第5章 部活
街を覆っていた冬の装いもしだいに薄れ、空気はいつの間にか暖かくなっていた。ジュニアオリンピックカップが終わって二週間が過ぎたが、新記録を出した無名の小学生への注目は止まない。
各メディアは競って少女を追うが、泳ぐこと以外にあまり関心の無い彼女は、家庭や学校での様子を聞かれるのが苦手だった。
ある日の取材では、答えに窮して黙っている彼女を見かねた父が、代わり記者の質問に答え、結局座っているだけの彼女は暖かさのせいもあってうつらうつらと居眠りしてしまう程だった。
そんなとき、地域の文化・スポーツの振興に貢献した青少年を表彰する恒例の式典が公民館で開かれ、西浦スイミングクラブからはJOCで活躍した数名の選手が呼ばれていた。雑誌取材で遅れた彩が会場に入ったとき、一番後ろの目立たない出入り口の傍らに見覚えのある少女を見つけた。たまらず駆け出し、そばまで行くと息も切れ切れに話しかける。
「神崎さん! ごめんなさい……。五十メートル、駄目だったの……。何て言ったらいいか……」
瀨奈は切れ長の目を細めて、ちらりと彩を見ると、すぐに顔を背けた。
「知ってるし……」
申し訳ない気持ちでさらに言葉を足す。
「あなただったら……良かった」
鋭い眼差しで見返した瀬名は、しばらく黙ったあと首を振った。
「もういいわ」
「神崎さん、クラブに戻って来て。お願い」
横顔に向かって言うが、撥ねつける言葉が返ってくる。
「嫌!」
「どうして?」
--えー、この度は……
突然、会場のスピーカーから初々しく弾んだ声が流れて、二人は自然と耳を傾ける。JOCで最優秀選手賞を獲得した成瀬光が、青少年表彰の受賞スピーチを始めた。
「……立派な賞をいただき誠に有難うございました。中学生の受賞者を代表してお礼を申し上げます」
会場のいたる所から色めく女性の声があがる。
--成瀬さーん!
--成瀬くん、おめでとうー!
「僕らのクラブは今年、念願のジュニアオリンピックカップを手にすることが出来ました。これは多くの種目で活躍してくれた仲間の力があったからです。仲間と、そして指導してくれたコーチやスタッフの皆さんに心から感謝します……」
話が一区切りする度に会場から大きな拍手が湧く。五分ほどのスピーチを終えた光は、にっこりと笑って聴衆にお辞儀をしてステージを降りた。来賓席の前で市長と教育委員長に丁寧に頭を下げると、群がる大人たちをかき分けて足早に会場を出ようとする。出口に差し掛かったとき、扉の傍らによく知った顔を見つけて遠くから声をかけた。
「瀨奈ちゃーん、元気ぃ」
大またで近づく長身の少年をはっと見上げて、少し慌てた様子の瀬名が応える。
「あっ、どうも」
背を向けていたもう一人の少女が振り返った。
「あっ……」
「あっ! また会ったね」
さっきまでスピーカーから流れていた声がすぐ近くでして、彩は少し戸惑う。
「あのー、えーと、あの時は……ありがとう、ございました」
「調子どう? 練習やってる?」
「はい! 毎日!」
足を止めた光を、大人たちが追いかけてくる。
「それじゃぁ」
「……あ、お目出とうございましたー……」
足早に去っていく背中に彩が言うと、光は後ろ手でVサインを投げ返した。
光の後ろ姿を追っていた瀨奈が、彩の方を向く。
「成瀬くん、知ってるの?」
「JOCが終わった後の打ち上げでね、コーチに焼肉奢って貰ったの。そのとき成瀬さんが隣に来てね、肩の回し方とか……、いろいろ教えて貰ったの。神崎さんって、成瀬さんのことよく知ってるの?」
知らずにニコニコして話す彩に、少し不機嫌になった瀬奈が言う。
「西浦の幼児教室から一緒よ。選手クラスに上がっても同じ組だったし」
「へー、神崎さん、やっぱりすごいのね」
