第十一話 予感 中編
遠雷が轟く。
急激な周囲の変化に、ユリスはその日何度目かの頭痛を感じてこめかみを抑えた。
スラー荒野はその有り様を示すように、滅多に雨が降ることはない。
だがその日は、滅多にないことが起きた。朝方にはなかったはずの灰色の雲が、スラー荒野から流れるように砦の上空に集まると、ポツポツと雨を降らせてノール砦の城壁を斑に濡らす。
物珍しさから、最初は雨粒を見て室内からぼんやりと眺めていたユリスであったが、雨は本格的な土砂降りへと変化していく。ザアザアと降りしきる雨が、見ている世界を閉ざしていくようで、ユリスの心を不安にさせる。
折しも、魔導兵団の皆がルノウムの国土へと、魔獣を押し返す為に出ていったばかりの事であった。
スラー荒野を背にした砦の先には、ルノウムの国土へ向かって石と岩の大地が高低差を持ちながら続いている。遠くになるほどに魔獣討伐に向かった兵団の皆の姿が、砦からは見えない位置となる。
「大丈夫かな」
少し治まった頭痛から意識を取り戻すと、ユリスは皆のことが心配になった。雨に曝された風は冷たく、ユリスの体温を奪っていく。土砂のように降りしきる雨を、それよりも強い風が巻き上げるようにして吹き上げている。
「まるで鳴き声のようだ」
雨風がびゅうびゅうと吹いて、その音が止むことはない。昼だというのに雲に覆われた空は暗く、辺りを真っ黒に塗りつぶそうとしていた。その状況を見て騎士が指示を出したのであろうか、砦の城壁をなぞるようにして少しずつ明かりが灯っていく。
外に出た魔導兵団の皆に何事もないよう願いながら、ユリスは己の中で歪みを生じていた魔導と対話していた。今ユリスにやれる事は少ない。体調を万全にし、少しでも足を引っ張らないためにも魔導を使えるようになる必要がある。少しずつ、ゆっくりと魔導を練る。
その時何度目かの突風がユリスの髪を揺らす。
『ユリス……』
懐かしい。ユリスは自分を呼ぶ声を聞いて、そう感じた。
「誰?」
頭の中で聞こえてきた声に、ユリスは問いかける。包まれるような優しさが心の奥底に響くようで、気分が落ち着いていく。微かに繋がった糸を手繰り寄せるように、言葉の先を待つ中で、ユリスの視界は真っ白に染まってゆく。
* * *
大雨の中、空の隙間から見える三日月のように長大な其は、血濡れたように、赤く赤く潤んでいた。吐息の様に吐き出される風は生温くなり、砦の兵達の気持ちを騒つかせる。
「これは一体……」
ノール砦にいる誰かが呟いた。風は今も暴風となってノール砦を揺らすように吹き荒れている。雨が打ちつける音も時が流れる毎に激しさを増していく。そんな中、呟かれた疑問の声は誰に届くでもなく雨音に溶けていく。
轟音が響く。絶叫のようでいて悲鳴のようでもあるそれは、畏怖を呼び起こし、聞いてる人間の不安を煽る。それは決して、自然に産み出される類の物ではなかった。
真っ暗な雨雲を掻き分けるように狭間に在る、其を見た者は、その全てが恐怖する。
まるで、別世界からこの世界を覆っている殻を破くように、強大な怪物に覗き見をされているような感覚。その存在の鼓動を感じた時、其がこの大地に産まれようとしているという事に気付く。
大気が振動し、空気が歪む。
激しい雨が降り続けているというのに、世界は緊張の中時を止める。
「何か落ちてくるぞ!」
雨風に紛れて舞い落ちた物体。
其は、ノール砦の大きさに匹敵するくらいの巨大な翼を持つ、一体の竜であった。
* * *
「──放て!」
兵が所狭しと駆け回り、矢を準備する。
砦に備え付けられた大型弩弓が甲高い音を立てながら、一定の間隔で発射されていた。だがそれらの全てが、ルード帝国が誇る技術が、眼前の化物相手には無力であった。発射された大型の矢は、勢いを持って雨空に飛び出すのだが、巨大なそれの巻き起こす風に射線をずらされて、化物まで届くこともなく失速してはそのまま大地へと落ちる。
其は首が長く胴体は丸々と太くあり、尾も端が見えぬほどに長大であった。
それであって背には大きな翼を持ち、その力で悠然と空を舞う。
雨に隠れて漆黒の体躯が見えにくいとはいえ、その長さだけでもノール砦と遜色がない程である。其の異様な姿は、見るだけで歴戦の戦士達に混乱を齎すものであった。
