第三十六話 蒼天 前編
「マシュー兄ちゃん! さっきのやつもう一回見せて!」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。流石に動きっぱなしで少し疲れた」
「ねーねー、そう言わずにさぁ。お願いだよ。なぁ、フーからも頼んでよ」
「あのなぁエミリオ、それはさすがに強引すぎだぞ。休んだらまたやってくれるって言ってるじゃないか。ね、マシュー兄ちゃん」
「ん? あー……、うーん、そうだなぁ。休憩が終わったらな」
『やったぁ!』
「あ、もしかしてお前ら俺の事はめた?」
「そんなことないよ。ねぇ、フー」
「うんうん。マシュー兄ちゃんの気のせいだよなぁ、エミリオ」
「まったくもう。あっ、ちょっと、兄貴もそんなとこで見てないでさ、こいつらになんとか言ってやってくれよ!」
「くっくっく。いやなに、みんな楽しそうだと思ってな」
「そんなこと言ってさぁ。俺の番が終わったら兄貴にもやってもらうからな!」
「あ、おい!」
『わーい!』
「はっはっはっはっは、楽しいなぁ兄貴」
「マシュー!」
* * *
マシュー・ライザには家族がいない。物心のついた時にはもう一人であったし、自分が持たざるものであるという自覚すらなかったから、己の人生について深く考える事もなかった。痩せぎすの幼子が、道端で街行く人の頼まれごとを聞いては駄賃を貰い、日々の糧を得る。考えてみれば、今更ではあるが逞しいものだと、マシューはその頃の自分を褒めてやりたくなる。
子供の身であるマシューには生きる為の手段が限られていた。一日めいっぱい雑用をすることで、一食を得る。帰る家などはもちろんない。風の通らぬ場所を見つけては、ぼろ布を纏い寒さを凌ぎながら食事をして一日を終える。一所に留まっていると、目をつけられてひどい目にあわされる事も知っている。一方的な暴力に理由などない。食べ物を奪われる事も何度かあったが、痛い思いをしていくうちに、マシューは人目を忍ぶ術を覚えた。
毎日毎日同じ事を繰り返しながら、いつ消えてもおかしくはない、儚くて脆い生を繋ぐ。面白くもなく、かといってつまらないと言えるほどに、楽しいことも知らない。ただ生きる事に必死なだけの幼子であったマシュー。それが変わってきたのは、一体いつの頃からであろうか。気が付けばいつも、目の前を歩く大きな背中を見つめていた。マシュー・ライザの人生を表すのならば、それは、その偉大なる背中を追い掛け続ける人生であった。
マシューにとってその男との出会いは唐突であり、衝撃的であった。その出会いは、些細な日常の変化から紡がれてゆく。いつものように一日の労働を済ませた後、戦利品である僅かばかりのパンを抱きかかえながら寝床を探していたマシューは、影が重なる薄暗い道に差し掛かった時、唐突に腕を引っ張られた。強い力で路地裏に引き込まれ、驚いているマシューの鼻先に突き付けられた顔は、顔見知りである浮浪者の子供のものであった。高揚して赤くなった顔は、興奮を抑えきれていない。
──マシュー、凄い話を聞いたんだよ! 今ベリラの宿にいる商人が、王都へと荷を届ける為に人足を探してるっていうんだ。この街を出られるかもしれない、一緒に行かないか!
