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第三十六話 蒼天 中編





 さらさらと何かが零れ落ちる音がした。それは流れゆく川のせせらぎのようにも、今まで見過ごしていた、誰かの命が消える音のようにも聞こえた。いつになってもマシューに吹きつける風は冷たくて、身体の内側にある熱を奪おうとする。疲労を纏い緩慢になってゆく足を必死になって押し出しては、足場を固めるように何度も大地を踏みしめる。清々しいほどに容赦がない。大自然の力を肌で感じていたマシューの脳裏に浮かんだのは、厳しさとは真逆ものであった。


 土の匂いと、鳥の鳴き声。風は春を招くように、草花の香りを混ぜ生命いのちを循環させる。


 果てまで続く草木の青さに目を奪われ、木々の合間にゆっくりと流れる雲を見つけた時、マシューは己の内から溢れ出ている、言葉にならない己の感情を見つける。


 九死に一生を得た。道中で縁を持った顔見知りは全て、これからも続く筈であった生を肉体から手放してしまった。マシューが何を為そうとも、それらが再び還ってくることはない。ただ一つ生き残った命の使い方をどうするのか、マシューは深く考えてしまう。


 人生を描く上で、今マシューが歩いているのは、黒く塗り潰された真ん中の点から始まる空白部分への旅路。その旅に手掛かりはない。手探りの中で与えられた形ばかりの自由は、今更ながらに見えない不安となってマシューの心を揺らす。


 そのような状況で考えなぞ纏まるはずもない。今のマシューはただ、棒のようになった己の足を動かす事しかできない。


「腹が減ったか?」

 マシューが顔を上げると、そこには己を助けてくれた男の顔があった。少し困っているようにも、何か考えあぐねているようにも見える。ヨグという名の、マシューが見上げるほどに大きな男。男の当面の目的は森を抜けた先にあるという。マシューにとって命の恩人であるヨグ。ヨグの腰に提げられた剣が微かに揺れて、マシューの視線を奪う。

「腹は……減ってないよ」

 実際の所お腹はすいていた。陽は落ちる気配もなく、木の枝に遮られているとはいえ日差しも強い。それに助けられてより今の今までずっと歩きっぱなしだ。だけど、なぜかマシューはこの男に弱いところを見せたくないと思った。マシューは男の眼を見ながら、身体の内側から掻き集めた僅かな虚勢を張る。

「……これが気になるか?」

 剣の柄に手を掛け、ヨグがなんのけなしに言う。

「気にならない」

「……そうか」

 マシューの中に残っていた精一杯の強がり。ヨグはマシューの言葉に深追いをしない。元々話自体が得意ではなさそうだ。それでもマシューの足が重くなるたびに、ヨグは声を掛けてくれた。声を掛けてくれるという事は、気にはしてくれているのだろう。だが、ヨグは己の歩く速度を緩めない。それは、ついてこれないのならば置いていくということを態度で示していた。


 マシューは必死になってその背中を追いかける。追いかけている間、マシューはヨグという強きものの側にいるという安心感を覚えた。マシューがヨグの背中を見失った時点で、それらは泡のように消えてなくなる、不確かな絆。それでもマシューの一方的な想いは募ってゆく。


 マシューにとってヨグとの出会いは奇跡といっても過言ではない。ヨグはなぜマシューの事を助けてくれたのだろうか。疑問はずっとマシューの頭の中でぐるぐると回る。野盗を払ったヨグの剣はマシューが見惚れる程であった。真っ白な髪と、見ているだけで吸い込まれそうになる黄金の瞳。


「寂しくなったか?」

 二人の間で何度も繰り返される、二言で終わる問答。無遠慮に投げられるヨグの問いは、マシューにとってなんと答えていいのか分からないものもあった。マシューはもともと街を出るつもりだったのだ。寂しさはおろか、未練などあろうはずもない。だというのに、目の前の男の問いかけがきっかけとなって蘇る記憶は、マシューが街にいた時に優しくしてくれていた人たちの顔であった。


 その人たちにとっては、特別な事をしたという感覚もないのだろう。それらの行為のひとつひとつにマシューも同じ感想を持っているのかと問われれば、少し答えは変わる。


 街でマシューが生を繋いでいた間、心を満たしていたのは辛いことや苦しいことが大半であった。だからこそ、であるからこそ、マシューは受けた優しさの一つたりとて忘れる事はない。


