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浮遊世界のホワイトノート  作者: 久保日
2/8

何もかもが終わった後に

 記憶はあまりに遠く、肌に触れる風が暑いのか冷たいのかすら、私は理解出来ないでいた。

 光。

 そう、確かこれは、光だ。

 暗闇に慣れ切った私の目は暴力的ですらある月の光に晒されて、周りがぼんやりとしか見えなくくて。

 あまりにも、何もかもが唐突だった。

 粘つくように鼻を犯すのは、確か血の臭い。よくかいだ臭いだ。

 足裏は直接地面に触れているのだけれど、どうやって足を動かしていたのかすら覚えていない。

 その事が憎いと思った。思おうとした。

 風化した実感。左手の指先が、ぴくりと動く。

 反射的に、私の意思なんてこれっぽっちもない動きだけど、それを意識してしまえばあとは簡単だ。


「あはっ」


 指先からひどく冷たい熱が流れてゆき、心臓を介して全身に送られる。

 ガクガクと震えていた膝の動かし方を思い出し、動き出していた目に火が灯り、頭の中にかかっていた霧があっという間に晴れ渡った。

 山。そう、ここは山だった。

 小高い丘と言った方が相応しいような、そんなしょぼくれた山だ。

 そんな山の中腹で、一人の男が死に、一人の男が死にかけている。


「うふ」


 喉から漏れているのは、私の声か。

 これからを考えると、どうしようもなく楽しかった。


「君が私を助けてくれたのかしら」


 腹に槍が刺さったままの座り込む男は、のろのろと顔を上げる。

 青ざめた肌の色と流れ続ける真っ黒な血は、生き死に関わった事のない無垢な子供だって彼が死に瀕しているのがわかるほど。

 だというのに、不思議と彼は透き通った表情を浮かべていた。


「……何の話だ」


「私はねえ、神様なんだ」


「そうかい」


 男は一つため息を吐く。

 それは諦めとかそういう暗い物ではなくて、身体の中にある澱みをすっかり吐き出すような、そんなため息だった。


「お迎えってやつか。こんな美人に迎えてもらえるんだ、俺はよほど功徳を積んだらしい」


 何がおかしいのかさっぱりわからないけれど、男はげほげほと血を吐きながら笑っている。

 そんな死にかけでも存在してから初めて美人と褒められるのは、私は少し気分がよかった。


「そうよ、とびっきりの功徳よ。何せ私を開放してくれたのだから」


「……あ?」


「私は嵐の神様ってやつでね。人々が"嵐とはこういう物だ"と思ったから生まれたの」


「それが俺に何の関係があるんだ」


「ふふふ、貴方はせっかちねえ、人間。まぁ少しお話しましょう。なにせ私が誰かと話したのは、いつぶりかわかったもんじゃないの。貴方達人間がうほうほ言ってた頃の話だもの」


