第4章 ジュニアオリンピック
ドアを開けると、穏やかな朝の光が冷たい空気に甘い香りを添えていた。彩が白い息を吐きながら玄関ポーチに出たとき、後ろから妹の声がした。いつもは朝に弱い陽菜が、この日は早くに起き出し、もう出かける準備を終えている。小さなポシェットにフェルト製の手作りの人形を大切そうに入れると、姉を追って玄関へと駆けて来た。
「お姉ちゃん 待ってー」
彩は大きな鞄を足元に置き、両手を空に向かって高く伸ばした。
(綺麗な空 宇宙まで透けて見えそう)
冷たい空気を割って父の運転するステーションワゴンがやって来る。彩の横で浮き浮きしている陽菜は、買ったばかりの白いワンピースに茜色のカーディガンを羽織り、アイボリーのコットンベレー帽をちょこんとかぶって、お気に入りの空色のポシェットを斜めにかけていた。母が戸締まりを終えて最後に出てくる。
「お姉ちゃんをクラブまで送るだけよ」
母に言われてはにかんだ陽菜の横顔に朝陽が射し、きめ細かい白い頬がピンク色に染まった。
JOCジュニアオリンピックカップ水泳大会初日、彩たちは一旦クラブに集合してから競技会場へ向かうため、早い集合時間に間に合うように、仕事を休んだ父に送って貰うことにした。
「忘れ物無い? 美紀ちゃん、鍵締めたー」
助手席のドアを開けて乗り込もうとする母に、父が言った。
「はぁーい」
「じゃあ行こう」
「行こうぉー」
陽菜が片手を高く上げて嬉しそうに言う。
これから出場するレースを思って期待と不安で胸がいっぱいの彩は、後部座席から外の景色を見ていた。静かな通りの街路樹にたくさんの雀が群がり、朝一番を競って囀り合っている。西の空に残る三日月がビルの間から覗いたり隠れたりして、逸る気持ちを急き立てた。
(早く泳ぎたい)
朝の空いた道路は車の流れが速く、四人を乗せたステーションワゴンは半時間でクラブに着いた。駐車場に車を止めた真治は、何か思い出したようにグローブボックスを開けて仕事の資料を漁る。待ちきれない彩がドアを開けて先に飛び出し、美紀と陽菜も彩を追って車を降りた。
美紀は、もう自分と同じくらいの背丈になった娘の肩にポンと手を置く。
「彩ちゃん 頑張ってね!」
「うん」
美紀の後ろから陽菜が小さな手を差し出した。
「お姉ちゃん これお守り」
陽菜が時間を掛けて作った『プリンセスきらら』の人形は、軽いウェーブのかかった毛糸の髪が陽菜の前髪のように眉毛の上で踊っていた。
「えっと… 誰だっけ?」
「もー」
頬を膨らませる陽菜を見て、彩は笑った。母がそんな彩の顔をまじまじと見つめて言う。
「あとで応援行くから、しっかりね。冷たい水は飲んじゃだめよ」
「はい」
心配性の母に返事をしたとき、真治が車を降りてやって来た。彩のそばまで来ると、よく通る声で陽気に言う。
「彩 楽しんでこい!」
「うん」
そう言うと、大きな鞄を持ち上げてクルリと向きを変え、彩はバスの方へ走って行った。いつの間にか大きくなった娘の後姿を、真治と美紀はじっと見送った。
バスに乗ると、不安そうな顔をした4、5人の小学生が同じような鞄を足元に置いて隣同士で喋っていた。大きな子たちは会場まで直接電車で行ったり親に送ってもらうため、このバスには小学生だけが乗っている。
皆が席に着くと碇コーチが先頭の席で立ち上がり、振り向いて言った。
「みんな! 今日はええ、競泳日和や!」
野太いコーチの声だが、お喋りに夢中な子供たちには届かない。彩も、コーチが話していることなど知らず隣の子とふざけ合っていた。
「昨日の『行け行け』見たー」
「見た見た ユリアの変顔 うけたぁー」
「ほんとー もうやばぁーい」
昨日見たテレビの話をしてレース前の心許ない気持ちを紛らわせる。バスは林立するビル群を抜けて海岸沿いの高速道路に入った。話し疲れた彩が外を見ると、埋め立て地に建つ工場群の夜光灯が朝日と溶け合い、柔らかな光を放っていた。サーチライトが灯る大きな橋桁の向こうに、たくさんの船が影絵のように浮かんでいる。
(ドラマのシーンみたい)
心が弾んだ。
(早く泳ぎたい!)