瀬奈はいつになくお喋りになり、かつてクラブで光と競い合っていた頃のことを懐かしそうに話した。そして小学生の間に、得意な自由形でJOCの全距離制覇を成し遂げることを目標にしたこと、そのために一人では食事が出来なくなるほど練習に打ち込んだこと、そして六年の最後の春、五十メートルは他の選手を出すとコーチに言われたことを話した。
彩は話の途中から自分のスカートを強く握り締めていた。瀨奈の辛い気持ちを初めて知り、怒りと後悔で唇を震わせる。
「ひどいわ。知らなかった」
「……」
「ねぇ、西中の水泳部、入ろう」
「……」
「あなたと一緒に泳ぎたいの」
顔を背ける瀬奈から返事はなかった。
三角の襟に描かれた白いラインが春の陽をキラキラと照り返す。汚れの無い真っ赤なスカーフは胸元で暖かな風に揺れた。ぴしりとプリーツの入った濃紺のスカートの裾を踊らせて、彩と咲良はアーチ状に張り出した大きな桜の樹をくぐり、新しい校庭に入った。校舎では、詰襟の制服を着た男子たちがふざけて廊下を走り回り、先生に叱られている。このあと始まるクラス発表と初めてのオリエンテーションを控えて、新入生たちは高まる気持ちを抑えられない。
「ねぇ、クラブどうする? 決めたぁ?」
「……」
聞いていない様子の彩に、もどかしくなった咲良が言う。
「ねぇ!」
「えっ 何?」
彩は校庭の端々で、お喋りしたり、本を広げたり、黙って考え事をしている女子生徒を一人づつ見ていた。
(あっ、いた!)
中庭に面した廊下に沿って並ぶすみれの花壇の端に、ひっそりと立つ大きな欅の樹がある。樹の木陰で一人、太い幹にもたれかかって半分背中を見せる少女がいた。何度も見てきた小さいががっしりした背中に、彩は間違いないと思った。
「咲良、また後で。同じ組だといいね」
「えっ? クラス発表、一緒に見に行かないの?」
彩は口元に翳した手でVサインを作ると、にっこり笑って駆け出した。
佇む少女の側まで来て、正面に回り込む。
「神崎さん、お早う」
(同じ学校だった。良かった)
彼女が遠くの学校に行ってしまうと、もう会えなくなると思っていた彩は、ほっとして笑顔になる。
「一人?」
「……」
「もうクラブ決めた?」
「まだよ……」
うつ向き加減の瀨奈の顔を少し屈み込んで覗くと、動かない黒目が見返してきた。瞬かない目に闘志を感じる。
(楽しくなりそう)
再び瀬名と競える気がして、彩は嬉しくなった。喋ることにあまり乗り気で無い彼女にはお構いなく、彩は一方的に話す。
「全中ってあるじゃない。神崎さんと私でリレー組んだら一着、取れるんじゃない?」
無知な子供に呆れるように、やれやれという大人の顔で瀨奈が言う。
「リレーメンバーはコーチや監督が決めることよ。それに全中の標準タイムですら、あなたの記録より一秒以上速いわ。一年が簡単に出れるものじゃないのよ」
「でも、きっと行けると思うわ!」
好奇心を発散して校庭を走り回る同級生を見ながら、無口な瀨奈とぽつりぽつり話していると、誰かが背後の幅広い花壇を飛び越えて、突然二人の前に立った。
「お早う! また会ったね」
「あっ、成瀬さん……。お早うございます」
ぱっと顔を明るくした彩がすぐに応える。制服を着た光は、盛り上がった肩と胸の筋肉が隠され、長身と端正な顔立ちから雑誌のモデルのようにスマートに見えた。このとき、微かに頬を染めた瀨奈に、彩は気づかなかった。
「ねぇ、二人とも水泳部おいで」
「はい!」
即座に応える彩に対して、瀨奈は黙って光の顔を見ている。
「待ってる!」
そう言うと、名残惜しそうに見つめる瀨奈を残して、光は新入生歓迎の準備のために講堂へと走って行った。
「よかった。水泳部入って、もっともっと成瀬さんに教えてもらおう! ねぇ!」
にこにこして誘いかける彩に対して、唇の淵を僅かに動かした瀨奈は、すぐさま踵を返して校舎の方へ走り去った。
「あっ……」
(神崎さん、怒ってるのかな?)
