第3章 ライバル
夜中に目が覚めた彩は、隣で寝ている妹を起こさなようにそっと洗面所へ立つ。部屋へ戻る途中、居間から話し声が聞こえた。
『平野さん おめでとうございます。妹の絢さんと一緒にメダルが取れた今の気持ちを聞かせて下さい』
テレビから流れる自分と同じ名前に、彩は知らずに耳を澄ませた。
『とっても嬉しいです。妹も含めてみんなで頑張れたのが良かったです』
『絢さんの200mバックの銀に続き 莉心さんも平泳ぎで金メダル。姉妹そろって連日のメダルラッシュですね』
襖を小さく開けて覗くと、両親が抑えた声で歓声を上げていた。
「やったー! これで女子競泳 メダル3個目だ!」
父の歓喜に母の弾んだ声が重なる。
「すごーい! びっくりー!」
手を取り合って喜ぶ両親を見て、何が起こったのかと知らぬ間に身を乗り出した彩の気配に母が振り返る。
「彩ちゃん まだ起きてたの」
「何見てるの?」
眠い目をこすって遠くから画面を覗き込む。
「こっちにおいで すごいぞ」
興奮した父の手招きに誘われ、彩はあぐら座りをしている父の上に座った。画面は、遠い国でいま開催中の夏季オリンピックの女子200m平泳ぎ決勝をリプレイしていた。
『……平野 最後のターン 力強いキックだ。まだスタミナがある。2位との距離を縮めた』
「行け! 行けー!」
リプレイ映像にも父は声援を送る。
「あなた 陽菜が起きるから……」
『後25メートル。 2位と並んだ……抜いた! トップまで身体1つ 猛烈な追い上げ 力ある腕の動きだ! まだ行ける 行ける!』
トップ争いの二人が作る大きな波は隣のレーンを越えて側壁に当たりプールサイドを濡らした。
「平野ぉー 行けー!」
『行けー! 行けー!』
「私も泳ぐの好き…」
彩は小さく呟いた。
『後5メートル タッチの差だ』
「……」
『勝ったー! 平野 優勝! 金メダル。タイムは?……世界新記録です!』
「よーーし!」
「さっき見たじゃ無い 陽菜が起きるから」
「私も泳ぐの大好き!」
彩は目をキラキラさせて、画面に夢中の父を見上げて言う。
「この前 クラスで1番になったそうよ」
上の空の父に向かって母が言った。彩は得意げに付け加える。
「水泳の授業で1番になったの。男子にも勝ったわ。クロール得意なの」
「それはすごいな。彩がオリンピックに出たら自由形で金メダル取れるかもな」
冗談混じりに言う父の言葉に、彩は澄んだ瞳を輝かせた。もし私がオリンピックに出たら、パパもママもお仕事や陽菜より私を見てくれる。心に芽生えた小さな灯は、時が経つにつれて大きくなっていった。
待ちかねた夏休みになり、彩は朝早くから市民プールに通いだした。初めての50mプールを周囲の大人たちを真似て何とか泳ぎ切る。
出来たー。楽しいー。
プール整備の時間を除いてずっと泳ぎ続けたため、母が作った弁当を食べるときには、ふやけた指で箸を持つのに苦労した。
圧倒的な速さで泳ぐ大人たちに迫ろうと、見よう見まねでストロークを速くし、キックを強く打った。壁に掛かる時計を見ると、少しずつ速くなっている気がする。
よし! 全力でやってみよう。
スタート台近くにある計時用の時計の針が真上に来たとき、力いっぱい壁を蹴った。底に描かれたラインが速く流れる。水を掴んで後ろに飛ばせる感じ。
調子良い!
