斬って斬られて
「あの、すみません。藤原さんのお宅でしょうか?」
「はい、そうですが」
その電話がかかってきたのは、テレビ出演をした次の日だった。
頭を垂れた稲の一粒を槍で打つ、というその企画は結局の所、ただの見世物でしかない。
少しの糧を得るためとはいえ、くだらない見世物になってしまったのは、ひどく空しい気分だった。
「昨日のテレビ、凄かったです」
「はあ、そうですか」
そんな気分だったせいか、僕の声は無愛想ここに極まりだ。
電話の声は年若く、恐らくは二十歳を少し超えたくらいか。
そんな相手に八つ当たりするような真似をする僕は、いつまで経っても丸くなれないでいた。
出来る事は出来るし、出来ない事は出来ない。
ただそれだけの事だというのに、何も知らない素人に賞賛された所で何の意味があるのだろうか。
ゆらゆらと揺れる米粒を一粒選んで打った所で、人を穿ったわけでもないのだ。
それは槍でなくとも出来る事で、近づいて手でやればいいだけの事だと僕は思う。
こういう所が偏屈なジジイなのだと娘には言われるが、六十も大分超えた身としては直そうとも思えない。
「あの、槍の引きが凄かったです」
「ほう」
と、思わず「わかってるじゃあないか」と僕は不機嫌さも忘れて言いたくなってしまった。
槍の極意は突きでも払いでもなく、引きだ。
突きの速さなんて物は簡単に決まっている。
車のバンパーに槍をくくりつけておけばいい。
しかし、真っ直ぐに車が突っ込んで来て、それを避けようとしない馬鹿はいないだろう。
だから、引きだ。
引いて、即座に次を放つ。相手より長い間合いで、即座に次を繰り出せれば勝てる。
その単純な理屈は銃の発展と同じだ。
火縄銃から始まり、後装式となり、最後は機関銃になる。
なるべく沢山撃てば強い、というわけだ。
「そ、それでですね……その、お願いという一つ聞いて欲しい話があるんですけど」
自分の考えに没頭していると、電話の先で若い声が言葉を続けていた。
恥ずかしげに言葉を作る青年の声は、まるで子供が愛だの恋だのを語るかのようで、こちらも気恥ずかしくなってしまう。
「まぁなんだ、言ってみなさい」
まさか本当に男色のお誘いというわけではなかろうが。
「ありがとうございます……えっとですね、その……決闘しませんか?」
「決闘……決闘かね?」
「はい、真剣で」
「いやいやいや、冗談でしょう?若い人はわからんかもしれませんけどね、日本という国は法治国家ですよ。法律があるんです。大昔の決闘罪なんて持ち出さなくてもね、本気で決闘したら殺人とか傷害とかそういう物になっちゃうんですよ。わかってますか?」
「はあ」
青年の返事はわかっているのか、わかっていないのか。
むしろ、このジジイは何を言ってるんだろう、という気分が透けて見えるような返事だった。
「俺もちょっと居合いやってまして……昨日、テレビで藤原さんの槍見た時、この人だなって思ったんです」
「何がこの人だなって思ったんです?」
「あー……凄い失礼な言い方なんですけど、怒らないで聞いてくれますか?」
「聞いてから決めます」
「そ、そうですよね……あの藤原さんって」
青年の言葉は、
――自分の剣が精神修練とかくそくらえって思ってる人ですよね。
僕の心の中をぴたりと言い当ててくれた。
「相手をこう倒そうとか、もっと早く刀振ろうとか思ってる奴が相手を思いやれるはずないじゃないですか。スポーツやりたいわけじゃなくて……あの、上手く言えないんですけど本気でやりたいんです、俺」
「武道をかね」
「いえ、武道とかそういう小難しい理屈じゃなくて……」
青年はしばし迷うと、
「その、棒振りじゃないですか、刀も槍も。強くなりたいなら銃持った方が強くなれますし……でも、俺にはこれしかないっていうか」
刀剣の世なんて物は、遥か遠い御伽噺のようなものだ。
もうこの現代日本では、武術全般は伝統芸能のようなものでしかないのだろう。
勿論、役に立つ場面はあるだろうが、棒を振り回している間に数式の一つでも頭に入れた方がよほど自分のためになる。
結局の所、無意味だ。
「やろうか」
「え?」
「決闘、やろうか」
「……本当ですか?」