小さくなる瀨奈の後ろ姿を見ていた彩は、やがて、彼女の怒りは水泳が忘れられないからだと思った。
(きっと、戻って来てくれる)
彩の不確かな希望はすぐに確信に変わり、急に心の中が温かくなった。ふと、リレーを組んだ二人が試合で優勝してチームメイトと一緒に抱き合う姿が心に浮かぶ。
「やっ……」(……たぁー)
嬉しさのあまり、彩はもう少しで声をあげそうになった。
四月も最後の週になると、学校では部活の体験入部が始まる。新入生は、興味のあるクラブをいくつか体験したあと正式に入部することになる。
昨年、県大会で優勝した水泳部の人気は特に高く、多くの希望者を集めていた。西中水泳部は、成瀬光が入学してチームメンバーになると、その年の夏には県大会で準優勝し、次の夏には優勝を勝ち獲った。光はさらに、一人、全国大会にも出場し、二年になった昨年は百メートル自由形で全国一の称号を得ていた。男子が有名になるのに呼応して、女子も部員数を増やしそのレベルを上げていた。
運動に興味の無い咲良が文化部を中心に回っていたので、彩は放課後、一人で水泳部に向かう。部室のある四階に上がった途端、廊下は体験入部の希望者で溢れていた。驚きつつ列の最後尾に向かうと、先に並んでいた女子から声を掛けられる。
「あのー、高崎さん?」
JOCで記録を出した彩はすでに知られていた。
「はい」
「わたしイースト・スイミングスクールの藤堂真紀……」
言い終わらないうちに、別の子が割って入る。
「あっ、あのぅ……私、宝生明日香です…」
その少女を押し退け、高校生かと思えるほどのがっしりした体格の少女が詰め寄り、突っかかるように言った。
「あんた……、ハーフなの?」
「えっ? なに?」
「どこのハーフ?」
「違うわ!」
威圧的な言い方に怒りを覚えた彩は大きな声で言い返す。その少女は小ばかにするようにフンと鼻を鳴らして列の前の方に去って行った。
「こわー。誰? 今の」
押しのけられた明日香が小声で言うと、真紀が応えた。
「あの子、小学生の時、有名な体操選手だったのよ。お父さんがタレントで、えーと、一文字……なんとか」
明日香はアーモンドのような大きな目をいっぱいに見開いて言った。
「身体が大きくなったんで、今度は水泳ってこと? そんなに簡単に変われる?」
小動物のように手足を震わせて怒りを表わす。そんな明日香に真紀が言った。
「お父さんが経営するスポーツジムで、コーチ付きっきりで教えて貰ってるんだって。ニュースでやってた」
「何か凄い人ばっかりだわ。私、無理かなぁ……」
不安そうに眉根を寄せる明日香の横で話を聞いていた彩は、元体操選手の一文字がどんな泳ぎをするのか楽しみになる。早くもプール練習が待ち遠しくて仕方なくなってきた。
体験入部してきた新入生に、初めて課された練習は陸上トレーニングだった。
先輩たちの自己紹介のあと、いきなりグランド十周を命じられる。先輩のペースに合わせて中学生になったばかりの少女にとっては、かなり速いペースで走らされた。
同級生たちが息も切れ切れに走る中、交互に呼び合う掛け声が面白くなった彩は思わず笑みを洩らした。
「あの子、笑ってるけど、これからどれだけきついか思い知るわ」
陸トレの辛さを知る二年生たちがニヤニヤして囁き合う。
ようやく十周が終わって小休止に入った。水飲み場で倒れ込む新入生の汗で濡れた体操着を、四月の涼しい風が乾かす。地べたにぺたりと座り込んで肩で息をする藤堂真紀が見上げて言った。
「高崎……さん……、平気……なの?」
「まだ、大丈夫」
そう言うと彩は、両手で後ろ髪を束ねて持ち上げ、首筋を風に晒した。薄らと汗をかいただけで涼しそうにしている彩を見て、真紀が言う。
「私たちとは……ハァ…違うのね」
「そんなことないよ」
