転
サトルが森に来て、何日が経ったでしょう。
「ぼくも、リスだったら良かったのに」
身軽に木々をかけのぼるリスを見上げて、サトルは言いました。
「サトル、リスになりたいの?」
リスから木の実を受け取りながら、ヨーコが首をかしげます。
「リスじゃなくても、ヘビでも、タヌキでも、クマでも、トリでも」
森にいる動物たちを思い描きながら、サトルは答えます。
「森で暮らしやすい生き物なら、なんでも良いよ。ニンゲンは、不便だから」
森での生活はおだやかで、楽しく、静かでした。不満と言えば、木登りにも、魚取りにも適さず、なま肉を食べることも出来ない、自分の身体のことばかりで。
「森が気に入った?」
「うん」
「森に住む生き物に、なりたいの?」
「うん」
迷いなく答えたサトルから少し目をそらし、くいと首をかしげてなにやら考えたあとで、ついとサトルに視線をもどしてヨーコは言いました。
「それなら、ドングリ池にお願いすれば良いわ」
「ドングリ池?」
初めて聞いた名前にサトルはきょとんと目をまたたきます。リスから貰った木の実をかじって、ヨーコは説明しました。
「オンボロの橋を渡った先にある池よ。あそこにドングリを投げ込んでお願いごとをすると叶うの」
「なんでも?」
「なんでも」
ヨーコはうなずいて、でも、と続けます。
「お願いを叶えて貰えるのは一度だけよ。二つ目のお願いごとは叶えて貰えないし一度叶えて貰ったお願いごとの取り消しも出来ないわ」
だから、お願いごとをするならよく考えないといけないの。
言って目を細め、ヨーコは笑いました。
「オンボロ橋を渡るのも大変だしね。それなりの覚悟がないなら、お願いなんてしない方が良いわ」
「なんでも叶うのに?」
「なんでも叶うからよ」
どうしてか、なぜ?と訊ねる言葉が出せなくて、その話はそこで終わりました。
ヨーコの肩にコマドリがやって来て、ぱくぱくと口を動かします。歌上手だと言うコマドリの歌声を、サトルが聴いたことはありません。雷が轟くようだと言うタヌキの怒鳴り声も、カエルが震え上がると言うヘビのささやきもです。
「たとえば、ふたつ同時にお願いしたら、どうなるの?」
それが少しさみしくなって、サトルは問いました。
「叶えたいことがふたつあるの?」
「この森は、静かじゃないんでしょう?」
サトルが森が静かだと言うと、ここはにぎやかよとヨーコは言います。
「そうね」
静かじゃないと言うサトルの言葉も、ヨーコは肯定しました。
「でも、ぼくにはなにも聞こえないから」
「聞きたいの?」
「……ここは、静かだから」
もし、ここが街中だったなら、とてもとても、音が聞きたいなんて思えなかったでしょう。けれど、ここにはサトルをおびやかす音はなくて。だから、ここでなら音が聞こえても良いと思うのです。
「そっか」
ヨーコは頷き、でも、ドングリ池に行こうとは言いませんでした。
「この森はね、誰も拒んだりしないわ」
魚取りをするクマをながめるサトルの横で、澄んだ川の水を蹴りあげながら、ヨーコはふいに言いました。
「誰も拒まない代わりに、誰も惜しんでもくれない」
突然言われたことの意味がわからず、サトルはヨーコを見つめます。
「それでもサトルは、この森の生き物になりたい?」
「どうして?」
「森の外には、サトルを惜しむひとがいるでしょう。森の生き物になったら、二度と、そのひとたちはサトルに会えないのよ」
ゆっくりとまばたきをして、サトルは言い返します。
「いないよ」
「ウソツキ」
サトルを見て意地悪げに笑ってそう言ったあとで、ヨーコは水面に目を落としました。
「ニンゲンはウソツキだわ。ホントウなんてどこにもない。でも、ニンゲンはウソツキじゃなくてぜんぶホントウなの」
「意味がわからないよ」
「どれもホントウで、どれもウソなのよ」
大きく跳ねあげられた水が、きらりと光りました。
「ニンゲンはね、思ったことしか口に出来ないの。思いもしないことは、言えないのよ」
「そんなこと」
「あるわよ。でなきゃ、会話が成り立つわけないでしょ。ニンゲンが口に出来るのは、ニンゲンに考えられることだけなの」
「だから、ぜんぶホントウだって言うの?」
「少なくとも、言ったニンゲンに考えられることではあるわ」
跳ねあげられた水がかかって、クマがびくりと震えました。振り向いてヨーコをちらりと見たクマは、ヨーコが攻撃して来ないことを確認して、また魚取りに戻ります。
「ニンゲンはいろいろ考えるから、いちどにぜんぜん逆のことを思ったりするし、昨日と今日でぜんぜん違うことを考えたりするの。どっちがホントウなんて、きっと本人にすらわかってないわ」
「それは」
「サトルはニンゲンが嫌い?」
「そんなの」
嫌いに決まっている。
嫌いになんかなれない。
ふたつの言葉が渋滞して、喉がつまります。
ヨーコから目をはなして、サトルはうつむきました。
「わからないよ」
「嫌いだし、嫌いじゃないのよ」
サトルに代わって、ヨーコが答えます。
「ニンゲンはね、そう言うことが出来るの」
「それは」
「どっちをホントウにするかはね、受け取る相手のニンゲンなのよ」
ヨーコはなにが言いたいんだろう。
やめて、それ以上聞きたくない。
サトルのなかで、言葉が渋滞して行きます。
「心の声が聞こえたって、なにもわかりはしないのよ、サトル」
聞きたくない。
わかりたくない。
でも。
「耳をふさいだら、大事なものまで取りこぼしてしまうわ」
そんな言葉いらない。
なにも、わからなくて良い。
ホントウを、知りたい。
「いつまで、耳をふさいでいるの、サトル」
「うるさい!!」
静かな森のなかで、初めて口にした言葉でした。
サトルを振り向いたヨーコは口を閉じ、そして、開きました。
「ドングリ池に頼らなくたって、音は聞こえるわ、サトル。耳をふさぐことを、やめれば良いの」
「ふさいで、なんか、ないよ」
「ふさいでいるのよ」
ヨーコの手がのびて、サトルの頭を抱き寄せました。
「ドングリ池に頼れば、ホントウの音がしないようには出来るわ。フツウのニンゲンになれるの」
「でも」
「でも、こわいね。相手がなにを考えているかわからないのも、わかるのも、こわいね」
ヨーコが、サトルの背中をなでます。
「でもね、ひとりはさみしいんだよ、サトル。ニンゲンは、人間だから」
「人間」
「人間であるのに邪魔なら、ホントウの音なんて聞こえない方が良い。どうせ、どれがホントウかなんて、わからないんだから」
「でも」
ふ、と、ヨーコはサトルから離れました。
「ドングリ池に行こう。サトル」
「池に……」
「人間になることも、人間じゃないものになることも、今なら選べるわ」
立ち上り、いつものように手をさしのべるヨーコを、サトルは見上げました。
「森は拒まない。でもね、サトル。本当に、サトルを惜しむひとはいなかった?」
拙いお話をお読み頂きありがとうございます
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