第1章 妹
「おねえちゃん… お歌うたって」
学校から帰った彩は、二歳年下の妹に歌をせがまれた。いつもの光景だった。
「お母さんは?」
靴を脱ぎながら妹の陽菜に尋ねる。
「うーん…お買い物かな……」
「そう」
陽菜は小さな手で握った見えないマイクを口元にかざし、訥々としゃべり始めた。
「それでは、プリンセスきららの…りーずんおぶ…ですてぃにぃを歌います。聞いて下さい」
大きな瞳をくるくるさせて彩が歌ってくれるのを待っている。
「ちょっとー、お姉ちゃんだってやる事あるんだから」
(早く支度して、さっちゃんとこ行かなきゃ)
「……」
彩は妹の横を通り抜けると居間に入り、重たいランドセルを椅子に引っかけて、冷蔵庫を覗くために台所へ向かった。廊下を横切ろうとしたとき玄関から見つめる潤んだ瞳と目が合った。
陽菜は生まれつき喘息で、走ったり大声を出したりすると咳が止まらなくなる。家でテレビを見ることだけが楽しみで、特にアニメ番組が大好きだ。中でも『プリンセスきらら』に熱中している。その番組は、身寄りの無い少女が持ち前の負けん気と努力で幾つもの困難を乗り越えてトップアイドルに駆け上がる物語だった。きらら役の声優が歌う主題歌は陽菜の寂しい心を虜にした。
喘息のせいで歌うのを医者から止められている陽菜にとって、姉に歌ってもらいアニメの主人公を真似て踊ることは何よりの楽しみだった。
玄関でしゅんとしている陽菜に振り向いた彩は、笑顔で言った。
「じゃあ、歌うね」
妹は顔をくしゃっとして居間まで駆けて来ると、テレビの前の自分専用の小さな空間に立ち、両足をぴったりと揃えて丁寧にお辞儀をした。
折りたたんだ両手をあごの下にもっていき、両肘を胸の前で近づけて、おしりを揺すり、イントロを踊る。彩の優しい歌声が部屋に拡がった。
♪ 大切なものは硝子の宝石
磨かないと汚れる
落としたら壊れる
ビロードに包んでそっと心にしまうの
物思いに耽るように、うつむき加減で陽菜は瞼を半分閉じる。彩はランドセルから連絡帳を取り出しながら歌い続けた。
♪ なぜ私なの
どうして他の誰かじゃないの
これがさだめ?
逆らえない? 逃げられない?
左右を見て、次に天井を見上げて、両腕で胸を抱え込み顔を伏せる。
♪ じっと暗闇の中で待つ
いじわるな時が過ぎるのを
不公平な神が弄ぶのに飽きるのを
陽気なメロディーとは対照的な哀しい歌詞を、雨上がりの草むらを照らす太陽のような涼しい声がなぞる。
♪ でもあの光に引き寄せられるの
光に入ると太陽に焼かれるのに
焼けた翼はもう元に戻らないのに
きらきらした光の中を飛びたい
陽菜は両手を大きく広げて、羽ばたくようにステップターンを試みる。
♪ 私はいつも暗闇の中
気づいて欲しい ここにいる
連れて行ってきらめく光の中へ
焼かれてもいい
この短い命が朽ちても
もう怖くない もう迷わない
これが私の運命
いっぱいの笑顔で、軽く飛び跳ねるクロスステップから大きくジャンプして素早くターンした。
♪ 翼が焼け落ちても もう空を飛べなくても
踊り続ける
これが私の運命
ターンのあと、内股にした片足を曲げて可愛くポーズを決めた。フリルのついたスカートがはためき、やがて静かに閉じた。
彩の歌声に合わせて踊っているとき、陽菜は陽光降り注ぐ大地を自由に走り回っているような気持ちになる。彩も陽菜の弾けるような笑顔が見れてとても嬉しかった。
「ただいまぁ」
4曲目の歌がエンディングを迎えたとき玄関から母の声がした。彩は歌を止めて勢いよく玄関へ走る。
「あっ…おねぇちゃーん、まだー…」エヘン、エヘン 驚いた陽菜から咳が出た。
「お帰りなさい。おやつは?」日傘をたたんでいる母に勢い込んで言う。
「はい。これとこれ」
彩が欲しがっていた新発売の箱入りチョコレートを2つ、母は手渡した。
「やったー!」
黒目がちの大きな瞳をキラキラさせてお菓子を貰うと、妹のいる居間に走った。彩が先に1つ取り、パッケージの異なるもう1つを妹に渡す。陽菜はいつものようにうれしそうに受け取った。
彩は一気に封を切ると、オレンジ色をした一粒を口に放り込んだ。
(……。なんか…すっぱい…)思った味と違った。
ツンと澄ました高い鼻先を天井に向けた彩は、チラッと隣を見た。妹はセロハンの封をうまく開けられず右往左往している。
「やっぱりこっち」
