境界線
私はサエキさんの言う境界線を見た。
それは、街を包む長い鉄のバリケードだった。
「境界線まで行けば、わかるさ」
サエキさんの言う「境界線」の意味が分からなかったが、サエキさんが見ればわかる、と言うので、私はとりあえずしばらくサエキさんと行動を共にすることにした。
サエキさんとの二人旅が始まった。気がついていなかったけれど、私の格好もかなり「もと女子中学生・浮浪者」になっていた。
コンビニで食料の他に風邪薬も仕入れて飲んだら、だるさは少しずつ収まった。サエキさんは煙草も失敬して、時々休憩の時に吸っていた。
静まりかえった街から、人が姿を見せることはなく、私たちは静かに黙々と歩いた。サエキさんも、私とエリカがこの街に帰ってきたのと同じ日にここに赴任してきたのだという。
サエキさんが上司に拳銃を向けてしまったのは、上司が穏やかな笑顔で《奴ら》の壮大なプランを語り出したのがきっかけだった。彼の話を信じようとしないサエキさんに、証拠を見せてやる、と、息の代わりに口から緑の胞子をはき出す「もと上司」に、サエキさんは迷わず発砲した。
サエキさんの推測によれば、人の体にはそれぞれ個性があって、たとえばインフルエンザが大流行しても、かからない人は絶対にかからない。それと同じで、私やサエキさんのように、偶然《奴ら》に免疫のある人間もいたのだろう。偶然で片づけてしまうのは安易な気がしないでもないけれど、他に説明のしようがない。
だとしたら、《奴ら》は全ての人間を支配することは出来ないはずだ。映画のストーリーなら、やがて人類は反旗を翻して、《奴ら》を倒す武器か何かを開発して、めでたしめでたし、となるはずだ。
それにしても、少なくともここに二人、私たちがいるのだから、この街でまだまともな人間はもっといても良さそうだった。なのに、どうして私たち以外に《奴ら》に乗っ取られていない人間がいないんだろう。
どのくらいの数の人間が助かったのかわからないが、どこかに潜伏しているか、もしくはとっくにこの街を離れたのかもしれない。そういえば、どうして他の場所からこの街に人が入ってこないのだろう。そう思っていた矢先に、その疑問が解けた。それは、町はずれの小高い丘が横にずっと連なり、雑木林の遊歩道になっているところにたどり着いたときだった。丘の向こうには、広い幹線道路があった。その道路を挟んだ向こう側に、「境界線」はあった。
その長いバリケードは、一見鉄の板を並べているようだった。
でも、木の陰から目を凝らしてみると、それは無数の自衛隊か警察の人たちが構えている鉄の楯だった。異様に張りつめた空気が流れているのが、離れていても何となく解った。何しろ、その人達は全身オレンジ色の宇宙服みたいなのを着て、顔には大げさな防毒マスクをかぶっていたのだ。そして、上空をバリバリと音を立てて、幾つものヘリコプターが旋回していた。
バリケードは、街をぐるっと囲むように、幹線道路沿いにどこまでも続いている。
「な、怖いだろ?」
そう言って、サエキさんは私の肩をぽんと叩いた。
「こうやって境界線を張っていたら、自分たちが助かると思っているところがすごい」
私が思ったままを言うと、サエキさんは偉い!と今度は私の背中をどんと叩いた。
「向こうにいる大人達は全然わかっていないか、わかろうとしていないのにな」
「境界線の向こうは、まだまともな世界なの?」
私はそうあることを願って聞いた。
「さあな。命令系統がまだ生きているとしたら、そうなんだろ。でも、ああいう連中は、次の命令が出されない限り現状維持するのが基本なんだ。命令を解除されない以上、このまま何日でも何ヶ月でも、ああしているに違いないのさ」
「あっち側へ行くには、どうしたらいいの?」
「それが、おれにもよくわからん」
「このまま向こうに歩いていったら・・・?」
私が言い終わるより早く、サエキさんは右手の人差し指を私に突きつけて、バァン!と言った。
「殺されちゃうの?」
「前に見たときはそうだったな」
サエキさんはこともなげに言う。撃ってみなければ、それが人間か《奴ら》か見分けがつかないんだそうだ。
「中世ヨーロッパの魔女狩りと一緒だな。火あぶりや水攻めにして、死ななかったら魔女だし、死んだら人間。自分がまだ人間だと証明するために死にに行くかい?」
誰が。私はサエキさんをにらんだ。
「このまま、この街にいたらどうなるのかな」
「原子力発電所みたいに、コンクリートの壁で囲んで街全体を石棺に封じ込めるか、カビを殺す強力な殺菌剤を開発して上空からばらまくか・・・」
「すごい、大がかりな話だね。一体いつになるのかな」
「その前に、向こう側もやられなければね」
そうだ。胞子はいくらでも風に乗って拡散する。結局は、自分に抗体があるかないか、運を天に任せるしかないのだ。
「生き残れるのかな、人類は」
私の口からまるでハリウッド映画に出てきそうなご立派な台詞がこぼれ出た。