「生死問わず、遺恨残さず。そういう決闘、しようじゃないか」
信じられない、という様子の青年に僕は思わず笑みを零してしまった。
本当は彼が決闘という言葉を漏らした時から、僕の気持ちは決まっていたのだ。
武道を嗜む人々の中には、素晴らしい人たちがいる。それは絶対に否定しない。
勿論、嫌な奴らは沢山いるし、僕も嫌な奴らの一人だろう。
ただ生き死を賭けての決闘には、誰も付き合ってはくれなかった。
今の世の中、楽しい事は多い。
美味い酒を飲み、数少ない友人達と語り合えば、この偏屈な僕の心も少しばかりは慰められる。
だけど、したかったのだ。
「あ、ありがとうこざいます!あ、えっと、その俺は」
生死問わず、遺恨残さず。
「俺の名前は、伊勢誠一郎です!」
暗さなんてこれっぽっちもない、そんな決闘を。
彼が指定した場所は、どこにでもあるような田舎の小さな山の中腹だった。
木々がそこだけを避けるように空いた天然の広場は、地面もほぼ平らでよくこんな場所があったものだと驚いてしまう。
時刻は午後の九時を少し回った辺りか、人影どころか車のライトすら見えはしない。
「すみません、遅くなりましたか?」
「いや、僕も今来た所だとも」
嘘である。
決闘と言うくらいだから、昼間のうちから騙まし討ち(されるのもするのも、当然ありだ)を警戒して探索をしていた。
やってきた伊勢青年は、思っていたよりも普通の青年だ。
どこにでもいるようなジーパンと白いシャツで、ベルトに差した日本刀だけが普通さからはかけ離れているが、黒い和服に袈裟を着て槍を担いでいる僕よりはよほど街歩きに向いている。
それなりに整っているような気がしないでもない顔は、にこにことした笑顔が乗っていた。
よほど嬉しいのだろう、こんなに喜ばれると僕まで嬉しくなってしまう。
「改めまして、伊勢誠一郎です。今日はよろしくお願いします」
「藤原勘吉です。よろしくお願いします」
「…………」
「…………」
そして、奇妙な沈黙が降りた。
「……こういう時って何を話せばいいんでしょうか?」
「……むむ、僕もこういうのは初めてでして」
時代劇か剣客小説か。
そういうのは大抵、何かしら事情があった。
僕達のように『決闘しましょう』『そうしましょう』というのは、なかなかなかった気がする。
探せばあったのかもしれないが、時代劇を見ていると役者の殺陣が気になって仕方ない。
囲んだのなら、一斉にかかりたまえ。後ろががら空きじゃないか。
さっくりとやりたまえよ、などと考える僕はやはり偏屈な老人なのだろう。
いやしかし、何も話さずに決闘するというのも味気ない。
気のきいた台詞の一つでもやればいいのかもしれないが、僕が嫁にプロポーズしようとした時は「月が綺麗ですね」と言って「どうしたの?風邪でもひいた?」と返されたのは忘れられない。
そんな嫁も鬼籍に入り、一人娘もとっくの昔に片付いていて、孫までいる。
「煙草」
「はい?」
「煙草、持ってないかな?」
何故か無性に吸いたくなった。
「赤マルですけど、いいですか?」
「ん、ありがとう」
間合いに入る事なく投げ渡された煙草は、いつの間にかパッケージが変わっていた。
それはひどく寂しくて、清々しいくらいだった。
ふと気付けば、僕はもう何も持っていなかった。
嫁が生きていれば、老後の楽しみに旅に行くのもよかったかもしれない。
しかし、十年も前に死んでいた。
娘のために少しばかりの遺産を残してやるのも悪くなかっただろうが、ちょっと街に近い道場の土地を売ればいくらかにはなるはずで、孫にも少しばかりの小遣いもやれるだろう。
立つ鳥は後を濁さず、美田残さず。
僕はもうやる事は、十分にやっていたのだ。
もうやる事のない老いぼれの人生だ。
煙草の一本くらい、自由に吸ってもいいだろう。
何十年かぶりに吸った煙草は、ひどく美味かった。
「伊勢くんも飲むといい。君の煙草だがね」
「はい」
言葉は無い。
煙草の火で少しばかり浮き上がる彼の顔は、僕と同じようにこの瞬間だけはどこか別な所へと旅立っている。
静かな夜だった。
この瞬間に限って言えば、僕と伊勢くんはこの世界から切り取られて、たった二人。
