第三十七話 神殺し 後編
それを憎いと思うようになったのは、一体いつからであったか。元はこうではなかったような気もするし、ずっとそうであったようにも思える。べヘモスは赤光を吐き出し、長大なる前足で大地を抉る。無慈悲なる力で場を制圧しようとするが、眼前の其れらは不可思議な力を持ってその全てを防いでゆく。
──歯がゆい。
吐き出した赤光も、繰り出した前足も、一撫でで黒き獣を消滅させる事のできる屈強な尾も、何もかもがその役割を全うする事なく潰える。
──何と歯がゆい事か。
べヘモスの奥底からは今も際限なく怒りが溢れ出ている。もはや止めようもない程に肥大化した感情に、べヘモスは身を任せる。べヘモスは大きく頭を振って、空の敵に赤光を放とうとする。その時、ふっと眼下に金色の髪の男が滑り込むと、見上げるような形で光り輝く剣を振るい、べヘモスの顎を天へと穿つ。べヘモスに何ら痛痒はない。だが、べヘモスの頭部は爆発的な力の流れを場に留めきれず、上方に流されてゆく。
『ガアアアアアアアアアアアアアアアアアァッッッッ!!』
力持つ言霊も、人間の操る不可思議な業によって音を局所的に消され、無効化されてしまう。人間共を瞳で捉えようとするが、どこからともなく湧いて出た砂嵐が視線を遮り邪魔をする。
そんな状態で唯一見る事のできた空色の目をした人間は、そもそもべヘモスの瞳の力が働かなかった。
──何故、笑っている。
四肢を力いっぱい大地に打ち付けると、遥か上空に飛び上がるべヘモス。だが、空に浮いたべヘモスの身体は、吹き荒ぶ強風に進路を阻まれ、簡単に自由を奪われる。べヘモスの世界が、端からひびを入れられるように壊されてゆく。
──何故だ。
言葉を奪われた口腔が大きく開く。
──何故
* * *
マシューの戦いに周囲の人間達が呼応する事で、まるで血液が循環するように、一つの隊が生物としての機能を果たしてゆく。神話を前にしてなお、人間達は場の支配を強めてゆく。その結果、幾重にも織り込まれた戦略は、より強固に、より頑強になって結果を打ち出していった。言ってしまえば、計画通りに事が運んでいる。
そんな状況下にあって、オーリンがべヘモスの討伐にすぐさま加勢をしなかったのには、状況を整理していたという以外にも理由があった。遠くから見ていると殊更にベヘモスの異常性への理解が進む。
べヘモスが暴れ狂うごとに、禍々しい気配が周囲を包み込んでゆく。べヘモスの体内から滲み出るように垂れ流される邪気は、おおよそ神聖さとは隔絶された、種としての歪みを表していた。黄金の獣より頒かたれた獣は、今まさに、さらなる変異を迎えようとしている。
そしてそれらが示す異常性は、オーリンがこれまでに幾度となく対峙した、大災害の化物とよく似ていた。変異し、戦いの中でより強靭な存在へと変質する。周囲ではべヘモスの歪みに当てられているのか、陽光に照らされている主戦場の外れに残る暗闇で、魔獣共が様子を伺っている気配がある。
現状において介入する気はなさそうだが、元より理性などとは無縁の存在。動き始めるのも時間の問題だろう。それより何よりも、問題はマシュー達と相対しているべヘモスだ。
「何かが、べヘモスに影響を与えている」
確信があったわけではない。だがオーリンにのみ知りえるものがあった。
ドクン、ドクンと、地を揺らし心臓が脈打つ音が聞こえてくる。激流のような戦闘の最中、精神を研ぎ済ませてみて初めて分かる、べヘモスの中心で鳴り響いている低い音。赤く光沢のある美しいベヘモスの躰の中で、唯一違和感を残す部位。腹の一部分が黒く染まり、邪気が蛇のように蠢いてはベヘモスを侵食する。
「あそこに何かある……」
べヘモスの腹、黒き塊からオーリンは視線を外さない。
「あるいは、全ての歪みを生み出す何か……」
流星の如く、放射状に落下しながらベヘモスを捉える影。マシューは、全身を縦に回転させながら剣を振るい、ベヘモスの前爪を弾きながら思うままに力比べをしている。マシューの隣では、壮年の男が精緻に編み込んだ魔導を操り、ベヘモスの動きに制限を掛けている。