ぷるんぷるんと頭を振る彩に、先輩から次の指示がとぶ。
「高崎さん、いけそうね。次は階段ダッシュ! 四階まで往復よー。一年から、始めー!」
「えー。もう無理ぃーー」
宝生明日香の悲痛な声も虚しく、足を引きずる新入生たちを先輩が追い立てる。
四階までの往復ダッシュを三セット終えたあと、身体を動かせる者はもういなかった。体力には自信のある彩も、水飲み場の冷たいコンクリートが気持ち良い。
「あら? 高崎さん。さっきまでニコニコしてたのに、あなたでもバテるの?」
「きついです。先輩」
「そう。でもまだ終わってないわよ」
トレーニングマネージャーはそう言うと、部員たちを横一列に並ばせた。
「次は腕立て三十、腹筋五十,スクワット百,背筋五十よ。これも三セット。よーい、始めー!」
「えーー無理ぃー」「もーー駄目ぇー」「死んだぁー」
春の長い黄昏が西の空を赤く染め始めた頃、ようやくクールダウンのストレッチが始まった。新入生たちは泣きべそをかきながら、だらしなく手足を伸ばしていた。宝生明日香が聞こえないくらい小さくなった声で呟く。
「あたし……無理ぃ……」
そばにいた藤堂真紀も、枯れた声で応えた。
「きついわー。想像以上、本当に……」
このあと、胸を弾ませて水泳部の門を叩いた体験部員たちの半数が、プール練習の始まる前にクラブを去った。
重い足を引きずりながら家路につく彩たちを夕陽の残り火が襲う。話したいことは山ほどあったが、口を開く者は誰もいなかった。艶やかな真新しいセーラー服を着た少女たちは、倒れそうな身体を無理やり引き起こして黙々と住宅街の小路を歩く。鞄を持つ手の感覚は無く、足を出すたびにふくらはぎが攣りそうになる。
生まれて初めての激しいトレーニングに、意識を失いそうなくらい疲れ果てた彩だったが、不思議と心の中は晴れやかだった。
(きついけど、これで速くなれるんだったら嬉しい)
身体中の疼きは、力がついた証しのように感じる。痛みと空腹に耐えながらも彩は思った。
(良いタイムを出して、みんなに見てもらおう)
満足げな表情で西の空を見上げる長い睫を、夕陽が金色に染めた。
初めてのプール練習は、スポーツジムに借りた屋内プールで開かれた。学校のプールが使えない間、西中水泳部は隣町のジムで練習する。
天井の照明を反射してキラキラと揺れる水面を見て、彩は西浦スイミングクラブに初めて来た頃のことを思い出した。泳げるだけで楽しかったあの頃、コーチの言う通りに身体が動いたときには、嬉しさのあまり心の中でガッツポーツをとっていた。そして……目標だった神崎瀨奈がここにいないのが寂しい。一緒に泳げたらどんなに楽しかっただろう。彩はスタート台に立つ瀬奈のひたむきで少し儚げな表情を思い出した。
目を横に移すと、プールサイドに整列する同級生たちが、真剣な面持ちで腕を振ったり足を伸ばしたりして緊張を解している。こんなに大勢の速そうな人たちの中で、自分がどこまでやれるのか、果たしてやっていけるのか、不安と恐れが一気に身体を駆け巡る。
(懐かしんでいる場合じゃない。そんな暇は少しもないわ!)
我に返った彩は、皆と同じように準備運動を始めた。
ウォームアップとして、新入部員たちは一つのレーンの中を数珠つなぎで泳がされた。二十五メートルを四往復、休み無しだった。少しでも遅れれば後の人に当たるので、先頭の先輩のスピードに合わせて一定の速度を保たねばならない。泳ぎ自慢の少女たちは苦しみながらも何とか無事に終えた。
ウォームアップの次は、メドレーの要領で、四つの泳法で五〇メートルづつ泳ぐことになった。まず先輩たちが手本を見せてくれた。彩は、無駄が無く、滑らかで、力強い先輩たちの泳ぎに魅せられた。軽く流しているように見えて、一搔きで進む距離が断然に違う。
(私も先輩みたいになれるかな?)