やがてバスは高速道路を降り、大きくユーターンして会場に隣接する公園の駐車場に止まった。バスから出た彩たちを、運河を渡って吹く潮の匂いと、芽吹いたばかりの若い草の香りが迎える。東の空から昇る太陽に誘われるように小鳥の囀りが一段と大きくなり、子供たちの笑い声に呼応した。遠足に来たみたいに愉しげに公園の遊歩道を歩く選手たちの前に、突然、木々の間から巨大な建物が現れる。まるで、陸に上がった大きなウミガメのようだと彩は思った。その白い甲羅から伸びる長い首の先端に、大勢の子供たちが吸い込まれていた。彩は会場の大きさと、参加する選手たちの多さに怖じ気づいた。
(どうしよう……ちゃんと出来るかなぁ……)
背中がツーンと冷たくなる。
エントランスを抜けてプールエリアに入ると、湿気とカルキ臭と汗の匂いが迫ってきた。
(いよいよだわ。もうやるしかない!)
クラブ席に荷物を置き、スタートリストに目を通す。しばらくすると開会式のアナウンスが流れた。式が終わるとすぐに第一レースが始まる。西浦スイミングクラブの全員が碇コーチに呼ばれ、待機場所の一角で円陣を組んだ。
「練習通りにやるんだ。お前らなら必ずできる! 自分を信じろ!」
「はい」
彩は大きな声で応えたが、いつもより上擦っているのが少し恥ずかしかった。このあと水着に着替えてクラブ席で待機する。見上げる大型スクリーンに、懸命に泳ぐ選手たちの姿が映し出されると、彩は食い入るように見入った。
(昨日、あんまり練習出来なかったな……。早く泳ぎたい!)
じっとしていられなくなり、クラブに割り当てられた狭いスペースで入念なストレッチを始める。上半身を大きくひねったとき、伸ばしていた太股からふくらはぎに電気が走った。
(痛っ…)
狭い場所での無理な姿勢が良くなかった。
(でも効いてるわ。いい感じ)
ストレッチを切り上げ、レースをイメージすることにした。水中で大きく伸び上がる自分を想像したとき足が小さく痙攣した。
(早く泳ぎたい!)
しばらくして、会場アナウンスが彩の出場するレースを告げる。
--12歳以下女子50m自由形予選に出場する選手は待機場にお集まり下さい。
(やっときたー)
意気揚々と立ち上がり、小走りで集合場所へ向かう。水着の検査を受けたあと、彩は、自分の予選組の列に並んだ。もうすぐだと思った途端、口元が自然に緩んだ。
(こんなに緊張しているのに、笑ってる)
心と身体がちぐはぐなことを不思議に思った。
--ただ今より予選第6組のレースを始めます。
アナウンスに続いて、彩たちの組がスタート台の前に一列に並ぶ。真正面に高くそびえる山のような観客席からたくさんの目が突き刺すようだ。
(何かいつもと違う……)
--ピ・ピ・ピ・ピ ピー
彩は一番右端のスタート台に上った。これまでどのレースに出場しても頭一つ背の高かった彩だが、ここでは自分よりも背丈のある子が並んでいた。横から威圧的な空気が襲いかかる。
(……どっちの足が前?)
何十回とやってきたことが突然分からなくなった。左足を前にしてスタート台に指を掛けるが違和感を覚えた。
--テイク ユアー マーク
(あっ)
後ろ足のふくらはぎが大きく震えだした。
(どうしよう 止まらない)
--ピーン
合図とともに彩は反射的に飛んだ。失格かも知れないという嫌な感情が忍び寄るなか、大きな水しぶきをあげて着水した彩の身体は、全くスピードに乗らない。
(足が、足が合わない……)
バランスを崩した長い足が推進力を奪う。
レースはあっという間に終わった。どうやってターンしたのか、いつゴールしたのか何も思い出せなかった。
(どうしよう……)
高い天井近くに設けられた大きな電光掲示板に順位が出る。自分の名前は一番最後だった。彩は、雫を滴らせながら身体を拭くのも忘れてプールサイドを彷徨った。無意識にクラブ席に戻ると崩れるように座り込む。周囲の音が何も聞こえなかった。
どれくらい時間が経ったのか、細く長い足を小さく折り畳んで膝に顔を埋める彩に碇が声をかけた。
「高崎…」
彩は胸の底から込み上げる熱いものに耐えようと、唇を噛んだ。
(嫌だ。負けて泣きたくない!)