ふざけて陽菜のを取ろうとしたら、陽菜はチョコレートを背中に回し「いーや」と意地悪な顔を向けた。少し腹が立った彩は、嫌がる妹を抑えつけてチョコレートを奪い取った。同級生より体格の良い彩にとって、2歳年下の妹を制するのはたやすい。取られた陽菜は泣き始め、泣き声はむせび泣きに変わり、やがて咳き込み始めた。
母が台所から慌ててやって来る。
「彩! 何てことするの。お姉ちゃんなのに」
きつく睨んで叱った。
小学校3年生の彩にとって、母はまだ我儘を許してくれる、自分を甘えさせてくれる存在でいて欲しかったのに、手のかかる妹に付きっ切りの母に、彩は反発した。悪いことをしたのは分かっているが、素直に謝ることが出来ない。
「こんなのいらない!」
手にした両方のチョコを机の上にほうり投げて玄関へ走ると、下駄箱から真新しいピンク色の縄跳びを掴み取り、勢いよくドアを開けて飛び出した。
(さっちゃんとこ行こ)
大きな音をたててドアが閉まった。
「悪いお姉ちゃんねぇ」
陽菜の背中を撫でながら母は言った。
「同じのが無かったのよ。ごめんね」
「……」
背中を撫でる温かい母の手に安心して、陽菜の咳は治まった。しかし陽菜は、いつも歌を歌ってくれる姉が悲しんでいるようで辛かった。(おねえちゃん、かわいそう…)
クラスメイトの咲良の家まで休むことなく走り続けた彩は、息を切らせてインターホンを押した。
「さっちゃん、縄跳びしよー」
「しよー」
体育で出された二重跳びの課題を練習する約束だった。
「その縄跳び、可愛い」
彩が持ってきたピンク色の縄跳びを見て羨ましそうに咲良が言う。
「パパが買ってくれたの」
「いいなぁ。欲しいなぁ」
咲良は先月の父兄参観で初めて見た彩の父親を思い出した。
「彩のパパってイケメンよねぇ。授業参観で見たとき一番良かったよ。日焼けしてて、一番背が高いし、皮のジャケット格好よかった」
「ありがと」
「彩も背が高いし……、でも彩って肌白いし、鼻高いし、目元くっきりだし、彩ってハーフなの?」
「えー、ぜんぜーん」
すらりと伸びたしなやかな手足と陶器のように白い肌、それに細い顎をした顔に二重瞼の大きな瞳が輝く彩はフランス人形のようで、しばしば「ハーフ?」と聞かれる。しかし、聞かれる度に自分たちと違うものを拒む感情を察して寂しさを覚えていた。幼馴染の咲良にまでそう言われて胸が痛んだが、次の瞬間には忘れて二重跳びに集中した。
「ねぇ……、大翔ってさぁ……、彩によくちょっかいかけてくるじゃん」
「えっ、誰?」
「1組の奴…」
「あー。…私、嫌い! 私のこと棒って言ったんだよ」
「棒?」
咲良は、遠くからピョンピョンとやって来る細長い棒を想像して、ニヤッとした。
「笑ったなー。…さっちゃん、気になるの?」
「何かさぁ、格好いいじゃん」
「どこが?」
「いつもドッジで一番だしさぁ、足長いのよねぇ」
二重跳びを早々に諦めて普通の縄跳びを続ける咲良は、何度縄を引っ掛けても懲りずに挑戦する彩に向かって言った。
「彩は?」
「私はもっとたくましくて頼りがいがあって…」(それで…もっとイケメンが良いなぁ…パパみたいな)
「そんな子いる? 誰? どこの組」
「学校にはいないよ。ずっと年上の…20歳くらいかなぁ」
「えー、老け専じゃん?」
「何それ?」
彩は大きな瞳を細めて言う。
「そうねぇ…もっと背中が大きくて、仕草が格好良くて、やさしくて、私の思ってること何でもしてくれるの…」
「いないでしょ。そんな男子」
「……」
彩は心の中で20歳くらいの父の姿を想像していた。黙っている彩に気まずくなった咲良は言葉を付け足すように言った。
「でも…いるかもね。男は世界に35億いるんだって」
「さんじゅう…」
指を折って数えようとして止めた。
「じゃぁ絶対いるね!」
照りつける陽差しが力を失い街灯がともり始めるまで、二人は夢中になってしゃべりながら縄を跳んだ。
給食を終えた陽菜は、一人で廊下の窓から校庭を眺めていた。病院通いが多く友達と遊んだ経験の少ない陽菜は、小学校に入っても一人で過ごすことが多かった。校庭では小学生たちが声を張り上げ、それぞれの遊びに熱中している。今日は午後からの授業が無いので早く家へ帰ってアニメを見たいが、昨日から口をきいていない姉が気になって目で追っていた。
姉は太陽の下で走り回るのが大好きで、いつも大勢の真ん中に居て、休み時間になると他のクラスから誘いが来るほどの人気者だった。今は男子とドッジボールをしている。
陣地の中を蝶のように素早く華麗に動く姉を、陽菜は憧れと誇らしい気持ちで見ていた。
(私もおねえちゃんみたいに遊びたいなぁ)
彩は陣地にただ一人となり、敵陣地も長身の男子が一人だけになっていた。
