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 別にこの話は大層なものでもなんでもないんだよ。どういうことかっていうとさ、その、例えばずっと……大昔から伝承されるような話ってあるでしょう? ああいうのはさ、誰かがまぁ……ああこれはすごいなぁって感銘を受けてさ、それで誰かに伝えて、受け継がれていって……ってな具合で人の心ってやつに浸透していって、今に至る、みたいなね。

 実を言うとこの話は君に、あるいは誰かに浸透できるかなんてことはまるでないかもしれないし、私はその点悲観しているの。

 私の個人的な日記の延長線上にあるようなものであってさ(手記とか、そう呼ぶのかな?)、そう、だから全然大したものなんかじゃない可能性ってやつが高いんだ。はっきりいって、これから君に話そうとしていることは、君にしてみたらもう既になんら……これきしも聞くに値することじゃないかもしれなくてさ、「ああ、知っていたよ」とか、「ふむ、なるほどなぁ」ってそれだけで……例えばお酒の盛り場で絶えず交差していくようなさ、ああいう、とんでもなくどうでもいい類の話になるかもしれないんだよ。そうなんだなぁ。これだよね、弱ったのは。むしろ、そういった話の方がまだましかもしれえない。お酒と共にさっと聞き流せばいいだけなんだからね。でも私がこれからしようとしている話はね、結構長いんだよ。それが結局のところ「ふむ」だけで片づけられる話になるかもしれないってところが、どうもやきもきしてしまうんだ。「ふむ」って言った後にはもう明日の夕食のことなんか考えちゃうくらいにね、どうでもよくなっちゃうかもしれないんだよね。何せ私がそういう……その個人的な話をね、似たような話をね、まぁ延々とされたところでさ、「ふむ」ってなっちゃうかもしれないんだよ。それをこっちから仕掛けようっていうんだから、やっぱり二の足踏んじゃうのもわかるでしょ? だらだらといいわけじみた前口上を言うのもわかるでしょ。でも君も予想しているとおり、私はその個人的な話をしちゃうんだよね。しちゃうんだよなぁ! ふふ。だってさ、私がもう今にもそうしたがっているのってわからない? って、わかるわけもないよね。でもまぁほらたぶん、お酒の肴くらいにはなるよ。お酒を飲まない君には……寂しい夜の慰みにくらいにはなるように努めるよ。

 うん、じゃあ夜になったらまた会おうね。君が夜を見ていて、君の、君にしかない夜で、また会おうね。


   ・


 早速なんだけど、君は誰かの夢の話を聞くのは好きかしら。夢って言っても、あっちの夢じゃないわ。叶える類の夢じゃない。寝るとき見る夢よ。たまに、目をきらきらとさせて、そんなことを話している連中がいるでしょう。まるで夢を見ているみたいに。事実夢を見ているんだわ。でも、その夢って結局皆で見ることができないから、そのきらきらしている目の理由もいまいちぴんとこないのよね。だから私はあんまり好きじゃないのね、人の夢の話を聞くのは。でもこれから私はしちゃうの。その話を一番最初にしちゃうのはね、それがその日の始まりで、その日から私の話は始まっていくから。私としても、それを話すことに、何か意味があることを感じるからね。

 で、その夢の話をする前に、詩を詠んで欲しいわ。


   ・


 ふわり水色に融けてから

 白色へと変わって

 また水色に変わっていく

 そうか

 ここは色の中かもしれない

 

 吸い込まれそうでいて

 どこにも吸い込まれない

 足があると思って

 足はない

 あると思っていたすべてのものが

 そこにはなくて

 そう気がつけば

 ふわりとした感触はなくなり

 誰かが見たことのあるような

 でも誰もみたことのないような

 どろどろとした黒があって

 そしてまた

 ふわりとしたなにかに

 触れられたような気がした


   ・


 つまりそういう夢だったのよ。どう。詩なんて書いたことなかったけど、単純にああだこうだ夢について言われるよりは少しは夢見心地な、詩的空間ってやつで堪能できたんじゃないかしら。

 で、そんな夢を見た私は、遅刻してしまった。いつもなら朝早くに勝手に目が覚めるのだけど、その日は違った。汗をかいていて、寝覚めも悪く、とてもじゃないけど、寝坊したことに驚いたり焦ったりする余裕はなかった。学舎のことなんて、遅刻しようがなんだろうが実はどうでもいいって思っていたからかもしれないけど。

 家を出る前、少し躊躇った。私の心の中に潜んでいた、暗澹たる何かがぴくりと動いたのを感じとったのだ。金魚のような、小さな虫のような。でも「暗澹たる何かが動いたので学校を休みます」なんて父に言えるわけもなかったので、私はおとなしく家を出た。

 途中まで駆けていたのだけど、いつもの……例の近道の近道を利用してことさら急いでいたのだけど、既に遅刻しているのだから、どうでもよいか、となったわけなのね

。どうせ遅刻よ、なんてやさぐれてね。で、まずその時なのかな。実は私にも正確なことはわからないんだけど、とても嫌な気持ちになったんだ。さっきの暗澹たる云々とは別にね、がつーんってそいつが突然現れる瞬間があるの。金魚とかかわいいもんじゃないわ。言ってみれば悪魔……いや、悪魔なのか天使なのか……さっぱり。ともかく神秘な何かを伴ったような……そんな経験君にはある? 私にはあったの。ふっとため息をついて、側にあった樹を眺めて、それで野鳥がさっと飛んでいって、私の足下をみた。枯れ葉が一枚落ちてきていて、私の少し汚れたモスグリーンにの靴を見て……今ここが夢の世界なのか、なんなのかわかんなくなっちゃったのね。ううん。別に夢の世界なんてないわけ。そんなことは私もわかっている。けれど私がいいたいのは、ここが、今ここにいる私が一体どういうことなんだろうってね……ああ、言葉って不便ね!  すごく生々しくてね。私は結構、そういうのが嫌いな性質なんだよね。本当。

 振り払うために、私はまた走ったわ。遅刻するなんて、やっぱり心底どうでもよかったのだけど、私はとにかく焦ったふりをして、心に溜まりきった澱を振り払おうとした。

 学校についた時には汗だくで、誰かが私を指さして笑っていたような気がしたけど、全然気にならなかった。

 ここで私はクラスの扉を開けてね、ちょっとだけ救われた気持ちになったの。

 まず歴史の先生が私を怒りつけたのね。名前は忘れたけど、なんだったかな。ひげもじゃの、ボ……なんとか先生。どうでもいいわ。で、クラスの連中もにやにやとして私を舐りつけるように、見せ物か何かのように見ていたわ。

 そうやって怒られている時、私はその不気味な気持ちを抑えきろうと必死になっていて、もう全く何も聞いていなかった。やっぱり連中の視線も、どうでもよかった。

 いいか? わかったか?

 なんて先生は私に確認を促した。何にもわからなかったけど、私はいかにも遅刻をした愚かな女生徒がするであろう顔色を偽って申し訳なさそうに席に着いたの。それで私のあの忌々しさを交えた感情がどうにかなったと思えた。

 安堵しきった私はため息をついて、三限目に窓の外を見たわ。美しい海……だなんて当時はまったく思わなかったね。何せ見慣れたものだし。白鳥がね、群からはずれたのか、一羽だけ飛んでいたの。一体どこへ行くのかな、とか思ってずっと私はその行き先を観察していてね。最初はにこにこして見ていたと思うわ。でもね、またなの。また、私は時間を切り取ったわ。あの時、枯れ葉が落ちた時のように。その一瞬が、とてつもなく空恐ろしくなって、目を伏せたわ。同時に大声も出したの。ここが教室だってことも忘れてね。

 それが私の旅の始まりだったかな。もちろん、旅をするのはまだ先なのだけれど、実質的な意味ってやつでね。

 で、私はとっちめられたわ。遅刻に、正体不明のかんしゃく。日頃の行いも相まってか、昼休みに私は教員室へ連行。

 この時もボなんとか先生が私を叱ったわ。

「でも先生、別にいいじゃないですか。あなたの話は聞いていたし、私、別に授業でそこまで悪い点とったことないわ。そう、そこまでっていうのが気に障るのかしら。なんなら満点だって取れるわ。いつでも、いくらでもね。でも、その気にならないのね。なんでかって、それは私の口からはいいたくないんですけどね。とにかく、白鳥にも負けるってことなんじゃないですかね。その……あなたの授業ってやつが。でも、全然いいと思うんです。白鳥ってのは美しいですから」

 勘違いして欲しくないけれど、私はここまで悪態をつく学徒だったわけじゃないわ。むしろ、ここまで開けっぴろげて喧嘩を売りつけたことは今まで一度もなかった。絶えず挑発的な行動をしていたということはさておきね。でも言ってしまった。なんか、どうでもよくなっていたのよね、はっきり言って。

 でも、言ったあとで後悔した。大抵こうなのよね。衝動的にやりたいことをしてみせて、直後に後悔する。それすらも折り込み済みでわかっているはずなのに、しちゃう。人間ってよくわからないものよね。

 昼休み半ばというところで、私は教室に戻った。戻ると、このクラスを仕切っている連中が私の席の周りにいた。はぁ、やれやれだと思った。もう勘弁して欲しかったが、しかしなぜかこの時の私は逆に……ほんの少しだけ安心したことを覚えている。

「オレンジちゃん、なにしていたの」

 オレンジちゃんとは私のことだ。オレンジ色のものを身につけていることが多いから。もっとも、彼女らは(腐った)オレンジと揶揄しているみたいだけれど。

「別に」

 普段ならなにも口にせず、その場を去るのだけど、今日は違った。安堵していたというのは、恐らくこうやって現実的な喧嘩がひどく居心地のいいものに違いないからだろうし、あの忌々しさを、少しでも抜け出せるんじゃないかと考えたのだ。恐怖がなかったわけじゃない。何せ、こいつらはクラスを取り仕切っていて、一度逆らえばその後どうなるかわかったもんじゃない。いじめの対象になったりしたら、生活は破綻する。大変めんどうなのだ。ただでさえ色んな事がめんどうなのに。

 でも、そんなことどうでもいいな。って、そう。また。なんか、どうにでもなれって思って。身を投げるかのように破滅的な行動をしちゃおうと今か今かと待ち伏せて、彼女たちと相対した。

「遅刻して、授業中に大声出しちゃって。なにもなかったわけないでしょうに」

 ビビアンという顔は小綺麗で、長身で、胸もあるが、そばかすがやたらとある娘が言った。つまりこいつが連中のボスである。

「ううん。本当に何もなかったの。気にしないで」

「おい。そんなわけねーだろう」

 取り巻きが私を恐喝よろしく怒鳴りつけた。

 この時、私の頭をかすめたのは、徹底的に彼女たちの容姿を一から百まで侮辱することだった。私の持っている特技の一つに、人間を子細に観察することが出来るというものがある。すごくどうでもいいかもしれないけれど、これが人の悪口を考えるにあたっては大変貴重な能力である。だけどやめた。いくらそばかすがあるからってね、私はそばかすを指摘するほど語彙に貧していないわ。