息継ぎの度にクマゼミの鳴き声が大きくなり、コースロープが勢いよく後ろに消える。水面に映った空が眩しい。
そのとき、激しく水を叩く音が迫ってきた。今まで聞いたことの無い早さで大きくなる。顔を上げたとき真横で細い腕が鋭く水を切り、あっという間に斜め前から強い水圧を浴びせられた。
彩が泳ぎきったとき、その子は壁にもたれてゴーグルを外し、手で拭っていた。小柄で内気そうな少女だが、陽に焼けた肌に切れ長の目が鋭い。荒い息をしながらそれとなく見ると目が合った。彩は胸を高鳴らせて声をかけた。
「ハァハァ…… 速いのねぇ」
その子はすぐに視線を外し、自分のゴーグルを覗き込む。暫く押し黙った後、独り言のように言った。
「長い手がもったいないわ…」
「どういうこと?」
ゴーグルを水面につけては振って乾かしながら彩の方を見ずに言う。
「ストローク多過ぎ。ロールが小さい。キックが大き過ぎ」
「すごーい! よく分かるのね」
「……」
「私 高崎彩。今の直したら速くなるかな?」
「知らない」
そう言うとコースロープを潜って出て行った。
突然一人にされ居心地が悪かったが、自分の欠点が分かって嬉しかった。
その日、いつものように踊る陽菜に合わせて歌を歌っていると母が帰っきた。いそいそと玄関へ向かう。
「ママー」
身体を少し斜めにして上目遣いで母を見る。
「どうしたの?」
「私……水泳習いたい!」
朝早くからプールに行く彩のために、もっと早くに起きて弁当を作っていた美紀はこうなることを薄々感じていた。
「そう 良いわよ 頑張って」
「やったー」
ニコニコして足を弾ませ、陽菜の待つリビングへ走って行く背中が可愛い。決めた事はとことんやり抜く一途な性格を少し心配したが、好きな事に一生懸命な娘をいまは応援することにした。
初めて行ったスイミングクラブで彩はジュニアの初級クラスに入った。蹴伸びやバタ足といった水泳の基本から筋トレやストレッチのやり方まで教えてもらう。コーチに言われた通りにすると、今まで思い通りにならなかった身体のブレや沈みこみの癖が直り、楽に泳げるようになった。
日に日に上達するのが嬉しい。彩は短期間にクロールと平泳ぎと背泳ぎの課題をクリアし、一ヶ月後には上級クラスに上がった。
上級クラスは4つの泳法すべてで100mを泳がねばならない。生まれて初めてのバタフライは彩を苦しめた。手と足のタイミングが合わず水の抵抗を受けてうまく進めない。長い手足が邪魔だと初めて感じた。
どうやったらいいの?
周りの練習生たちが身体をうねらせて上手に泳ぐのが羨ましい。途方に暮れる彩を、今年からこのクラスを担当する碇コーチは見ていた。
「高崎 平泳ぎにバタフライのキックを入れてみろ」
言われるままに頭をつけて平泳ぎのストロークで水を掻きながら、お尻を突き出してキックを打ってみる。変な動きだが肩の力が抜けた分リズムが取り易くなった。
出来た!