我慢しても両目からは大粒の涙が溢れた。
(ごめんなさい……神崎さん…)
コーチを見る勇気は無かった。
(もう帰りたい。もう泳ぐの嫌!)
「もう 辞…め・た・い…」
しゃくりながら呟いた。碇は小刻みに震える彩を見て、静かに話した。
「高崎 いま辞めたら、その悔しさは一生晴らせないぞ」
「……」
「明日 まだ100がある」
「……」
次の日、女子自由形100mの予選第4組に彩の姿があった。スタート台の前に立つ少女の傍らを、穏やかな空気が流れる。空ろに水面を見ていた顔を一瞬上げた彩は、ゆっくりと目を閉じたあと、俯いて唇を小さく動かした。
(結果はどうでもいい。悔いが残らないように やるだけ)
静けさを破って電子音が鳴ると、八人は一斉にスタート台に上った。
--テイク ユアー マーク
指先で台の先端を掴んだ彩の心に不安と恐怖が忍び寄るが、心の中はそれよりもずっと大きな後悔で溢れていた。
(もうこれが最後……)
心の中で言う。
(合図がしたら膝に意識を集中して、思いっきり前へ跳ぶ)
束の間の静寂のあと、スタート音が鳴った。
彩は粘りつく空気を割って勢いよく飛んだ。
(いっぱいに伸びて……指の先から水しぶきを立てずに…)
身体は水と溶け合うように水中に消える。
(お腹に力を入れて大きく蹴る…)
両足のスムーズなキックは、水中を潜る水鳥のように滑らかに身体を推し出す。
(水面に出たら出来るだけ遠くの水を掴んで思いっきり後ろへ飛ばす…)
彩は最初から全力で水を搔いた。
(いち、にぃ、さん、……掴んだ水を思いっきり後ろへ…)
他の選手が後半に向けてスタミナをセーブするなか、全力の彩は二位以下を引き離し始めた。プールの底にクロスラインが見えた。
(スピードを落とさず小さく回って……思いっきり蹴る!)
ありったけの力で壁を蹴ると、目一杯に伸び上がり両足で大量の水を押し出した。
(いち、にぃ、さん……)
ターンの後、さらにストロークのペースを上げた彩に、誰もついて来れなかった。長い足から繰り出されるしなやかなキックは白い水煙を遙か後方まで飛ばす。あっという間にスタートした壁が迫る。再び全身の力を両足に集中して壁を蹴った。
(苦しい あと半分 いち、にぃ…)
酸素が足りなくなるが、それでも力を緩めず水を搔いた。すでに二位とは身長一つ分の差がついていた。
(できるところまで全力で……やる!)
三度目も渾身の力で壁を蹴る。しかし勢いのついた身体を反転するだけの力はもう両足に無く、ターンと同時に右のふくらはぎが痺れ出した。
(痛ぁ!)
続いて膝から下が動かなくなる。
(痛い…… あと25かぁ)
他の選手たちが残ったスタミナを使って追い込んで来る。二位の選手が距離を縮めた。プールの中間点を過ぎたところで、無理をしていた左ふくらはぎも痙った。彩は懸命に腕を回すが、動かない両足が重石になり身体を後ろに引きずる。
(進まない……)
沈んだ身体での無理なブレスで大量の水が肺に流れ込む。背中の力を使って何とか両足を持ち上げようとするが、足掻くほどに身体は沈む。もう新鮮な空気は吸えなくなった。
(苦しい……もう無理…)
沈んでいく身体で、それでも懸命に前に進もうとする姉を、観客席から陽菜は見ていた。
(お姉ちゃん…)
二位の選手が彩に並ぶ。
陽菜が目に涙を浮かべて大声で叫ぶ。
「お姉ちゃん 頑張れぇーー もう少しー」
薄れ行く意識の中で、彩は、たまらなく悔しさを感じていた。
(嫌だ!こんなこと あと、あと少しなのに……)
プール底にクロスラインが見えた。最後の力でひと搔きを放つと、長い腕を精一杯伸ばした。指先が固いコンクリートに触れる。同時に周囲から色が消えた。夢の中を彷徨ったあと、戻った視界で見た電光掲示板に順位とタイムが出ていた。彩は、ここまでの出場選手の中でトップタイムを出していた。タッチの差で敗れた選手が憮然とした表情で彩を見ていた。
(何、この子。予選なのに……)
正午を過ぎ、会場は観客の熱気と選手たちの汗で蒸せ返ってきた。決勝レースを控えた彩は、クラブ席の隅で碇のマッサージを受けていた。寝そべる彩に碇が言う。
「高崎 予選みたいにやれ! お前なら出来る!」
「はい」
「最初から飛ばすんだ。後のことは一切考えるな!」
「はい」
心はすでに決まっていた。
(全力で行く! たとえゴール出来なくても良い)
目的はもうレースに勝つことではなかった。50mで力を出せなかった悔しさを晴らしたい。ただそれだけだった。
決勝に出場する選手が召集される。プールサイドに現れた彩を、観客席から一瞬たりとも見逃すまいと陽菜は見ていた。膝の上で握りられた小さな拳が小刻みに震える。
(お姉ちゃん…頑張って……)
真治と美紀も、身を乗り出して祈るように見つめる。
「彩ー頑張れー!」
「しっかりー!」
身体の芯から絞り出された力強い声援が飛ぶ。遠くから見る娘は、落ち着いた様子で足首を回し、腕をぶらぶらと振っていた。少し俯いて目をつぶると、小さく唇を動かした。
彩は心の中で呟く。
(私にとって大事なのはこの瞬間だけ。次の瞬間なんてどうでもいい!)
