四十
仮題『ロス・ツリー』
男が目を開け欠伸をした。
有機物を使わないクッションの上で起き上がり、周りを見渡すと数十年前に鉄とアルミで作られた部屋は一人暮らしには充分の広さを確保しているとは言い難かった。海上に浮かぶ国際都市“ロス・ツリー”は常に限られた空間を生かして全てを賄われるため、低所得層の人々の住居がワンボックスの――まさにコンテナ――手狭なものになってしまうのも仕方のないことである。
キッチンは流し場と電気コンロ、トイレはシャワー室と併設されいるが出てくる水は煮沸しても飲めないほど有害な物質が混ざっている。そのせいか、彼は一種の蒸留装置を部屋の一角に置いているた。年季の入った装置の投入口は有毒物質で歪んでいるものの、まだ使用できる。
のっそりと立ち上がった男はトイレ上の収納棚から朝食を取りだし、電気コンロの上に置いてスイッチを押した。
「遠いな」
窓の外には昼夜問わず煌びやかに輝き数万の人口を誇る“ツリー”が見える。食料、電気、工場の何もかもを“ツリー”は供給し、余剰は男の住む階層にも届いているほどだ。
パン、と空気が破裂した音で朝ごはんは完成する。ミニトマト、レタス、大豆、全てペースト状のもので栄養価は保証されている。だが、食す男の顔は決して美味いとは語っていない。
付属のサプリメントを蒸留水で胃の中に押し込んで、男はシャワー室に向かった。
*
巷では二〇〇〇年代のポップカルチャーが流行っているらしい。若くはだけた者たちが思い思いの化粧と服装でファッションとやらを楽しんでいた。
それを脇目に今はもう動いていないLRT軌道にそって歩くと、彼の職場がある。コンテナ住居の連なるビル群のその一階、早朝から準備をしている同僚の姿を一瞥する。
「おうおう、今日も遅刻ですかい?」
同僚、といっても商売敵だ。絡んできた同僚の店にパッと見ではガラクタだらけの家電量販店だが、実際は解体途中のパーツたちである。
彼らは“ツリー”から廃棄される使い物にならない電化製品を回収して使い物になる部品を売るしがないリサイクラーだった。
「どうせ客が来んさ。早く店を開けても遅く開けても結果は変わらん」
「そう拗ねるなよ。昨日だっていいやつ手に入っただろ」
上空を治安維持機構のホバー車が高速で移動し、同僚の声をかき消した。辛うじて聞き取れた部分を咀嚼し、男は返答した。
「……なんのことやら」
「俺だってスラム人間の端くれさ、真っ赤な液体がタダの冷却液だなんて考えるか?いいや全く、それほどいい子ちゃんじゃないさ
海上都市“ロス・ツリー”にスラムが出来始めたころ、にわかに広がったドラックがあった。それは赤く水よりも粘り気があり甘かった。最悪なことに、水よりも遙かに中毒性があった。一度口に含むとドーパミンを含めあらゆる快楽物質の分泌を促すが、効力は非常に短期間だ。
曰く、少量づつ摂取するようになって天国のゾンビとなるらしい。
「もっと奥に行けば小分けにしたって大金が手に入る。が、お前は奥を知らない。俺なら知ってる。どうだ?」
LRT軌道を踏みつけて同僚は言った。ほとんど額が付きそうな距離で、男はたじろぐ。
「あれは……ただの冷却液だ。期限切れの」
視界の端で壊れかかったホログラムがチラつく。普段なら無視できる古の広告は今日に限って主張が激しく、同僚から眼を逸らすのにちょうどよかった。
「ちっ、意気地なしめ」
無理だと悟った同僚は悪態をついて自分の店に戻る。
男も己の店へ――建物と判別できるか怪しい――移動する。
“ロス・ツリー”の初期住宅の残骸を利用した店は軒先だけが安全だった。内部にはキッチンや分離したトイレバスルームが存在するが、おおよそ利用できる状況にない。触れば遙かに上に連なるボックス住宅が崩壊してしまい、生き埋めと圧死、正真正銘の天国への切符を手に入れることになる。
軒先に置かれた複数の機械、それが男の商売道具だ。
数十年前に使用されたゲーム機、もしくは数年前に違法化した暖房器具など“ロス・ツリー”の住民がみたら鼻で笑うであろう機械がギュウギュウ詰めにして並んでいる。