 街で顔馴染みになった花屋のお姉さんもそうだし、行きつけのパン屋のおじさんもそうだ。仕事を定期的に回してくれる爺ちゃんもいたし、本当に何も食べられない日には、人目を忍んで食べ物を分けてくれた人もいた。何もかもが苦痛の記憶であると思い込んでいたが、マシューがあの街に残したのはそれだけではない事を思い出す。


 マシューは、答えに困ってふと浮かんだ言葉をそのままヨグに投げかける。

「なぁ……。俺、強くなれるかな?」

 ヨグはその言葉を聞いて、己よりも遥かに小さいマシューを見る。

「……何故強くなりたい?」

「なぜ?」

「言葉を変えよう。何の為に強くなりたい?」

「何の為かはわかんない。でも、おっさんくらい強かったら、俺は空を飛ぶ鳥のように自由になれる気がする」

「鳥のように、か。そんなことをずっと考えていたのか?」

「そんなことって言うけどさ……」

 不貞腐れたように下を向く少年を見て、男は小さく笑った。

「さて、どうだろうな」

「教えてくれてもいいじゃんかよ。おっさんすごく強いし、才能があるかないかくらいは分かるんだろ?」

「ん、はっはっはっはっはっは」

 少年の言葉を聞いて、ヨグは今までマシューに見せたことの無い高笑いを見せる。


「なんだよ」

「俺がここで答えを教えてもいいのか?」

「あ、待って、やっぱりやめた」

「面白いやつだ。……森を越えたら目的地に着く」

「目的地? おっさんは一体どこを目指してるの?」

 マシューはヨグの言葉につられて、視線を森の先へと移す。


 木々の葉が風に揺れるばかりで、マシューが必死になって首を伸ばそうとも目的のものは見えそうもない。

「すぐに着く。自分の眼で確かめるんだ」

「自分の眼で……」

「簡単なことだ。お前はすでにそうやって生きてきたのだろう? ずっと同じようにやればいい。その足で、その身体で」

「同じように……」

 ヨグはそう答えると、それ以上は何も言わずに止めていた足を進める。マシューはヨグの言葉の意味を噛み締めるように、己の足元を見てから前を向く。


 不思議な事に足は勝手に進んで行く。疲労はあるのに、それよりも大きな熱がマシューを突き動かす。マシューを包む風は未だ冷たいけれど、一度動き始めた魂が止まる事は無かった。





 * * *





「──」

 遠くで張り上げている声は、以前に聞いたことのあるものよりも、随分と大人びていた。だけれどマシューはその声を聞いて、懐かしさを感じる。魔導門を抜けた先に助けを求めているものがいるとヤン導師は言っていた。


 そしてそこには確かに、マシューが助けるべき人がいた。大きな獣の吐き出した赤い光によって今にも消えてしまいそうな魂が、マシューの目の前に。それを理解した時、マシューの身体はもう空へと駆け出していた。


──あぁ、なんだ。お前、孤児院でフーと一緒に遊んでた時はあんなにちっこかったのに


「エミリオ、背が伸びたか?」

 マシューの口からは自然と言葉が零れ出る。視線を交わした刹那にも、エミリオがマシューを見る目には困惑と嘆きが混ざり合っている。自分よりも二回りは年上に見える眼の前の男が、マシューの記憶の中にある子供と確かに重なって見える。


──そんなに不安そうな顔するなよ、エミリオ


「マシュー兄ちゃん!」

 エミリオの声を聞くと同時に、マシューの腕はエミリオの肩をその場から押し出す。

 破壊をもたらす赤い光が到達するその前に。


 マシューの命は失われる。瞬きをする一瞬の内に。

 だというのに、この充足感は何なのだろう。

 心を満たすこの喜びは何なのだろう。

 口元には自然に笑みがこぼれてしまう。


「──」


 それは誰の声であったか。


「──」


 懐かしいような、うれしいような。


「──」


 寂しいような、かなしいような。


「──マシュー」




 あぁ、





「生きているか?」








「俺は、生きてるよ、おっさん」





またまた大変お待たせいたしました。

いつも御愛読頂きましてありがとうございます。


『魔導の果てにて、君を待つ 第三十六話 蒼天 後編』

次回も乞うご期待!

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