第四十話 消えゆくもの 中編
マーズ・マフスという名の人魔と相対したオーリンは、一瞬で別世界に連れ去られたかのように、物音一つない静寂の園へと足を踏み入れていた。先程まで聞こえていた騒々しい破壊の音も、ここに至ってその鳴りを潜めている。眼前に立つマーズ・マフスは、最初に見せた反応以上に物を言うことはなく、肩に乗せた槍をごく自然な動作で構える。その構えは、オーリンもよく知ったものであった。
「同門? マーズ・マフスの名に覚えはないが……」
まるで、オーリンとこうなることが最初から目的であったように、マーズ・マフスは背筋を大地に対して垂直にしたまま腰を落とすと、低く槍を構えた。足が大地を擦ると、砂音だけがその場に残り、静かに戦いのはじまりを待つ。
「なんと、単純にて明快」
大量に存在していた人魔も、先の出来事で姿を消したきり戻ってくる気配もない。大地に深く突き立てられた剣だけが、物言わぬ墓標としてその異様を知らしめている。
何が起こっているのか、オーリンには知りようもない。なればこそ、眼前に立つ唯一の手掛かり、同門の輩であろうマーズ・マフスと刃を交える必要がある。彼がそれを望む以上、他に選択肢はない。
オーリンは深呼吸をすると、マーズ・マフスと同じように左右の手で槍を構えると、腰を深く落とす。その様は天から地に穿たれた一本の大樹が如く、揺るぎなく、確固たる存在を証明する。
浮いた左の踵が地を叩くと、マーズ・マフスの槍は獲物を狙って飛び跳ねる蛇のように、俊敏な動作で地より空へと押し出される。あまりにも洗練され、完成されたひとつの動作に、オーリンの身の毛がよだつ。呑気に息をしていては、首元を簡単に引きちぎられる獰猛な蛇の牙。オーリンが習いし槍技は、蛇より始まりやがて龍に至るとされる。マーズ・マフスの技は基本中の基本ではあるが、熟達の度合いだけでいっても、既に龍と成っていてもおかしくはなかった。
オーリンは足を踏み鳴らし大地から反発の力を得る。柄を跳ね上げると、己の槍の尾で絡め取るようにしてマーズ・マフスの槍の軌道を逸らすように力を注ぎ込む。
マーズ・マフスの槍技は、オーリンの目から見ても武の真髄、極地にまでも悠々と足を踏み入れている。体内に流れる血の一滴までもが、槍と一体化して力へと変ずる。マーズ・マフスが繰り出した点の力は止まらない。武技の練達を知り、一瞬で全てを察したオーリンは、荒れ狂う大蛇の圧力に呑み込まれてしまう前に直ぐ様槍を引き、腰を低く、より地面スレスレにまで落として攻撃から逃れる。
オーリンの頭上を通り抜けたマーズ・マフスの槍が風を切るように引き戻される。第二撃の準備に掛かろうとしている腕の動きを見て、オーリンは低くなった体幹を支えている右足を地面に押し込み、左足で強く大地を蹴る。
半歩で爆発を生んだオーリンの加速は、マーズ・マフスの準備が整う前にその肢体を前方に押し出す。後の先から、先の先へと繋がれるオーリンの槍。槍はオーリンの腰で回りながら、一瞬で勇猛なる龍の爪へと転じる。
──ガギンッ
円を描きながら虚空を切り裂く龍の爪は、天より地に穿たれた大蛇の胴体を斬り伏せる事が出来ない。余りにも強靭なるマーズ・マフスの槍は、苛烈なる龍の一撃すらも吸収する。オーリンの槍に全く引けを取らない、名も知れぬ名槍。大地が悲鳴の如き叫びを上げる。ギュルギュルと刃と刃が重なり、弾けて二人の距離を離す。
荒く吐きだされる息が愉快な音を奏でる。一合交えただけだというのに、マーズ・マフスの一撃はオーリンを一気に最高潮へと到達させる。熱が、逃れる場所を見つけられずにオーリンの体温を急激に上昇させる。冷たい風が通り過ぎても、熱はついぞ冷めやらぬ。武人としての本懐が、オーリンの核たる部分に根付く獣を呼び覚ましてゆく。
──あぁ、何ということか。考えていた何もかもが馬鹿らしくなるほどに、本能がそれを求めている。正しいのか間違っているのかすら最早どうでもいい。至上の体験に身悶えて、オーリンは獣の形相で足を前に踏みやる。
『オーリン……』
全身がひとつの感情に支配されようとした時、オーリンの耳に言葉が届く。はっと我に返ったオーリンは、目の前にあるマーズ・マフスの、今まで朧げで見えなかった表情が分かるようになっていた。懐かしさを覚える精悍なる顔付き。面に揺れる物憂げな表情は、変わってしまおうとしているオーリンの事を、ただじっと見つめていた。
「マーズ・マフス……」
──我が最愛なる
「あ……」
その名前を呼んだ時、オーリンの内側からどうしようもないほどに後悔が溢れ出てくる。同時に、オーリンを包み込んでいる魔導も彼の存在を求めている。切なさを滲ませるように、遠き日に在りし記憶が蘇る。
「マーズ・マフス……。そうだ、あんたはマーズ・マフスだ」
己の内側から溢れ出る形なき感情に、オーリンの声が重なる。何故忘れていたのか……。否。何故、忘れさせられてしまっていたのか。彼は、オーリンにとって、とても大切な存在であるというのに。
マーズ・マフスはオーリンを見て、槍を構える。流れるように、迷いを断ち切るように。そこにはもう哀しげに揺れていた瞳はなく、楽しげな笑みが浮かんでいる。この再会が悲劇ではなく、何か意味を持った縁であるのならば、オーリンは答えを知らなければならない。
「なんで、……なんでこんな所にいるんだよ、親父」
お待たせいたしました。
いつもお読み頂きましてありがとうございます。
ぜひ、結末までお楽しみ下さい。
次回、
『魔導の果てにて、君を待つ 第四十話 消えゆくもの 後編』
乞うご期待!