電子音が鳴り選手たちは思い思いの身振りでスタート台に上がった。
--テイク ユアー マーク
スタート台の先端に指をかけ、合図を待つ。
--ピーン
センターコースから照明に煌めく水面に飛翔した彩は、水中に入ると細い身体をしなやかにうねらせ水流に逆らわずに柔らかなキックを放つ。中央付近で水上に出ると、長い腕を大きく回して大量の水を掴み力強く後方へ押し出した。
彩はスタートから惜しみなく全力を出し、予選を上回る回転速度で強力なストロークを振るった。身体から後方に拡がる三角形の波紋は揺らめきながら側壁に砕ける。
「あの子、誰?」
猛烈な勢いで泳ぐ彩に、会場の視線が集中する。ライバルチームの泳者が、顎を突き出してプールを見下ろし言った。
「はっ バッカじゃねえの あんなに飛ばして最後までもつかよ!」
出来る限りの力を絞り出してストロークとキックを水面に叩きつけながら彩は思う。
(ゴールできなくても良い 全力で行くんだ)
反り返ってヤジを飛ばした選手に、隣の仲間が言った。
「あの子、予選のときと同じね。予選では最後に失速したけど……」
彩の細く長い腕は、すらりと水面に出ると素早く伸びて水煙を切り、はるか前方の水塊を掴み一気に後方へ飛ばす。
あっという間に壁が近づく。観客席にまで伝わるような強烈なキックが放たれ、勢いはさらに増した。中央付近で水上に出た身体は、海中から跳び上がったトビウオのように軽やかに水面を舞う。
瞬く間にスタートした壁に戻る。二度目のターンも強烈なキックは変わらない。彩は50m優勝者を上回るタイムで、前半を折り返した。
猛然とストロークを振り、強烈なキックを打ち続ける彩だが、酸素不足に肺が悲鳴を上げる。
(いち、に、……苦しい)
身体の苦痛に反して、細く長い手足は軽やかに水面を舞い、それはまるで大きな羽を拡げて涼しげに大空を舞う蝶を思わせた。腕、足、腹筋、全身から発する痛みにも屈せず、彩はストロークの回転速度を少しも緩めなかった。細い肩は柔らかく動き、長い腕が大量の水を後方へ押し出す。
最後のターンも衝撃が会場に響くほどの強烈なものだった。
(苦しい……でも、行けるところまで……行く!)
七人の選手が残ったスタミナを出し切って先頭を追うが、彩のストロークとキックは少しも衰えず、二番手との身体半分の差は変わらなかった。予選首位を逃した選手が、先頭の彩から猛烈な水流を浴びながら悔しがる。
(信じられない! 何てタフなの…)
限界を超えようとする自分の身体を、彩はさらに鞭打つ。
(苦しい……けど……まだ動く。最後まで……最後まで 動け!)
