第2章 スカウト
車のクラクションがビルの狭間に響く。駅に近い雑居ビルの一階で理髪店を営む理容師は、昼過ぎに訪れたたった一人の客の髪をカットしていた。
「社長なの。すごいねぇ」
「小さい事務所だけどね」
馴染みの店に行けなかった剛力は、仕事への道すがら目に入った理髪店に飛び込んでいた。剛力が芸能プロダクションの社長と知って、理容師は好奇の目で話しかける。
「売れっ子のタレントとかいるの?」
「いないよ。うちは役者専門だし…」
「それじゃぁ儲かんないねぇ。今は映画もドラマも若いアイドルばかりだろ」
理容師は物知り顔で言う。
役者として20年あまり舞台の道を歩んだ剛力は、昨年、所属事務所を辞めて一人でプロダクションを興した。これまでに培った舞台役者としての技を、このまま自分と共に埋もれさせるのは惜しい。同じ道を歩む若者に少しでも伝えたい。そして、自分が果たせなかった一流になる夢を託したいと思った。
理容師は襟足にハサミを入れながら聞いてきた。
「有名人に会ったりするの?」
剛力は雑誌を見ながら虚ろに応える。
「たまにね」
「面白い噂とか無い?」
しつこく聞いてくる。
「無いこともないけど…」
「ねぇ教えて」
「……先にそっちから質問して。知ってたら言うよ」
「えーと……」
理容師は手を止めて暫く宙を見つめたが何も浮かばない。煩わしい質問から逃れる剛力のやり方だった。
セットを終えた理容師は剛力の服についた埃を丁寧に払う。
「駅前に新しいショッピングモールが出来てさ、催しやってるよ。これ割引券。カラオケ大会とかあるんだって」
剛力は何枚かの割引券を貰って店を出た。駅に向かう途中、人だかりのする広場が目に入った。予定の列車まで時間があったので遠巻きに覗いて見る。
「ついに決勝! 予選を勝ち抜いた3人のバトルです」
司会者が高いテンションで声を張っていた。そこでは自動採点マシンを使ったカラオケ大会が行われていた。
「では、予選で点数の低かった方からの挑戦です」
最初に出てきたのは、中学生か高校生くらいのほっそりした少女だった。袖の無いワンピースから覗く白い肌が照明に映えた。
司会者がマイクを向ける。
「どう? 緊張してる?」
「予選の方が緊張しました」
楚々と揃えられた細く長い足の膝頭がすこし震えているように見える。
「大丈夫? それでは歌って頂きましょう。曲はアニメ『プリンセスきらら』の主題歌、『Reason of Destiny』です!」
ゆっくりとした物哀しいメロディーがスピーカーから流れる。メロディーに合わせて穏やかな歌声が歌詞の一語一語を会場の隅々まで伝える。剛力はフレーズの終わりの方で細かく揺れる歌声を心地よく聞いた。
曲は途中で転調しリズミカルな明るい調子になる。少女の瑞々しい高音が伸びやかに拡がった。その声はソプラノの高音域に達するほど高かったが、彼女の声域にはまだ余裕があるように感じられた。ビートが際立つにつれ彼女の足は自然と動き、ステップは徐々に大きくなる。観衆の多くが身体でリズムを刻み始めた。
彼女は終盤の大サビで連続キックターンを決めようとしたがうまく出来ず、カクテルライトの軌跡を残して白いワンピースが揺れた。その途端、細い腰を軸にして上半身を柔らかく曲げ、彼女は重力を受け流した。
剛力は彼女の美しい容姿と声、それに限りなく広い声域としなやかな身のこなしに惹き付けられた。知らぬ間に胸が高鳴り、操られるようにして観衆を押しのけ前に出ていた。
声を振り絞り、身体を最大限に使ったダンスでフルコーラスを歌い終えても彼女の息は乱れない。剛力は計り知れない可能性を見つけた。
あとに続く2人が歌い終えたあと、大きな液晶モニタに3人の点数が表示される。
「優勝は初めに歌われた高崎彩さんです! おめでとう御座います」
彩は舞台袖で大きな目をパチパチさせて困惑していた。
「高崎さん、前へ来て下さい」
司会者に促され、緊張した足取りで熱い照明の中へ入る。
「いまどんな気持ちですか?」
「嬉しいです。…いつも妹に歌っていた曲なので…でも最後に失敗しちゃって……」
