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遭遇

 人々がみんな集まると、《奴ら》は一斉にその場に座り込んで、月を拝み始めた。うなだれて、犬のように四つんばいになって。いつの間にか広い駐車場は人でいっぱいになっていた。青白く弱い月光を浴びて、かすかに見える《奴ら》の表情は、無表情なようでどこか恍惚としていた。少なくとも打ちひしがれてはいないし、怒りをためこんでもいない。あくまで安らかで穏やかで・・・、夢を見ているようだった。もしかしたら本当に夢を見ているのかもしれない。ぼんやり開いた目には何も映っていないようだし、誰一人として隣の誰かと口をきくこともない。こんなに大勢の人が集まっているのに、聞こえてくるのは空を渡る弱々しい風の音ばかり。

 ずいぶん長い間《奴ら》がそうやっているので、私にもどうやら《奴ら》が月を神様のように崇めて祈っているわけではないと気づき始めた。そしてようやく私は理解した。《奴ら》は、月の光を浴びているのだ。光合成のようなものかもしれない。月の光によって、カビと人間が融合した、得体の知れない新種の生き物は、何らかの化学変化を行っているのだった。

 それはぞっとする光景だった。緑の胞子の産毛がぼんやりと光り輝き、人々はぐったりしながら静かにあえいでいる。カビと人間と月光が入り乱れて、私はまだしたことがないけど、セックスしているような感じ。吐き気がするほどおぞましいのに、目が離せない。

 見ている内に、じわじわと私の内側から孤独がわき上がってきた。もう、この街の人たちは決して元の姿には戻らないだろう。つまり、私の生活も、二度と戻らない。

 普通の中学二年生の当たり前の生活が、つい十日ほど前まで何の疑いもなく私を包んでいたのに。この生活がなくなってどうなるかなんて、まるでわからない。死んじゃった方がましかもしれない、と本気で思うぐらい、ひどい絶望感が後から後から押し寄せてきた。

 私はようやく通気口の鉄格子をゆっくりおろして、その忌まわしい光景をシャットダウンした。そして倉庫の扉にもたれて、目を閉じて膝を抱えた。


 しばらくして絶望の波がどこかへ行ってしまうと、今度は私の中にふつふつと怒りに似た感情が湧き起こった。私はあんな化け物にはなりたくない。絶対、この街から逃げのびてやる。まだ《奴ら》に汚染されていない街が、普通の人たちが普通の生活をしている街が、どこか近くにきっとあるはずだ。

 エリカのことがちょっと頭をかすめた。もう今頃はとっくに《奴ら》に捕まって、《奴ら》の仲間になっているだろう。そうに決まってるし、その方がエリカも幸福だろう。あんないくじなしの泣き虫だもの。いったん《奴ら》に取り憑かれてしまえば、心は限りなく幸せに、安らかに、穏やかになるに違いないのだから。


 私は、ナップザックに持ち物を全部(ほとんどが缶詰やペットボトル、板チョコなどの食べ物だったけど)詰めて立ち上がった。気は進まないけれど、このままここにいる方が厭だった。倉庫の床下にマンホールがあり、そこから続く真っ暗な下水道を歩くことにした。林間学校の持ち物だった懐中電灯は、折り畳み式の小さなハンドルがついていて、光が弱くなったらそれをクルクルと回すと自家発電する仕組みになっていた。これがなかったら、下水道の中を歩く事なんて出来なかっただろう。林間学校では一度も使わなかったのに、こんなところで役に立つとは思わなかった。

 どこまで歩けばいいのかなど、まるでわからなかった。ただもう、こんな隠れ家なんかにじっとしていても仕方がないと思った。《奴ら》になりたくなければ、逃げ続けるしかないんだ。そう、覚悟というか、確信があった。ここでじっとしていたって、誰も助けになんか来てくれない。

 学校のくだらない授業や宿題や母親の小言なんて、たいしたことじゃないな、とふと考えて可笑しくなった。友達とのケンカやちょっとした行き違い、先生に頭ごなしに叱られたり、くだらないことで男子にしつこくからかわれて厭な想いをしたり、そんなこせこせしたこと全てが、当たり前の平和のためのささやかな代償に思えてくる。

 《奴ら》には学校も職場も必要ない。言い争いも、約束も、裏切りも、何もない。言葉もいらない、勉強もしない、お金も家も必要ない。新しい服やハンバーガーやジェラートなんて、まるでゴミだ。《奴ら》に必要なのは、空気と水と月の光だけなんだ。

 でも、それはよく考えたらこの上ない平和だった。もし私が難しく「人生とは」なんて考えてみることが一度でもあったら、進んで《奴ら》の仲間になっていたかもしれない。だけど私はそんな難しい考えは持っていず、当たり前の生活、朝起きてパンとオレンジジュース、学校、授業中の居眠り、あまりおいしくない給食と昼休み、午後はほとんどノートを取るふりをして友達との交換日記か熟睡、かったるい部活もない友達と帰り道にダラダラしゃべりながらゆっくり過ごす放課後、テレビ、夕食、そしてベッドが必要だった。何も考えずに当然のように受け取っていた全てがある日突然失われてしまっても、私はどうやったらそれを取り戻せるのか、まるでわからなかった。わかるはずもなかった。だから今は、こうして逃げるふりをして漠然と歩き続けるしかないのだった。