彩は、憧れの眼差しで先輩の背中を追った。中でも三年のキャプテン、観月咲綾に惹かれた。長い手足を活かした豪快な泳ぎだが、動きの中に優雅な静寂を感じる。前腕が入水してからキャッチに移る一瞬、六ビートのキックが打たれる瞬間、一本の矢のように伸びた身体が音も無く水を切る。その涼やかな身のこなしとは対照的に、肩を軸にして肘から折れ曲がる腕は、俊敏な猫科の動物のように躍動的だった。彩は観月咲綾から目が離せなかった。
先輩たちの泳ぎが終わると、六人ずつ組になった一年生が順次スタートする。
順番が近づくにつれ、彩は緊張で足が震え出した。
(でも、やるしかない! 失敗しても死ぬ訳じゃ無いわ)
彩は左右の太ももをぱんぱんと叩きながらスタート台に上った。キャプテンの合図で力いっぱい台を蹴る。水面めがけて一直線に飛び、水中では身体を大きくうねらせてしなやかにキックを打った。
両腕を広げて勢いよく水を搔き、上体を持ち上げて、後ろから一気に前へ振り出す。顔を上げて、大きく息を吸い込み左右を見たとき、そこには誰もいなかった。
行ける! と思った瞬間、突然ブレーキがかかる。意に反して下半身が沈み大きな抵抗になった。ドルフィンキックがうまく出来ない。仕方無く脚の力を抜き、腕だけで前に進もうとするがスピードに乗らない。それでも何とか二位で五〇メートルのターンを切る。
次の背泳ぎは得意とするクロールに近い。彩はここで速さを取り戻そうと腕の回転速度を上げた。ところが、前の泳者との差は縮まるどころか、逆に広がる。他の人たちと比べて明らかにキックの推進力が弱かった。クロールと背泳ぎではアップダウンの力の要れ具合が逆になるが、その要領がうまく飲み込めていなかった。
先頭との差は開き、一〇〇メートルは四位でターンする。続く苦手の平泳ぎではさらに順位を落とし、とうとう最下位になった。
一五〇メートルのターン、彩は長い両脚をいっぱいに曲げて、渾身の力で壁を蹴った。勢いよく潜水で進み、水上に出ると身体を大きくロールさせて背中で風を切る。プールサイドで見つめる先輩たちの驚く顔が見えた。
(やっと調子出てきた!)
彩は前を泳ぐ泳者を大きな速度差で次々と追い抜く。
一七五メートルの最後のターン、立ち上がりで一人抜き、二位につけた。
残り五メートルで先頭に身体一つ分まで迫る。
最終種目で驚異的な追い上げを見せた彩は、あと一搔きが足りず二位でゴールした。タオルを手に一年生の集まる場所に向かうと、先輩たちのひそひそ声が耳に入った。
「あの子、クロール以外全然ダメねぇ……」
ニヤニヤして笑う先輩たちを横目で見て、悔しさが込み上げてきた。
(その通りだわ。だって練習してこなかったもの)
クロールの練習にばかり時間を割いてきたのが悪いと唇を噛むが、それ以上に、JOCで記録を出してから急に注目され、ここでも期待されていたのに、それに応えられない自分を情けなく思った。
(いつか挽回しよう! もっと練習して、先輩たちをあっと言わせよう)
彩は強く心に決めた。
毎日の部活の練習は、一二歳になったばかりの彩には体力的にきつく、終わってから行くスイミングクラブでは、しばしば睡魔に襲われるようになっていた。
練習のあと、彩はスタッフルームのドアをノックした。部屋に入り碇コーチの机まで進むと、たくましい肩越しに声をかける。
「コーチ……」
柔らかく巻いた短い髪の頭を搔きながら碇が振り返る。
「何だ?」
彩は緊張した面持ちで、たどたどしくクラブを辞めることを伝えた。
「高崎、きみが泳ぐ目的は何だ?」
碇の優しい目に、彩は水泳を始めた頃のことを思い出そうとする。
(プールで神崎さんに会って……)
思いを巡らす顔を見て、碇は言う。
「大きな大会で優勝して、その姿をみんなに見てもらうことじゃないのか?」
彩は深夜のテレビで見たオリンピックのライブ映像を思い出した。
(そうだ! 女の子が金メダルを取って……)
顔がパッと明るくなる。
「ここにいた方が近道だぞ」
「……」
でも、と彩は思う。
(でも……いまは違う、気がする。神崎さんがいないと、もう楽しくない)