彩は休みなく1000mを泳いだ。
引き締まった身体に形良く隆起した筋肉が、まるでルネッサンス時代のダビデ像のようで、生徒から『ダビちゃん』と呼ばれる碇コーチは、生まれつき短く巻かれた髪の毛と彫りの深い顔も、ダビデ像そのままだった。碇は、彩が初めてクラブに来た時から、その長い手足としなやかな体躯に強く惹かれていた。うまく育てれば、途方も無い選手になるかも知れない。碇の厳しい指導に彩は難なく応えた。
バタフライのリズムを掴むと、しなやかで強靭な身体は飛び魚のように水面を走り、大きなストロークは他の練習生を圧倒した。スタート壁を蹴ってひと掻きし水中から飛び出すと、さっきまで遠くにあった前方の壁がもう間近にある気がする。長い手足を存分に使う泳ぎは、まるで川面を舞う蝶のように優雅だった。彩は瞬く間にこの種目でクラスのトップタイムを出した。
ある日、練習が終わると碇コーチに呼ばれた。
「高崎 調子いいじゃなか?」
「有難うございいます」
「次の練習だが 選手クラスに行って見ないか? 水泳連盟の強化指定タイムを目標にして練習するクラスだ」
初めて聞く言葉にきょとんとする彩を見て、コーチは親に相談してから決めるように言い直した。
「選手クラスって?」
聞き慣れない言葉に美紀は目を丸くして彩を見る。
「まだ入って二ヶ月でしょう。大丈夫なの?」
「うーん 分からない。どうしよう」
泳ぐことだけに夢中の彩には、相談出来るような友人はまだクラブにいない。仲の良い咲良も水泳のことは何も知らず、悩みを持って行く相手ではなかった。
(自分で大丈夫かなぁ)
にわかに曇る顔を見て、美紀はもう少し考えるように言った。いつまでも小さな子供だと思っていた娘が、自分だけでどうにかしようと考えている。いずれにせよ彩が決心したら全力で応援するつもりだった。
一人で考えた末、彩は上級クラスをまだ続けたいとコーチに伝えた。
放課後の予定が無くなり、いつもより早くクラブに着いたので、着替える前に二階の観覧席に行ってみる。ここからだと6つのコースが全て見え、他のクラスの練習がよく分かった。
大きなガラス越しにプールを見下ろすと、幼い子供から中学生くらいまでの練習生たちがそれぞれの課題に懸命に取り組んでいた。
そのとき、視界の片隅で白い水しぶきが走った。片手だけでクロールをする小柄な少女が、大きな速度差で隣コースの男子を追い抜いていた。
(あの子! 見たことある)
細い腕が指先からナイフのように水面に突き刺さった途端、強力な推進力を得たジェット機のように身体が前に出る。両足は正確なビートを刻んでいた。
(すごーい! どうやったらあんな事出来るの?)
彩は驚きと憧れを持って見つめ続けた。その後も両手を組んで足だけで泳いだり、変わったストロークでフォーム固めの練習をしていた。
もっと見ていたかったが自分の練習時間が来たので階段を降りようとしたとき、壁に掛かる掲示板が目に入った。
----------------
神 崎 瀬 奈
西浦小学校6年生
本年度ジュニア強化選手
種目:自由形
記録
50m(短水路):27秒04
100m(短水路):1分00秒48』
----------------
(あの子だ 同じ6年生だわ)
ほっそりとした端正な面立ちの顔写真を見て、市民プールで交わしたぎこちない会話を思い出した。
(強化選手って……。もう一度 一緒に泳ぎたい)
彩はこのとき選手クラスに行くことを決めた。
ウォームアップとして800mを泳いですぐに、息継ぎ無しの全力15mを10本。選手クラスの練習はひときわ厳しい。カルキ臭のする水が何度も喉の奥まで入り、ふくらはぎは何度もつった。身体中が悲鳴を上げたが、彩は身体が壊れるくらい好きな水泳ができて楽しくてしようが無かった。