「そういう話は学者先生にでもしてくれよ。俺にする話じゃねえ……出来たら空気読んで消えてくれ」


 男から楽しげな様子は消え、何故かどんどん不機嫌になっていく。

 私から視線を外すと右のポケットに手を入れ、何やらごそごそとしていたと思えば、またため息だ。

 今度は透き通った物はなくて、如何にも忌々しいというため息だった。


「まぁ聞いてよ。私は嵐なの。嵐が吹き荒れるのは、そういう物じゃあない」


「そうかい」


「だからね、私は吹き荒れたの。でも、そう在れと望まれて生まれたのに、他の神様はひどいわよね。私はやりすぎだって言われてね、長い間封じられていたわけだったのよ」


 男は私の話を聞いているのか、いないのかわからないまま、今度は左のポケットに手を入れるとまたごそごそし始める。

 段々と彼の動きは遅くなり、みるみる死に近づいているというのに何をしているのだろう。


「それでね、それでね?私が開放される条件がほとんど有り得ないような条件だったの。なんだかわかる?」


「知らね」


「少しくらい考えてくれてもいいんじゃないかな。私は貴方と話したいの」


「……あーうん、あれか。あれだろ」


「……うん、まぁ貴方は死にかけているから、きっと頭が回らないのね」


 私がこんなにも忍耐を発揮した事は、なかなか無い。

 というより、これまでずっと無かったし、きっとこれからも無いだろう。

 今すぐ目の前の、私の話を聞く気がこれっぽっちもない男をぶん殴って、草花の養分にしてやろうと考えているのに、まだ実行していないんだ。

 ふふ、きっと私も少し丸くなったんだろう、きっと。


「条件はただ一つ、殺した相手に一切の恨みつらみを持っていない人間の血が、この地に染み込こむ事」


「…………」


「ありがとう。私は存在してから初めて感謝したわ。だから、私は貴方にお礼をしたいわ」


 私が封じられていた空間は、ただ真っ暗な空間だった。

 光も無く、熱もなく、踏みしめる大地もない。

 そんな気が狂いそうになる空間で、私は指先一つ動かせないままずっと耐えていた。

 こんなどことも知れない山の中、奇跡的にも程がある条件の封印をした奴らには絶対に復讐してやる。

 風化した想いでも、そうする事が正しい私の在り方だ。

 でも、それはやる事をやってから。


「願いを言いなさい、人間」


 私はこの瞬間のために在り続けてきた。

 気が狂うような時間を重ね、それでも有り続けてきた。


「一つ、なんてケチくさい事は言わない。二つでもいい、三つでもいい。好きなだけ言うといい」


 私と同格か、それ以上の連中が複数でかけた封印は全然解ける気配はなくて。

 それでもほんの僅かだけあった封印の隙間から、本当にほんの僅かだけ外が覗けた。

 それは外界の景色であったり、知識であったり、断片的な物語だった。


「私はその全てを叶えてあげる。この荒れ狂えなかった嵐が、君の全ての望みを叶えてあげよう」


 砂漠で遭難した人間が必死になって水を求めるかのように、私は断片的な世界を求めた。

 それだけが私の求める物になっていた。

 切れ切れになった物語は、ひどく物足りない。

 一方的に犯人を弾劾する探偵だったり、全てが終わって観客の笑い声だけが響く漫才だったり、ヒロインがその身を投げ出そうと決意をするシーンだったり。

 断片的な物語の数々を埋めるのが、私に許されたたった一つの救いだった。

 そんな中、私がずっと埋められないでいた物語が、一つだけある。

 それはランプに封じられていた精霊の話だ。

 何をしたのかランプに封じられた精霊は、最初の百年は自分を開放してくれた人間にお礼をしようと考える。

 その気持ちは、よくわかった。

 次の二百年はこんなにも待たせた人間を殺してやろうと考える。

 その気持ちは、よくわかった。

 さて、次の三百年は?