「だけど、……。辞めます」
碇は、彩の顔をじっと見つめた。
「そうか」
練習が終わり、選手たちの翌日のトレーニングメニューを作っていた碇は、突然、クラブの校長に呼ばれた。ドアをノックして校長室に入ると、いきなり怒声が飛んでくる。
「碇くん! 神崎の次は高崎もか! 許さんぞ!」
碇は黙って、大きな机の向こうで肩を怒らせる校長の脂ぎった広い額を見ていた。
「私はこのクラブを、オリンピック選手を出すような名門にするつもりだ。せっかくここまで高崎を育てたんだぞ! 説得して留まらせろ! これは君の将来にも掛かってるんだ。いいな!」
鼻息荒くまくし立てる校長を見ながら、碇はゆっくりと豪華な机の前まで来る。校長はしばらく碇の目を凝視するが、何も言おうとしないその顔に業を煮やし、重厚な椅子を音をたてて後ろに蹴飛ばし立ち上がると、フォアグラ鴨のように膨張しきった腹を威圧的に突き出した。
「ここを辞めたら、もうどこのクラブへも行けんと言え! うちの理事長は水連の幹部だ!」
碇の顔がにわかに赤く染まり、太い眉が折れ曲がった。幼児教室から教えてきた神崎瀨奈の悲痛な顔が浮かび、感情が抑えられなくなる。
「あ・な・た・方の……一方的な都合ですね」
ゆっくりと言葉を絞り出すと、いきなり右手で胸の名札を荒っぽく引き剥がし机の上に叩きつける。
「何もかも思い通りになると思ったら大間違いだ!」
碇が発した大声に、校長はあんぐりと口を開けたまま返す言葉がなかった。碇は素早く踵を返し、もうここの空気を吸うのも嫌だという顔で出て行く。翌日辞表を出した碇は、二度と西浦スイミングクラブに戻ることはなかった。
そぼ降る雨に濡れた紫陽花が、鮮やな青色で景色を彩る。学校のプールが使えるようになった初日、あいにくの雨の中、西中水泳部では新入生にとって初めての部内記録会が開かれた。
フルコースを使って八人ずつ百メートル自由形の計測が始まる。
「それじゃあ、やりたい人からスタート位置についてー」
先輩の声に、中学生とは思えないくらいの体格の良い少女が、我先を争ってセンターコースのスタート台に上った。肩から二の腕にかけての盛り上がった筋肉と水着の上からでも分かる縦横に割れた腹筋が目をひく。彩は体験入部の時に自分に詰め寄ってきた元体操選手の少女を見つめた。
「すごい身体。いったいどんな泳ぎするのかしら」
藤堂真紀が驚きの表情で応える。
「ついに彼女の本気が見れるわね。あの身体で遅かったら笑っちゃう」
多くの部員が注目する中、スタートの笛が鳴る。
一文字里佳がスタート台を蹴った瞬間、極限まで押し縮められた太いスプリングが一気に開放されたときのような空気の振動が伝わってきた。猛烈な力で蹴り出された身体は、鋼でできた頑丈な杭になって空気を切り裂き宙を舞うと、大きな水しぶきとともに水中深くに突き刺さる。底に着くほどの深い潜水から浮上すると、獲物を前にした肉食獣の形相で前方へ突進する。筋肉の塊のような腕が水面を叩くたびに大きな破裂音がプールサイドに響く。新入部員たちは、信じられないというように目を見開いて息を呑んだ。
「高校生みたい! 男子の!」
「この人、同じ中一?」
両隣を泳ぐ部員たちが、前方からの激しい水流に苦しんでいる。
「すごぉーい」
眼前で展開する凄まじい光景に、彩は驚きの表情が隠せない。
「でも力任せね。あれじゃ限界があるわ。リズムが全く身についてない」
先輩が言った。
あっという間に五十メートルのターンを蹴る。直後、突然、身体が沈みに顔を歪めた。今までの勢いが嘘だったかのようにスピードが落ちる。速さを取り戻そうと力尽くで水を蹴るが、腕の運びとタイミングが合わず推進力には結びつかない。何とか一着でゴールしたものの、タイムは平凡なものだった。
「……こんな雨の中じゃ、実力出せないじゃ無い!」
捨て台詞が虚しくプールサイドを漂う。
泳ぎを見ていた先輩たちが言った。
「リズムが無いから息が続かないのよ」
「でも、短距離ならいけるかもね」
持てる力を出し切ったこの泳ぎを見て、彩は身体の芯が熱くなってきた。
(私も全力で行こう!)
