奇跡はともかく、魔法はあるだろう
最初から最後まで、俺は藤原さんに圧倒されていた。
あの人の槍はたくさんの星が落ちてくるようで、ただただ美しかった。
どっしりとした構えは、まるで太い太い大樹だ。
明らかに勝っているのは若さだけ、と必死になって動き回ってはみたものの、どれだけの意味があったのかはわからない。
むしろ、ぐるぐると動き回る俺を、藤原さんはあっさりと一歩で追い付いてくるのだから、自分で自分を追い込んでいた悪手な気がする。
あれが積み上げてきた経験というやつなんだろう、きっと。
俺は、技で負けていた。
果たして、俺はあの槍の前で目をつむれるのか。
たった一秒、大きく深呼吸する。
その一秒があれば、何度突かれるのか。何度殺されるのか。
想像するだけで、手が震えるくらいに怖い。
なのに、藤原さんはやってみせた。
気の押し合いでは途中まで押し込んでいたはずなのに、あれ一発で飲まれていたんだ。
何故、あれが出来たのだろう。
何故、あれが出来ると思ったのだろう。
俺は、心で負けていた。
心で負け、技で負け、体も無意味で。
本当に俺は勝ったのだろうか。
藤原さんの槍は俺に届き、その後ようやく俺が届かせた。
それは、泣きわめく負けた子供がじたばた足掻いているような、そんなみっともない真似をしてしまったんじゃないか。
本当なら藤原さんの槍が届いた時点で、俺は敗けを認めるべきだった。
本当に勝っていたのは、藤原さんだったんだ。
負けた理由はいくらでも浮かぶのに、勝ったと思える理由がこれっぽっちも浮かばない。
自分にすら言い訳出来ない言葉の羅列が並ぶ中、俺はふと自分が落ちていたのだと気付いた。
「うあ……」
武術なんて物をやっていれば、何度も何度も気絶する事がある。
指導されている最中に落とされたり、あほみたいに剣を振り続けて気付いたら落ちていたり。
何度も何度も繰り返してきた事なのだから、戻る感触は何となく理解している。
しかし、目を開いた所で、これもまた夢うつつにしか思えない光景が、眼下に広がっていた。
どこまでも続く真っ白な雲、そして大地。
街が、雲の海に浮いていた。
街は全体的に赤っぽいレンガ作りの建物で、普段見ているコンクリートの灰色とは似てもにつかない。
そのくせこれでもか、とみっしりと詰め込まれ、縦に伸びた建物の群れは大昔に行った東京のようで、見覚えすらあるような不思議な感覚で、そんな感覚すら吹き飛ばしてしまいそうな物が、街のど真ん中に立っていた。
それは塔だ。
写真で見たピサの斜塔のように外壁には柱のような装飾が施されていて、本家のように傾いたりしていない。
真っ直ぐに、どこまでも伸びる塔の先端は真っ青な空の先に消えていく。
なのに、
「なんで、あの先が下だと思うんだろう」
「そういうものだもの」
その声は、頭の後ろから。
ここ何時間かでよく聞いたキンキンとした高い声は、サマの声だ。
首筋に当たる小さな感触は妙に暖かく、何だかとても変な感じだ。
「それよりやっと起きたのね!ダメね、イセ!」
「……いや、お前が俺ごと吹き飛ばしてくれた気がするんだけど」
「そうね。でも……何かもう面倒くさかったの」
「そんな理由で吹き飛ばされたのか!?」
「大丈夫、死なないように気を付けたから」
決闘から休む暇なく動き続けて、もう指一本動かしたくないくらいには疲れ切って身体中痛いんだけど、もう抗議の声すら上げる気がしない。
「それより……今、何してるんだ、これ」
「えー、散歩?」
「……散歩かあ」
確かに目の前に広がる光景は日本どころか地球中で見る事の出来ない物だろうけど、首筋捕まれた猫のような状態で見ても感動する気分がどこかへ行ってしまう。
「まぁいいわ、イセが起きたから陸地に戻りましょう。いい加減、手を離したくなってきたわ」
「いつか本気で殴ってやる」
女は殴らない、とかそういう常識を捨てても誰にも文句言えないと思うんだ、そろそろ。
斬れる気がしないけど、そういう問題じゃなく。
「それよりイセ!私は退屈なの。お話しましょう?」
本当なら、こいつに言葉を返したくない。
ないが、今は色々と気になる事が多すぎる。
「一つ聞きたい事があるんだけど」
「へえ、いいわよ。わかる事なら答えてあげる!」
「あれは……何なんだ?」
「あれ?」
「あの、異様に高い塔だ」
「塔は塔よ?それ以外の何なの?」
「あー……その、お前にはあの塔がどう見える……じゃなくて、どう感じる?」
「普通の塔よね?」
「俺がおかしいのか、これ」
決闘してゴブリンと連戦、更に兵士っぽい人達と戦って、最後にサマに吹き飛ばされて。
これだけあれば、頭の一つや二つおかしくなっても仕方ない。
「いや、違う。お前さっき、そういうもんだって言ったよな。あの塔の上が下だって俺は感じるんだよ。どういうことなんだ」
「ああ、そういう事。もー、しょーがないなあ!しょーがないから、私が教えてあげるわ!頼りになる神様だもんね、私は!」
この底の抜けた桶みたいに無駄に得意気な声を聞いていると、やっぱ聞かなきゃよかった、と思わなくもない。
とはいえ本気で何の情報もないとなれば、聞かないわけにはいかないだろう。
終わってもいいとは思っていたけど、何の意味もなく無駄に死ぬのは嫌だ。
「で、上が下に感じるって、どういうことなんだ」
「簡単な話よ。"そういうもの"だからよ」
「そういうものって……理屈に合わないじゃないか」
「馬鹿ねえ……これだから人間はダメなのよ。なんで異世界なのに、法則が丸っきり同じだと思うのかしら」
ふふん、という笑いと共にサマは話し出す。
「そうね、例えば……そうね、林檎は赤いじゃない?」
「そうだな」
「でも、林檎って太陽に当てないと緑のままなのよ」
「そうなのか」
「ふふん」
バカっぽいくせにこういう知識で勝ち誇られると、本当に腹立つな……!