男はドライバーと金槌を持って一つ一つを分解し、使える部品とそうでないものに分別する。使える部品は軒先に並べ、そうでないものは箱に捨てられ僅かな金を持った浮浪者を待つことになる。
「今日は当たりだ」
古いゲーム機からプラチナを取りだした男は言った。
そのまま次のガラクタを手に持って分解していく。銅線、集積装置、銀紙、絶縁体の膨大な量を一つ一つ丁寧に捌いていき、軒先に値札と一緒に並べる。
三つ目の機械の外装を取り外した時、店の前に一人の子供がやってきた。
「……ゴミ」
青いレインコートに光る髪飾り、艶処理された靴をみるところ少女は“ツリー”からやってと男は睨んだ。レインコート、下界に降りる“ツリー”の住民が身に着ける服だ。実際はレインコートではなく少しテカリのあるワンピースなのだが、男は“ツリー”のファッション事情など知らなかった。
「買うのか、買わないのか?」
野次馬は必要ないと付け加える。
「買う」
「キャッシュしか受け付けない。生憎、カードは流行ってないんでな」
男の住む地域にはカードを扱う機械があったとしても、リサイクラーによって分解されてしまうのがいつものことだった。
「成長促進剤、さっき向こうのリサイクラーが教えてくれた」
「……おい」
「分かってるって。でも、カードで」
少女の見る先にそのカード端末があることに気付いたとき、男は一筋縄でいかないことを悟った。
数世代前のカードリーダーの基礎構造は結局最新鋭のものと変わりはない。ただホログラムと生体認証が可能か不可能かの違いぐらいである。
片腕に埋め込まれたチップをみせつけ、男を促す。
「あれはカードリーダーであってタッチ決済ってんなら当てが外れたな」
子供に虚仮にされた仕返しに茶色い歯を見せながら笑う。
赤い危険薬物を売る欲望はあるが高層の住民に売る欲望はなかった。男はこの液体が上からの産物であると信じており、治安維持機構を掻い潜ればいくらでも手に入ると考えていた。
意地だ。スラム一歩手前に住んでいる男は“ツリー”の住民を嫌っているに過ぎなかった。
「あの型式ならいけるでしょ」
だが、少女は平然と言ってのけた。
「意気地なし」
男は目を伏せて黙り込んだ。
視界の端に赤い液体ドラッグを補完している冷蔵庫が映りこみ、そして忌々しく少女を睨む。
恨みも含んだ眼の奥に青い子供は気押されることなく目を合わせ続けた。
「はぁ……」
“ロス・ツリー”において絶対的支配――治安維持機構による断罪――を確立している“ツリー”から降りて下層に来ることは相応の覚悟が必要である。それこそ大人数人でも根こそぎ奪われて可笑しくない。
しかしこの“ツリー”の子供はたった一人で赤い液体ドラッグを手に入れようとしている。
今はリサイクラーとして生きる男はほんの少し、少女に興味を持った。
「お前の持つ全財産、それでどうだ。俺にとっちゃそれだけの価値はあるんだ。ツリーの人間にはした金で買われるのだけは許せんさ、子供よ、親からいくらお小遣いをせがんでるか知らんがその全てを寄こせ」
「意気地なしに大人げない。それでも商売人?」
腕を突き出して言う。
本気だった。
「全財産で買う。付いてきて」
「どういうことだ?」
「いったでしょ、全財産」
ちっぽけなリサイクラーは不敵に笑う処女に恐れを抱いたのだった。
少女は“ツリー”の方向には向かわなかった。それどころかあの絢爛豪華なビル群から離れていき、次第に“ロス・ツリー”外縁部のスラム街に向かっている。
かつて中心に向かって多くの人を運んだトラムの残骸が横たわり、モノレールと車道が一体化した高架橋が崩落している。十数年前、住民を円状に配置し中心に工業と行政府を設置した“ロス・ツリー”は巨大階層型社会すなわち“ツリー”の建設により崩壊した。
「お前は上層の人間じゃないのか?」
流入する人口に対処するためだった複合施設は外縁部と協力し合う構想が崩れたことで、実際的には富の集中につながった。隔絶された下層の住民は“ツリー”を上層と呼び、自らを下層と称すのに時間はかからなかった。
「今は上層だよ、ちょっと狡いやり方でね」
暗い顔をして少女は言う。