 そんな私が何をしたかといえば、机に思い切り頭を打ち付けて、大声を出すことだった。泣いているそぶりなんかじゃなくて、もっと洒落にならないような、そういう類の。ね、わかるよね。そうそう、ああいう感じの。一度こういうことをやり始めると私は止まらない。没入しちゃうのだ。がんがんと頭を打ち付けて、何度も叫んだ。そのうち、私は実は頭がおかしいのか、これが素なのか、そもそも頭がおかしいってどいういうことなのか、真剣に頭を打ち付けながら考えていた。

 もう一度言っておくけど、私は普段こういうことはやらないわ。クラスでどういう存在だったかって言えば、ひどくおとなしく、存在感もなく、儚げで、それでいて気丈で……なんて嘘よ。あえていうなら、オレンジ色をこよなく愛する存在。ただそれだけなの。先生からは目を付けられてはいるんだけどね。おとなしく素行が悪いものだから。それって結局おとなしくないのかしら? まぁいいわ。

 でも、たがが外れちゃったんだろうね。私はもう一度教員室に連れ出されて、また説教じみたことを言われたわ。おでこがひりひりしてね、もう話の内容なんてぜんぜん覚えていなかった。その時考えていたのは今日はたらふくおいしいものを食べてさっさと寝ようとということだけだった。


   ・

 

 夕食のことを考えながら、放課後に、私はアンネに会いに行った。

 アンネと私はよくわからない関係だ。別に一緒にご飯を食べたり、学校に行ったり、帰ったり、行動を共にすることはほとんどない。けれど、たまにどちらかがぽつりと会おうと言って、会う。そんな関係。どんな関係だ。頻度は全く不定期で、実は私自身もなぜアンネに会おうとするのかわからない時が多い。たぶん、アンネもそうだと思う。

 アンネはほとんど喋らない。最初はそもそも、口が利けない何か病気のようなものなんじゃないかと思ったくらいだ。

 でも彼女が喋れないのでなく、あまり喋りたくないのだと、実際そうなのかはさておき、そうなんじゃないかと思うことにしている。

 その代わり、アンネはオカリナを吹く。しゃべる代わりにオカリナを吹くなんて、と思うかもしれないが、彼女の場合しっくりくる。

 私は海沿いをアンネと共に歩いた。海を挟んで、遙かに見える稜線と、沈んでいくお日様。カモメの鳴き声がして、潮風に、薄緑のアンネの髪がそよぐ。ああ、あれは今日みた白鳥かしら。

「アンネ、聞いてくれないかしら。私、そろそろ本当にまずいことになってきたのよ」私はそう切り出した。

「何がまずいって、そう、色々よね。今日遅刻したこととか、後々先生に呼ばれて説教をくらったこと、クラスで奇行混じりの言動をしてしまったこと。それらはまずいことでもなんでもないんだけどね、ほとんどしっかりと確信しているのだけど……そう、つまり私はこのままだとまずいってことなのよ」

 私は落ち着いた気持ちで歩いていたと思っていたのだけど、一度話を切り出せば、その実どうやら取り乱していたらしい。

 アンネはくりくりとした目で私を見たが、やっぱり何も言わなかった。

「そもそも、その自分のまずさってのが何なのか、てんでわからないのよね。私、自分でもクラスでは浮いていて、先生からも目を付けられているってことはわかっているんだけど……そう、そういうことも、少しはそのまずさに繋がっているんだけどね、だけど、どうやらそういうことだけじゃないらしいの。むしろ、そんなこと、はっきり言って小さなことなのよ。私は今まで、それを大げさに私のまずさとして取り扱ってきたふしがあるようなのだけど、でも、違うらしいのよね。自分で自分を錯覚させていただけなのよ。そうしておけば、目を瞑れるんだから。でも今はもう気がついてしまったの。気がついたのって……そう、気がついたんだけど、でもやっぱり自分のそのまずさが検討つかないのよね! だから結局気がついていないのよ!」

 私は締めくくりに大声を上げた。話しているうちに自分がどうにかなっちゃいそうだったから。とんでもない奇声で、体もぐねぐねと明後日の方向にねじくり回した。誰かが見れば、頭のおかしな人だったろう。事実その通りだ。狂気の沙汰だ。

 アンネはまゆ一つ動かさなかった。そしてその青い瞳だけを動かして、私を見てから、「うん」とだけ言った。

 そしてオカリナを吹いた。海に向かって。私はそのオカリナを聴いた。耳を澄まして。

 やっぱり下手だった。

 アンネは喋る代わりにオカリナを吹くが、下手なのである。

 聴くに耐えないというわけでは決してないのだけど、決めるときに決められない演奏だ。高音はかすれて、低音は安定しない。

 曲は風に乗って、私の耳に届いた。アンネは何を言いたいのか、よく考えた。その曲は長調なのか、短調なのかはっきりしなくて、はっきりしないまま曲が終わった。最後に、かすれきった高音がぴゅぃ、ぴゅぃ、と伸びて締めくくられた。

「私が言いたいのは、このオカリナできれいな音が出せるようになりたいってこと」

 アンネは脈絡のないことを言った。彼女が喋る時は大抵そうだ。でも、どうやら彼女の中ではどこかしらに論理があるらしくて、そのようなことを言っているらしかった。

 そして私はアンネと別れた。もっと言いたいことはあったのだけど、それで十分な気もしたから。

 私は、元来た海沿いをまた辿った。

 ぼんやりとアンネのオカリナを反芻しながら、今日のことを考えていた。

 色々なことが、腑に落ちていないのだ。この学舎での日々、勉強をする毎日。誰かのことも、自分のことも。それって、例えば色々な物語や教科書に出てくるような、思春期というやつなのかもしれないとも思ったのだけど、私はどうやらそうでもないと思うのだ。なぜなら、思春期らしい人間というのは割合近くにいて、「ああ、この子は今思春期なんだろうなぁ」って……つまり、思春期の人間が取るであろう行動や、精神状況なんかについては、わりと距離を置いて冷静に観察することができるのだ。私はそこまで本を読む人間じゃないけれど、本の中で出てくる悩みを抱えた学徒が出てきたとしたら、「これは思春期を表現したいのね」のね、って一般的な思春期っぽい情動をすぐ察知できちゃうのね。それは他人や、他人の考えていることだから、なのかもしれないのだけど。けど、私の今の思春期じみた葛藤は思春期のそれではないように思えるのよね。もっとこう……深刻さを携えているというか。

 考えても何も出てこないだろうと思った。今日はオムライスを作って頬ばって、それでけりがつくかもしれないと思って、海の方を見た。

 その時だった。

 何か光るものを見たのだ。小さく揺れる、波の狭間に。見間違いなんかじゃない。私はそれをじっと眺めた。心が躍った。なぜかはわからない。何かある。あるに違いない。そう思った。

 どれくらい待っただろう。時間の感覚がおかしくなっていた。ずっとってほどは待ってないけど、すぐにってわけでもなくて、その中くらいってわけでもまたなかった。

 気がつくと私はその存在を手に取っていた。瓶だった。コルクの蓋がしてあって、小さなワイン瓶みたいだった。

 ためらいもなく私は蓋を開けた。もしかすると、変な液体が入っているかもしれなかったのに、すぐに蓋を開けた。

 液体は入っていなかった。変な海の生き物も入っていなかった。蓋を縦にふってみても、何も出てこなかったのだ。でも、何か入っているような気はする。気はしたから、私は思い切って瓶を叩きつけた。割れなかったから、走って近くの壁面に叩きつけた。もし今日の私の海辺での行動を見ていた人間がいたのなら、完全に常軌を逸した人間だと評価するだろう。奇声の次は、海辺で拾った瓶を叩きつけて割るのである。突如。中々に猟奇的だと私でも思う。けど、何も考慮しなかった。瓶の中に夢中で、実際に何かあったのだ。

 私はその紙片を手に取った。

「永遠のいのちはある」

 ただそれだけ記されていた。

 私はこの時、おじさんが右足の腱

を切ったときの話を思い出していた。以下おじさんの話。

「いやぁ、最初は別になんてことないんだ。ふとした違和感があるだけなんだな。なんだろう、って。ただふと空を見上げるとか、そんなことしたくらいでさ。なんでもないゆがみを感じ取るだけなんだ。で、その後、その後なんだ! 一瞬後にこう……誰かが俺の背中をぶん殴ったんじゃないかってね。おかしいだろ、俺は右足をやっちまったんだってのに、誰かが俺の背中に石でなぐりつけたみたいな、そんな衝撃が襲ってね! で、振り返るだろう。何もいないんだな! これが! その後、ようやく事態を飲み込めてくる。右足に激痛がやってくるんだ! そして世界は終わったと思ったね。で、少ししてから笑いがこみあげてくる。ああ、なんだ、どうやら俺は右足をやっちまったんらしいってね。逆に安心しちまったんだ。世界は終わったんじゃなかったー! ってな具合にな」

 おじさんの話終わり。

 私がなぜこの話を思い出したのか。実にこの通りの、背中で石をぶん殴られたような、そんな気がしたからなの。最初はなんだ、こんなものかって思ったのに、なぜか、一瞬のちにね。がつんと。思わず背後を見たわ。おじさんと違ったのは、私には、世界は終わったんじゃなかったー! って安堵は訪れなかったってことなの。むしろ世界は崩落したような、もうここにこれか! 今の私にこれか! 足下から決壊よ! って。そんな気持ちになったの。なぜかアンネのぴゅぃ、ぴゅいぃとかすれる高音も思い出した。さっき聴いたのに、えらく懐かしいことのように思えたな。とにかく、一体全体なんでそんなことになるのか、全く理解できなかった。ただの紙切れに、なんてことない文字。ただそのはずなのに!

「全然わからないことだらけじゃない!」

 私はもう一度ひとしきり叫んでから、走り出して、家へ駆けた。オムライスのことなんて、どうでもよくなるくらいに、私は混乱していた。


   ・


 小高い丘の上に私の家はあるのだけど、毎日の

 私は一目散に坂を登って、さらには家に入り込んだ後も、そそくさと階段を駆け上って、自分の部屋に入り込んだ。

 安心は訪れたけれど、私にはそれが一過性のものだとわかりすぎるくらいにわかっていた。

 私はまずベッドの下を覗いた。何かあった時の、緊急用トランク。私はそれを開けて中に入っていたものを見る。携行食糧、着替え、お金、ぬいぐるみ、刺繍道具一式……その他生活用品全般。閉めて、もう一度ベッドの下に納めてから、深呼吸をして、もう一度ベッドの下からトランクを取り出し、今度はベッドの上に放り投げた。鼓動が速くなるのを感じた。気持ちが抑えきれない。今度はせわしなく部屋の中を行ったり来たりした。

 どれだけ部屋の中を往復したか。

 色々なことを考えたようでいて、実のところ全く考えていなかった。なぜならもう頭の中で一つの結論は最初から出ていて、それを見て見ぬふりしている状態だったからだ。そう、ただそれだけ!