オーリンに聞こえているあの音が、また一段低くなる。
目を凝らし、オーリンがベヘモスの腹を見ていると、漆黒の淀みの中に何かが見えた。
──あれこそ、不滅よ
誰かの声が聞こえる。
聞こえた瞬間、オーリンはその場を駆け出していた。
前に、もっと前に、愛槍である大身槍を突き出し、前傾姿勢で刀身を覆うように身体を動かす。
次第に腹の明滅が早くなってゆく。音も大きくなる。
吐き気を催す程の邪悪。
何かが生まれてしまう、その前に──
「マシュー、あそこを撃つ!!」
オーリンは空を駆けるマシューへと檄を飛ばす。
狙っているのは、ベヘモスの腹部にある黒くなった部位。
オーリンは走る中で、ベヘモスの振り上げた尻尾の一撃から逃れていた金色の髪の男と目が合う。
「力を貸してくれ!」
「──何かわかんねぇけど、まるっと了解だ!」
べヘモスの至近距離で戦っていた金色の髪の男、レイン・フレデリックはすぐさまオーリンに反応して行動する。
オーリンの進む道をあける為、レインはベヘモスの眼前まで足を踏み込むとそのまま右に流れ、抜けるように足を斬りつけては注意を逸らす。マシューもそれに呼応するように、空から落雷のように身を振りながら落ちつつ、斬撃を繰り返す。ベヘモスは質量で劣っているはずのマシューとレインの一撃に踏ん張ることが出来ず、その場でたたらを踏んだ。
オーリンはさらに歩を進める。
ベヘモスの視線が揺らめいて、オーリンを見ようとしたその時、銀髪の女性が滑るようにオーリンを砂で覆い被せる。薄膜によって半径半歩程の結界を得たオーリンは、さらに進む。
おおよそ戦場には似つかわしくない、小さな背中が途中にあって、オーリンを振り返る。妙に幼い顔をした少年が何かを言っている。
「──」
巻き起こる風に音を遮られ、内容を聞き取れはしない。だが、少年が生み出した大きな風が、オーリンの進む一歩を大きくして、押し進めるように突風を巻き起こす。風に揺れる自身の黒髪を視界の端に捉えながらも、オーリンの視線はベヘモスから逸れる事は無い。全身に力が漲る。自分自身が持ちうる力以上のものが集まってくる。
気が付いた時には、ベヘモスの腹が眼の前にあった。
まるで全ての時の進みが遅くなったかのように、オーリンの身体はベヘモスが動く何倍もの速さで目標に到達する。全ての力を巻き込み、膨大な力を吐き出すように、震脚が大地を揺るがす。瞬間、オーリンの掌中で生まれた虹色の光が槍を包み込む。オーリンは暴走しそうになる力を制御するよう槍の内側に留めながら、押し出すようにベヘモスの腹を撃った。
べヘモスが見せていた頑強さが嘘のように、するりと入り込んでゆくオーリンの槍。
最奥にある邪悪な何かを貫く為にオーリンはさらに腕を伸ばす。切っ先が触れて少しだけ硬い感触を感じたのちに、核が砕け散るのを感じ取る。
「──取った!」
ベヘモスの腹は、外殻を修復するように瞬時に塞がってゆく。引き抜かれたオーリンの槍の先端には、頭蓋骨大の真っ黒な卵のようなモノが刺さっていた。今も脈動を見せるその物体を、オーリンは静かに地に下ろす。
オーリンの一撃を受けて動きを止めていたべヘモス。ぶるりと身震いをしたかと思うと、力任せに巨大な前足を振るう。強大な力を秘めたべヘモスの前足が、オーリンを押し潰そうと影を作る。振り降ろされた後、何か違和感を感じてべヘモスは動きを止めた。
潰したと思ったものは潰れることなく、天と地の狭間にあった。マシューの剣と、オーリンの槍がべヘモスの腕を受け止めている。
『──何だ、やっと来たのか。約束を違えたのかと思っていたぞ……』
べヘモスはマシューとオーリンを見ながら、そんな言葉を放つ。急に放たれたべヘモスの言葉に、二人は拍子抜けする。今の今までやり合っていた相手の言葉とは思えない。オーリンも真意を図りかねている。
『うぬらの瞳は黄金では無いのだな。どうりで遅いはずよ、血が薄くなったということか。名を何と言う』
オーリン達の反応を意に返さず、べヘモスは会話を続ける。
「誰かと間違えてない? 俺はマシュー。こっちはオーリンの兄貴だ」