「IDを奪ったんなら仕事だってあるだろう。どうして行かない?」
“ツリー”の住民には仕事が配られる。IDさえあれば貧相な身なりであってもそれなりの収入を得られることを男は知っている。この子供にどんな理由があるにせよ、上層にいかないことを考えられなかった。
「あそこで働くの」
触れてはならない事柄に少女は鬼の形相になった。子供ながらに重いものを引きずっているようで、男は黙って後ろを歩くことにした。
触らぬ神に祟りなし。この場合、男が矮小なのかもしれない。
暫く歩き、少女はスラム街の中で突出した建物を指さした。
電波塔である。
「……ちょっと登る」
「分かった」
入口の自動ドアは壊れて動かないが、古びた昇降機はまだ生きているようで少女がスイッチを押すとガコンと音を立てて扉が開いた。
LED照明はないものの、スイッチのLEDライトは光っている。
最上階へのスイッチを押した。
チリンと軽快な音で扉が開く。そこには絶景とは言えないが見る人を圧倒的する景色があった。その昔“ツリー”が出来上がる前は外縁部に設置された数十基の電波塔が最高高度であったが、今は雲に届こうとしている“ツリー”を見上げなくてはならない。
「遠いな……」
男は感慨深く言った。
比較的新しい移民であったため“ツリー”に入ることの出来なかった両親のは、いつも忌々しく睨みつけていたが、男にとっては憎悪――主に人に対して――と憧れの大地であった。
「ここは機構も来ないし、スラムの人間も昇ってこない」
「商談はもう成立いる。俺が財産を貰ったらこのドラッグを渡す。たったこれだけ、ああ、コイツを扱うのはもっと難しいと思ってたよ、こんな楽な仕事なんてな」
懐から赤い液体ドラッグを取りだして言った男に対して、薄気味悪く子供がしない笑顔を浮かべた。
「なんだよ……」
「これ、ただハイになるものだと思ってた?」
真っ白い歯を見せつける少女の気味悪さに男は黙ることしかできなかった。
「まっ。うちも教えて貰ったんだ。このIDと服の持ち主にね。上層のお偉いさんの娘、ちょっとあって死ぬ前に教えてくれた」
赤い液体ドラッグを力づくで奪い去り、トロトロ粘度を確認しているように回す。
「“ロス・ツリー”で生きる人間なら知らないこの赤いやつは……名前の通り成長促進剤、全てを促進する“ツリー”の源」
「快楽物質の、だろ?」
「言葉のままだよおじさん。治安維持機構がわざわざスラムにまで出向く理由がこれにはある」
疑問だらけの男が口を開こうとしたとき、電波塔から見渡せる範囲で爆発があった。スラムでは珍しい光景ではないが、治安維持機構の航空機が一緒なのは稀有な事例だ。
「人を化け物にする。本来の用途は植物の促成栽培だったらしいけど、管理が雑で下層の人間が手に入れちゃった。それが運悪く食べるのもないスラム街の人間で、運悪く小分けにせずに飲んじゃった。するとどうなったでしょう。あら不思議、理性をもった人間が何もかもを貪り尽くす化け物へ」
手の上にで赤い液体をもてあそぶ少女はさぞ楽し気に語っている。男からすれば正気の沙汰ではかったものの、逃げるにも報酬をまだ貰っていなかった。
「上層から下層に流出した成長促進剤は全部で四万五千本、その内八割がスラムでチマチマ消費されて大体二割が一気に使った。大体だから残りがあって、治安維持機構が見つけられてないのはあと一本」
少女は下から男を覗き込む。
「ねぇ、これどこで手に入れたの?」
獰猛な野生獣の眼をしていた。
青いワンピースがゆらゆらと風に揺れる。
光る髪飾りが点滅する。
男はたじろいだ。
「意気地なし」
己よりも遙かに低い年齢の子供に煽られ、男は今にも憤慨しそうなほどハラワタが煮えくり返っていた。しかし、矮小な精神の虚弱な一部がそれを赦さずじっと静かに抑え込んでいる。
話すべきか離さないべきか、損得勘定のみをよりに男は結論を急ぐ。
「あの女の子はこれを探して死んだ」
まだ答えない。
「絶望しながら死んでいった」
男は結論を得た。