 私はトランクを一瞥してから、ついに決心したわ。なぜなら頭がどうにかなりそうだったから。いま、すぐに、どうにかしなければ……つまり、トランクを持ってここからさっさと……!


 まず私はアンネに手紙を書いた。怒濤の勢いでね。これだけ速く手紙を書ける自分に驚嘆したわ。

「アンネ。私はあなたに手紙を書く。この前話した続きというわけではないし、もしかしたら関係もあまりないかもしれないのだけど、私はこのゆりかごから出なくちゃならない。そう、ゆりかごみたいなのね。今の私にしてみれば。学舎というものが。ゆりかごに揺られている場合なんかじゃないの。いつ戻ってくるのか、とか、そもそもどこに行くのかなんてめどは全く立ってないの。それが今の私にとって、唯一の救いなのね。本当にそうなのよ! 少しのわくわくと、あなたに話したようなまずさ。不安と興奮が入り交じっていてね。それが唯一の今の私にとっての救いなの。足下が覚束ない。だからこそってね。で、私が言いたいのは、オカリナであなたが綺麗な音色を出せることを願っているわ、ということ。それじゃ」

 アンネにはこれでいいはずだ。彼女ならわかってくれるし、無駄な心配を重ねたりすることもないだろう。けれど、もっと身近なところに、気を遣わなければならない人間がいる。もっとも、何も言わないで飛び出してもよかったのだけど。

「ねぇお父さん聞いて欲しいのだけど」

 私の父は、喋らない。

 一体どれほど喋らない人間が身近にいるのかと君は思うかもしれないけれど、大丈夫。もうこれきりだ。三人も四人も出てきやしない。父はアンネとはまた違った趣の無口具合である。オカリナは吹かない。吹いていたら私は笑い転げてしまうところだ。

「私がもし、例えば将来お嫁に行くとするでしょ。遠くに。で、お父さんとは会えなくなったとするじゃない。そうなったとき、お父さんはどう思う?」

「さぁな」

 それだけだった。まぁ予想した通りだ。

「寂しくないの?」

「そんなことを親に聞く前に、さっさと一人前の人間になれ」

 おお。すごく長く喋った。

「わかった。私、一人前の人間になるわ」

 一人前っていうのがどういう状態かわからなかったし、既に私は一人しかいないから、一人前のチェスカなわけだけど、でも、父が成熟した大人になって欲しいというのなら、これからやるすべての事柄には……私が人として生きていくために必要なこれからの行動には、目を瞑ってくれると思った。さらば、父よ。我が娘は……私は、旅に出る。目に焼き付けるように、父の顔を見てから、真心を込めて「おやすみ」と言った。父は何も言わずに頷いた。

 そしてまた私は手紙を書いた。

「父さんへ。旅へ出ます。あなたの娘はあなたに似て気丈で頑固です。だから絶対に捜索するなんて野暮な真似はしないでください。これは通過儀礼よ。一人前のチェスカになるためにね」

 これでいいだろう。私の机の上に置いておく。

 さぁ後は準備だ。

 私はクローゼットを開けた。今までの全てがここに詰まっている。

 私は色は好きだ。色という存在が、私は生まれてからずっと好きだった。もし世界に色がなくて、私が色を愛さなかったとしたら、多分、ここにはいないだろう。もし私が自分の長所は何かと聞かれれば、色が好きでたまらないと即答するくらいだ。色が好きな自分だけは、ずっと許して、認めて生きている。石で背中をぶん殴られた(ような感覚を受けた)時でさえ、それがすがるところだった。

 色が好きだったから、私はまず絵を書くことを始めたのだけど、絵の才能はあまりないんじゃないかと思って、今度は裁縫を始めた。いろんなものを自分で作れるようになった。

 そう、この時のために作って来たんだな、と私は勝手に運命を作った。運命なんて、大抵そんなものでしょ?

 旅立ちの服を何にしようか、さんざんばら迷ったけれど、

 ターコイズのマフラーに、

 オレンジ色は好き。いつでも必ず一色は取り込む。私のとっておきの色。だから、オレンジの髪の括りで結った。

 全体を見て、私は笑ってしまった。ぶっこわれた配色なのである。でも今の私にぴったり。テーマは崩落って感じね。前途洋々よ。

 

 まずさなんてないわ。あるわけないじゃない。ゆりかごから出ればいいのよ。私はただ、そんな風に念じて、夜が来るのを待った。


   ・


 なにも無計画だったわけじゃないわ。当然突発的な旅であったことは否めないのだけど、実行しようと思った即座に様々な計画は打ち出していた。

 その

 夜列車があるの。そう。列車がね。

 ただ列車に乗った後は知らない。本当にどうなるのか、全くわからないの。何せ私って、列車で遠くまで行ったことがなかったのね。生まれてからこれまで、遠くの街に出かけたことなんてまるでなかった。それって全く不運なことだと思わない? だから私はあの街を、故郷と学舎をゆりかごって言ったんだわ。興味はあったというのに、日々を生きていくというのに精一杯だったんだと思う。そういう、秘められた思いが多分、今の行動に至っているんだから、許してね、父さん。知らないけどね!


   ・


 



 列車の中はがらがらで、途中、いかついおじさんがいかめしい顔をして、

 とりあえず一眠りしようかと思ったのだけど、中々寝付けなかった。そもそも、私は女一人で、何か不貞を働こうという悪者がいると、少しまずいことになるから。そんな心配、生まれてこの方したことはなかったんだけどね。私が一人、この身の上で旅をしているという事実が危機感を覚えさせるんだわ。

 速度を増していく列車。

 窓から見える景色は移ろいでいく。私が見て、感じていたのは色だった。

 橙が灯っていて、段々と緑に変わっていく。

 そう思えばまた橙に戻って。

 あたりは段々と静けさとともに、暗闇と変わって。少しすると薄い、淡い、水色が景色に変わって。

 ゆりかごから抜け出る私。どこか遠くへ行けるのだと。夢想や、幻の先にあるような……現実と非現実が混じり合ったような場所へ行けるのだとそう、想像して。今度は何色が見えるだろう……

 そういった具合に、窓の外を眺めながら揺れる列車に身を任せていると、徐々に眠気はやってきた。やってきたけど、私は目を開けていた。それが、いつからか背後の席に、人がいるようだったのだ。そのことに気がついてから、警戒している。どうしよう。不貞野郎かな、なんて考えていると、立ち上がって、歩く音がした。思わず身構える。

「いや、全然さ」

 声が聞こえて、私はまどろみから覚めた。

 見る。黒ずくめの少年? が立っていた。少年かどうか判断できない理由の一つとして、彼の目がひどく疲れ切っていたからだった。達観している、と言い換えてもいいかもしれない。ただ、その目以外は少年と言えるほどの華奢な体格、しなやかな肌、美しい黒髪……を持ち合わせていた。私には、この少年が悪辣な人間とは思えなかった。不貞野郎とも。警戒心は薄めずとも、私は応えた。

「全然って何が?」

「いや、その。全然、話にならないんだよね」

「話にならないって、何が?」

「うん」

 窓の外を見る彼。

「君はどこへ?」突然変わる話題。

「私? 私は……まぁ別段どこでもいいじゃない。君は?」

 少年の顔立ちが整いすぎているから? それとも私がこんな時間に列車に揺られているからか、あるいはまだまどろみから覚めていないのか。どうにもこの少年と話している自分というのが、現実的に感じ取れなかった。つまり、夢の中にいるような。

「僕……僕もまぁ」

 なよなよとしているなぁと感じる。それにしても一体何の話がしたいのか。

「さっき、正義がどうとか言っていたけど、どういうこと?」

「正義さ。君ね。君……正義について考えたことある?」

「ないわ」事実考えたことはなかった。

「そう。僕は考えているんだ。正義についてね」

「へぇ。君の正義は一体どういうの?」

「それは自分の見てきたものや、感じたことであってさ。必ずしも正解はまずないんだって思うんだけど、それに、絶えず変わるんだって思うんだけどね。だから、僕の正義も変わるんだけどね」

 どうも、この少年の話は的を得なかった。話し方も、話す筋道も、なにやら浮つきを感じる。

「それで、君の正義は?」

「僕の正義はね。通じ合うことだと思ったんだね。その人とその人が。通じ合うことだと思ったんだね。どういうことかって言えばさ、大抵の人は自分が正しいって思っているわけだよね。僕だってそうだし、君だってそうだと思うんだけれど……ああ、そうそうこんなことが最近あったんだ。どういうことかっていうとね、僕が通りすがりの老婆がいかにも困っているふうだったから、手を貸したんだ。目的地までついていくという旨でね。で、荷物を持ってあげたり、なんなら世間話でもしながらね。でもお婆さんの様子はおかしいんだ。ずっと下を向いたり、明後日の方を向いてしかめっつらをしてね。僕はそういう気質の人なんだろうとして、結局最後まで行動をともにしたわけなんだけど、最後にこう言われたんだ。一体いつ私が君に助けを求めた? ってね。吐き捨てるようにね。僕は身を固めてそこにいたんだ。石かなにかになったみたいにね。別にこういう話自体はよくあることだし、僕も精神的に……重篤な傷を負ったわけじゃあ決してないのだけどね、ただ一つ、考えるようになったんだね、僕は色々なことを。僕の一身上の環境なんかも踏まえてさ……ああ! いや、結構

君にそこまでお話するつもりはないんだけど。つまり僕が言いたいのは、優しさの裏にはいつだって棘があるんじゃないかってことなんだよなぁ……でも、その棘すら、実は優しさなんじゃないかってことでさ。つまり、僕は少しだけあのお婆さんに感謝をしているんだ。どういうことかって言えば、そういう……僕の優しさなんて優しさとしてとるに足らないんだってことをわからせてくれたから。もしそうでなきゃ僕は君にだってまた恩着せがましい……」ここで少年は口ごもった。「恩着せがましい何かをしていたかもしれないんだから」

 少年はまくしたてた。話している最中に、段々と熱が入っていたらしく、もはや私の存在を忘れていそうだった。

「優しさの話になっているけれど……で、君にとっての正義っていうのはなんなわけ?」

「だから僕はまだ考えているんだね。ただ、一つ漠然とした答えは見えてきたんだ。それっていうのは力さ。力は限りなく正義だな、って思ったんだよ」

「そう」

 私は何も言うことはなかった。少年の話は自己完結しすぎていて、私の感想が入り込む余地はなさそうだったから。

「だからいつだって、力の元に皆動いているんだ。力を持っている人から順に、動いているんだ……失敬。君はもう眠るの? 僕はもう眠るさ。邪魔したね」

「ううん。私も、これを機に正義について考えを巡らせてみることにするわ」

「そうしなよ。きっとその方がいいよ」

 少年はほほえんだ。しかしそのほほえみの奥には何か途方もない深淵のようなものがあるのが私にはわかった。例えば私が抱えているような。言葉にできない類の。でもこれまでだと思ったから、深く関わらないでおいた。列車で見知らぬ人とお話をするなんて素敵じゃない。これも旅の始まりを添えるにあたって素敵なものね、なんてふうにね。深入りせず、そこで終わらせたかった。