「良いダンスでしたよ。…採点は歌だけですけど! 妹思いの優しいお姉さんでした。学生の方なので賞金の代わりに、ペアの温泉宿泊券です。豪華料理とプールの無料券も一緒です。おめでとう御座いました」
司会者の拍手に深々とお辞儀をすると、彩は急いでステージを降り一目散に母と妹のもとへ走った。
「ママー!」
両手を大きく広げて拍手しながら、母は誇らしげな笑顔で彩を迎えた。
「彩ちゃん、すごーい!」
妹の陽菜も母の横でものすごい勢いで手を叩きながら興奮して早口でまくしたてた。
「おねぇーちゃーん! すっごーい! お歌うまいし、ダンス上手だし、ちょうちょみたいにスカート揺れてた!」
彩も飛び跳ねながら早口にしゃべった。
「やった、やったー。みんなで温泉行こう。パパにも言ってー」
「いこう、いこう。おねぇちゃん、すごぉーい!」
ひとしきりはしゃぎ合っていると、彩の斜め後ろから大柄な男が声をかけてきた。
「おめでとう御座います」
男は彩に会釈すると、母親に向き直った。
「お嬢さんの歌、拝見しました。良かったです。惹き付けられました。よろしければ本格的にレッスンされるつもりはありませんか?」
母はどこかの歌謡教室のセールスかと思ったが、短く刈った清潔そうな頭と鼻筋の通った精悍な顔に爽やかな印象を受けた。
「どちら様ですか?」
男は慌てて薄いレザージャケットの内ポケットから名刺を差し出した。
「申し遅れました。私、芸能プロダクションを経営している剛力守と言います。ぜひお嬢さんに歌い手になるためのご支援をさせて頂きたいのですが……ご興味があれば、連絡頂けないでしょうか」
「すっごーい。おねぇちゃん歌手になるの? すっごぉ…」
陽菜はムッとした姉に口を塞がれた。母は少しきつい眼差しになった。
「お断りします。この子はまだ小学生ですし……」
「えっ……失礼ですが?」
「5年生です」
「……」
今の剛力に小学生を一人前の歌手にまで育て上げる自信は無かった。この娘なら他の事務所が放っておかない。もっと大きな所に入った方が幸せだろう。剛力は自分の非力さに大きく落胆し、調子の落ちた声を絞り出した。
「……そう…ですか。残念です」「……失礼いたしました。また何か機会があったら……ご連絡ください…」
彩たちは、名残惜しそうに背を向け肩を落として去っていく男を見ていた。彩は優勝した喜びとは違う感情で胸が高鳴った。
小学校が創立記念で休みになり、普段は不規則な仕事でなかなか会えない父も休みが合って、家族そろって温泉旅行に来ていた。
「彩、肩車してやろう」
手を引かれてヨロヨロと歩く彩を見て父が言った。温泉に行く前に近くにある大きな滝を見に行こうと川沿いの坂道を登っていたが、彩は家族そろっての旅行に昨晩からはしゃぎ過ぎあまり寝ていなかった。
長身の父に肩車されるのは怖かったが、眠気には勝てない。父の額を両手でしっかり持ち、広い肩に体重を預けた。2mを超える視点からの景色は新鮮さとともに恐怖を呼び起こしたが、今はそれよりも恥ずかしさの方が勝った。
今日は人が少ないから見られない、自分にそう言い聞かせると恐る恐る父の歩みに身を任せた。途中で老夫婦とすれ違ったが、はるか頭上に位置する彩の姿は見えなかったようだ。
夏の陽射しは明暗をくっきりと分ける。幼い頃から暗い場所が苦手な彩は、樹木の陰に入ると瞼を閉じて父の頭にしがみついた。耳を澄ますと谷底の岩の間を流れる水の音が聞こえた。
「パパ……。彩とママとどっちが好き?」
「何? それ」
「彩とママと陽菜だったら誰が好き?」
「んー……」
「彩が一番好き?」
「みんな同じくらい好きだな。ぴったり同じ。こんなことってあるんだね」
「ふーん」
彩は口元に小さな笑窪を作って、行く手を見つめた。
八月でも山合いの清流を吹く風は冷たい。父の額の汗でびっしょり濡れた手を、彩は片方づつ振って風に乾かした。前方を見ると岩場から数本の水が琴の弦のように流れ落ちている。その側を、木々の梢と突き出た岩の影とで作られた光の筋に沿って数匹の蝶が列をなして飛んでいた。白と黄色の鮮やかな縞を纏った大きな翅を、踊り子の衣装のようにゆったりと揺すって飛んでいる。突然、風にあおられて暗い影の方に飛ばされると慌てて光の中に戻ってきた。
