九
山の稜線から夏の太陽が顔を出し始める。夏にもかかわらず髪を切るのを放置している淳己はけたたましく耳元で鳴る目覚ましを素早く止めた。
蒸し暑い中、六時をデジタルで表すスマートフォンを手に取って伸びきった髪の毛をむしゃくしゃと掻く。スマートを手に持ったまま淳己は台所へとぼとぼ向かった。無造作にソファの上にあるリモコンを取り小さなテレビをつけるとアナウンサーがニュースの解説をしている。ガチャリと子供丈の冷蔵庫を開けて昨日作っておいたキャベツ焼きの残りを取り出した。
ふと、冷蔵庫の奥に小さな石が入っているのに気付いた。石ころは緑色の宝石だった。
淳己は不思議に思ったがそれほど難しく考えず机に座り宝石を手の上で回しながら今日の予定を組み立てている。都心の気温は最高三十五度となる猛暑日だった。
『今日は猛烈な暑さに見舞われます、熱中症にご注意下さい』
お天気ねぇさんはそれだけ言って引っ込んだ。
ソースを舐め切って汚くなった皿を白く汚れた流し場に置きほったらかしにされたソファの上の服を、今着ている寝巻きと取り替えた。ファッションセンスは絶望的だったが怪しくはない。
淳己はおもむろに窓を開けてぼろアパートの二階からまだ煮えたぎらないアスファルトを見つめる、猿の様に腰を曲げたお婆さんが近所の奥さんと話し込んでいる。
水で歯磨きをし顔をパシャリパシャリと二回洗って顔を拭く、鏡には髭が口周りに生えた男が映るのみだった。
淳己は軽い靴を履いてぎりりと扉の音を立て外に出る、宝石を机に投げて、小さな鍵を玄関の扉にかけて本を買いに行った。
本といっても恋愛小説や刑事小説などの賞をとった人が書くような本ではなく、絵で人に語る漫画を買う。淳己の部屋は歴史の様に漫画が積み上がりリビングにまで侵食している始末であるが彼は何も気にせず漫画を買って来てはリビングに並べるのである。
汗ばみ男臭さが充満した電車にゆらゆらと押し潰されそうになりながらも痩せ我慢して乗り越える。車内と変わらない暑さの駅のホーム、数両で編成された電車からは蟻の巣を崩したごとく人の雪崩が起き、階段やエスカレーターに走り込み地面へと降る。淳己はその中で勝手に運ばれながら目的の出口へと向かった。
プシューと電車が息を吐き重たい体を電気で動かす。電車は走り去る、駅前の人も走り去る。淳己はぽつんと一人取り残された様に感じた。
通勤通学者が多く、歩く幅すら確保しづらい道を暫く歩いて行くと人が疎らな道へ来る。淳己が高校入学時に一つ上の先輩から教えられた店に二十歳を過ぎフリーライターになった今もなけなしの貯金を切り崩し通い詰めていた。そこは駅から離れに離れバスも通わない辺境地にあった。
店は御歳年八十歳になるが腕の筋肉が未に若い年老いた店長一人で切り盛りされている。爺の自慢話は必ずこの店の話だ。嫁にはこの店を頼んだ翌日に離婚届が郵送できたことや一人息子は店に見切りつけてさっさと何処かに行って消息不明の事など、本を物色している間に色々と淳己は聞かされていた。
二階に住宅がある木造の一軒家、一度扉をくぐれば淳己の聖域だった。何度も店に通ううちに店主は唯一の顧客のために古本から新しい本まで全て淳己の趣味に合わせた。
淳己は人一人が通れる通路を当てずっぽうに歩き複数ある埃だらけの棚一つから真新しい本を取り出した。題名からは内容が察せない既視感があったが思い出そうとすると頭痛が起きて良く思い出せない。彼は気になり少々高いが買うことにした。古めかしい本を読んでいた店主の元へ行き財布を取り出し中身を見た、千円札が一枚入っているのみだった。
淳己の顔を見た店主はニヤリと笑って一言言った。
「まけるから明日も来てな」
淳己は千円札一枚を店主に渡して店を出た。負けた様な気がしていたがお金がない分にはどうにもならなかった。
帰り道は無音になっていた。駅に行く道も駅前も朝とは打って変わり静寂に包まれている。改札をくぐり階段をとぼとぼ登ったところで丁度電車がやって来た。扉は緩慢に動いた。
「痛っ!」
淳己は空いている長椅子にドンと座ったがすぐに立ち上がった。お尻には宝石をが突き刺さり光に当たり爛々となっている。ズボンのポッケにねじ込んだ。
宝石を潰してやろうとポケットの中でいじくり回しているとポケットから飛び出し席に落ちたが拾わずに放置した。ようやく予定の駅に着き家路へ急いだ。往復するのみで夜あたりまでかかる。淳己は店主に明日も来いと言われたのが急に面倒くさくなってきた。体は勝手に前向きになった。
家の前に着くと鍵が空いているのに気付いた。淳己は最近の物忘れの多さに憂鬱になったが気を取り直して玄関に踏み込んだ。
淳己は呆然と立ち尽くす。部屋の扉は開けられ中身の本が廊下にまで雪崩のごとく崩れ去り、無惨にも本は破られている。淳己はさらに奥のリビングを確認したが荒らされた形跡は見えなかった。部屋を片付けるのも嫌になり、回り回って晩御飯の準備をし始めた。冷蔵庫の中に大振りのキャベツや間違えて入れた片栗粉が居座っていたためキャベツ焼きを作ることにした。
暫く、二つ作り上げると片方は冷蔵庫へ入り、もう片方は机にのった。リモンコンを手にとったが点けても興味を持てる番組がないことを思い出すとソファに向けて放り投げ、黙々と机に向かった。
淳己は机の端にある緑色の宝石に気付いた。部屋に仕舞おうと思ったがしまう場所が無いので適当に冷蔵庫の奥に引っ込めた。
食べ終わり、流し場で二つの皿を洗い片付ける。風呂にも入り着替えた服をソファに投げた。ごみ溜めの部屋のベットに横になりスマートフォンでタイマーをセットすると、寝た。
無理がある