 で、その後すぐに眠りについたわ。鞄からブランケットを取り出して、温もりが訪れて、少年の正義について回想しながら……様々な色とともに……


   ・


 どれだけ眠っていたのか定かではないけれど、普段以上に疲れが溜まっていたらしいのね。私は列車が目的地につくまでずっと眠っていたらしいの。車掌さんに起こされなければ、いつまで眠っていたことやら。

「お嬢ちゃん。もうついたぜ」

 えらく低くて渋みのある声だった。いかにも車掌さんらしい車掌さんが私の顔をのぞき込んでいた。

 慌てて私は起きたのだけど、何か異変を感じたのね。すぐに気がついたわ。

「鞄は?」

 叫んでいたわ。同時に様々な方向へ目を配らせて、探してみる。

「鞄? おりゃ知らんよ。もうすぐ発車するのだから、さっさと降りるんだな」

 車掌さんはぶっきらぼうにそう言って、去っていったわ。ちくしょう。恨めしくなって、その後ろ姿を眺めて、私は探し続けた。椅子の下。荷物おきの上。隣の席。車両全体の席。なかった。絶望。ない……絶望。

 お金、着替え(私の手製の!)、

 私はポケットをまさぐった。何か使えるものがあるか無意識に探していたわ。

 一枚の紙がひらりと落ちた。

「正義について考えられたかい?」

 という一文句が書かれていた。

 その時、私は赤色に染まった。沸騰するような怒りがこみあげてきたのね。「あの野郎!」なんてはしたない怒声をあげていたわ。

 でも、私の怒りはすぐに萎んだ。なぜなら、これがあるからといってあの少年がやったとは限らないから。ただ私にメッセージを残して置いただけなのかもしれない。

 真実はわからない。私はどうしようかと思った。少年を疑うか、信じるか。さっさとまず列車から降りるべきなのに、そんなこと考えていたのね。

 結論は出なかった。総合的に考えると(少年の話や、ポケットに紙が入っていることなど)、やはり彼が疑わしいのだけど、そうじゃない可能性も拭いきれない。考えても結論は出なかった。これ以上考えても意味がないぞ、ってことを汽笛が私に知らせてくれたわ。まずい! 出なくちゃ! 私は慌てて列車を飛び出た。

 あるのは紙一枚と着ている服だけ! 着のみ着のままってのはまさにこのことね。すかんぴん野郎よ。

 最悪の事態が訪れた私だったし、心を鉄槌でぶん殴られたくらいには不幸を感じていたのだけど(一番は私の作った服がなくなったこと……)、その裏に、実は清々しさも感じていた。手にもつ荷物がないってのは、それはそれで楽ね、とか、無理矢理前向きに考えるのでなく割合まじめにそう思う部分があったのだ。少年の言葉を借りるなら、不幸の裏にも幸せがあるってことになるのかしら。

 混じり合った想いを抱えて、私は列車から出たわけなんだけど、そういった諸々の感情はまず一瞬にして弾けたわ。

 目に飛び込んできたのは人。色々な人! 

 雑踏と喧噪に私は押し倒されそうになりながら、意識をしっかりと保った。ここはどこだ! 思わず叫びそうになる。全く見たことのない人々がせわしなく動いている。長閑な故郷とは大違い! これが都会というやつなのかしら! なんて感動していたら、私は田舎者って思われちゃう? ううん。どうでもいいわ! 目を輝かせて、私は雑踏の中を歩いた。躍るように、


 とにかく駅を出ようと必死になって


 私の心は躍ったわ。

 ゆりかごよさようなら。

 こんにちは、シロ。

 真っ白な、私の心!


   ・


 駅を出ると、大きな広場があった。中央に小さな噴水と泉があって、まわりをこじゃれた椅子が囲んでいて、そこでくつろいでいる人が目に付いたわ。私もそれにならって、座ってみる。

 お金がなかったから、何もできなかったのだけど、そうしていても全然飽きなかったわ。私は違う土地にいて、いろんな煩わしさから抜け出ている。目の前にはまったく知らない人たちがいる。それだけでたまらなく愉快だった。あの人は一体どんな生活をしているのだろう。何を大切にしているのだろう。あの人はお洒落だな。きっと私と同じように色が好きなんだな。あの犬かわいいな。ペットを飼ったことはないけれどいつか飼ってみたい。ふわふわで、大きいやつ。今ごろみんななにしているだろう。誰も知らない。アンネくらい。私がここにいるのは。誰も知らずにひっそりと、私のことを誰も知らない街にいる。最高だわ。

 躍った心は踊り続けた。

 私の想像は、今までしたことのない視点で駆けめぐり続けた。

 でももう少し早く気がつくべきだったのよね。沈もうとするお日様が

私に警鐘をならしてくれたわ。「お前は無一文だぞー!」ってね。同時に轟いたのは私のお腹だった。

 だいぶ前に、おじさんが話してくれたことを、私は思い出していた。二回目の登場だけれど、私はおじさんの話に関してはよく覚えているのだ。一つに彼がの声がとても妙ちくりんだったことと、どうでもいいことをとても意味ありげに話すことが

巧いからである。以下おじさんの話。

「よく聞け。大切な話だ。人間、なんでもかんでもいい調子って時はな、ないんだな。そりゃ生きていりゃすこぶるこれが俺の頂点よ、と言わんばかりに堂々としている時もあるだろうよ。到達点なんだな、とかね。偉ぶったりしちゃってね。ところがこれが勘違いなんだなぁ。まだ先がありやがる。先を追い求めてもう一度立ち上がってみると自分の立っている足まわりがえらく不自由なこと! だから俺がいいたいのは、どんな時でも周りが見えなくなっている場合は注意をしたほうがいいってことなんだな」おじさんの話し終わり。

 突然私は寂しくなった。自分の知っている人がここにいないということがたまらなくなった。同時にお金がないということの深刻さを改めて気がついた。気がついてしまった……

 食べ物も買えない。宿も借りれない。何より恐ろしいのは、帰ろうと思っても帰れないことだった。どこかで、私は辛くなったら帰ろうと考えていたんだわ。それが私の旅を可能にさせていた。命綱があって初めて渡れていたんだ。躍った心は一気に萎びた。

 同時に、私は自分の抱えていた例のまずさを再認識した。追い打ちである。いてもたってもいられなくなって、叫びたくなったのだけど、人の目がそうはさせてくれなかった。

 焦る。にじむ汗。

 この街についた時は私の心は真っ白だって思っていたのだけど、それは勘違いだったんだわ。またいろんな色がぶちまけられたわ。趣はゆりかごにいたころとは違うけれど、それでも変化があるように思えない。 何にも変わっていない……

 おもむろに立ち上がり、目的地も問わず歩き続けることにした。知らない人とすれ違う。知らない人しかいないのね、やっぱり!

 どこをどう歩いたのかさっぱり記憶していなかった。美しく思えた街頭や目に映る景色も、恐怖で塗りたくられていた。どうやら私は人のいないほうに向かって歩き続けたらしい。人を見たくなかったからか、これ以上知らないに見られたくなかったからか。

 とにかく寝床を確保したかった。自分の拠点と場所をどうにかして得なければ、このぐらついた精神がさらに追い打ちをくらうことは間違いがなかった。

 でもお金がない中、どうやって?

 ぐるぐる頭の中で思考が巡っていく。方法はまるで思いつかない。足が疲労していく。でも沈んでいく陽が私をどんどんじらして、結局歩かせる。どこに向かっているの? 自分でもわからない。だから歩き続けた。

 このままだと、本当に路頭に迷うことになるんだわ。そしたらどうすればいいの。そんな不安を抱えて。

 気がつくと私は人気のない裏路地に入っていた。一体全体どこなのか。通り魔でも出そうな雰囲気だった。怖くなったというのもあるけど、錯乱していたのね、とにかくもう店に入ることにした。看板があるところめがけて私は早足で駆けて、地下に降りていった。

 扉を開けると、大きな音楽(管楽器でなくて、電子ギターとドラムが混ざり合ったやつ)の音が聞こえた。併せて、たばこの煙とお酒のにおい、そしてチーズやお肉やお魚の香ばしいにおいがした。私のお腹がまた呻いた。

 先に進もうとすると、つるっぱげの強面のお兄さんが私の道を遮った。

「失敬、お嬢ちゃん。未成年は禁止なんだぜ。知っていた?」

「うん。知っているわ」

 全く知らないけどね。何のお店か知らずに入ったんだから!

「失礼だけど、私ってお金がないの。そんなときどうすればいい?」

 男はぽかんと口を開けていた。私だってそうなるだろう。いきなりそんなこと言われたら。私は焦りに焦っていたんだわ。こんなことを言っても、しょうがないということはわかっていたけれど、おめおめと引き下がるわけにはいかなかった。何かしらを得なければいけなかった。恥も外聞もなにもなかった。

「お嬢ちゃん、あのなぁ。君は一体、子供で、さらに金もなくて、それで酒場に何しに来たっていうんだい?」

 もっともだった。ごめんなさいと私が言うべきだった。わかっていた。わかっていたけれど、しかし私は引き下がらなかった。ここで退いたら、これからの旅がずっとみじめなものになるんじゃないかって、私はそう思ったのね。

「それはあなたの視野がせまいからよ。いい? 子供だって酒場に行ってもいいじゃない。それに子供だからこそお金がないんだわ! 私はお酒は飲めないし、飲むつもりも毛頭ないんだけど、見学くらい……あっ! そう、見学したかったのよ。ずっと酒場っていうものに憧れていてね。なんていうか。今酒場に行かなきゃ死んでしまうって思ったんだわ! だから私をここで追放するってことは、あなた、私を死に追いやるってことになるのよ!」

 お兄さんはなんとも言えない絶妙な表情をした。呆れ、そして少なからず怯えていた。たしかにこんなことを突然言い始める子供と接触したら、どこか恐怖を持つだろう。私も体裁を考えない自分が少しだけ怖くなっていた。

「ねぇ、お願い。いいでしょ」

「しかしなぁ……」

「いいじゃない」

 背後から声がかかった。

「モーリス。今日も飲むのかい」お兄さんは言った。

「そうよ。酒は飲みたいときに飲むものでしょ?」

 モーリスと呼ばれた紫髪のお姉さん。私の背後に立っていた。

「でもよモーリス、この子なんか様子がおかしいんだぜ。はっきり言えばワケアリなんじゃないかって思うんだ。おかしな事情を引きずっていそうなさ」

「えらく潔癖性になったもんだね。別にいいじゃない。あんたも私も、そしてここにいるみんな、全員なんかしらのワケがあるさ。それに」ここでモーリスは私を見下ろしたわ。背が高いのね、彼女。「私はこの子にちょっと興味があるのよね。だっておかしいじゃない」

「わかった。モーリスがいうんならね。いけよ」

「ほら、おいで」

 私は引き連れられるままモーリスと中央の丸テーブルに座ったわ。周りには、普段私が接したことのないような……世間から少し逸脱したような連中がいたわ。当然、私は何もおどけることはなかった。少なくともその連中に大して。だって私自身世間から大きく逸脱してここにいるんだからね。外れまくりよ。全く。