楽しげに乱舞する小さな踊り子をずっと見ていると、目が慣れてきたのか木陰にも何匹かの蝶が飛んでいるのに気がついた。少し小さく翅が真っ黒だ。よく見ると後翅のへりに鮮やかな赤い斑紋があった。
岩肌をじっと見つめる彩の様子に父が気づいた。
「白と黄色の縞模様があるのはナミアゲハだ。陽の当たる所しか飛ばないよ。それであっちの木陰を飛んでいるのはクロアゲハ。クロアゲハは光に当たると逃げるように日陰に戻って来るんだ。不思議だね」
「あたしとおねぇちゃんみたい」
歩みが遅くなった父に追いついて寄り添っていた陽菜が言った。母が陽菜を挟んで父の隣にそっと来る。
「どっちも綺麗な夏の揚羽蝶ね」
母は二人の顔を交互に見て優しく笑った。
いつの間にか渓流のせせらぎは白波の立つ大きなうねりになっていた。幾重にも連なる岩盤を粉々に砕くような尖った水の音が遠くから聞こえる。両手で父の頭を抱え、うとうとしていた彩が薄く目を開けると、燃えるような緑をまっぷたつに分断する神々しい岩肌のはるか上方から、無数の絹糸を編んで作った真っ白な巨人のコートがゆらりと垂れ下がっていた。彩は初めて間近で見る大きな滝の迫力と轟音に圧倒され息を飲んだ。あたりは成長を競い合う樹々の若い香りと透明な水の匂いに溢れていた。
滝つぼを叩く水流の霧を充分に浴びたあと、父は古びた茶屋の二階に張り出した座敷に娘たちを連れて行った。眼下では、切り立った岩を洗う莫大な水の塊が純白の煙を上げて滝壺へ吸い込まれていた。
小一時間の坂道を歩いてくたくたになった四人は座卓をはさみ、彩は柚子ソフト、陽菜はバニラ、父と母は抹茶ソフトを注文した。真夏なのに滝から吹く風は冷たく、汗ばんだブラウスはあっという間に乾いた。
「おねぇちゃん、にじ!」
滝のしぶきが、風になびく彩の黒髪に虹を作った。
「……きれい」
彩の髪をうっとりと見つめる陽菜の大きな瞳にも虹が架かっていた。
帰り道、すっかり眠気から覚めた彩は『Reason of Destiny』を振りつきで歌いながら坂を下る。調子に乗って大きなキックターンをしたら坂でバランスを崩し、道と深い谷を隔てる柵を上半身が超えてしまった。
「彩ー!」
陽菜の手を引いてずっと後ろにいた母が、大声で叫びながら飛んで来た。
彩はかろうじて道の方に残った膝から下の力だけで大きく反り返った身体を立て直すと、何事も無かったかのようまた踊り続けようとした。
駆けつけた母は噛みつくような目で彩の顔を見る。
「危ないじゃない! 何かあったらどうするの!」
母の目は潤んでいた。
「……ごめんなさい」
「まぁ、そう怒らなくても」
彩にとってこれくらいは平気な事と考えていた父が言った。
「あなた! そばに居たのにボーと突っ立って!」
「まぁ、まぁ、そう怒ら…」
「あなたって、いっつもそう!」
駆けてきた陽菜が心配そうに姉を見上げた。
「おねぇちゃん、大丈夫?」
「うん、ぜんぜんへーき」
彩は陽菜にだけ聞こえるように小声でいった。
「次は『Love for Life』歌ってあげる」
「やったー」
「あなたはあの時だってそうよ!」
母の誹りはまだまだ続く。
うだるような暑さの中を汗だくになって宿に着いた4人は、部屋に入るなり畳の上に突っ伏した。
「着いたー」「疲れたー」「きゅうけぇーい」
しばらくの間、誰も声を出さなかった。父と彩で小さな陽菜を挟んで大の字になり、母は少し離れた所に寝転んだ。暖かい微睡みに包まれようとした時、父が言った。
「よし! みんなでプールだ!」
「やったー!」
泳ぐのが大好きな彩を父は知っていた。さっきまでの疲れが吹き飛んだかのように踊り上がって喜ぶ姉を見て、陽菜も飛び跳ねた。
「水着どこー?」
二人は競うようにボストンバックをあさり、水着を見つけるとそれぞれのビニール手提げに入れた。
「陽菜、行こう」
「いこう」
