第三十五話 うつろうものたち 後編
霧の先に足を踏み入れた瞬間、オーリンが目にしたのは途轍もなく巨大な緋色の獣が一人の人間の手によって圧し潰されようとしている姿であった。獣はその大きさと色こそ違うが、オーリン達が出会った金狼の姿によく似通っていた。光り輝く剣を手に猛然と攻撃を加えている金髪の青年。その姿は雄々しく、青年の咆哮と獣の上げる咆哮とが空間でぶつかりあっている。
その場には青年を補佐するように多種多様な魔導が入り乱れていた。獣と相対している青年を後押しするように、背後から風の魔導を扱っている薄緑色の髪の少年。あどけなさの残る顔に似合わず、十重二十重に風を生み出しては獣の動きを制限している。もう一人は銀色の魔導を纏う銀髪の女性。魔導が開いた両掌の内側で流れては、明滅する度に獣の身体が爆発を起こしている。
二人とも緋色の獣を相手どることに集中しているせいか、戦場に入り込んできたオーリンとマシューの存在に気が付いてはいない。そんな中オーリンはただ一人の男に目が奪われる。青碧色の髪をした壮年の男。全身になみなみと注がれている溢れ出んばかりの魔導は、赤青緑といった鮮やかな色の渦を見せつつ鮮明に形を維持している。
それは魔導に愛された者が持つ力。オーリンが知っている限りでも、ヤン導師や魔導王に通じる強い力であった。高度に操る魔導によってか男の身体は空中を浮遊している。事の成り行きを見守っている姿はその場において殊更印象的であった。
「レインさん!」
少年の声が響き渡る。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
レインと呼ばれた金髪の青年は、光り輝く剣に全霊を込め、緋色の獣へとありったけの力をぶつけるように壁面へと押し込んでゆく。
力と力の争い。その場に存在する数多の力を受けて突き進むレインの剣は、空洞を埋め尽くすほど強大な光の刃となって、天を覆う暗闇すらも光で呑み込んでゆく。
ミシリミシリと破壊を迎えゆく己の身体を歯牙にもかけず、緋色の獣はさらなる力を見せる。開かれた口腔には鮮烈な赤の粒子を集まり、破壊を齎す力を凝縮させてゆく。銀の爆発が起きて幾度その身が崩れようとも、緋色の獣の動作が止まることはない。
「レイン!」
至近距離で戦っているレイン目掛けて獣の口が大きく開いてゆく。空を浮遊していた青碧髪の壮年の男は、身に纏う魔導の一つを即座に開放する。三色のうちの青色が渦より紐解かれて空をゆく。
「祈りを寄り合わせ、天なる母に庶幾う。其れは幾万の時を経て、ににぎなるを思う祈り。──八尺瓊勾玉」
三色より解けた青はその場で渦巻いて円を作り、レインを庇うように前方に展開されてゆく。数十人は覆える規模の青の螺旋。直後、空間が振動して溜められていた獣の力が解き放たれた。
──赤光
地を揺るがす轟音と共に吐き出された爆発。レインを消滅させようと無遠慮に吐き出された獣の赤光の力は、青の螺旋にぶつかると接触した端から力を拡散され流れるように四方八方に弾け飛んでゆく。それでもなお獣の赤光は止まらない。終わることのない赤と青の衝突。力が撒き散らされる度に、世界が破壊されてゆく。
* * *
「……何かがおかしい」
激戦の中にあって、オーリンはこの空間に入ってから抱いていた疑念が拭えずにいた。緋色の獣は恐ろしい力を振るっている。だというのに、オーリンが抱いた感想は全く別種のものであった。
「兄貴、あのでかいやつは強いけど、中身がない」
──人というものは皆、魂魄というものを宿しておる。
「中身……魂魄、魂がないのか!」
マシューの言葉を受けて、シュザの言葉がオーリンの頭の中に唐突に蘇った。あれらの存在にも人と同じように魂魄があるのならば。先ほど見た金狼が魂で、緋色の獣が身体である魄ということになるのか。その考え自体無理矢理ではあるが、オーリンの中で妙にしっくりきた。
だが、それよりもオーリンが気になったのは……そもそもこの場所であの四人の人間は、何故あの存在と戦っているのか。魔導門を通る前にヤン導師から聞かされたのは、この場所がケルオテ大断層の奈落の底であるということと、魔導が流れる先には魔導を望むものがいること。
そして、重要なのは最後に付け加えられた言葉。
「魔導門の先にあるのは、オーリン、マシュー、お主らの力を最も必要とするものである」ということだった。
なぜ、ケルオテ大断層の奈落に緋色の獣が存在しているのかという疑問。そして、力を必要としているものがあの四人の人間であるのかという疑問。