猛烈な回転のストロークとキックはほんの少しも衰えなかった。会場から大きな拍手と歓声が湧く。彩は二番手以降に圧倒的な差をつけてゴールした。
「やりやがった」
「後半 さらに上がったわ!」
観戦していた選手たちが、驚異的な泳ぎに魅了されて思わず声を上げた。続いてファンファーレが鳴り、勇ましく荘厳な曲が会場を満たした。彩は流れる曲を遠くに聞きながら、微睡むような満ち足りた気分で観客席の妹を探した。
陽菜は飛び上がって、小さな手を振り切れんばかりに振っていた。
「お姉ちゃん すごーい!」
「彩 よくやった!」
「……よく頑張ったわ…」
父は顔をくしゃくしゃにし、母はハンカチで顔を覆っていた。彩は、12歳以下女子100m自由形の大会記録を出して優勝した。
帰りのバスで碇は上機嫌だった。多くの選手が上位に入り、男子選手が年齢別MVPを獲得でき、西浦スイミングクラブは念願の総合優勝を果たしていた。
「みんなよくやった! 結果に満足できない者もいると思うが、ベストは尽くせたはずだ。それで良い」
厳しい表情を作って喋っているつもりが、隠しきれない笑みが口元に浮かんでいる。
「よーし 今日は俺の奢りだ! 食いたい奴、ついて来い」
「やったー」「やったぜぇ!」
ふざけ合っていた男子たちが一斉に歓喜の声を上げる。バスの中は喝采と雄叫びに溢れた。
碇は、一つ後ろの席で黙って外の景色を眺める彩に言った。
「高崎 お前も来るか?」
「……」
そのとき、迷いの表情を浮かべる彩のお腹がグーと鳴った。
「わたしも……私も食べたいです」
見上げる小さな顔を、碇は愛おしく思った。
間接照明の柔らかな光を反射して、厚く切られたヒレの肉肌が黄金色に輝く。広いテーブルの中央に据えられた鉄板からは甘い蒸気が立ち昇り、厚い塊から滴る肉汁が鉄板に弾けて、洒落た店内に心地良い音を奏でていた。
彩はほんのりと焼き色のついた一枚をトングで皿に移すと、タレも付けずにそのまま口に運んだ。舌の上で溶ろける厚い肉に夢中になっていると、背中の方から声がした。
「やあー」
頬張ったまま振り返る。
「は、い、」
「優勝お目出とうー」
陽気で伸びやかな声が頭の上から降ってくる。
「あ、ありがとうございます」
周りの女子たちが色めき立った。
--きゃー 成瀬くんだー
--こっち来るぅ どうしようー
中学二年の水泳連盟強化指定選手、成瀬光が座敷の端で無心に焼き肉を頬張る彩を見つけてやって来ると、隣の隙間にすべり込んだ。成瀬は今大会、出場したすべての種目で優勝し年齢別MVPを獲得していた。
「俺、成瀬光」
「あっ 私、高崎、彩です」
「知ってる。いや今日知った」
鼻筋の通った端正な顔は薄茶色に日焼けし、顔の真ん中で大きな目がクルクルと踊っていた。
「あ、ちょっとゴメン」
彩の前を横切って皿を取ろうとする光の上半身が彩の視界を遮り、白いシャツから透ける大きな大胸筋が目の前で揺れ、彩はドキリとした。
(優しい顔なのに、凄い身体……)
光は、冷たい人形のような容姿とは反対の暖かい物腰と陽気な声の彩に好感を抱いた。
(外見は澄ましててとっ付きにくそうだけど、話すと良い感じ……)
「いつから水泳やってるの?」
「えっと、去年の夏、クラブに入って……」
「本当! すごい! 随分頑張ったんだねぇ」
「好きなことだから、ちっとも……」
彩は口元をゆるめて、隣の少年の澄んだ目を見た。鉄板に弾ける肉汁が心地良い音を奏でる。
「あっ 焼けてる。どうぞ」
焼き加減の良いヒレをトングで摘まみ上げた光は、それを彩の皿によそい、もう一つ摘まんで自分の皿に載せた。
「ここの肉、うまいなぁー」
「本当、最高ですね」
二人は、いくら食べても飽きない子供のように競って肉を頬張り、今日のレースについて話し続けた。
「もっと肘をガーンと持ち上げて、その反動で前腕を放り投げる」
「こんな感じ……ですか」
顔を伏せて右肘を勢いよく後ろに引いた彩の二の腕が下ろした髪に掛かり、艶やかな黒髪が宙を舞うと、甘いシャンプーの香りが光の鼻をくすぐる。
「そう! すっごく良い!」
腕の動きに遅れて細い指が踊り子のように空気を撫でると、光は存在しない妖精のダンスでも見るかのように見とれた。
「成瀬さん西中ですか?」
「うん。高崎さんは?」
「来月から西中です」
「じゃぁ 水泳部おいで」
「はい」
彩は目を輝かせて答えた。
「入部 ありがとう」
まるで水泳部の勧誘に来たかのような光の冗談に周囲が笑った。彩も目を三角にして楽しそうに笑う。試合が終わった安堵感と充実感に包まれた選手たちは、店の肉が無くなるまで豪華な料理を楽しんだ。