「陽菜ちゃん、お姉ちゃんの側を離れないでね」
二人の背中に向かって母が言った。眩しい太陽が嫌いな陽菜だったが、姉のそばにいるとその大きな影が守ってくれるようで安心した。二人のビニール手提げは共鳴するように踊った。
正午を過ぎたプールは人気が少ない。彩は誰もいないレーンを存分に泳いでみたかったが、両親が来るまでは陽菜を一人にできない。
「陽菜、どっちが長く潜れるかやろう」
「やろう」
「お姉ちゃんが先に潜るから1分たったら、陽菜の番だよ」
彩は大きく息を吸い込むと、プールの手摺りを持って水しぶきを立てずにゆっくりと潜った。
真上を過ぎた太陽は、まだ焼け付くような熱線を水面に投げていた。暖かい水が身体を包み、はじける泡の音が耳に優しい。目を細く開けて水面を見ると、光の輪を中心にして円く切り取られた青空が無数の波紋で小さな六角形に区切られていた。中心から伸びる幾つもの白い線が空を舞う羽のように水中を漂う。彩は波と光が作り出す不思議な幾何学模様に見とれた。
一瞬夢を見たような気がした。息が苦しくなった彩は手摺りを支えに立ち上がり、水面から顔をあげると大きく息を吸い込みながらゆっくりと眼を開けた。
左右をきょろきょろと見回す。何かが無い。陽菜がいない。もう一度見回す。
「陽菜ー!」「陽菜ーどこー!」
どこにも姿が見えない。彩はプールに潜り、顔を底まで近づけて探した。
(陽菜…)(陽菜ぁ…)(どこぉ…)
水面に上がって辺りを見渡し、もう一度底まで潜る。
(いない…。どうしよう…?)
「陽菜あぁー!」
背筋が冷たくなり全身に震えが走る。泣きそうになったとき遠くの方で聞き覚えのある声がした。
「えぇーん…ん、えぇーん」
振り向くと、プールサイドに何本も並んだパラソルの下で、母に背中をさすられて泣いている陽菜がいた。水を飲んだようだ。
(陽菜ぁ……良かったぁ)
周りの景色が色を取り戻した。
西日が強くなった頃、父が片手で持ちきれないくらいの大きな苺フラッペとトロピカルジュースを持ってプールの入り口にやって来た。デッキチェアで語らう彩たちを見つけると足早に近づいてくる。
父は母に何か言ってフラッペとジュースを渡すと彩の方を振り向いた。
「彩、滑り台やるか?」
「……」
幼い頃よく父の膝に乗ってウォータースライダーをやったが、大きくなった今では恥ずかしい。
「おいで!」
平日の夕方遅い高原プールは、彩たち以外にはもう監視員しかいない。陽菜がいてホッとしたのと初めて見た巨大な滝に興奮していたのとで気持ちが大きくなり、父の誘いに頷いた。
10m近い高さのスタート地点からは、山のはるか下に密集する夕焼けに染まった街並みが小さく見えた。
浮き輪に座った父の膝にまたがり両手で父の腕を掴む。
「いくぞー!」
流れる水の勢いが浮き輪を押し出す。目の前の景色が抽象画のように輪郭を無くした。浮き輪が跳ねる度に後頭部が父の硬い胸に当たって痛かった。カーブで彩の顔がガードレールに当たりそうになると、父は二の腕で彩をかばった。いつ終わるとも知れないカーブの連続が突然途切れ浮き輪が大きく宙を飛んだかと思うと、二人の身体は水面に落下した。
父の太い腕に支えられてプールから出てきた彩の目に、遠くでおいしそうにジュースを飲む陽菜と母の姿が映った。
「パパ、もう一回!」
誰もいないプールのスライダーは貸し切り状態だった。彩は終了時刻がくるまで父と楽しんだ。
プールサイドのタイルは熱を失い若干歩きやすくなったが、西からさす光線はパラソルの下でもまだ熱い。父が買ってきた特大の苺フラッペを食べていた母が、プール点検に回ってきた監視員に写真を頼んだ。父は彩と陽菜を真ん中に挟んで、母の手を握った。くっついた肌の感触がくすぐったくて彩は笑い転げる。
「彩、写真よー」
「ちょっとー。もうー」
「変な顔が写るよー」
「おねぇちゃーん」
濡れた髪が陽菜と絡まった。
「ちょっとー」
「撮りまーす」
暖かい風が深い緑に染まる山からプールサイドに降りてきた。