(おねえちゃんの学年で一番大きな男子だ)
その男子はドッジボールでは学年で最も強い大翔だった。
彩と大翔の一騎打ちは、10分以上も続いていた。大翔がフェイントして放ったサイドスローの速球が彩の顔の数センチ横を飛んだ。
(あぶない)
陽菜が思ったとき、風に乗って遠くから声が飛んで来た。
「顔面反則よ!」
「そんなの授業だけだ!」
大翔の甲高い声が、こだまのように響く。
(お姉ちゃん、頑張れぇ)
陽菜はじっとして居られなくなり校庭へ行くことにした。久しぶりに浴びる太陽光線が痛かった。
「ひろとー、女に負けたらケツパンだぞ!」
彩にボールを当てられ場外に出された男子たちが言う。
「るせーなぁ」
「あやー、頑張れー!」
女子は彩を、男子は大翔を応援した。
大翔は片手で持ったボールを頭の上に掲げ、彩の顔面を狙う。彩は咄嗟に身を屈めるが、投げる寸前に足元に狙いを変えた大翔のボールが勢いよく飛んで来た。次の瞬間、たおやかに両膝を曲げて跳んだ彩の足先をボールはかすめた。翻ったスカートの裾が青空を背景に陽光に溶け、蝶の長い尾翅のように踊った。
男子たちが叫ぶ。
「スカートに当たったぞー、アウト!」
「当たってないわ!」
皆が口々に言い合い、コートは騒然となった。ボールが服に触れていないのを確信して陽菜は思った。(おねえちゃん、強い)
照りつける陽射しに疲れた陽菜は、日陰のある砂場の隅に移動し座った。ふと見ると半分砂に埋まって頭だけが出ている人形がある。陽菜は丁寧に人形を掘り出して砂を払い、一人で人形遊びを始めた。
『今日はいっぱい遊んだから、お風呂に入りましょうね』『わーい』
しばらくするとクラスの男子たちがやって来た。先頭の男子は、おちょくっても反応の薄い陽菜を日頃から目障りに思っていた。
「それ俺のだぞ!」
陽菜が手に持つ人形を指さして言った。
「お砂場に埋まってたの…」
「俺が埋めたんだよ。返せよ!」
いきなり人形の頭を掴むと、荒々しく引っ張った。
「やめて。壊れる」
陽菜は肘を曲げて肩を内側に回し体重をかけて取られないようにした。思ったより強い力で抵抗された男の子は、(小さい癖にいまいましい奴!)と怒りがこみ上げ、空いた左手で陽菜の顔を殴ろうとする。
突然、大きな影が陽菜と男の子の間を埋め、男の子の顔が叩かれた。尻餅をついて一瞬キョトンとしたあと男の子は大声で泣き出す。
(そんなに強くぶってないのに…)
彩は思った。
男の子は手足をバタバタさせて、学校中に聞こえるほど激しく泣き喚いた。
校舎から若い女の先生が慌ててやって来た。
「どうしたの!」
やっと泣き止んだ男の子は、彩を指差して言う。
「あの子がぶったんだ」
先生は男の子を介抱しながら彩の方を向き、キッと睨む。彩は先生の目を真っ直ぐに見て言った。
「人形を取ろうとしたからよ」少し声が震えた。
「陽菜ちゃんと遊びたかっただけだよ…」
涙声で男の子が言う。先生はきつい眼差しで彩を捕らえて低い声で言った。
「暴力は絶対にだめ。どんなことがあっても。そんなことをするのは人でなしよ。謝りなさい!」
彩は震える声で抗った。
「向こうが先に陽菜を叩こうとしたから…」
「小さい子に暴力を振るうなんて悪い子よ! 謝りなさい!」
悔しさで涙がこみ上げてきた。勝ち気な彩は泣き顔を見られるのが嫌で、顔を背けるとそのまま振り返らずに走った。
学校を出て公園まで一気に走り、ようやく藤棚の下のベンチに腰を下ろした。先生の怒った顔を思い出すと悔しさで涙が溢れる。何度手で拭っても次から次へと熱い滴がこぼれた。
やがて灰色の雲の下半分が茜色に染まってきた。
藤の葉の隙間から洩れる光が彩の頬を照らす。涙の筋が残る赤みがかった白い頬は、夕暮れの光に照らされて産毛の1本1本が光って見えた。
人の気配に振り返ると、陽菜がランドセルを2つ持って荒い息をしながら歩いてきた。
「そんなに無理して。だめじゃない」
ゴホンゴホン
「やっぱり」
陽菜は咳のことなど気にせず、姉の横にちょこんと座った。二人のスカートが重なる。姉妹は何も言わずに投げ出した足をぶらぶらと揺すった。
茜色に染まる柔らかい雲が空一面に拡がる。
「お姉ちゃん」「…お歌うたって」
「いいよ」
彩はアニメの主題歌をぽつぽつと歌い始めた。陽菜は姉の横でゆっくりと身体を揺する。揺れる妹の小さな頭を見て彩は思った。
(陽菜がいじめられたら、いつでも私が守ってあげる)
空は緩やかに薄闇に覆われ、家々に灯りがともり始めた。