「何か飲む?」

「のどが渇いたわ。あと、おなかも空いたの」

「おかしな子ね。私、何か飲むって聞いたのよ」

「ええ。私。結構おかしいの。その点については同意する。ちょっと今は言葉もろくに話せないくらいにね。で、私から何かを引きだそうというのなら、やはり飲食物を与えることをおすすめするわ。たっぷりのポテトと鉄板に載ったお肉なんかが効果的よね。飲み物は冷えたミルクかしら。あとたっぷりの水とかね」

「あなた、本当に大丈夫かしら。まるで獲物を狙う肉食獣。いや、そこまで怖くはないけれど」

「別にこれが普通よ」

 強がりなのかどうか。そんなことも判断できなかった。

「それについては聞かないで。私はたしかに彼の言ったとおりワケアリなんだわ。それはここにいる理由だけじゃなくて、精神的な意味合いでもね。突然かんしゃくを起こしたりしても、それは日常的なことだから。気にしないでね」

 今なら気が触れたような人間になるのも容易だった。急にここにいることが怖くなったり、あるいはここの連中と同化したり……まばたきするごとに景色と意識が目まぐるしく変わっていくような。でも帰りたいとは思わなかった。絶対に、思わないようにした。

「ふうん。君は自分で自分のことをワケアリだと思っているわけね」

「そうよ」

 本当に自分が要求したものがそのまま出てくるとは思わなかったので、よだれがでてきてしまった。



 たまにあるのよね。私。世界が全部、色にしか見えない時が。その時、私は全てから抜け出ていて、わりと幸せ。人の名前を覚えられないのも、勉強が苦手なのも、こういうふうに世界が見えるんだからって思って、許している。でも、それは偶々なのよね。色々な偶然が重なって、そういうふうに世界が切り取られるみたい。狙ってやろうと思っても、まるで出来ないのね。



「ねぇ。あなたは生きているってどういうことだと思う?」

「生きているって?」

「言葉の通りよ」

「あまり、深くは考えたことがないかな」

「そう、よね」

「でもね、生きていることに幸せを感じる瞬間はあるわ」

「えっ? それは例えばどういう時?」

「そうね。それは幸せを感じるときだと思うの。私は、恋人がいるのだけど。例えば、その人と一緒に食事をしている時とか。ううん。食事、じゃないかな。例えばこう、本当にどうでもいい一瞬。例えば……彼の帰りを待っていて、それで食器なんかを洗っていたりするでしょう。洗っていてね……で、ちょっとした汚れなんかが落ちたりして、で、その瞬間よね。なんでもない、そういう瞬間が、幻のように思えるときがあるの。幻っていうかね。こう、夢見心地というか。そういう一瞬一瞬が、私の中では大切な思い出になっていたりするのよね」

 自分から聞いておきながら、大変恐縮ではあるのだけど、私は内心でもう話を聞いていなかった。心の中では、お姉さんをはり倒していた。完全に距離を感じてしまっていた。むしろ、裏切られたとすら思った。全身から厭世観を出すあなたなら、もっと違う角度の話が聞けると思っていたのに。なによ。恋だのなんだの。

 今更だけど、私は恋ってのをしたことがないの。恋っていうのがあるのはずっと知っていたし、なんか皆しているらしいということも知っていたけれど、その正体は不明なのだ。

 だから紫髪のお姉さんに話されると困るのだ。あなたも、こっち側の、恋だのに現を抜かさないような人だと思ったから。

 それとも、でたらめを言っているのかと……つまりあることないこと言っているのかと思ったけど、そういうわけでもなさそうだった。あんまり確認をしたことはないけど、私はその人がでたらめを言っているのかそうでないのか、しっかりとわかるときがある。多分、合っていると思うし、その勘には自信があるわ。けどお姉さんは途中途中で、でたらめっぽい印象を受けるんだけど、全体を通すと真実味がある感じなのよね。よくわかんない。

「君は、恋をしたことがある?」

 出し抜けにそんなこと言われても困る。

「あるよ。ないよ。いや、あるよ」

「してみたらいいんじゃないかな」

 どうやらお姉さんもでたらめを見抜く才覚があるようだった。

「そうね。そのつもりはもちろんあるのだけどね。でもわかるわ。その、後半の部分の、一瞬が切り取られる瞬間っていうのはね。なんとなくわかるわ。前半の部分はよくわからないんだけどね」

「それはよかった。じゃあ、お礼に


 私はその男をじっと見た。男だ。うちの街にはいないような、男。多分、精悍な、とか。そういう評価が似つかわしい男。私はじろじろと、相手が不快に感じない程度に、上から下まで見つめてやったわ。

 唾をかけてやったわ。そしてすぐにしまった! アッ! って思った。でも遅かったのね、ぴちゃりと彼のズボンに私の唾は落ちて、彼はしかとそれを見届けたわ。

 でもどうしたと思う。その彼。

 なんとにこりと笑ったのね。嘲笑を込めたとか、狂気のにじむ、とかそんな笑顔じゃなくて、本当に朗らかな微笑。誰かを歓待するような。私は逆にイカれてると思った。私の行動もイカれてれば、こいつもイカれてるってね。イカれた邂逅ってこういうことを言うんだなって、私は感心した。

 彼はそのまま去っていこうとした。唾なんてなんとも思わないって顔でね。私は思わず跡をつけた。というより声に出していた。「ねぇちょっと待ってよ」彼は振り向いた。「どうしたというんだい」彼は言った。

「私が唾をかけたことに対して不快なのならば、謝るわ」

「君、通りすがりの人に唾を吐くのだけはやめたほうがいいぜ。そりゃ、この街では御法度だ」

 どの街でも御法度なのは私でも知っているわ。とは言わなかった。そしたら君の街じゃ当たり前なんだろう、とかからかわれそうだったから。

「私が知りたいのは、あなたがこれからどこに行くのかっていうことよ」

「図書館だよ。中央大図書館。君も来る?」

 やっぱりイカれてると思ったね。唾を吐いてきた奴と行動を共にするなんて。ついていく私もイカれていたので、やっぱりお互いイカれていた。

 でも私は彼についていって正解だと思った。その図書館は本当に大きくて、私が考える図書館とはまるで

 吹き抜けの造りになっていて、

 騒がしそうに見えて、騒がしくない。なんだそれって感じだけど、やっぱりほとんど

「これだけ本があるの、見たことない」

「そう。僕はそこで勉強しているから、何かあったら声かけて」

「うん」

 彼の小難しい本の表紙をみたところ、心理学について勉強しているようだった。だからか、唾を吐いても何も思わないのは。なんて思って

 私はとにかく大量の本棚と、広大な建物の造りに圧倒されて、身動きがとれなかったくらいなのだけど、少ししてから本を探した。

 永遠の命にまつわる本である。

 ばかげてるって思う? 私は思うわ。だからばかみたいだねって言ってもいい。私は途中から自分がばかみたいなことやってるなぁ、って思ったの。それでも探すことを止めなかった。あの紙に書いてあった文字を、こうまで気にする理由もわからずにね。

 心理学の彼にも手伝ってもらいながら、私は一応、それらしき本を手にすることは出来た。それらしき本があったことにまず驚きであった。そのどれもがほとんど古来から続く伝承話だったり、民話だったり、あるいは神話だったりの研究書だったりした。総じて伝説ってやつ? いかめしい、分厚い感じの本だ。

 ぺらぺらめくっても、てんで理解は出来なかった。そもそも私は頭が良くない。学舎の勉強はすべて左から右に通り抜けていく。視線は明後日の方向。白鳥を追ったり、色のことばかり考えている。どうしようもないわよね。

「どうしようもないわ」

 ひとり呟いてから背後の存在に気がつく。

「君は民族学に興味が?」

 唾男……じゃなくて、心理学の彼だった。彼の目は、暗い茶色の目をしていて、二重で……その目からは唾も看過する程度の穏和な空気はやはり出ていた。

「民族学? いや、全然興味ないわ。私が興味あるのは……」

 と言って、やはり整理できていない自分の頭に気がつく。

「ねぇ……永遠の命って聞いて、何か連想することはある?」

 この言葉を出すことに躊躇いを覚えてはいたのだけど、彼にならいいか、と思えた。

「永遠の命……? それ、何かの課題?」

「まぁそんなところかしら」

「うーん。連想ねぇ。そういえばそんな小説があったかなぁ。でも結局物語的なものだよ。君の手にしているような。それでよければ」

「物語的なものじゃないものはあるの? 嘘ぱちの話じゃなくて、伝説なんかじゃなくて、本当に、本当の永遠の命を手に入れる方法は」

「それはないんじゃないかな」

「ないよね。でも、そこはなくてもあるって言って欲しかったわ。私的に」

「ああでも、そうだな……」

 彼は少し考えるそぶりを見せてから、「そうだよ。思い出した。僕の友人がそれに近いことを調べていたよ。君がもしよければそいつを紹介するけど。でもま、あんまり期待しないでくれよな。なにせ話が大げさすぎる」

「それは私もわかっているわ。でもありがとう。ぜひその人に会わせてくれないかしら」

 もはや私は何も考えていなかった。こっちに来てからずっとそうだ。とりあえず飛び乗っておこうと、そんな調子。


   ・


「ロージャ。元気?」

「カザミか。なんだ?」

「この娘を君に紹介したくて」

 ロージャと呼ばれた男はじろりとこちらを舐るように見つめた。目が細く、きりっとしているのだが、中々愛嬌がよくない。まるでこちらをにらんでいるように見えるし、あまり歓待もされていないようだ。

「誰だ?」

「えーと、君は」

「チェスカよ」

「おいおい。名前も知らん奴を俺に紹介しようっていうのか。お前のお人好しぶりには毎度びっくりさせられる」

「いいだろ。いつだって困っている時は助け合うもんさ」

「で、用件は?」

「私はチェスカ。よろしくね」

 私も不愛想にとりあえず挨拶してみた。

「で、話って言うのは……」

「ああっとその話を聞く前にだな。俺の身の上なんかの話をしておこう。あいにく俺は忙しくてね。君にかまっている暇はあんまりない。色々なことをやらなくちゃならないんだ。で、俺はこう見えて打算的で、それに合理的な男なんだ。つまり必要のない人間とはあまり関わりたくないってことなんだよな」

 嫌な奴だなぁ、とは思わなかった。不愛想だけど、嫌らしさを感じなかったのもあるだろうし、彼は多分、全ての人間にこういう態度をとってみせるだろうから。ま、でも鼻持ちならない奴には間違いがないのだけどね。

 私は言葉に困った。正直に言えば、門前払いにされそうだから。まぁでも、そうなったらそうなったでいいかな、とも思えたので特に何か婉曲した言い方をすることは避けようとした。