数週間が経ち、タイムは驚くほど上がった。速くなった自分を一刻も早く瀬奈に見せたかったが、彼女とはメニューが違い練習中に会うことは少ない。練習終わりに話しかけようとするが、専属コーチによる個人レッスンが瀬奈には待っていた。それでも粘り強く機会を窺っていたとき、プールサイドの洗い場で偶然鉢合わせした。
「神崎さん……」
「……」
瀬奈は伏し目がちの眼を一瞬上げて彩を見ると、何か思い出すように黒目を動かしたが、すぐに諦めたようにまた伏せた。水泳選手としては華奢な体つきで、長身の彩よりも10cmほど背は低かったが、首から肩にかけての筋肉は誰よりも大きく見えた。
「ねぇ またプール行かない? 室内はずーっとやってるんだって」
「……プールなんて 大嫌い!」
瀬奈の発した意外な言葉に、彩は唖然と立ち尽くす。
足早に去っていく瀨奈は、自分が望んでも得られない長い手足をもつ彩を、知らずに嫉妬していた。
彩は去りゆく小さな背中を見て、人見知りな性格の瀬奈に、不意に厚かましく話しかけた自分が悪かったんだと思った。
練習メニューが終わった後も、居残って自主的に練習を続ける彩だったが、目標とするタイムにはなかなか届かない。瀬奈の27秒台に対して、まだ30秒が切れないでいた。
しばらくしてクラス全員のタイム計測会が久しぶりに開かれた。彩はプールサイドで順番を待つ瀬奈に近づいて、今度は慎重に話しかけた。
「神崎さん ……久しぶり」
「……」
「神崎さんのお父さんって 水泳選手だったの?」
「……そうよ」
「えー すごーい! どんな人?」
「自分で調べて。自由形の記録まだ持ってるから」
「わー すごーい! でも神崎さんも速くてすごいわ」
「ありがとう」
(今日はよく喋ってくれる。良かった)
彩は一方的に話し続けたが、このとき瀬奈はタイムを出すことだけに集中し何も聞いていなかった。
2コースを使ってのタイム計測だが、瀬奈の番になると皆が敬遠し誰も隣に入らない。
「誰でもいいから早く付け!」
碇コーチの言葉に、後ろから長身の女の子がやって来ると、そっと隣のスタート台に登った。
彩はゴーグル越しに横を見る。
(やろう!)
気配を感じて振り向いた瀬奈の目が語った。
〈どういうつもり?〉
(あれから速くなったのよ。私)
彩は頬を叩いて、次に太腿を叩いた。やる気をほとばしらせる仕草に瀬奈の顔色が変わる。
〈完全に叩きのめしてやる! あなたがどんなに頑張ったところで私の足元にも及ばないことを思い知らせてやるわ!〉
「よーい!」
コーチの合図に、二人は冷たい台の先端を掴んだ。
ピー!
笛とともに瀬奈は渾身の力でスタート台を蹴ると、空中で目いっぱいに伸び上がり普段の練習通りに遠くに着水した。水の抵抗を受けないように一直線になってしなやかなキックを打つ。
〈あなたがターンする頃には 私はもうゴールしてるのよ!〉
浮き上がるや否や無駄のない動きで、腕全体を使って水をキャッチし押し出す。力の抜けた柔らかな体は、高いポジションを保ったまま水面を滑空する。練習と同じように15ストローク目でコースロープの色が変わる。イチ、ニー、サン、利き腕で大きく水を掻いた後、頭を沈めると同時にコンパクトに回転しながら素早く身体をひねり、両足で思い切り壁を蹴った。練習通りの理想的なクイックターンだった。
そのとき、まだずっと後ろにいるはずの隣の泳者の右腕が視界に入った。
〈うそ!?〉
身体半分の差でついてきた彩は、瀬奈にワンテンポ遅れて頭を沈めたが、自分の泳ぐ速さと身体の大きさをまだ十分に掴めていなかった。ターンの始動が遅すぎ、足の裏がべたりと壁に付いたため十分に蹴ることができなかった。彩は練習の時からずっと長い足を持て余し、クイックターンは大の苦手だった。
瀬奈は事実を受け入れられない。
〈うそ! うそ! うそ! うそ! 許せない!〉