山の頂にある温泉からは、夕暮れに沈む街が一望出来る。紅葉時期のハイ・シーズンで無いためか温泉には彩たち以外に客はいなかった。陽菜は湯面から小さなおしりを突き出して浅い湯船を泳いでいる。
「彩って歌が上手ねぇ。私に似たのかしら」
「ママ、歌手だったの?」
「うーうん。でも小さい頃はなりたかったなぁ」
「ママはどうしてパパと結婚したの?」
「……」
「パパは何てプロポーズしたの?」
湯面に突き出た陽菜の可愛いおしりを見ながら、彩は訊ねた。
「若いころ、ママはテレビ局の受付をしてたのよ。パパはプレゼント持って誘ってきたの。毎日のように」
母は夕焼けの残照が大きな窓ガラスの露に乱反射するのを眩しそうに眺めた。
『お早う』
昼食を終えてしばらく経ち、少し瞼が重くなったので背伸びをしようとしたとき、自動ドアが開いて青年が足早に入って来た。
『あっ、お早うございます』
『美紀ちゃん、これ』
『なにー』
青年は、店の名前が上品にデザインされた茶色の紙袋を差し出した。
『お菓子。来る途中にあったんだ。みんなで食べて』
『ありがとう。何かしら?』
美紀は受け取ると、持ち手のところからそっと中を覗く。
『マカロン。好き?』
『大好き!』
自然と身体が小躍りした。
『良かった。今度食事行かない?』
『うーん……』
細い眉を狭めて、顔を傾ける。
『そう……、またね』
青年はそう言うと忙しそうに鞄を持ち直し奥に消えた。
『今の誰?』
同僚が聞いてくる。
『よく知らないの。今年入ったADさんみたいだけど』
『へぇー。結構良いじゃん。タレントさんかと思った』
『あー高崎賢治ね』
書類を抱えて別の同僚がやって来る。
『慶應出のお坊ちゃんよ。俳優さんみたいって噂になってるわ』
『上の人にも可愛がられてるみたいよ』
先輩が話に加わった。
『きっと将来大物になるわね』
同僚が横から美紀をこずく。
『すごいじゃん。そんな人に声かけられるなんて』
先輩が美紀を見つめて言う。
『美紀ちゃんだって綺麗だしスタイルいいし女優さんみたいよ』
『先輩、マカロンどうぞ』
美紀は紙袋から綺麗に包装された箱入りのマカロンを取り出した。
「どんなプレゼント? バッグとか?」
「局の向いにある洋菓子店のマカロン。好きだったの」
「マ、カ、ロ、ン?」
「パパは結構イケてて、俳優さんみたいってみんなで噂してたのよ」
二人の話は湯気に当たった陽菜がもう出ようと言うまで続いた。
部屋に戻ると夕食が用意されていた。旬の食材を贅沢に使った和食と洋食の豪華な会席料理がテーブルの上に所狭しと並んでいる。金曜日の夜6時半、もうすぐ陽菜の大好きな歌番組が始まる。二人はローストビーフに鯛のソテー、それに海老とマグロの刺身を急いで平らげ、テレビの前に座った。
番組が始まると陽菜はアニメソングを歌う歌手の出番を待ちわび、立ち上がって踊る準備をした。画面の中にカラフルなセーラー服とミニのフレアスカートを纏った声優が登場し、自身が演じる人気アニメの主人公の格好で主題歌を歌う。陽菜はさっそく真似て踊り出した。腰から胸までのラインを柔らかくウェーブさせてビートに乗る。
「陽菜は踊りがうまいね」
父が目を細めて言うと陽菜は色白の頬をピンク色に染めた。
「中学に入ったらダンス習いたいな」
デザートを頬張りながら何気なく画面を見ていた彩はおもむろに立ち上がると陽菜の横に並んで一緒に踊りだした。二人のダンスはシンクロし、浴衣が蝶の4枚の翅のように揺れた。1時間の歌番組の中で二人は10曲以上を踊り、彩は知っている曲は歌いながら踊った。
食事のあと、少し涼をとろうと皆でホテルの中庭に出た。日が落ちた高原の空気は涼しく、空には無数の星が瞬いている。母は売店で買った花火を皆に配った。手に持つ花火に父が順番に火をつけると、色とりどりの光の筋が放物線を描いてこぼれた。吹き出す火の粉は、空中を乱舞し美しく煌めいて闇に消える。彩はこの一瞬をいつまでも忘れない、と思った。
部屋に戻ってくると彩と陽菜は直ぐに眠りに落ちた。口元に時折笑みを浮かべる彩の寝顔は、自分と陽菜を真ん中にして父と母と4人で手を繋いでプールを泳ぐ夢のせいだった。