「永遠の命について……だよね?」

 けれど、カザミ君が先に口を開いた。

「そうよ。永遠の命」

「永遠の命?」

 ロージャの表情が変わった。

「君が以前そのことについて調べていただろう?」

「よく憶えているな。ああ。調べてたけど……しかし永遠の命だなんてな」

「じゃ、頼むよ。ロージャ。これを機に君は人と関わるんだ」

 カザミ君がそう言って颯爽と去ろうとする。私とロージャは驚いてカザミ君をみる。いや、ちょっと待ってよ。二人にしないで。

「おい、どこに行くんだ」

「課題があるからね。それじゃ」

 さわやかに去っていた後、残されたのは若干のきまずさと沈黙だった。

 私は手持ち無沙汰にロージャの部屋を眺めた。いろいろとごちゃごちゃしている。組立て中の機械(なんの機械かわからないが)、それ以外にも様々な部品、積み上げられた様々な本……特に一貫性はなく、「魔術について」という本から「科学の基礎」……あるいは「占いと人相のすべて」なんて本もある。壁にはどこの地域のかわからないけれど、地図があったり、自分で書いたのだろうか、水彩画や、何かデッサンのようなものがある。

 一言で言えば、彼の部屋はとてもごちゃごちゃしていた。彼の頭もごちゃごちゃしていそうだ。色んな事に興味があるのだろう。

 彼は自分の机に座った。私に背を向けて。

「ま、座れよ。適当に」そしてそう言い放った。やはりぶっきらぼうだ。私は物が少ない箇所を見つけて自分が座れる場所を確保した。

「永遠の命な……俺は実はびっくりしているんだ。そんなことを考える奴。調べそうな奴、身近にいないからさ。酔狂なもんだよ。ま、俺は酔狂な奴だがな!」

「酔狂って、あなた一体何をしている人なの?」

「わからん。自分でも何をしているのかよくわからないんだな、これが」

「初対面でこんなことを言うのも失礼なのかもしれないけれど、おかしな人なのね」

 私は距離の取り方がよくわからなかった。私は私のことを、あまり普通ではないと思っているけれど、実際に普通じゃなさそうな人との会話は苦手なのだ。

「で、永遠の命って、一体全体なんでそんなことを調べているんだ。君は永遠に生きたいってことなのか?」

「永遠に生きたいか?」

 問われて初めて考えた。わりとすぐに答えは出た。既に出てはいたのだろうか。

「私は別にずっと……永遠に生きていたいと思っているわけじゃ決してないわ。そういう理由で永遠の命を探っていたりするんじゃないのよ」

「そりゃ、俺だってそうだ」

「でしょう? そうでしょう? でもね、わたしが感じている所によると……人間がいつか死ぬってことは実際に起こりうるわけじゃない? 君はその点についてどう思う?」

「言うまでもなく事実さ。思うもなにもない」

「そうなのよね。実は私はえらくそれを身近に感じているの」

 私はついに自分のまずさを口にした。口にしてしまったとも思えた。

「いい……? これについて君はなにも反論しないで欲しいのだけど、私、私ね……」これを言ってはいけないと思ったが、同時に言ってしまわなければ! とも思った。で、結局顔を出した。私の衝動的なうずきが。「どうせ死ぬんだから、何をやっても無駄なんだって……そう思っている部分があるのよ。生きていることすべてが、本当に意味のあることなのか、とか」

 ロージャは反論しなかった。しなかったというより、出来なかったのだろう。彼はもとより、私と同じまずさを抱えていそうだったから。感覚的に、なぜかわかってしまっていた。

「そうかい。その点については、実は俺は考えを煮詰めていないんだ。だから、深く議論できないな」

 彼はそれだけ言ってから、話を切り替えた。

「まぁ、わかった。とりあえず俺の知っている永遠の命についてを折角だから話してやろう。君は古代文明って知っているか?」

「古代文明……さっき読んでいた本に載っていたわ。でも……物語や伝説の類じゃないの?」

「そうかどうかは俺はまだ定かにできない。が、永遠の命……つまり人が永久、あるいは半永久的にいきることができる技術というのが、その古代文明に存在していたのではないかという推論がある」

「ちょっとまって、古代文明っていうのは本当に存在しているの?」

「それもわからない。物的な証拠はない。遺産のようなものはな。しかし俺が古代文明の存在を信じる理由としては、わりかしよくできているからなんだな。仮に誰かの創り話だったとしてもな。俺たちが遠い未来、仮にそうなるとも限らないし……ようするに、想像力を刺激するんだな」

「どういうこと?」

 ロージャは段々と活き活きとしていた。多分、こういうことを話す相手がいなかったんだろう。

「古代文明が出てくる伝説を纏めるとな、おおよそのあらましはこうなるんだ」ロージャは咳払いをした。「過去、それも気が遠くなるような大昔。超高度な文明が発達して、人間が働かなくても……あるいは考えなくてもいい社会を創った。自動的に働く機械で労働をなくし、身体に機械を埋め込んだりしたり、高度な医療を発展させて、どんな病気も万能に解決できるようになった。寿命もどんどん延びていった。そして人間は個人の快楽を追求するようになった。いかに自分を満足させるか。科学技術はさらに発展を伴い、多様な生活様式が提供されるようになった。で、最終的に行き着いたのは、つまり永遠の命なんだ。人間はどうやって、死を乗り越えるか。ずっと生きていたいと本当に願っていた奴らが古代文明の崩壊をもたらしたってのがだいたいの流れだ。どうだ?」

 自信ありげに話すロージャだが、私にはすべて夢物語のようにしか聞こえなかった。現実味がないのである。そんなものがあれば、仮に大昔であっても、どこかに遺産があるような気がするし。だけど、とりあえず私のために時間を使って話してくれてはいるので、感嘆したふうに目を開いて話を聞いていた。

「なんで永遠の命を求めようとした人たちが文明の崩壊をもたらしたのかしら?」

「実はその理由は様々な説があってな。俺が一番面白いと思うのは、強欲な奴しか世界に残らず、そいつらが対立を起こし、壮大な自滅を起こしたって線だな。あとは、肥大する科学技術で自らが創りだした機械が滅ぼしただとか、人間以外の超自然的な何かが介入しただとか、そういう説がある」

「ふーん。それが君の調べた結果なのね」

「そうさ。そうとも。だからもし大まじめに永遠の命について調べるんだったら、あるかもしれない古代文明の遺産をつきとめるという手段が一番賢い手段になってくるかもしれないな」

「古代文明ね……つまり結局行き詰まりってことね」

「なんでだ?」

「だって、今までそういうものが見つかってないってことは、やはりないんじゃないかしら」

 ロージャは細い目を開いた。はっとしている。そしてその後目を落として、少し寂しい顔をした。

「お前もか」

 また背を向けたロージャ。

「何よ、お前もかって」

「いや……特にな。まぁ俺の知っていることはこういうことなんだ。お前が作り話だと、そう思うんならそれでもいいと思う」

 何なのだろう。先ほどまであれだけ活き活きとしていたというのに……

 私は沈黙が耐え難くなり、「ありがとう」とだけ伝えてその場を去ることにした。その後、一度モーリスの家に帰ることにした。モーリスは私にごちそうを用意してくれて待ってくれていた。

「どう? 恋の発見はあった?」

「てんでないわ。人を好きになる瞬間って、なんなのかしら?」

 当然ながら、カザミ君、ロージャにときめくわけはなかった。

「よく考えたら私、男の人とあんまり話した経験ってないのよね。男の人ってやっぱり違うのかしら? 色々な考え方が」

「そうね……全く違うとは言えないけれど、やっぱり考え方の方向性は違うと思うわ」

「例えば?」

「女性は結構、現実的な人が多いと思うのよね。想像力豊かな女性もたくさんいるけれど、現実をわきまえている人が多い。つまりこう……想像と現実の区別がはっきりしているのね」

 たしかに私もどこか現実的に物事を捉えているような部分はある。

「男の人は違うのかしら?」

「男の人はなんたって、夢を追うじゃない? あまり現実的ではないものを。私の彼だってそうよ」

「現実的ではない夢」

 言われて、ぴんとくる。今日のロージャのこと。

「もしその夢を追っている人に、夢を追うなっていったら、傷つくかしら? そんなもの、ただの夢に過ぎないって言ったら」

「傷つく……かしらね。もちろん、

言う機会や背景にもよるだろうけれど」

「そういうものかなぁ……」

  

   ・


「ロージャ? 私よ。チェスカ」

 彼に対して好感を持ったりするということはまるでなかったが、昨日の態度だけは払拭しておきたいと思った。

「ああ、君か」


「俺はな、陰謀を感じるんだ。世界にはいろんな陰謀があるんだよ。閉ざされているようなな。つまり君の言う永遠の命というのも、あったかもしれないって俺は大まじめに考えているんだぜ」

「人間がずっと



「チェスカ。君を待っていた!」

 ロージャの目は輝いていた。いや、というよりは常軌を逸した目をしていたというべきか。感情を露わにする人間じゃあないと思っていたから、少し引いてしまう。同時に、好奇心が灯った。いったい彼に何が起きたのだろう。

「どうしたの?」

「君は昨日、言ったろう。僕に。生きていること云々と。それは実は、誰もが抱えていると思うんだよ。君だけじゃなく。おおよそ生きている人間がさ。君はおそらくその不安を過度に抱えすぎているんだ。

 だから、俺は確かめたいと思うんだな。一人でやろうと思っていたんだけどね、君とやることにした。確かめて、君に提示したい」

「生きているということを?」

「その通り!」

 そして彼は高笑いをあげた。

 私、彼については元々ふつうの人じゃないと思っていたけど、ついぞ頭がおかしくなってしまったと思った。でも私もおかしいからいいかな、って思うことにした。

「いったいどうやって?」

「陰謀を暴きに行くんだよ。永遠の命のな」

「例の研究所に?」

「ああ。おおかた検討はついている。秘匿している情報はあるはずだ。俺は実はな、あの研究所の見取り図を持っているし、進入経路も既に確保している。自分で調べたのも含めて、たしかな情報さ」

「本気で言っているの?」

「言っている。後は君が乗るかどうかだ。乗らなくてもやるつもりだったんだけどな」

 研究所に侵入。見つかったら一体どんなことになるんだろう……という不安は考えなかった。ただひたすら面白くなってきてしまっていた。なにせ全く予期していないことだったから!