全身に怒りが込み上げ、折り返しの25mはほぼノーブレスでがむしゃらに泳ぎ切った。瀬奈はこのとき自己最速タイムを出していた。
彩がゴールしたとき瀬奈の姿はもう無かった。
(神崎さん やっぱり速いわ)
彩は初めて30秒を切った。
数日後、彩は碇コーチに呼ばれる。
「3月のジュニアオリンピックに出てみないか? 来月の競技会で30秒切ったら出れるぞ」
全国JOCジュニアオリンピックカップ水泳競技大会は毎年春と夏に開かれる水泳クラブ対抗の選手権大会で、18歳以下の男女によりクラス別・種目別に争われ、総合得点に勝るクラブがカップを手にする。
彩はオリンピックという言葉に心が揺れた。
「はい! 出たいです」
「よし 50と100のバタフライ頑張れ。短水路はターンが決め手だ。猛特訓するぞ!」
「あのー 私バタフライですか?」
「お前が自由形の練習に時間を割いてるのは知ってる。だが あれは神崎の得意種目だ。出ても良くて2位だ。それよりもバタフライに集中して1位を取れ」
「……」
彩は悲しみの色を浮かべて少し俯いた。
「そんなに出たいなら次の競技会で神崎に勝ってみろ! そうしたら考えてもいい」
「はい!」
神崎瀨奈は今年春のジュニアオリンピック10歳以下の50m自由形で年齢別の大会記録を出して優勝し、夏の11~12歳の部では自由形の全距離制覇を目指したが惜しくも逃していた。今度の大会が小学生として最後のチャンスだった。瀨奈と競いたいだけの彩は、このことを何も知らなかった。
年も押し迫った12月、市立公園に隣接する屋内プールでは水泳連盟公認のジュニア水泳競技大会が開かれていた。瀨奈と彩はエントリーしたすべての種目で予選を突破し決勝に進む。
日本記録を持つ元トップスイマーの娘が出場するとあって会場にはテレビ局が取材に来ていた。
女性アナウンサーが、はち切れそうな若い声でマイクに向かう。
『いよいよ神崎選手の出場する50m自由形の決勝が始まります。夏のジュニアオリンピックで破られた記録をここで奪回できるのか。注目です!』
”11~12歳の部、女子自由形50mに出場する選手は控えエリアにお集まり下さい”
場内アナウンスとともに地域の強豪たちが思い思いに身体をほぐしながら集合エリアにやって来た。
彩は、大きな大会で、目標としてきた瀨奈と競い合えることが嬉しくて仕方無かった。
一方の瀨奈は、夏に破られた記録をここで奪回し、記録保持者として春のジュニアオリンピックで全距離制覇し圧倒的な強さを父親に見せたかった。
二人はプールサイドに設けられたタンクから水をすくって身体にかけ、同じように二の腕と太ももを叩いた。
”ピ、ピ、ピ、ピ、ピー”
緊張の中、電子音が鳴る。選手たちは腕と足を伸ばしたり振ったりしながらスタート台に上った。
『第4コースの神崎選手 落ち着いた様子で身体を揺すりながらスタート台に付きました』
彩は第6コースからチラリと瀨奈を見たあと、ゴーグルに手をかけ調整した。
(神崎さん。今度は負けないわ)
瀨奈は胃が締め付けられ胸が苦しかった。
〈もしタイムが出せなかったら 何て言われるだろう……〉
幼少期から父親に厳しく指導され、常に年齢別のトップタイムを取ってきた瀬奈は、ここで悪い結果を出せば今までの努力を全部否定される思いがしていた。
”テイク ユアー マーク”
選手たちはスタート台を指で掴み、背中の筋肉を緊張させる。
”ピーン”
8人の少女たちが一斉に空気の壁に突っ込んでいく。長い滞空時間を経て、彩は最も遠くに着水した。僅かに遅れた瀨奈だが、見事な水中姿勢とキックで、浮き上がったときには先頭に立った。
〈私にはこれしかない! 絶対に負けられない!〉
瀨奈の鋭いストロークが水面を裂く。
(神崎さん 速い! でも負けない!)