 それは、どんなに考えてもわからなかった。


「イヒッ」


 あのランプの精霊は、どんな選択をしたのだろう。

 欲望に満ちた人間の願いを叶えてやったのか、それとも自分を開放した人間を無残に引き裂いたのか。

 私はどうしたいのだろう。

 私は神様だ。

 そう在れと、望まれて生まれた。

 まだ荒れ狂う嵐として在るのか、人間が漠然と望む慈愛に満ちた神様として在るのか、それとも別の何かに堕ちているのか。

 この死にかけた男は、何を望むのだろう。

 まずは自分の生か。

 人間という奴は、ひどく生き汚い。

 傷なんて一つとして残さず、それどころかどんな不調だって治してやろう。

 次は金か。

 彼が望むなら、背丈ほどの金塊を積んでみせよう。

 勿論、人の法に触れない方法で、完璧に後ろ暗い所なく、換金の問題すらない完全無欠の方法で財という財を与えてやってやろう。

 あとは女か。

 望むなら我が身を与えて、人では考えられない悦楽をくれてやろう。

 彼の理想すら超えた最高の女として、在ってやってもいい。

 他には何を望むのだろう。

 指一つ動かす事なく、三千世界の美食を与えてやろう。

 彼に魂すら腐れ落ちるほど、堕落の極みを与えてやろうじゃあないか。


「さあ、私に望みを言って?私は貴方の全てを叶えてあげる」


「そうだな……」


 人間風情が、神に何を望むのか。

 吹き荒れる嵐に止まってください、なんて望まれた所で、私が矮小な人間に斟酌する理由がこれっぽっちもない。

 死にかけている肉だけではなく、私に何かを望む不遜な魂すら粉々に引き裂いてやる。

 私が暗闇の中、苦しんでいる最中、お前達は外を楽しんでいたのだろう。

 許せるはずがないじゃあないか。

 知らなかった、関係なかった、そんな言い訳も一切合財まとめて吹き飛ばしてやる。

 八つ当たりだろうと、知った事か。

 私はお前を砕いて切り刻んで、意気揚々と世界中にバラまいてやる。


「あー……あれだ」


「うん、何かな?」


 願いを叶えてやろう、という気持ちと、全てが憎くてたまらない感情は私の中で矛盾する事なく存在している。

 それは風化しているけれど、それでも確かにあるのだと、私は信じていた。

 ただ自分でもわからないくらいに粉々に砕けて、さらさらの砂になって混ざってしまっているだけだ。

 気まぐれで揺れる感情の天秤は、どちらにも振れていて、初めての選択はひどく新鮮だった。

 私は、どんな神様として在るべきなのだろう。

 誰もが望む善き神様として在るのか、誰も望まぬ嵐か。

 今、私の中でただただ名付けられない感情だけが荒れ狂っている。

 私は一体、何と定義されるべきなのか。

 だけど、


「煙草一本くれよ」


「……は?」


 その答えは、出なかった。


「だから、煙草だ。さすがに血塗れの煙草じゃなあ」


「……他には?」


「無いなあ」


 まるで遊び疲れた子供のように、男は如何にも満足そうに笑っていた。


「やるだけはやった。ここから先、俺の"これ以上"があるとは思えない。あとは末期の一服があれば、言う事はなさそうだ」


「何を、言っている」


 一瞬にして、私の中に炎が渦巻く。

 腐り果て、乾き尽くしていたはずの私の魂が、たった一色に染め上げられる。

 それは、怒りだ。

 私を置いて、男は満足げに死のうとしている。

 とてもじゃないが、それは赦せる物ではなかった。


「ほら、治してあげたよ。貴方はこれからも生きられる。不老不死もあげるよ。好きだろう、不老不死」


「そうかい。それよりさっさと消えてくれ」


 時間が巻き戻ったかのように、男の腹に刺さっていた槍が抜け落ちる。

 浸っていた血の池すら消え失せているというのに、男の魂は燃え尽きた薪のように死に向かおうとしていた。 


「ほら、金塊だよ。君がどれだけ使おうと、ちっとも減りやしない財宝だ」


「そりゃいい。ちょっと煙草買ってきてくれよ」


 男は山のような黄金の輝きに目も向けず、ひどくつまらなそうな視線で私を見る。

 肉体の傷はこれっぽっちもないもいうのに、満ち足りた魂から熱が失われていく。

 

「ほら、君の理想の女さ。お望みとあらば、毎夜姿形を変えて貴方を楽しませてあげる」


「男の夢だな。でも、俺ってシャイだから、そんなに情熱的に誘われると引いちゃうんだ」


 媚びを含んだ私の声を、人間は煩わしげに切り捨てる。


「ふざけるな!?なに勝手に満足して死のうとしているんだ!ほら、傷を戻してやったよ!もう一度、死に向かうのは怖いだろう!?それとももっと痛みが欲しいのか!死ぬよりもひどい痛みをくれてやろうか!」


 風が、吹く。

 荒れ狂う暴風は私の感情そのもので、木々はへし折れ、地はめくれあがり、雷が落ち、夜の山を豪雨で染め上げる。

 それでも、男の憎たらしいくらいに満ちた表情は、何一つ変わらなかった。

 好物を腹一杯に食べた最後の最後に、ちょっとばかり虫が飛んでいるのを見たような軽さだ。

 私を善き神として崇めるわけでもなく、荒れ狂う嵐を憎むわけでもなく。

 この人間は、私をつまらない物として見ている。


「私を求めろよ、人間!私はなんだ!?神様なんだぞ!お前の望みは全て叶えてやる!だから!私をそんな目で見るな!私を認めろ!私は神だぞ!?」


 金切り声と共に周囲に激しく雷が乱舞し、めくれあがった土塊が男の左目を抉る。

 神の風は世界の境界を犯し、異なった世界への道行きを暴く。

 いっそ冒涜的と言ってもいいほどの力に満ちた光景は、人間の矮小な精神では絶対に理解出来ない。

 そのちっぽけな人間の魂と精神には多大な負荷で、ひどい魂の痛みを与えているはずだ。

 だというのに、


「うるせえよ」


 男は、ひどく静かに言葉を作った。

 これから千年後、人間がどれだけ進歩しようとも手遅れな、魂にまで到る傷を負いながらも、男は何一つ変わらず。

 私には、この人間の心を変えられる手立てが、何一つとしてなかった。

 激情に任せて殺してやっても、この人間はただ満ちて死ぬ。


「お前がカミサマだろうと人間だろうと、どうでもいい」 


 つまらなそうな視線は変わらず、燃え尽きた魂は今にも消えそうで、


「出来たらさっさと消えてくれ。俺はもう、やり切ったんだ」


「――っ」


 激情は完全に私の制御を外れた。

 己の身を焼き尽くすような激情は、完全に私から"これから"を奪うに違いない。

 それでも、許せる物ではなかった。

 千年か万年か、はたまたそれ以上か。荒れ狂う事の無かった嵐の力をありったけ突っ込んで、世界の境界を犯し荒らす。

 "向こうの世界"の神が慌てて反応する気配があるが、この瞬間に限って言うのなら私の方が圧倒的に上だ。

 先を考えた者と、後先考えない私とでは私の方が絶対的に強い。

 世界を犯すと同時に燃え尽きていく男の魂を補強し、崩れないようにがっちがちに縛りあげる。

 それは無理、無茶、無謀の三拍子だと自分でも思う。

 私の魂すら歪ませる熱量は、これから先の事なんて生温い考えを完璧に奪ってしまう。

 風化した痛みも、あれこれ考えていた未来も、何もかもがどうでもよくなってしまった。


「その無礼、絶対にあんたに後悔させてやる」


 私は、それだけでいい。

 そして、私達は世界の壁を越えた。

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