その言葉が耳に入った瞬間、マシューは視界が澄み渡っていくような不思議な感覚を覚える。
己自身の内側にふつふつと沸き上がる興奮を抑えて、マシューは話を聞く。内容としては肉体的に負担のかかるものであったが、体力に自身のあったマシューはすぐにその話に飛びついた。報酬よりもなによりも、外の世界が見られるということが魅力的であったからだ。
だが旅が始まってすぐに、そんな話は全て出鱈目な作り話だったと、マシューは気付く事になる。馬車内いた雇われたはずの人足は、皆一様に幼かった。マシューも幼かったが、それより小さい者も多くいた。それでいて幌の内側には商品となる荷が数えるほどしかない。瞳を輝かせている子供たちを見て、マシューは危機感を募らせ指を噛む。隣では今回の話を誘ってくれた子供も楽しそうに他の子と話をしている。
──こいつら奴隷商人だ。
馬車の奥深くで座りながら、馬車内に二人ほどいる大人に目を向ける。乗り込む時に目にしていたが、外には馬を操っている大人が一人と、追随しながら後ろで馬を走らせている武装した護衛が二人いる。この全てが敵となりうると想像した時、マシューは自らの迂闊さに怒りを覚える。
──何で気付かなかった。
商店を構えている商人とは違い、住処を転々としてあくどい事を平気でする人間がいる。マシューが住んでいた街でも、人攫いをして劣悪な環境に放り込む悪徳商人の噂がよく流れていた。こいつらはそんな種類の人間だろう。
街を出る光景と、流れる景色に気を取られすぎて警戒が緩んでしまっていた。悪意など、街の中でも履いて捨てるほどあったというのに。マシューは静かに拳を握りしめる。何とか逃げ出さないといけない。野に逃れたところで宛などないが、ここに居たらもっと悲惨な事になる事だけは分かった。マシューは自分の足に自信があったから、逃げる事だけを考えればそう難しくないかもしれない。他の子供を逃さぬ為、マシュー一人に追手を掛けないのではないかという希望もある。
だけれど、皆を置いていくというのは心が傷む。殆どが見ず知らずの他人であるが、同じ境遇を生きる仲間でもある。
マシューのそんな表情を見て、顔見知りの子供がマシューに近寄って話をしようとする。だが、子供は一歩を踏み出すと、そのままマシューの方へと倒れ込んでゆく。抱きかかえる形となったマシューは、何が起きたのか理解出来なかった。背中に回した手が冷たく硬いものに触れる。そこから溢れ出るドロドロと流れゆくものにも気付いた。
震える腕で倒れてきた子供の肩を押し、顔を見る。口元には血が流れ、目には涙が溜まっている。開かれた口は血と空気を吐くだけで、もう言葉を形にする事は出来ない。時間にしてほんの僅かな間に、マシューの眼の前にあった光は消え、頭をマシューの肩にもたれかける。直後、布で出来た馬車の幌を破り、無数の光が舞い込む。悲鳴とともに鮮血が舞い、マシューの目の前にある全てが赤く染まってゆく。
身を低くして、うずくまるマシュー。身体は震え、指も思うように動かない。ほうほうの体で地を這い、壁際に寄って破れた穴から外を覗くマシュー。外にいた護衛は地に伏したまま動く様子はない。御者台にいた商人も逃げようとしたのか、少し離れた場所で無数の矢に全身を貫かれ絶命していた。
「なんだぁ、中身は奴隷かよ。荷が数えるほどしかねぇ」
馬車の後ろ部分が開かれ、男が顔を見せる。
声を聞き、マシューは血に塗れた顔で声の主を見た。
「ちっ、生き残ってんのは一人だけか。わざわざ売り捌くにしても手間がかかりすぎるな……」
男はそう言うと、左手に持った抜き身の剣をマシューへと向け、血の溢れる空間に足を踏み入れる。
「恨むなよ。お前が生きてたのはこういう世界だ」
死を招く鈍色の輝きは、マシューの瞳を絶望に染める。
──
「え?」
声が上がる。マシューと、今まさにマシューの命を奪おうとしていた男の声が重なる。雷鳴のような音が鳴り響き、馬車の後ろ部分を支えていた二つの支柱もろとも、男の胴体は切断された。
「大仰に道を塞いでた割に、物足りん奴らよ」
黄金の瞳を持つ大男が、なんでもないように剣を納める。死骸を見ていた黄金の瞳は、横に流れてそのままマシューの空色の瞳を捉える。
「生きているか?」
「……わかんない」
「そうか……名は?」
「マシュー」
* * *
マシューはその顔を見た時に、何故だか無性に懐かしいと思った。
理由は分からない。それにそれは決して起こり得ぬことだという事も理解している。
だというのに、マシューの魂に刻まれている大切な記憶が、その男の顔を見た時に口をついて出る。それはマシューの中では、考えるよりも自然なことだった。
「エミリオ、背が伸びたか?」
眼の前の濃紺の髪を持つ、明らかにマシューよりも年上の男。
マシューとしても何故そんな言葉が出てきたのか分からない。
それでも眼の前にいる男は、マシューの言葉を受けてくしゃくしゃにその表情を歪める。
悲壮感を漂わせる蒼い瞳は、何かを堪えているようであったが、一寸たりとてマシューの空色の瞳から離れる事は無かった。
時間にしてみれば刹那。赤い光は今も命を喰らおうと空間を切り裂き世界を赤く染めてゆく。エミリオと呼ばれた男が、マシューの言葉に反応して口を開くよりも早く、マシューの腕が伸びてゆく。まるで時が何倍にも引き延ばされたかのように、ゆっくりと進む世界。
そして、マシューの腕がエミリオの身体をその場から押し出す。
二人が居た空間にマシューだけが取り残される。
エミリオの眼の前で、マシューは赤い光にその身を包まれ、消えていった。
「マシュー兄ちゃん!」
お久しぶりです、大変お待たせいたしました。
そしていつも御愛読頂きましてありがとうございます!
『魔導の果てにて、君を待つ 第三十六話 蒼天 中編』
次回も乞うご期待!