彩の長い腕は、瞬時に大量の水をキャッチし後方へ飛ばす。
『第6コース、えーと 高崎選手。神崎選手とほぼ同じスピード。二人だけ飛び抜けた速さです!』
彩は、ストロークごとに少しずつ瀨奈との距離を縮める。
瀨奈が顔をあげた時、近くに激しい水しぶきが見えた。
〈あの子…来た…〉
(追いついたわ)
瀨奈の猛烈なストロークはさらに勢いを増すが、彩の腕の動きは衰えることなく、瀨奈にくらいつく。
〈あんたなんかに 負けるもんですか!〉
(神崎さん 勝負よ!)
彩はこれまで出したことのないスピードを経験していた。
折り返しまで残り1mで、瀨奈は大きなストロークと同時に頭を沈め身体をひねりながら素早く両足を回転させてトップスピードを維持したまま壁を蹴った。
瀨奈と同時にターンを始動した彩は完全に目測を誤った。足首をこれでもかというくらいに壁にぶつけてしまった。
(痛ぁー)
上手く壁を蹴れなかった彩は、スピードを失う。
『何と言うことでしょう! 第6コースの選手 惜しい。短距離でのターンミスはもう取り返せないでしょう。あとは神崎選手が新記録を出すかどうかに注目です!』
(痛ぁい。…あと25か…)
他の選手たちが次々とターンしていく中、彩は、最後尾から一瞬先頭を見た。
(神崎さん 頑張ってる)
残るスタミナのすべてを使い切って、彩は大きなストロークの回転をさらに上げた。
肺と心臓が限界を超える。彩は苦しさの壁を越えたような気がした。
(……まだ行ける)
『何ということでしょう! 第6コース、最後尾から猛烈な追い上げ。こんな小学生は……、いや大人でも見たことがありません!』
(追いつきたい!)
半分を超えても彩のストロークは衰えること無く、さらに力強さを増した。
絶好調の瀬奈には、もう他人は見えない。
〈行ける! 記録を出せるわ……〉
ゴール直前、最後のストロークで彩は瀬奈に並んだ。
『これは、……。計時はどうでしょう……26秒046! 同着です。何と3桁まで同じ。こんなの今まで見たことありません! 素晴らしいタイムです!』
会場は騒然となった。学童日本記録には僅かに及ばなかったが、大会史上最速のタイムが出た。
プールから上がった彩は意識を失い救護室に運ばれた。
結果は大会規則に則り予選タイムが速かった瀨奈が優勝する。彩は救護室のベッドで瀨奈の優勝を聞いた。
「わかりました。…でももう一度やりたい やらせて下さい」
彩は三月のジュニアオリンピックで瀨奈と競いたかった。その時までにもっとターンを練習するつもりだった。
小学生の彩が無理をするのを心配した碇だったが、真っ直ぐな瞳に頷かざるを得なかった。
「分かった」
やり切った達成感と未来への希望に満たされ、彩の小さな顔は白ユリのように輝いた。
その夜、彩たちが所属する西浦スイミングクラブで祝勝会が開かれていた。
体育大学を出たばかりの若いコーチは、酔った勢いで架空の実況アナウンスを始める。
「神崎・高崎の両崎コンビに今や敵はいない! 個人、リレーとも全部優勝 二人を擁する西浦スイミングクラブは記録的大差でカップを手中にしましたぁ! ……てかぁ」
クラブ創業者の社長は、ビールジョッキを片手にもう一方の手を高々と挙げる。
「その通り! 来年は入会者が大漁だぞ! 忙しくなるぞ」
「社長 給料上げて下さい」
「ボーナスください」
コーチたちが口々に叫ぶ。
碇は満たされた気分でジョッキを傾けながら呟いた。
「あの娘は今度こそ神崎に勝つつもりですよ。あの気力は底知れずです。頼もしい」
隣で聞いていた社長が、大げさに目を見開いて碇を牽制する。
