序章
太陽の下で遊ぶのが大好きな少女高崎彩と、生まれつき身体が弱くいつも日陰にいる妹の陽菜は、夏に羽ばたく揚羽蝶、暗闇を恐れて光の当たる場所しか飛べないナミアゲハと、反対に光を浴びると逃げ惑い暗い場所を求めて飛ぶクロアゲハのようだった。
市松模様に彩られた舗道のカラータイルから陽炎が立ち昇る。陽は翳っても、うだるような日中の熱さがまだ地面には残っていた。舗道に沿ってしばらく歩くと端正に植栽された銀杏の並木道に入る。ここまでくると木々を抜ける風も幾分涼しさを帯び、衰えた緑の匂いを漂わせた。行く夏を惜しんで鳴くヒグラシを追い立てるように銀杏の木の間に立つ街灯がぽつりぽつりと灯り始めた。
長い並木道を抜けると左右に開けた広い通りに出る。左側にあるひときわ目を引く背の高い欅の葉陰から、レトロ調の大きな赤褐色の壁が見える。遠くからバスドラムの振動が地面を伝って響いた。
普段は野球が行われる球場で、いま、ポップミュージックのライブが始まろうとしていた。
殺風景な控え室で、フリルをふんだんに使った艶やかなステージ衣装に身を包まれた少女が一人、スチール椅子に浅く腰掛けぼんやりと何もないテーブルの上を眺めていた。宝石を模したビーズで装飾されたきらびやかな襟が、少女の細く長い首を際立たせている。胸まで伸びる癖のない豊かな黒髪には淡桃色の花の髪飾りが飾られていた。
控室の一方の壁を占有する大きな鏡の前に置かれた一輪挿しが、遠くから伝わる振動で小さく揺れた。鏡に映るステージ用に丹念にメイクされた横顔は、額を隠すように下ろされた前髪が右眉のあたりで後方へと優雅なウェーブを描いていた。
少女が揺れる一輪挿しを見つめ静かに息を吐き出したときノックがした。びくりとしてドアを振り向いた少女の前髪が跳ね上がり、透き通るような白い額の右上にくっきりと刻まれたヘアピンくらいの痛々しい傷跡が露わになった。
ドアが小さく開かれ、スタッフがお辞儀をしながら入って来る。
「失礼します。高崎彩さん、30分で出番です。スタンバイお願いします」
「…はい」
スタッフは彩の返事を確認するとドアを閉め、足早に立ち去った。
物思いから覚めた彩は、椅子から立ち上がろうとして、ふと化粧台の隅に行儀良く置かれたポーチに目が止まった。強い緊張から生まれる心もとない気持ちをもてあました彩は、ついポーチに手を伸ばし、中から瀟洒なパスケースを取り出した。
(見ないでおこうと決めたのに…)
普段は隅へ押しやっている孤独感が胸の奥ではじけ、どうすることもできなかった。左手首につけられた花柄のリストバンドを悲しげに見つめながらパスケースを開いて内側のポケットから折りたたまれた古い写真を取り出した。泥水の後が消えないくしゃくしゃになった写真。夏の陽光が降り注ぐプールサイドで、これ以上できないくらいの満面の笑顔を作る自分と妹を両側から強く抱きしめる両親。在りし日の家族写真を見て、細い肩が小さく揺れた。
彩の周囲から騒がしい音が消えた。
<おねえちゃん……お歌うたって>
透き通るような細い妹の声。その声を聞くことはもうない。
(ごめん……守れなかった……)
口惜しさに心の中で嗚咽した。写真の中で優しく微笑む両親も、今はもういない。小さな肩が上下に揺れ、細い手が震えだす。
トントン
「準備お願いします」
ノックと同時にスタッフの催促の声が響いた。我に返った彩は、はいと小さく返事を返し、破れかけの写真を丁寧にパスケースに戻して元通りにポーチにしまった。
廊下をせわしなく行きかう足音の隙間から、徐々にピッチの上がるドラムロールとそれに調子を合わせる観客のコールが聞こえた。彩は爪先に力を入れて立ち上がると、勢いよく控え室のドアを開けて舞台へと向かった。
バックヤードをスタッフに先導されて歩く。デビューから1年、ついに来た大舞台を前にみぞおちの辺りがキリリと痛む。
センターステージの手前まで来たところで、上等なジャケットをまとった男が声をかけてきた。
「どう。大丈夫?」
このライブイベントを企画した彩の所属事務所の社長であった。
「はい。もちろんです」
彩は元気良く応えた。
「この日を待っていたよ」
「ありがとうございます」
「楽しんで!」
「はい」
彩は、両足をきっちりと揃えて丁寧にお辞儀をすると、背筋を伸ばして、しなやかな足取りでステージに向かった。
スタッフに続いて暗幕をくぐり、迫り上り舞台の下まで来たとき、熱い血が全身を駆け巡った。胸の動悸が、自分でも聞こえるほど高鳴っている。手のひらは汗でぐっしょり濡れ、膝が小刻みに震える。
「舞台中央で待機して下さい」
スタッフに促されて階段を登り、テープが貼られた位置に、今日のために特別に用意された可愛らしいダンス用のストラップパンプスの先端を合わせた。
「まもなくです」
会場では前奏曲が大音量で演奏され観客の熱気を盛り上げていた。
(練習したようにちゃんと身体が動くだろうか。緊張して声が掠れたりしないだろうか)
涙が出そうになる。膝がガクガクと震え出す。奥歯をかみ締め、全身に力を入れた。
(よし! 楽しもう)
前奏曲が終わり、会場の照明がいっせいに消えた。早打ちのドラムロールに続きオープニング曲のイントロが流れる。
「どうぞ」
スタッフの合図に合わせて、彩を載せた迫り上がり舞台がサイリウムの渦の中へ飛び出した。
大歓声が湧き起こり、スポットライトが足元から徐々に這い上がってくる。極度の緊張から顔が強張り、頬が震え出した。
彩は目を閉じ、家族4人で幸せだった頃の光景を想った。
ライトが胸から首筋に迫る。
次の瞬間、口角をめいっぱいに上げ瞳に力を入れて、彩は満面のスマイルを作った。