順番になりスタート位置に向かう。ストップウォッチを持った先輩が、頑張ってと声をかけてくれた。彩は小さくコクリと頷く。
(大会本番のつもりでやろう。絶対一着とるわ!)
準備の合図で、両手と前足の指をスタート台の先端にかけクラウチングの姿勢をとる。キャプテンの笛に合わせて、全力で台を蹴った。
指先から爪先まで余す所なく力の入った身体は、引き延ばされた弓から放たれた矢のように一直線になって水中に消える。真っ直ぐに伸ばした腕の先で手を合わせ、甲をわずかに上に向ける。揃えた下半身を柔らかくうねらせ、飛び込んだ勢いを保った。
長い腕を精一杯伸ばして前方の水の壁を押し出すと、そこにあった塊を掴んで素早く引き寄せ、水面に上がった反対側の肩で雨粒の矢を切り裂く。次々と襲いくる雨と水の群れを蹴散らせて、彩は猛烈な勢いでレーンを駆けた。
キャプテンが、計時している三年生の部員に言った。
「あの子、速いわ! 将来すごい選手になるかもね」
五十メートルのターンで勢いよく壁を蹴った彩は、残る力を振り絞ってストロークの回転速度をさらに上げ、キックを強く打つ。
水上を走る肩と背中が、渓流の激しい流れを遡上する若鮎の背びれのように、雨粒叩く水面を割る。最後の一搔きを終え、左肩を精一杯突き出す。指先が壁に触れた。
一着でゴールした彩は、息を弾ませて振り返る。他のレーンを泳ぐ同級生たちの水しぶきの向こうに、先輩たちの笑顔が見えた。
(良いタイムが出たんだ。でも……全然身体が疲れてない……)
無意識に右肩に手を置いて、ゆっくりと回す。
(きっと、成瀬さんに教えてもらった練習のお陰だわ)
彩は、JOCのあと、成瀬光が教えた肩回しのストレッチを、寝る前に欠かさずやっていた。上半身は以前に比べて柔らかくなり、長い腕が身体に沿って滑らかに動くようになっていた。
彩の出したタイムは先輩たちには及ばなかったが、一年生の中ではトップだった。
プールサイドに上がったとき、キャプテンが近づいてきた。
「高崎さん、良いわね」
「あ……、ありがとうございます」
「これからも頑張ってね」
「はいっ!」
雨の上がった空に覗く太陽が、頬に残る水滴をきらりと光らせた。
タオルを手に一年生部員が集まる所に戻ると、同級生たちが次々と話しかけてくる。
「高崎さん、どんな練習やってるの?」
「どこのスクール通ってるの?」
矢継ぎ早に飛ぶ質問の中、不意に背中に不快な痛みを感じた。振り返ると一文字里佳の鋭い視線があった。勝負を挑む野獣の眼だ。
(いつでも、いいわ)
心の中で呟く。
里佳は振り返る彩の顔を睨みつけた。
(絶対許さない! 雨さえ降ってなければ私が一番よ)
唇の端をぷるぷると震わせて怒りを表す。
(もうここにいる必要無いわ! 早く帰ってコーチの特訓受けよう)
タオルを手に立ち上がった里佳は、唖然とするまわりの同級生たちをかき分けてロッカールームへと消えた。
ツンと澄ました容貌が冷たい印象を与える彩だったが、心の中では人を喜ばせるのが大好きで、その方法をいつも考えていた。休み時間になると、クラスメートの前で流行の歌を歌ったり、男性タレントの真似をして周囲を湧かせた。
そんな、見た目とは異なる陽気な性格が知られるにつれ、彩はクラスの人気者になっていった。男子たちは授業中、彼女が先生に当てられると、その声を聞き漏らすまいとして一斉に私語を止めるようになった。
