!」
* * *
風が吹いている。
砦の上は暴風が吹き荒んでいるというのに、その姿は今この場所に至っては、形を潜めていた。
シルバスはグリークの生み出した結界を抜けた時に、ふと懐かしさを覚えた。グリークの魔導に触れ、シルバスの魔導とグリークの魔導が混じり合った時に見えた何か。それはシルバスの奥底にある、大事に仕舞われていた思い出に、色を塗る。
懐かしい記憶と、その匂いを呼び起こすと、シルバスの鼓動は早くなってゆく。握り締めた腕で必死に胸を抑えるが、感情の揺らぎは波のように寄せては返し、繰り返しされる波間にあって、シルバスにそれを押し止めることは出来なかった。
いつから忘れていたのであろう。それは決して忘れてはいけない、シルバスの大切な思い出のひとつ。今、思い出の端っこを掴んで離さない指から伝わる温もり。シルバスの内に溢れ出てくる感情はうねりをあげる。
かつてシルバスが父と呼び、ネイが死んだ後にユリスを連れ去ったグリーク。ユリスへと辿り着き、出会ってからシルバスは考えていた。それは全てを思い出す為に必要である、大切な思い出の欠片。
「シル、すまない。ユリスを守り、シルを守る為には、こうするしかないのだ」
グリークお父様が何かをシルへと伝えようとしている。だけれど、幼いシルにはそれが何なのかは理解出来なかった。額に当てられたグリークの手が、シルのおでこを優しく包む。
「情けない父親ですまない。俺がもっと強ければ、お前たちも、ネイも、誰も彼も全て幸せに生きられたというのに。力もなく、弱い俺にはこうする事しか出来ない。シル……。俺の希望よ……。全てをお前に託す。ユリスを頼む。本当にすまない」
きょとんとしたシルの瞳に映るのは、流れ落ちては止まらぬ父の涙と、感じるのはその掌の温もり。それはとても温かく、シルの心を包み込むように広がっていく。
「父様?」
「あぁ、シル。……愛しい俺の娘よ。どうか、幸せになってくれ」
シルバスはその温もりを思い出す。
ユリスがシルバスを忘れていたように、シルバス自身も大切なものを忘れていた。
思い出したことは少ない。
だけれども、涙が止まらないのはなぜだろう。
心が苦しいのはなぜだろう。
シルバスは遠くの空を見る。
そこにあるのは、シルが大好きだった父の姿であった。
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次回投稿予定日は6月7日月曜日となります。
『魔導の果てにて、君を待つ 第十二話 エドの灯火 後編』
乞うご期待!