それは、とても清々しい心持ちだった。
「やろうか」
「そうですね」
吸い終わった僕は、ひどく楽しくなっていた。
「こういう時は、あれだろうか」
伊勢くんはにこりと、まるで友達に笑いかけるような表情を浮かべ、
「そうですね」
きっと僕もそんな笑顔を浮かべているに違いない。
いい年こいて、という気恥ずかしさはあるが、決闘と言えばあれしかないのだ。
「いざ尋常に……」
「勝負!」
即座に切り替えた伊勢くんの構えは、ひどく奇妙な物だった。
僕が右足を引き、半身となって槍の穂先を相手の心臓に向ける一般的な構えなのに対し、刀を抱き込むような構えだ。
腰を極限まで回し、僕から見えるのは背中と彼の右目くらいしかない。
ひどく歪な、居合い以外では何一つ出来ないだろう構えだ。
そのくせひどく堂に入っており、生兵法なんかでは絶対にないと確信出来る。
開幕の掛け声の勇ましさとは違って、僕達の決闘は静かな物になった。
大声を上げて斬りかかるのは、話の中だけだ。
距離にして約五メートル。
槍の間合いにすれば、あと少し。
感じる殺気の間合いからすれば、まだ遠い。
そんな距離だ。
勿論、殺気の刃圏なんて代物は、ある程度は誤魔化せるだろうが、おおよそは変わるまい。
じり、と僕が半歩動けば、伊勢くんはじりと半歩横に。
伊勢くんの肘がほんの僅か下がり、その対応に穂先を上げる。
呼吸は、ひどく長い。
吸っているのか、それとも吐いているのか自分でもわからないくらいの呼吸の中、じりと前に出る。
刃圏に、触れた。
踏み込み、抜けば伊勢くんの刃は僕に届くだろう距離。
脳天から股にかけて一直線に肌が粟立ち、袈裟切りの線が冷たい。
伊勢くんの強烈な殺意が、僕をなぞる。
が、抜かない。
居合いは刀身を見せれば、どちらかが死ぬ。
安易な考えで伊勢くんの居合いを見たいと思っていたが、そこに平然と踏み込めるほどに腕の差はなかった。
いや、参ったもんだ。
六十の何年、ひたすらに槍を振り回してきたというのに、二十かそこらの若造に後ろに退がらせられるとは。
僕に才がないのか、それとも伊勢くんの才が大した物なのか。
呼吸が僅かに乱れるほどの鮮やかな殺気と刃圏の中から、僕は一歩引いた。
そして、伊勢くんは前に出る。
じわじわと距離を詰めてきたこれまでとは違い、まるで王手でもかけるかのように堂々とした一歩だ。
引く、押す、下がる、詰める。
汗が流れるのを感じた。
額から鼻筋にかけて、思わずくすぐったくなってしまうような流れ方だ。
今すぐ槍を手放して、冷たいおしぼりで顔を拭えばどれだけ気持ちいいだろうか、なんて頭の中が楽な方へと流れた。
遠くに一台の車が通っていく。
若者向けの派手な緑色をした車は、ここまで聞こえるほどにやかましい音を立てながらどこか遠くへと走り去って行った。
これは不味い。
とんでもなく不味い。
しっかと槍を握り締めた手は、真っ白になるほどに力が籠ってしまっている。
これで突いたところで米一粒どころか、空き缶の真芯すら狙えまい。
伊勢くんとの、生まれて初めての決闘に僕は今、呑まれていた。
僕は人を刺せるのか、伊勢くんは僕を斬れるだろう。
確信で上回られ、無意識に格下だと思い込んでいた心で上回られ、間抜けな事に今更になって驚いている。
年に似合わぬ玄妙な間合いの取り方をする伊勢くんと違い、僕はいい歳こいて何をどうしたらいいか怯えているのだ。
なんて情けない話か。
いやいや、なんて不味い状況か。
「ふう」
この歳になって、挑戦させてくれるとは、なんて素晴らしい。
さて、落ち着くには、まず大きく呼吸する事だ。
下がっていた足を止め、僕は目をつぶって、肺の底にまで冷たい空気を送り込む。
「あっ……!」
「やあ、待っていてくれたのかね?」
そんなはずはないよなあ、伊勢くん。
僕が君を怖がっていたように、君だって僕が怖かったはずだ。
そんな相手が自分の目の前で、愚かさを投げ出してきて、斬り込めるもんじゃあなかろう。
何かの罠じゃないか、と疑うしかないよなあ。
さて、行こうか。
そう思った時には、僕の身体はもうすでに突きを放っていた。
おっ、と我ながら感心してしまうほどに軽やかに放たれた突きは、真っ直ぐに伊勢くんの背に向かう。