屋外プールが開放されて週三日だったプール練習が毎日になると、真っ白だった彩の肌は日増しに強くなる太陽に灼かれて色を濃くした。それでも他の部員に比べるとまだ白く、水中で伸び上がる姿は、透明な川面を楚々と泳ぐ白魚のように涼やかに水面に映えた。
クールダウンで百メートルを泳いだあとストレッチを行い、キャプテンから今日の反省を告げられて練習は終わった。このあとまだ一年生部員にはコースロープの片付けが残っている。彩たちは束ねたロープを抱えてプールサイドの倉庫へと運んだ。
西日がプール柵の影を、水面に濃く映す。ふと柵越しに外を覗くと、通用門の傍らに歩道まで伸びる長い影が見えた。ランドセルを背負った小さな少女の影だ。
(今日も待ってるのね。すぐに行くわ)
妹の寂しそうな顔が浮かび、彩の心は逸った。
テレビ局のドラマ制作部に勤める父は、深夜まで働いても多くの収入を得ることができず、陽菜の病気の治療費や将来の不安もあって、母はかつての職場に仕事を見つけていた。
誰もいない家に帰るのが寂しい陽菜は、授業が終わると毎日、学校の図書室に行き、宿題を済ませたあとは好きな本を読んで過ごした。
図書室も夕方になると閉まるので、今度は姉の通う中学校に向かう。通用門まで来ると、プールで練習する水泳部員たちの声が聞こえた。甲高い元気な声を聞くと、まるで自分も涼しい水の中を力いっぱい泳ぎ回っているような気分になる。陽菜は姉の声を探しながら、門の外で練習が終わるのを待った。
初夏の長い黄昏もしだいに暮れ、家々に灯りがともり始めると、陽菜は一人でいるのが心細くなる。
(まだ終わらないのかなぁ……)
街頭に照らされた自分の影を爪先で小突きながら、進まない時間を恨めしく思う。熱くなってきた瞼をしばたたかせて遠い校舎を見上げたとき、手を振って駆けてくるセーラー服姿の少女が見えた。
「待ったぁー」
「お姉ちゃーん!」
陽菜は親鳥を待ちかねた小鳥のように声を震わせる。元気そうな陽菜の顔を見て、彩はほっとした。
「もう、お母さん帰ってるわ。早くお家に帰ろう」
その場で止めどなく喋り出しそうな妹を制して、彩は帰り道を急いだ。
「今日ねぇ、クラスでお菓子作りすることになってねぇ……」
歩きながら喋り続ける妹の話を、彩は頷きながら聞く。どんな話でもしっかりと聞いてくれる姉の前では、陽菜は心を開け放して何でも話せた。中学生になっても、大きくなっても、これからもずっと一緒にいて欲しいと、姉を見上げて強く思った。
陽もすっかり暮れ、街頭の灯りが並んで歩く二人の影をプリズムのように歩道に拡散する。楽しそうな陽菜の話は相変わらず続いていた。
「……それでねぇ、トゥデーナイトの美沙ちゃんが髪型変えたの。……ふーぅ」
歩くのに疲れた陽菜が手を出すと、彩はその手を優しくとった。長い指の一本一本が小さな手のひらをぐるりと包み込む。陽菜はほっとして暖かな気持ちになった。
(お姉ちゃん、いつまでも私のそばに居て……)
心から願った。
-タン、タン、タターン……
姉の指先が何かリズムを刻んでいる。
(あっ! 《きらら》の新曲だ!)
好きな歌のメロディーだとわかった陽菜の小さな右手は、彩の手の中で小鳥が囀るようにくすくすと震えた。