『マシューと、オーリンか。その名、刻んでおこう。うぬらほどの強者は久方ぶりだ。誠に喜ばしいことよ』
口ぶりから態度に至るまで、あまりにも豹変した姿を見せるべヘモス。先程までの面影がまるでなく、まさに別物と言える。べヘモスの瞳にも既に怒りの色はなく、その瞳は憑き物が落ちたかのように奇麗で、濁りの無い赤色であった。
「もしや、あれが悪さをしていたのか」
オーリンの視線は、べヘモスの内にあった真っ黒な卵を見る。槍に貫かれてなお、生きているかのように地面で微かに動いている。
『ノールの置土産だ。黒き獣共から守るのが面倒になって、腹の中に入れていたのだが、外に出てしまったのだな』
「ノール? じゃああれがグィルデ王の……」
オーリンは卵の正体に気付く。ベヘモスは長い首を寄せるように、マシューの瞳に顔を寄せる。
『しかし、お主の眼を見るのはあまり良くない。地上を思い出して叶わんよ。穴倉は飽きてしもうた』
「外の世界に行くんなら、俺が案内してやるよ。俺よりもっと強い人がいるぞ」
ベヘモスの顔に触れ、つややかな毛を自然に撫でるマシュー。
『それもいいか。長い年月こんな場所に居たのだ、片割れに交代してもらう事にするか……』
「金色のやつか? あれ、どこに行ったんだろ」
マシューは黄金の獣が近くにいないか、忙しなく視線を巡らす。
「まったく、大したやつだよ、本当に」
オーリンはマシューの適応能力の高さに飽きれて声を漏らす。
戦闘が終わった事に気付いて、周囲に人が集まってくる。
その時、一瞬だけ空間が真っ黒に染まる。
* * *
──ザンッ
「……え?」
マシューは目の前で起きた事に、呆然とする。
一体何が起こった。
──ズドン
寄せるようにマシューの目の前にあったべヘモスの頭部が、首から真っ二つに斬り落とされ、地に落ちていた。その場に残るのはただの静寂で、先程までべヘモスが見せていた驚異的な超回復が起こる気配も、動く気配もない。輝きを失ったべヘモスの瞳は、それでもどこか満足そうで……。
「何やってんだ、お前!!」
目の前で起きた凶行に、マシューはそれをした存在へと詰め寄る。全身を血に染めた男が、興味無さげにマシューへと振り返る。
「あん? 俺より弱いのが悪い」
何気ない動作で、マシューの首へと男の剣が飛ぶ。
「っ!」
横から伸び出た槍が絡まるように、マシューを狙った剣を弾き飛ばす。
「貴様、何故ここに居る!」
「あ? ……あっはっは。やっぱり強えなぁ、グラム。それでこそ、五百年も待った甲斐があるというものだ」
脱力をして、ごく自然体で振る舞う男。
「ランス・バルバトス!」
「覚えていてくれたのか、嬉しいねぇ。忌々しいこの首輪さえ無ければ今すぐにでも決着をつけたのだが、何分不自由な身でね。今回は顔見せだけにしておこう。我慢したんだ、楽しみは後に取っておくのも悪くない」
オーリンは目の前にある男を見る。不遜な表情に全てを己より下の存在と卑下する瞳。首元には禍々しい黒い首輪が付いているが、何ら気にせぬように笑みを浮かべている。その男、悪逆非道。かつて、常闇の騎士と呼ばれていた男、ランス・バルバトスが、そこにいた。
「クソジジイは貰ってくぜ。それの敵が討ちてぇってんなら、ルノウムまで来な。逃げも隠れもしねぇからよぅ」
剣の腹で服についた埃を払うと、ランスは地に落ちている黒い卵を拾う。
「一体何を……」
「お前の為に舞台を整えて待っているぜ。存分に殺し合おう、グラム」
そう言ったランスの背後に、唐突に真っ黒な門が現れる。
ゆっくりと開いた門の向こう側からは、悍ましい悲鳴が犇めくように聞こえてくる。
それを耳にして煩そうに眉を顰めるランス。
「全く、こいつを使う方の身にもなれっての」
三日月に歪めた口元から零れるような愚痴を残して、ランスは黒門の中へと姿を消した。
──待ってるぜ、グラム。早く俺に会いに来い。
お待たせいたしました。
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次回更新は土曜日、もしくは日曜日の予定となります。
『魔導の果てにて、君を待つ 第三十八話』
乞うご期待!