「っ!?」
柳生の流れにも似た、まるで落ちる木の葉ような動きで伊勢くんは僕の突きを避ける。
剣道ではほとんど見ない、打ち合う事を前提としない動きだ。
いや、大した物だ。
だが、君は下がった。
なら、僕は前に出よう。
槍を押し、引く。
たったそれだけの事に、六十年もかけたのだ。
これだけは誰にも負けない。そう思いながらやってきた。
一突きでは捉えられず、二突きと重ね、三突き目には数えようとする意思を手放す。
見惚れてしまうほどに鮮やかな身のこなしで避けて避けて、避けまくる伊勢に感心する心の動きは慢心と、余裕の境界線上で遊ぶ。
相手を殺せると思えば、どんなに嫌な奴だろうと許す気になるものだ。
それだけが武というやつの精神修練に違いない。
数学も駄目、英語も駄目、友達なんてのは片手の指すら余ってしまう。
娘の一言に一言返してみれば、娘からは十や二十はぽんぽんと返ってくるのに、僕の口はまともに動きやしない。
そんな僕の出来る事なんて、結局はこれしかなかった。
大きく右に飛び上がるようにした伊勢くんに、僕は少しばかりの動きで追従する。
確かに速い、しかし僕の回りをぐるぐる動くより、僕がちょっとばかり身を回した方が速いに決まっていた。
焦りがある。
何故、という想いがあるだろう。
彼は僕を追い詰めていた。
なのに、どうして。
悲しみがある。
きっと、彼はここに来るまでに色々な物を捨ててきたのだろう。
誰かと語らう時間を捨て、可愛い女と遊ぶ事もなく、何の意味があるのかと自問しながら、彼は刀を振ってきた。
彼の動きの一つ一つが、どうしようもなく悲しくて。
喜びがあった。
その全てが報われたのだと、彼は思ってくれている。
「楽しいよなぁ、伊勢くん!」
言葉の返しはない。
だが、必死になって避け続ける彼の動きの中に、諦めだけはなかった。
前に出る隙を狙い、肩の動きだけで僕に虚実を読ませ、鮮やかだった身のこなしを更に洗練させていく。
今の彼と始める前の彼を並べれば、一目でわかってしまうほどに腕を上げている。
そして、それは僕もだ。
伸びに伸びた若い頃であるまいに、突いて引く、という動作がどんどん洗練されていく。
ここはこう工夫した方がいいのか、いやそれともこうするべきか。
伊勢くんの落ちるような動きの正体は、膝の抜きだ。
地面を蹴って走る、というのはかなりの力が必要だが、膝を抜いてみれば身体は自然に落ちる。
更に膝を曲げれば、次の動きへと繋ぎやすいわけだ。
わかっていた事だが、ここまで鮮やかに見せられればなんという合理なのか、と改めて感心してしまう。
「ああ」
武の頂は、まだまだ遥か遠かった。
それが何とも嬉しくて、気付けば僕らの間にある潮合いは満ちていた。
まるで打ち合わせでもしたかのように、同時に後ろへと飛んだ僕達の間合いはひどく近い。
互いの刃圏は重なり合い、僅か三メートルという至近で向かい合う。
ちょっと槍を伸ばせば届く距離、抜けば届く刀の距離だ。
居合いは二の太刀無し。
抜けばどちらかが、死ぬ。
「は」
先に動いたのは僕、無造作にすら思えるほどに真っ直ぐな突き。
だが、人生最高と思える一刺。
その一刺をくぐるように避けた伊勢くんが、初めてこちらを真っ直ぐに見ていた。
「や」
青ざめた月光、冷たい鋼の色、焼ける空気の臭い。
真っ直ぐな線が、空間を断つ。
「いがァ!」
落ちた。
それは、これまでに何度も見た、伊勢くんの動きだった。
髪一重なんてものではなく、頭の皮膚をいくらか持っていかれ、骨すら僅かに削られながらも、命にまでは届かせない。
僕の目の前には、開ききった伊勢くんの身体がある。
左手で鞘を握り、重い刀を全力で遠心力を乗せた右手は、
「いや、まさか」
無意の中、放った槍は伊勢くんの腹へと深々と突き刺さり、伊勢くんの右手は刃を切り返し、僕の脳天に落とそうとしていた。
それは間違いなく、
「秘剣、二之太刀とでも名付けなさい」
僕の引きだった。
その事が、この見事な若者の中にある事が、どうしようもなく嬉しかった。
「君の勝ちだ、伊勢くん」
あり得るはずのない居合いの二之太刀は、鳥肌が立つほどに美しかった。