「でね、それはどうして?」
「どうしてって……何かこう、理由があるんじゃないか?科学物質のあれこれみたいな」
「そうね。林檎は木から落ちるし、音は空気を伝わる。それは"そういうもの"だからよ」
「わかったような、わからんような……」
「それでいいのよ。何もかもわかったつもりになって、科学で星を丸々焼き払えるようになった所で私達、神が"そういうもの"だと決めたから、そうなっているの」
「……それは何か、嫌だな」
雲の海に浮かぶ街は燦々と照りつける太陽の光を浴びて、とても綺麗だった。
建ち並ぶ街並みは秩序なんて感じられず乱雑で、だからこそ夢のような雲の海の上でもしっかりと生の息吹を感じる。
でも、それすら"そういうもの"だから、と決められているのだとしたら。
俺が何かを考えて、何かをした所で最初からそうだったと決まっているのなら。
あれだけ輝いていた決闘の一瞬も、走馬灯のような夢の中でも見る事のなかったその前も、"そういうもの"でしかなかったのか。
「バカねえ、イセは」
不思議と、サマの声は優しかった。
「私が"そういうもの"だと望んでも、貴方はそうは動いてないじゃない。人間は自分勝手に好きに生きるわ。どれだけ神が言葉を尽くしても、聞きやしない」
「……そうなのか?」
「私、物語って好きだけど、神の扱いには一言びしっと言ってやりたいと思ってたわ!人間様の言う通りにしなきゃ悪い神、人間様に尽くして尽くして尽くし抜いたら善い神様!一体、人間は何様のつもりなのかしら?神との契約は破るくせに、自分達には尽くせ。これほど馬鹿にした話はないでしょう?世界の管理なんてしてる神は、本当に真面目よね」
「……まぁ確かに」
聖書もまともに読んだ事のない俺でも、俺の言う事はまったく聞かないくせに、自分の望みだけは通そうとするサマに腹が立つ事はわかる。
逆に神の立場からすれば……腹の立つ話なんだろう。
十年二十年生きてみれば、なんでこんな奴がいるんだろう、と思う事は何度もあった。
そんな奴らの面倒を見るとか、冗談じゃない。
そう考えると、むしろ神様ってやつは大した存在なのかもしれない。
「まぁ私は嵐だからね、人間の面倒とか見る気まったくないからどうでもいいんだけど!」
「その一言が少しは見直してたのに!」
「なによ、せっかく色々教えてあげたのに!?」
「一言多いんだよ、お前は」
「そんな事言われても、私は私なのよ。誰かに私を譲りはしないの!」
「ほんの少しでいいから、たまには俺に譲れよ!」
「譲ってあげたじゃない、質問に答えてあげたし」
「どうせまた色々聞きたがるんだろ?なら、等価交換だ」
「ふむ、そう言われてみれば確かに」
あっ、それで納得するんだ。
うっすら気付いてたけど、こいつ割とチョロいよな……。
「ああ、じゃあ一つだけ譲ってあげましょう!この私が!」
「なんでそんなに偉そうなんだ」
「実際偉いからよ!まぁそんな当たり前の事はいいとして」
無駄にドヤ顔をしてるんだろうな、と見るまでもなく頭に浮かんで、
「この世界、魔法とかあるわよ」
「まぁそうだろうな」
「驚きなさいよ!?なんで当たり前に受け入れてるのよ!?」
無駄に驚いてるんだろうな、と見るまでもなく浮かんだ。
いやまぁ、むしろ街が空に浮かんでるような異世界で、魔法がないって言われる方がびっくりすると思うんだが。