「つい昨日のように覚えてる。死んだ両親の遺品を全部売っぱらってもとてもIDには届かなかった。残ったのは微妙な金の集まり、盗っ人に盗られるのも時間の問題だった。だから使う、普段なら見向きもしないバイヤーのところに行った。そいつも死にかけだった」
少女は興味深そうに男の話を聞いている。
「今持ってる店はそいつのもんだ……まさか冷蔵庫の中に新品のドラッグがあるなんて思いもしなかったが」
死にかけのバイヤーは男の目の前から消えてその後どうなったかは知る由もない。しかし、この“ロス・ツリー”において下層に生きる人々が健康を害すと生きる方法は極端に狭まった。
中央以外に病院がない。
究極的集約化はシステムの崩壊後、外縁部の人々に想定以上の負荷を及ぼした。医療、インフラ、教育、その他。住む場所以外の全てが外縁部には存在しないのである。
「どっかのお嬢さんはどうしてドラッグを求めてたんだ?」
「“ツリー”が嫌いだったらしいよ。ぬるま湯に下層を蔑んで、自分たちはなんの苦労もしてないくせに……不幸を謳ってる」
あらゆるものが徹底的に管理されている“ツリー”では治安維持機構が全てだ。上層の人間にとって、自由とはIDが齎す限られた範囲の者に過ぎない。
男はそれを理解できなかった。自由で言うならば男は上層の人間よりも遙かに自由に生きていたせいか、少女の語る怨嗟を半分も理解できているか怪しい。
「うちはこんな世界を認めたくない。一度生まれる場所が違っただけで、誰かの廃棄したごみを漁って生きて行くのか、管理された世界で生きて行くのか。そんな違いを認めたくない」
「俺にとって……あの“ツリー”は遠くにある憧れだ。明日が保証されるなら治安維持機構に管理されるのも悪くない」
そこまで言って男は自分が恵まれた立場にいることに気付いた。
僅かな稼ぎであるが毎日を生きるのに食にあぶれたことはなく、中央から伸びる電気とパイプの恩恵に預かれる立場である。このスラムでは電気さえ来ていれば良い方で、かつてのように水道など一滴も流れていない。
商売敵、同僚の言っていたことをようやく理解した。
「この場所さえなければ、おじさんと同じだった。でも“ロス・ツリー”はスラムを許容してるし対処もしない。それは、それは……不公平だよ」
治安維持機構の航空機がスラムの住民が作った建築物を破壊しながら進んでいる。
「成長促進剤が無かったらスラムに機構は全く来なくて、完全に放置された世界が広がってたと思う。親の仇だけど、そこだけは……ああもう、やっぱり複雑」
「お前に考えは俺なんかに分かるような小さなもんじゃないのは分かった。それをどうするつもりだ?」
もう男は全財産を貰おうなどと考えてはいなかった。
髪飾りが揺れる。
「“ツリー”を破壊する。死んだ女の子の計画をうちがやるだけだけど」
上流階級の娘とやらがどうして“ツリー”の破壊、まして“ロス・ツリー”の秩序を破壊しようとしているのかは全く想像も出来なかったが、きっとこの目の前の子供と同じ感情を抱いたとだけのだろうと予想した。
ちっぽけで意気地なしの男は関係のないことだと心を据える。
「頑張れよ、俺はお前を留める意味はない」
「意気地なし」
じっと睨まれた男は“ツリー”に目を逸らした。
豪華絢爛、中央の巨大構造物“ツリー”を中心に何十と立ち並ぶビル群は様々な色に煌めき何十億を超える命を支えている。教えられなければここが海上だとは気付か居ないほど、この“ロス・ツリー”は人類史上もっとも偉大な建築である。
「ただのリサイクラーに何が出来る」
「おじさんはこれをずっと使わなかった。おかげでこのIDの持ち主も喜ぶよ」
何があれば上層の人間からIDを貰う事態になるのか男は気になったが、同時に言葉になる感情とは思っていなかった。問う勇気もなく、決意を固める少女の横顔だけで満足した。
「そうだ。全財産」
「もう代金はいい。俺が全部悪かった」
子供らしく丸い目をして言った。
「あの子が遺したものが一杯あるんだけど」
「……」
男は一瞬悩んだ。
「持って帰らん。決めた」
治安維持機構の航空機が燃えるスラムから飛び出して“ツリー”に戻っていく。
風が吹き、炎がスラム街から男の住む町の方向へ移動し始めた。