長大な翼が大きく羽ばたき、巻き起こる風が大地に足を踏みしめる人間達の足元を揺らす。どれだけ踏み締めようとも、襲い来る突風が鎧を纏った人間達を軽々と吹き飛ばす。雨風に視界を奪われた人間達が、僅かに開いた目で見たもの。竜の口元に眩いまでの真っ白な光が集束していく。大きく首を引きながら、空気を吸い込むようにすると、歪な形の牙が並ぶ口元へとさらに光が集う。
竜が大きく頭を前に突き出した時、開いた口からそれは放たれた──
──閃光
雨を透過するように擦り抜けて、白く輝く光が下から上へ煽るように砦を襲う。光の範囲に入った岩地を溶かしながら、大地を抉り取っていく。光はノール砦の城壁に当たってもとどまることを知らない。あまりの光の眩さに兵達は目を瞑り耳を塞ぐ。
そして、次に目を開いた時には、砦にある備え付けの大型弩弓があった場所が消滅していた。舞い散る粉塵は直様雨に押し流される。怒号を包み隠すように、雨音も一段と激しくなる。
「被害はどうなっている! 一体何なんだあの化物は」
砦を任されている、ルード帝国高位騎士のサジェ・フロムは、化物の放つ光により為す術も無い様を見て奥歯を噛むと、蹂躙される未来を想像してしまう。損害を確認しようにも、全てを把握することが難しい状況を受けて、やるべき事の判断がつかなくなる。
「竜なんてものはお伽噺の類いだろうに、あんなものが魔獣と同類だとでも言うのか」
最大射程を持つ砦の大型弩弓を持ってしても、眼の前の竜の身体には届かない。竜が身に纏う風が、飛び交う全ての矢の力を削ぎ落とし、大地へと落とす。魔導兵団が出払っている今、空へのその他の対処方法が無いというのは絶望をも意味する。
「だがここで諦める訳にはいかん。ありったけの矢を集めて、少しでも時間稼ぎをするのだ!」
サジェが叫ぶ。その時、サジェは竜と眼が合った気がした。
ゆっくりと時が流れるように、竜の口が大きく開かれ、光が集まる。雨がサジェの焦りを押し流すように激しさを増す。眼前の化物相手には頼りない盾をサジェが身構えた所で、二度目の閃光がノール砦へと吐き出される。
「こんな所で──」
* * *
ユリスは目を覚ますと、真っ白な空間にいた。
その横を影が通り過ぎていく。
前に進む者。
すれ違う者。
時にユリスと重なるようにして擦り抜ける影もある。
触れることの出来ない影が、数える事も出来ぬ程に道を征く。
「ここは何処なんだろう」
『ユリス……』
自分の名を呼ぶ声に振り返ると、そこには薄い碧色の髪をした、優しげな女性が佇んでいた。
「誰?」
「ユリス、どうしたの?」
微笑みながらユリスを見つめる瞳は、ユリスと同じ翠色であった。
「……母様?」
ユリスの中から自然と言葉が出る。
「不思議な顔をして、今日はどうしたのかしらね」
戸惑うユリスを慈しむように抱きしめる、ユリスが母と呼んだ女性。触れた場所から伝わる温もりはユリスの心を包み込むように暖かく、優しかった。
「母様……」
「あらあら、ユリスは甘えん坊ね」
失ったものを取り戻すように、強く抱きしめるユリス。
「母様、僕頑張ったんだ……」
「そう、偉いわね。ユリス」
柔らかな髪は、荒野の風に当てられてカサカサになっていたが、構わぬとばかりに女性に撫でられる。
涙が止まらない。
夢ならば醒めないでほしい。
ふと、ユリスは視線を感じる。顔を上げた先には、一人の少女と、見知った男の顔があった。
「貴方、シル、ユリスを褒めてあげて」
銀色の美しい髪の少女が泣いている。
ぽろぽろと瞳から溢れる涙を拭うこともなく、ユリス達を見ている。少女の隣りにいる男も若く、その顔はグリーク団長によく似ていた。
「あぁ、そうだな……ユリス、よく頑張ったな」
団長によく似た男の人は、何かを堪えるように微笑を見せる。
「シル、貴女もきて」
ユリスの母は、少女を自らの側に呼ぶ。
駆け寄る少女を、ユリスと共に優しく抱きしめる。
「ネイ母様……」
少女の銀の髪を、ユリスと同じように撫でるネイ。
「シル、ごめんなさいね。貴女にも辛い思いをさせてしまって」
ネイの言葉に、顔を埋めながら首を振る少女。
「ネイ母様」
ユリスはこの光景に胸騒ぎを覚える。
幸せであるのに、何か悪い事が起こるような。
「シル、ユリス。あなたたちは幸せになってね」
ネイの言葉が続いていく。心の奥底に眠っていた、その言葉を。言葉の先の未来を──
──ユリスは思い出す。
「あああああああああああああああああああああああああ」
いつもお読み頂きまして、ありがとうございます。
次回投稿予定日は5月27日木曜日となります。
『魔導の果てにて、君を待つ 第十一話 予感 後編』
乞うご期待!