『ふん、珍しい。貴様らは立ち止まるのだな』
頭の中に響く声を聞いて驚きながら、オーリンは横を見る。マシューとオーリンの間には先程交戦していた金狼がいつのまにかいた。
「こいつ、なんか懐かしい感じがする」
『存在が失せたことは解っていたが、巨人がこのような小さき人間に力を渡すとは、酔狂なことだ』
マシューの空色の瞳が金狼を見つめる。そして浮かんできたのは一つの言葉。
「べへ……モス?」
「べヘモス!?」
マシューの言葉にオーリンはぎょっとする。なぜなら、べヘモスというのは大陸創成期に出てくる神話生物。それも怪物と呼び称されし存在であったからだ。だが、人の天敵であるはずのべヘモスから敵意を感じられずにいたオーリンは、槍を持つ手に力を込めることはしなかった。
『利口なやつだ。うつけであればすぐさま喰らえたものを』
「でも、あんたはここで何を?」
『……人はいつになっても愚かだな。見たいものだけを見て、望む結末だけを慾る。たとえそれが幻想であろうとも』
「……べヘモスは待ってるのか?」
マシューは胸の内から湧き上がった言葉をべヘモスへと投げ掛ける。その時マシューにはなぜかべヘモスの気持ちが分かった。まるでかつて親密な関係であったかのように。金狼はあまりにも気安く話しかけてくる少年に嘆息をもらす。
『巨人の馬鹿め。本当に口の軽いやつだ』
「待っている? こんな場所でか」
オーリンはべヘモスを見ながら、湧き上がってくる疑問を一つずつ口に出していく。
『ここ数百年……ルードの血族はもうここには来れんようだな。血が途絶えたのか、薄まったのか。全てを忘れてしまったか』
「ルードの血族を待っている?」
『……ルード、エヒテ、ラウ、ナハ、グード、ラシアン、ジュドウ、ルメア、ユピテル、最後はノールか……あれは随分な置土産を残していったが』
「ルードの歴代皇帝!?」
べヘモスの言葉に出てきた名前は、見知ったものから知らぬものまであった。だが、それらは全てがルード帝国の皇帝の名であることが伺い知れた。特に初代皇帝ルードと並ぶ英雄、十代目皇帝、英雄皇ノール・ヴァン・ミドナの名を知らぬものは大陸にはいない。
『ここも随分と騒々しくなったものだ。黒きモノが増えてからは目も当てられぬ』
「黒き魔獣。あれはベヘモスと関係あるの?」
『ふん。あれは獣の形をしてはいるが、そもそも存在の理すら違うものだ。あそこにいる人間どもは、我が黒きモノ共の元凶であると思っているようだがな』
「なんと! では、戦いを止めねば!」
衝撃的な事実をさらりと述べられて、オーリンはベヘモスとマシューの会話に割り込む。
『あれは止まらぬよ。我と存在を乖離して久しい。それに、黒きモノ共が狙っているのはあれの身体に埋もれし不滅の肉体よ』
「不滅の肉体……まさか」
『実に恐ろしきものよ』
オーリンはその不滅を知っている。五百年前の英雄皇ノール・ヴァン・ミドナが関係しているとなれば、ただ一つの答えに辿り着いてしまう。魔導王やグラムが戦ったであろうギリエラのグィルデ王その人に。その時、緋色の獣から放たれた赤光が乱れ飛びながらオーリン達を襲う。瞬間、ベヘモスより放たれた黄金の光がその全てを掻き消す。
『敵がいなくなれば、あれも止まる』
「それでは、あの人達は!」
『死ぬな。だがそれがこの世の定めよ。強ければ残り、弱ければ消える』
ベヘモスの金色の眼は、無機質な眼で戦闘中の人間達を見つめている。
幾度となく繰り返されたであろう連綿と続く事象がまた起こるだけ。ただそれだけのこと。
緋色の獣の内側より産み出される大いなる力によって、獣は徐々に形勢を逆転していく。今も赤光は止まらない。魔導はあるが、その場においては消えてなくなる量の方が多かった。故にこのままでは追い付かなくなる。オーリンはベヘモスと眼が合う。その眼はそれ以上何も語らない。語ることはない。
光が飛び、魔導が入り乱れる。
そして、青の魔導を放っていた壮年の男が緋色の獣に目を付けられると、幾重にも折り重なる赤光が放たれる。
空にある男はレインを守っていた魔導を解く事もせずに、あるがままそれを受け入れようとしているようにも見えた。風の魔導も、銀の魔導も、螺旋を描く赤光を止める事は出来ない。今、目の前で男の全てが消えようとしている。
その時、黒き疾風が空を駆ける。
「──ごめん兄貴、俺いくよ」
御愛読頂きましてありがとうございます!
『魔導の果てにて、君を待つ』
次回も乞うご期待!