「分かったよおじさん。もう二度と会わないだろうけど、ほら、握手」
華奢な手をつき出した。一方で男の手はごつごつとして火傷の跡も多く、子供の二倍以上の大きさがある。真剣な表情で握り、そっと離す。
「帰りもそのエレベーターを使えばいけるから、バイバイ。うちはあそこに行ってくる」
“ツリー”を指さす少女は突然電波塔から身を投げ出した。
刹那の出来事に唖然とする男が我に返って少女の落ち行く先を見下ろすと、治安維持機構のホバー車に飛び乗って“ツリー”に一直線に向かう少女の姿があった。
「……敵わないな」
男は踵を返してエレベーターへ向かう。
火事の影響かスイッチを押しても全く反応しなくなっていたため、結局男は階段を使う羽目になった。
しかし、男は少女と上流階級の娘の痕跡を見つける。
少女の言った通り、中央にしかない装置がかなり状態良く残っていた。中には男が見たこともないものもあり、手を伸ばして確かめようとした。
「意気地なし、か」
傍に置いてある大きなアルミの袋に気付いて男はその伸ばした手を引っ込めた。
枯れた花が目に留まり、男はかがんで膝をつく。
上層の人間は下層においてかなり恨まれている。大人が旅行気分で降りてきたらそのまま帰ることが出来ないほどには激しい感情が下層の人間にはあった。それがたとえ年端のいかない女の子であったとしてもだ。
一方で、子供一人下層で生きて行くのも難しい。
どちらがどちらを庇ったのか男は証明する術を持たなかったが、どちらにせよ結末は一緒だっただろう。
矮小で意気地なしの男に訪れる結果は変わらなかった。
今度こそ男は長い階段を下っていく。
*
男が目を開け欠伸をした。
有機物を使わないクッションの上で腰を曲げ、のっそりと立ち上がった男はトイレ上の収納棚から朝食を取りだし、電気コンロの上に置いてスイッチを押した。
「遠いな」
光の少なくなった“ツリー”にはもう手が届きそうになかった。
パン、と空気が破裂した音で朝ごはんは完成する。ミニトマト、レタス、大豆、全てペースト状のもので栄養価は保証されている。だが、味付けは最悪でうま味の一つも感じられない。
付属のサプリメントを蒸留水で胃の中に押し込んで、男はシャワー室に向かった。
遠い昔に止まったLRT軌道を歩くと男の仕事場がある。コンテナ住居の連なるビル群のその一階、早朝から準備をしている同僚の姿を一瞥する。
「おうおう、いつから重役になってんだって?」
商売敵であるが曲がりなりにも同僚だ。冗談を言い合えるほどにはお互いを信用している。
「最近は客が多いな。少し後悔してる」
「だろ?」
同僚は自慢げに頷いて自分の店に戻る。
男も己の店へ――建物と判別できるか怪しい――移動する。
“ロス・ツリー”の初期住宅の残骸を利用した店は軒先だけが安全で、内部にはキッチンや分離したトイレバスルームが存在するが触れば忽ち崩れ去って天国への片道切符を手にすることになる。
普段通りに仕事に取り掛かろうとガラクタ同然の装置を持ち上げると、目の前に青いレインコートを着た少女がいることに気付いた。
音も無く現れたため、男は驚いて持ち上げたガラクタを床に落としてしまった。
「な、な。死んだんじゃ……」
「意気地なしを通り越して失礼」
睨まれた男は委縮して目を逸らす。目線の先にはにやりと笑う同僚がいた。
「施設は破壊できなかったけど人は減った。またここに活気が戻るかもね」
「……そういえばトラムを復活させるなんて話があったな」
男は客からそういった話を聞いていたが、興味がなかったのか今まで忘れていた。
少女はため息を吐いて店にずかずかと入り込む。
「……おい」
「分かってる。けど行く先もないし仕事もない。またスラムで生活しろってのはもう無理」
少女は適当なガラクタの上に座る。
もう動く気はないようだ。
「はぁ……」
男は折れた。
「好きにしろ。ガラクタ集めは手伝って貰うからな、じゃなきゃ部屋に立ち入り禁止だ」
「分かったよおじさん。ほら、握手」
華奢な手は相変わらずで、男の手もごつごつとして火傷は酷くもっと汚れてる。
ただ今回は二人とも満足そうに手を握った。