 目の前を不意に黒い小さな影が横切った。どきっとしたが、太ったドブネズミだった。この街に戻ってきてから、エリカ以外にまともな生き物と言えば、ドブネズミぐらいだった。さすがにゴキブリやムカデを歓迎するきにはまだなれない。

 犬やネコは、どこへ行ったんだろう。静かな街のどこにも見あたらなかった。そういえば、鳥はどうだったっけ?公園の鳩や、烏は・・・。記憶って意外とあやふやだ。注意していないことはまるで抜けている。

 母親の気味の悪い優しい顔が不意に浮かんで、私はぞっと身震いをした。あんな母親、生まれてこの方見たことない。そうだっけ?私が小さい頃は、もう少し優しかったっけ?笑顔も見せてくれてたっけ?

 あれだけ町中が《奴ら》の手中にはまったのに、どうして私だけ逃げられたんだろう。


 もしかしたら・・・。

 もしかして・・・。

 お母さん。私を、逃がしてくれたの?


 涙でぼやけて、下水道の先が見えない。私は、少し立ち止まって、とりあえず泣けるだけ泣いた。


 体を休めるような場所にたどりつくまで、歩みを止めることは出来なかった。細い下水道は、延々と続くように思えた。私は自分の無計画さにいらだっていた。時々、鉄パイプのはしごがコンクリートの壁に埋め込まれていて、その上がマンホールになっていた。通気口もところどころにあった。何度も、地上に出てみようかという誘惑にかられた。それでいて、地上に出ていく勇気はなかった。

 私はいったい、何のために歩いているんだろう。だんだんわからなくなってきた。何のあてもないのに。ただ抵抗するために抵抗し、逃げるために逃げているみたいだ。

 私がこんなにして逃げて手に入れようとしているのは、それまで大した価値も持たなかった「日常」だった。別に幸せとかそんな風に思ったことはないし、今でも思わないけれど、それがなければ先に進めないのが「日常」だった。進路も未来も、私のこの先に起こりうる全ては、「日常」のレールにきちんと乗っかっているべきものなんだ。

 本当に手に入れたいもの、行きたいところ、やりたいことなんて、何一つ私にはなかった。今の生活にとりあえず居心地の良さをキープしておくこと、それがつまり私にとって生きるっていうことだ。私が私である意味なんてどこにもないし、それは全ての人に言えることだった。たとえば、父親がある日突然いなくなっても、さしあたって私と母親には生活するお金があれば特に支障はないし、父親の働く会社の人だって、とりあえず父親なしでも仕事を回すことは出来るだろう。だから、人一人なんて、積み木のタワーの積み木一つ分ほどの価値もないのかもしれない。積み木なら、一つ抜けばがらがらと崩れてしまうこともあるけれど、人間にはいくらでも代わりがいる。


 ああ、そうだった、もう両親もいないし、会社とかもないんだった。私、何考えてるんだろう。

 暗いトンネル、どこまでも続く、果てしない細い道。生まれてくる時って、こんな感じなのかな。トンネルの向こうにあるのは、まぶしい、当たり前の、ふつうの世界。ああ、そうだったらいいのに。

 ずっと壁に手を置いていたせいか、指先がやたらしびれてきた。肩も凝っている。膝もがくがく。エリカを連れてこなくて良かった。

 通気口から光が差し込むようになってきた。一晩中歩き続けたみたい。もう限界。そう思ったとき、下水道の片方の壁がぽっかりと空いているところに出た。土嚢が積んである。何に使っていたんだろう。何かの工事現場かな。どうでもいいや。私はもう疲れて眠い。やっとたどりついた平らなところで、私は体を大の字にして寝そべった。どぶ臭さなんてどうでも良かった。

 リュックから缶詰と缶切りを出した。最初に手にしたものを食べることにした。ツナ缶だった。缶切りで開け始めると、においをかぎつけたんだろう、あちこちからネズミの影が現れた。

それはどんどん増えて、気がつくと辺りはドブネズミの黒い影でいっぱいだった。私は怖くなった。ツナ缶だけでなく、私まで狙われているような気がした。一斉にひくひく動くネズミたちの髭の真ん中から覗く尖った歯が、自分の手足や顔に食い込む様子を想像して、ぞっとして鳥肌が立った。もうダメだ。私は途中まで開けた缶をなるべく遠くに放り投げた。黒い影が一斉にそっちに走り去る。私はもう我慢が出来ず、コンクリートの鉄はしごをカンカンと音を立てて上り、重い通気口を必死に持ち上げて何とか地上に出た。


 まぶしい朝の光。私、生まれてきたのかな。全部夢だったのかな。私はふらふらと歩いた。誰もいない駅前のバスロータリー。さえぎる物は何もない。でも、私を追いかけてくる人もいない。大丈夫、落ち着け。とにかくどこかで休もう。


 目がさめたとき、私は公園のベンチにいた。自分でここまで来た記憶はなかった。ゆっくり体を起こす。身体中がめりめり音を立てて折れてしまいそうだった。

「お嬢ちゃん、一つもらったよ」

 くぐもった低い声がして、私はびっくりして振り返った。

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