「おいおい正気か 碇くん あの子らにはエントリーした全種目で1位を獲らすんだ! 生半可な気持ちじゃカップは奪えんぞ。 速い方を出すんだ! いいな!」
社長を取り巻くコーチたちがニヤニヤして言う。
「カップ獲れたら給料上がるし!」「ボーナス貰えるし!」
「……」
翌日、瀨奈はコーチ控え室に呼ばれた。
「3月のJOだが…… お前も高崎もどの種目に出ても1位が獲れる。あえて同じ種目にエントリーするのは止めよう」
JO、全国JOCジュニアオリンピックカップはクラブ毎に集計した総合得点で勝敗を決める。個人種目は一人3つまでエントリーできるが、1位と2位との得点差は大きい。
碇は太い眉を中心に寄せ、鼻筋に皺を作って瀨奈を見た。
「50の自由形だが 高崎に譲ってやれ」
床を見ていた瀨奈の顔が上がり、コーチの目を直視する。
「嫌です。なんで後から来た子に譲らなきゃならないんですか?」
「神崎 分かってるだろう……」
一歳の頃から血を吐くような練習に耐えてトップクラスにまで上り詰めた自分に、たった数ヶ月で追いついた高崎彩。このさき練習を積めば彼女の方が速くなる。そんなことは嫌というくらい分かっていた。
「分かりません!」
窓ガラスが震えるほどの大声が瀨奈の口から出た。
〈あの子 絶対許せない!〉
大会が終わって一週間が経った。夜遅くまで続いた練習も終わり、彩が更衣室に入ったとき、長くクラブを休んでいた瀬奈が自分専用のロッカーから荷物を取り出していた。
「神崎さん!」
息せき切って話しかけた彩に全く感心を示さず、瀨奈はひたすらスイミング用品を鞄に詰め続けた。
「この前は優勝おめでとう やっぱり速いのね でも今度は負けないわ」
聞こえているはずなのに瀨奈の返事は無く、彩の顔を見ることもなく更衣室から出て行った。
(何で怒ってるんだろう?)
彩は、ジュニアオリンピックへの出場を辞退した瀨奈のことをまだ知らない。
その後、瀨奈は一歳から10年間通ったクラブも辞めた。
「神崎さん!」
退部手続きを終え、父親が運転する車に乗り込もうとする瀨奈に向かって彩は叫んだ。瀬奈は振り返ると無言のまま、きつい眼差しで彩を見る。震える声が彩の口から漏れた。
「辞めないで…お願い……」
「……」
「お願い…」
一瞬、瀬奈の顔からいつもの厳しさが消え、悲しみの陰がさした。
「……私には…素質がなかったの……」
いつもは見せない瀨奈の表情に胸が締め付けられ、彩は考えなく言葉を継いだ。
「それは違う……と思うの。もしあなたが私と同じ体格だったら 断然私より速いわ」
瀨奈の形相に怒りが浮かぶ。
「よくも私の気にしていること、はっきり言えるわね!」
「そんなつもりないわ。ママが…… 成長期には急に身体が大きくなるって言ってたの…… サプリメントとか飲んだら……」
「飲んでるの?」
「私は飲んでないけど……」
「やっぱり! 生まれつきよ 化け物!」
「違うわ!」
彩は怒りの目を向けるが、次の瞬間、また別れの悲しみが胸に溢れた。
「ねぇ もっとやろう」
瀨奈に返事は無い。
「卒業したら西中行くの? 私もそこ。一緒に水泳部入ろう」
瀨奈の顔が微かに笑ったような気がした。
「……考えとくわ。……でもこのクラブは辞める。もう嫌なの!」
そう言うとキッと彩の顔を見て素早くきびすを返し車の中に消えた。
数ヶ月間ずっと目標にしてきた背中が遠ざかっていく。彩は心に大きな穴が空いて唇を噛んだ。だが去り際に見せた瀨奈のきつい眼差しに、自分が良い泳ぎをして周囲から注目されれば、きっとまた戻って来てくれる気がして小さな希望を持った。