「で、君はどうする?」

「やる!」

 即答だった。もうどうにでもなれ、という気持ちでなく、ただひたすら、その先を……実行した後の自分が知りたいという気持ちでいっぱいだった。強い好奇心。


   ・


「装備を確認しよう。君には何がある?」

「私にはこのハイカラな服があるわ」

「よかろう。全く使い物にならんが、しかしまぁよかろう。常に


 そして決行の時刻になった。辺りは静まりかえり、私とロージャは家を出た。私はロージャの後をひたすらつけることとなった



「さて。君たち。君たちが正々堂々、嘘をつかずに今回ここに忍び込んだ理由を教えてくれるのならばうちに帰してあげよう」

 一瞬安堵しかけたが、髭おじさんはこう続けた。

「しかし、私もそこまでお人好しじゃあないんだな。君たちの返答次第では、警察に連絡を取り、しかるべき罰を受けてもらおう。君たちが前途ある人間かどうか、判断させてもらいたいと思う」

 私のインチキ判断機は作動しなかった。いかにも胡散臭い出で立ちのおじさんではあるのだが、その実目は澄んでいて、威圧感はあるもののこちらの気持ちが落ち着くような、そんな人間だった。こんな状況なのにね。今まで出逢ったことのないタイプ。

「理由って……俺たちはただ……」

「ただ?」

「暴きたかったんだ。色んなことを。世界の、様々なことを」

「ふむ。君。それだけじゃ弱いよ。それじゃただの悪戯小僧さ。前途あるとは見なされない。あまりにも衝動的で、弱いんじゃないかな。私が聞きたいのはそんなのじゃあない」

 ロージャを見ると、すっかり意気消沈といった格好だった。案外、精神的な弱さを抱えているようだった。私はロージャの代わりに口を開いた。捕まったけれど、今回ここに忍び込むにあたって、私の出番と役目はここしかないとも思えた。どうやらおじさんはただ興味本位で私たちの素性と動機を知りたがっているだけらしい。まったく萎縮はしなかった。

「おじさん。私が説明するわ」

「ほう……」

「まずね、私たちの最大の目的は、命について解き明かすことだったの」

「命について……?」

「この研究所は、様々な歴史と、そして医学を統合して研究していらっしゃるでしょう? ずばり、その関連性が私たちにはまるで不可解だったのね。歴史と医学。その組み合わせに着目したのがロージャなの。で、古代文明の研究をしているんじゃないかと踏んだんだわ。そうでしょ、ロージャ」

 ロージャは力なさげにうなずいた。

「古代文明ねぇ」

 髭おじさんは自身の表情を隠すようにして私たちに背を向けて言った。

「そうよ。実際そうなのかどうなのか、わからないままだったけど。ロージャはずっと古代文明について調べていたの。そこに私が現れた。私は永遠の……」ここで躊躇った。なぜならこう言って、ばかげたことだと思われるかもしれなかったから。でも続けた。「永遠の命について調べていた。別に、そんなものがあると、本気で信じていたわけじゃないのだけど、でもあるかもしれないって、ロージャは言った。加えて。私の悩みを、ロージャは引き受けてくれたの」

「ふーむ。君たち、まだ私にはどこか動機が弱いように聞こえるんだがね。永遠の命という存在は、たしかに古代文明に存在していたという……伝説がある。あくまで伝説の範囲でね。そもそも、古代文明という存在が伝説的なものなのは君たちも知っているだろう。それを承知で、ここに乗り込んできたわけだ? だとしたらえらくぶっきらぼうな連中だね」

「それだけじゃないわ」

 とにかく言葉に出した。何か言わないと負けてしまう。

「ほう? 他にも何か強烈な動機あがあるのかい?」

「あるわよ!」

 私はロージャの方をちらとみた。

 彼がどう思っているのか知らないけれど、私は彼を信じることにした。あのときの、私と彼を。

「……私も彼も、どこかで生きているということが腑に落ちていなかったの。多分。だけど。少なくともロージャは私の話に感応してくれた。だからやったんだわ」

「ちょっとまってくれ。話がよくわからないぞ」

「わからなくてもいいわ。でもあえていうなら……」

 私はここで一呼吸置いた。自分の中にとぐろを巻いているそれが、ひくひくと反応しているのを感じ取った。

「生きているということがとても謎めいているということなのよ。わかるかしら? 私はどうやってこの感覚を伝えればいいのかわからないのだけど……この世に生きていて、一体全体何をしたらいいのか、わからないときがあるの。いいえ、そもそも何をするべきか、なんてことより、なんでここにいるか……ってことなの。例えば私は寝て起きて学校に行って、勉強をして、友達と話して、帰宅して、私の持っている趣味を粛々としてまた寝るわ。もちろん裁縫をしているときはとても楽しいんだけどね。でも。だから何? この毎日に、何が起きるんだろう? 数学、歴史、国語、運動、音楽……その他色々。何か意味があるの? 私の生命というのは、一体どれほどなのだろう? どれほどの意味をもって生きているのだろう? そうだわ。ずっと抱えていた。嫌でたまらなかったの。誰にも話せない。誰も、そんなことを嫌だとすら思っていない! 毎日を幸せそうに生きている。時には不幸なこともあるのかもしれないのだけど、そういうのも含めて、楽しそうに生きている。私だけ。ずっと私だけ取り残されていた。友達とふざけあって笑顔で話していても、心の奥底に沈んでいたそれが、その感覚が、わだかまりが、ずっとずっと嫌で仕方がなかったの! 嬉しいことも、楽しいことも、もちろんある。美味しいものを食べれば幸せを感じる……でも……それで……」

 私も私で、精神が乱れていないということではなかったらしい。気がつくと、涙をこぼして、長ったらしい告白をしていた。

 多分、ずっと溜まっていたんだと思う。

 私が抱えていた例のまずさ。

 誰にも言わずに、言えずに秘めて置いたまずさ。

 このよくわからない状況になって、初めて口に出来た。

 それがこれまでの……この旅の疲れと重なって、混じり合って、一つの感情となったのかもしれない。

「君のそういった悩みのようなものが、一体なぜ、ここに来させた?」

「ロージャに話したのよ。ロージャはわかってくれたと思った。そしてロージャは言ったわ。そういうことを乗り越えるために、行かなきゃいけないんだって。ただそれだけ。でもそれだけで、私はとても嬉しくなった。理由は……またわからないの。全然釈然としないことばかりだけど、嬉しかったのは、間違いがないの。共感、してくれたからだと思う」

 話してみて、まったく整合性がないと思えた。理解されるとも思えなかった。でも事実だし、これ以上のことは話せなかった。元よりこちらの拙い嘘など簡単に見抜かれそうだったから、事実だけを話すつもりだった。

「ふむ。ずばり、君たちはえも言えぬ感情のため、ここに乗り込んできたと?」

「そうよ。悪い?」

 完全に開き直っていた。はっきりいって、警察送りを覚悟していた。私の旅の締めくくりには、とてもふさわしいのではないか。ある意味で、喜劇的だ。

「悪いわけじゃあないな。むしろ、合格だ。私は君たち、若い人たちの、そういう話が大好きでね。言葉に出来ない、ぶつけようのない感情というのがね」

「あなたにはわかる? 私……私たちの悩みが」

「わかる。とは言えないな。なぜなら私は君たちではないし。また、わかると言ったところで、君たちは簡単にわかってほしくないなどと言うだろう。それくらいはわかる」

 とはいいながら、しかしどこかで承知しているという素振りだった。

「それで、どうするんだい? 君たちはそういった心持ちでここに忍び込んできたわけだが、お目当てのものは見つかっていないわけだ。これからどうしたい?」

「どうしたいって……何も考えていないわ。ロージャは?」

「俺もさ。はは。でも、なんか面白かった。面白かったし、俺はチェスカとここにこれたことに一つも後悔しちゃいない。できてよかったって思っている。また何かやりたいことが出来れば、自分でやるさ。そうだ! ただそれだけさ」なにやらロージャは勝手に盛り上がっている。

「まぁ、私もそんな感じなのかしらね」

 何かが丸く収まった感触というのはまるでなかったけど、でも、どこか清々しかった。この清々しさを、私は今まで抱えたことはなかった。今なら心から笑えるような気がした。だから笑った。そしたらロージャもつられて笑って、なぜか髭おじさんも笑った。忍び込んだ先で、こんなことになっているのが、たまらなくおかしくなって、そしてまた笑った。

 一通り笑った後で、髭おじさんが口を開いた。

「ふう。まぁ、種明かしをしようか。ここはただ、公にしているように、医療の歴史を研究する施設。併設されている薬剤開発施設もある。ただそれだけの場所さ。古代文明も、永遠の命も、そんな陰謀めいたものはないよ」

 わかってはいたが、私もロージャも少し残念そうな顔をした。

「ただ、もし君たちが命について何か知りたいことがあるというのならば、私は協力できる。例えば……そうだな。君たちは人の死ぬところを見たところがあるかい? あるいは、それに近い経験をしたことは?」

 私もロージャも首を振った。

「そうか。それなら、君たちが永遠の命について調べる前に、まず人の死を感じ取ってみるのがいいのかもしれないし、あるいは別にいいのかもしれない。決めるのは君たち自身だ。私はゴートンという。もし君たちが何かその方面で力を得たいというのであれば、またおいで。最後に」おじさんは一つ咳払いをした。

「生きているということが謎めいているのだと、君は言ったね?」

「ええ」

「それが答え、だと私は断言しないが、その謎は、君が考えていって、生きていく中で、謎の中に君自身が答えを見つけ出せるかもしれない」


 そして私たちは、おじさんに解放されて、帰路についた。揃ってなにも喋らなかった。お互い眠かったというのもあるし、緊張が抜け出たせいもあるだろう。

 ロージャの家までたどり着いて、私はモーリスの家に戻ることを告げた。躊躇いがちに、ロージャがこんなことを私に言った。

「例えば俺はお前の人生を知らない。全くな。何考えているかも。全部はわからない。けれど、今日言ったことは、わかった気がした。全部をわかったとはいえないんだけどな」

「うん。ありがとう」

 思わず自分に驚く。なぜこう素直に感謝の言葉が出てくるのか。清らかに、なれているのか。

「俺は、今日どこかで自分の殻というやつを破れたかもしれない」

 彼は文字通りわなわなとふるえていて、見ていて愉快だった。

 ロージャは星空を見上げた。

 私も見上げた。

 とても澄んでいて、見とれて

「その……また来いよ。俺は俺のやりたいことをやりたいと、今日強く思った。そこにめがけて今は頑張りたいんだ」

「うん。応援している」

 差し出された手。気恥ずかしく感じる間もなく、私はロージャの手をとって、微笑んだ。

 そしてその手を取り合っている瞬間に、なんだか急に居心地が悪くなって、頬が染まるのを感じた。なぜって……男の人と握手したことがないから? こういうふうにふれあったことがないから? 色々と考えていたらロージャが口を開いた。

「じゃ、またな!」

 快活な笑顔だった。

 まぶしいな。

「私は遠くに住んでいるけれど、また来るよ。絶対だよ」

「おう!」


 帰り道、私はまた一人で笑っていた。

 今日の出来事が、とても愉快で、おもしろくて。

   ・


 病院の内部は独特なにおいがしていた。おそらく消毒液や……その他様々な薬が混じり合ったにおいなのだろう。

 私は受付のおばさんに、ゴードン先生の紹介であることを告げて、ユーミさんのお見舞いを頼んだ。おばさんは少しいぶかしむ表情をしていたけれど、すんなり通してくれた。まぁそうだ。私はそのユーミさんと何の接点もない。

 ユーミさんの病室は最上階の最奥に位置していた。カーテンの仕切りが風にそよいでいて、私は隙間から中をちらとみた。何せ、どういう人なのか全然知らないのだ。

 おばあさんだった。何歳くらいなのだろう。

 厳かで、清らかで……

 たおやかな人ってこういう人のことを言うのかしら?

 目があった。どきりとしてしまう。覗き見ていただなんて、趣味が悪いから。

 けどユーミさんは私の目を見てにこりと微笑んだ。私もぎこちない笑みで返してみせる。

「お入り」

「あっ、ごめんなさい。その、覗き見ていたのには理由があって……」

「何も謝ることはないわ。あなたの名前は?」

 私はカーテンを開いて中に入った。

「私はチェスカっていいます。ゴードンさんからの紹介で、お話を聞きに来ました」

「チェスカちゃんというのね。よろしく。ゴードン君の紹介……あ、とりあえずおかけになって」

 言われるまま、側にあった丸椅子に座った。

「ゴードン君は君になんて言っていた?」

「その……少し説明しづらいいんですけど……」

 私はこれまでのことと、ゴードンさんに逢ってからここに来た理由を自分なりに説明した。ユーミさんは

微笑みを交えて相づちを打って聞いてくれた。

「そうだったのね」

 何かを深く追求されることはなかった。

「私ができることも、中々ないけれど、チェスカちゃんは何か知りたいことはある?」

「私……私は」

 まさか死ぬ前に何を考えているんですか? とは聞けなかった。でも私が聞きたいのは、多分それでしかなかった。

 ユーミさんは、このまま病院で命を引き取るのだろうか……どういう病気なんだろうか。今苦しいんだろうか。一体何を聞いていいのか。混乱して口に出せずにいた。

「生きるということ、かしらね」

 代わりにユーミさんが口を開いた。

「私はもうすぐこの世を去ると思う。近い未来ね」

 私は思わず息を飲んだ。

 衝撃だった。もう少しで、去ってしまう。つまり死んでしまう。もう会えなくなってしまう。そう考えると、たまらなうく胸が締め付けられる。

「ここで、普段何を考えてらっしゃるんですか?」

「今まであった、色んなことを考えているわ。たくさんの思い出」

「思い出」

「あまりぴんとこないかしら? 思い出と聞いても」

「そうかもしれません。あまり言葉として意識していなかったというか」

「そう。別にかまわないと思うわ。だってチェスカちゃんはまだ思い出というほど昔を振り返ることはできないと思うから。だけど、ふと、いつか、どこかの機会にそう呼べるものがあるのだと気がつく時がくるかもしれない。気がついたときに……チェスカちゃんが思い出をどのように考えるのか、君自身で見つめ直してみるといいと思うわ」

 どういうことなのか、あまり釈然としないまでも、私は頷いた。わかるようで、わからない感覚だった。

「私はチェスカちゃんよりずっと長く生きているからね。沢山の、思い出がね……」

「一番思い返すものはどういうものなんですか?」

「そうね、色々あるわ。一番なんて決められない。だけど、最近思い返すのは、初恋の人のことかしら。あの時私は、色々なことを考えて、色々なことを彼に教わったわ。ああ、こういうことなんだな、って」

「こういうことって?」

「私なりに、なんで生きてきたのかよく理解できた瞬間があったの。様々な悩み、不安、辛さ。すべて乗り越えられたような瞬間がね」

「どうやって? 一体どうやったんですか?」

 ユーミさんはにこにこと微笑むだけだった。

「それは、私の思い出だから」

 少し残念な気持ちになった。そんな方法があるのであれば、教えて欲しかったから。

「初恋の人はどんな人だったの?」

「誠実でね、誰からも好かれるような、不思議な魅力を持つ人だった。私から見れば、高嶺の花だとずっと思ったのだけど、私にも優しくしてくれて……まぁそんな人。もうずっと会っていないわね」

「どれくらい会っていないの?」

「学舎を卒業してから、ずっとね」

「ずっと……? でも、ユーミさんは今思い出としてその彼のことを思い出しているわけでしょう。会いたくないの?」

「そうねぇ。もちろん会えるのならば、会ってみたいわ。会わなくても、一目見るだけでもねぇ……だけど……」

「だったら会うべきじゃない?」

「ううん。いいのよ」

「そんな!」

 私は思わず叫んでいた。今すぐどうにかしなくちゃいけないと思えたから。だって、もうすぐ死んじゃうんだから! なぜそこで尻込むのか。死ぬ前って、やりたいことをやってやって、やりまくる。そういうもんじゃないのかしら?

「私、その人とユーミさんを会わせたい。ううん。そうするわ。絶対。だって! だって、そんな……」

 少なくとも、思い残しがあってはいけないじゃない。

「だけどねぇ……」

「いいの。遠慮をしないでください。私、多分そうするために今日ここに来たんだわ。きっと違いない。ねぇユーミさん聞いて。私、今までこうしなきゃいけない、みたいな使命感に囚われたことってないのだけど……待っていてください。これは勝手に私がやるだけですから。遠慮とか、そういうの本当に必要ありませんので」

 ユーミさんは何も言わなかった。遠慮がちな表情から一転して、朗らかに笑っていた。


   ・


「オリバ・クローバーさん……ねぇ」

 私は打って変わってこの街の役所に来ていた。場所はカザミ君(また偶然図書館の前で遭遇した)に教えてもらって、ユーミさんから得た情報を役所の人に伝えていた。

 待つこと数十分。いかにもお役所面と呼べるモスキーンさんと名乗ったおじさんが奥から出てきた。

「ああ。あったよ」

「本当?」

 モスキーンさんは一枚の紙を携えていた。

 私は応接室のソファから飛び跳ねた。

「でもこの街にいたのはだいぶ昔のことみたいだね。少なくとも今はこの街に住んではいないよ」

 そしてしぼんだ。

「ええ? どこに行ったのか知らない?」

「残念ながらここはこの街に住んでいる人のことしかわからないんだ。どこに行ったってのは、知らないよ」

「そんなぁ……何かないですか? 他に情報は」

「うーん……一応、彼の所有している家がこの街にあるけれど……今は誰も住んでいないようだ。どころか、彼が街を去ってから、誰も住んでいないようだね」

「教えてください! そこ!」

 誰もいないのなら、行く価値がないとも思えたけれど、しかし他に行く宛もない。彼に会うことが出来ずとも、何かを掴んでユーミさんの元に行かなければ会わせる顔がない。

「ええ。だけどねぇ。知っているかい……ええと、チェスカちゃんだったか。役所ってのは、意外とそこんところがうるさいんだ。勝手に人の住所を教えたりしちゃいけないんだよ」

「私、そんなに悪人に見えるかしら?」

「見える見えないの話じゃないんだな。規律ってものがあってだな……」

「大丈夫よ。私」

「君は大丈夫でもなぁ」

「モスキーンさん。いい? 私、実は悠長なことを言っていられないのね。その……のっぴきならない事情があるの。逆に何をしたらモスキーンさんは教えてくれるのかしら?」



   ・


 その家は、ちょうど小高い丘の上にあった。

 白塗りの大きな家。お庭も広くて、素敵な家だと思ったけれど、やはり人気は感じなかった。手入れをされている様子もない。寂れている。家が誰かに住んで欲しいと、そう語りかけているような。

 一応、声をかけてみた。

「ごめんくださーい!」

 反応はなく、むなしく私の声が澄み渡った。

 どうしようか。やっぱり無計画すぎた。

 まさか無断で侵入するわけにもいかないし……とか考えながらも、私は家に近寄って、門に手をかけていた。

「すいません。ちょっと、失礼してもいいですかー。入りますよー!」

 大きめの声を出した。言っているから侵入していいというわけではないけれど……ゴードンさんのあの研究所に忍び込んだ後だからか、どこかたがが外れてしまっているのかもしれない。

 入ったその直後だった。

 がこん、と何かが外れる音が私の上空で聞こえた。鼓動が跳ね打った。ひっくりかえるような声もでてしまった。

 窓から見下ろしていたのは、一人の女性だった。私より年上だろうか。

「あ、こんにちは」

 ぎこちない笑みをしてみるが、やはり私の怪しさは拭えないだろう。端から見りゃただの泥棒である。

「こんにちは」

 しかし、水色の髪をした女性は何も驚いてはいないというそぶりであった。

「どうぞ」

 気がつくと招き入れられ、私は出されたお茶を啜っていた。中もやっぱり広い。外見が広いんだから、当然なのだけど。

「失礼ですが、あなたは?」

「いやいや、失礼しているのは私の方なんですから。そんなに、お気にせずに」

「とは言っても気にしないこともできませんわ」

「そ、そりゃそうですよね……」

 やはりまだ笑みはぎこちない。

「決して不届き者じゃないのです。その、深いわけがありまして、ここを訪ねた次第でございまして……」

「そうだったの。もしかして、オリバさんの知り合い?」

「知り合いの知り合いといったところでして……」

「あら」

「実は……」

 私はニコラさんにもわかるように、ことのあらましを説明した。

「そうだったの」

「家に無断で入ろうとしたことは、お許しください」

「いいのよ。多分、この家も誰かを待っていただろうから。誰でも」

「失礼ですけど、ニコラさんはオリバさんとどういう関係なんでしょう?」

「私? ふふ。私は娘よ。ニコラ・クローバー」

「ええ!」

 意外な展開だった。やっぱり私はついている! とこのとき確信した。

「それじゃあ、ニコラさん、一体オリバさんがどこに住んでいるのか知っているの? というか、一緒に住んでいるのかしら?」

「言いにくいのだけど、父はもう他界したわ」

「他界?」

 一瞬、なんのことなのか判断がつかなかった。

「ええ。病気でね」

「そんな……」

 病気、と聞いて初めて合点が行く。他界……死んだのだ。

「だから父と、そのユーミさんを会わせることは出来ない。ごめんね」

「いえ、謝ることじゃないわ」

 私はもう聞くことがなくなってしまった。というより、何を聞けばいいのかわからなくなってしまっていた。

「この家、いい家ですね」

 だからとりあえずそんなことを言ってみた。放心状態。私はユーミさんに何を言うべきなのだろう。彼女はもう、この世を去るというのに。そんなことを言ったら、私は絶望を与えてしまいやしないだろうか。

「ええ。父はここを故郷だと言っていました。私たちはまた、遠方で生まれ育ちましたから、ここのことをよく聞かされました」

「オリバさんは、どういう方だったんですか?」

 とりあえず、何かお土産となるようなことを

「父はとにかく優しい人でしたね。私と兄は、そのおかげで反抗期が遅れました。それくらいの善人です」

 ふふ、と微笑を交えて話すニコラさん。

 誰にでも好かれる人って、ユーミさんも言っていた。本当にそんな人、いるのだろうか。優しいってどういうことなんだろうか。誰かをすべて愛することなんてできるんだろうか。

 ふと思う。

 でももしこの世の全てを愛した人がいたのなら。

 死ぬ時に、何を思うのろう。

「その、オリバさんについてもう少し深く聞いてもいいですか?」

「ええ。その方が父も喜ぶと思う」

「私、人生の終わりに人が何を考えているんだろうって、結構気になるんです。私はまだ、わからないから。そういうの。そんなに優しかったオリバさんは、一体どういうことを考えていたんでしょう?」


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