穴から出づる者2
今宵は満月、場所は中晴の自宅の裏山の頂上。穴の前で、中晴と頭が少し禿げ上がっている小太りの男が草むらに座っている。男はビールを飲もうと缶に口をつける前にぽつりと呟く。
「かわいくておっぱいがでっかい女か……。ワイにはどうがんばっても手に届かない存在やな」
「まあまあ、ハゲててもいつかいいことあるよ」
「うっさい」
穴を出てきてからずっとニヤニヤ笑っていた男の顔がついに不機嫌に歪む。触れてはいけない部分に触れてしまったと思った中晴は、自分の軽率な発言を窘めるように右手で口を隠した。男は中晴をジロリと睨みつけている。
「こう見えてもな、ワイにやって彼女がおったんやで、でもちょっとハゲただけでこの有り様や」
「ちょっと……?」
「えっ、ちょっとやろ!?」
「お、おう!」
中晴は男の心情を素早く察しとって同意する。男の落ち武者のような頭部は月の光で照らされていた。
「女って外見にこだわりすぎやー。ちょっとハゲたくらいでなあ……。なあ?」
「おうおう」
「大事なのは外見じゃなくてハートやろ!」
「おうおうおう」
「なんやその気の抜けた返事は」
男の真っ当な突っ込みに中晴は思わず笑みをこぼす。そして草むらに寝転びながら頬に手を当てて楽な姿勢を取り出す。
「おっさんは女運が悪かったんだよ」
スルメイカに手を伸ばしながら中晴は男を慰めた。
「おっさん言うな」
男がぶっきらぼうに返事をしたが、これが真っ当な突っ込みかどうかは疑問の余地が残る。
「その点、俺は女運に恵まれているね。外雨さんって本当に良い人なんだ」
「ほー」
「勉強を付きっきりで教えてくれるし、俺が落ち込んでいるときは励ましてくれるんだよ」
「ハゲ言うな」
「?」
中晴は怪訝そうに男を見つめる。聞き間違えたこと気づいた男は照れくさそうに頭をかいた。
「ああ、何でもない……。勉強か……。兄ちゃん、もしかして受験生か?」
「うん。まあ、一応ね」
「どこの大学に行くつもりなんや?」
「えーと、G大」
「G大か。ここから近くてええよな。学部は?」
「学部?うーん、そこまではまだ考えてないや。でも、どこでもいいかな」
「なんやそれ……」
男は呆れた顔をする。中晴は夜空を見上げながらスルメイカを飲み込んだ。
「今は受験勉強で精一杯で、そんな先のことまで考えられないんだ」
「あー、あったなあ。ワイにもそういう時期が。受験生なんてそんなもんかもな。でもな、兄ちゃん。受験勉強なんて終わってしまえば本当に糞で、何の役に立たない勉強なんやで、だから受験勉強なんて適当にすませて、将来のことをよく考えておき」
「将来かー。どうしようかなあ、将来」
中晴は寝転んだ姿勢をやめて座り直し、腕を組んで少し悩む素振りを見せた。
「なんかなりたいものはないんか?」
「……お父さんになりたいな」
「アッハッハ!お父さんになりたいってお前な!」
しみじみとした顔で呟いた中晴に対して、男は大笑いをした。
「庭付き一戸建て!」
「子供は二人!」
「休日は家族でドライブ!」
「いいよね……」
「ええなあ……」
電灯と月明かりに照らされた裏山の頂上で二人はうんうんと頷く。
「おっさんも再就職がんばりなよ」
「ワイのことは放っとけ。それより、奥さんはやっぱりあの外雨さんなのか?」
「……だったらいいなあ」
中晴は腕を組みながら俯いて耳を赤く染めた。
「だったら?そんな弱い気持ちだと逃げられるで。男はもっと強気でいかな」
「外雨さん、俺のことを恋愛対象に見ていないと思うんだよね……」
「だから強気でいけばええんやって!いつも穴にやりたいことを叫んでいるやろ!その気持ちをその女にぶつければイチコロや!」
「やだよ。外雨さんが傷ついたら嫌だし……」
中晴は首を傾けて目を瞑る。男は中晴の消極的な態度を見てため息をついた。
「はぁ。ピュアやな、兄ちゃん童貞か」
「どどど、童貞ちゃうわ!」
中晴は自分の脛をばんと叩いて反論をする。その反応を見て男はやっぱりな、と納得した。
「で、兄ちゃんと外雨さんってのはどういう関係なんや?聞いた限りじゃ、先輩後輩って感じやけど」
「う?……うーん、ちょっと違うかな。俺の面倒を見てくれた人で……育ての親というか……まあ、お姉さんかな」
「ええなあ。ワイもそんな感じの姉ちゃんが欲しかった。ワイの姉ちゃんはめっちゃ不良でなあ……」
「いや、外雨さんは本当のお姉さんじゃないんだけどね」
中晴はスルメの袋に手を入れながら補足をする。しかし袋はすでに空になっていた。
「それぐらいわかっとるわ。まー、そんな関係じゃあ恋愛対象にはみてくれんやろーな。あっちも後ろめたいと思っているかもしれん」
「でしょ?だからこうやって穴に叫んでるぐらいが互いのためなんだよ」
「バーカ。お前は好きなんやろ?どこが互いのためなんや」
男は手に持っていた缶ビールを口に運んだが、飲み込む音が聞こえない。こっちも空になったようだ。男は舌打ちをして缶ビールの缶を握りつぶす。
「兄ちゃんがピュアで押し倒したくないというなら、それはそれでいいと思う。でも諦めたら駄目やろ?諦める前にやらんといかんことあるやろー?」
「やらないといけないこと……」
「そうや。兄ちゃんが外雨さんのこと大好きっちゅーことをちゃんと伝えておかないとな」
「!!」
中晴は身体に電撃が走ったように目を見開いた。それを見て男はニヤリと笑う。
「諦めるのはそれからでいいやろ?それに、ああやって穴の中に悶々とした気持ちをぶつけるより、よっぽど健全やと思うで」
「そのとおりだ……。ありがとう、おっさん。心のなかのもやもやが一つ晴れた気分だよ」
中晴は何かすっきりしたような顔で穴を見つめた。
「おっさん言うな。ワイにやって親から貰ったちゃんとした名前がある」
「そっか……。俺の名前は中晴快晴って言うんだ」
「かいせい?」
聞きなれない名前を聞いた男はどんな漢字なのだろうと顎に手を当てながら考え込んだ。だが酔って顔が真っ赤になっているのであまり頭は回っていないようだ。中晴は男の悩む姿を見て、夜空に顔を向ける。
「ああ。雲ひとつ無い夜空だから明日も晴れだろうね」
「なるほど、『快晴』か。ええ名前やな」
男は得心して膝を打った。
「おっさんの名前はなんて言うんだい?」
「ワイは……いや……ワイはおっさんでええよ」
「おいおい。ここは名乗る流れじゃないのか」
「ええんや。ワイは名乗れるほど立派な人間じゃないからな」
男は手持ちのリュックサックに飲みきった缶ビールを詰め出した。どうやらこの飲み会も終了の流れのようだ。
「俺も別に立派な人間では無いんだけどね」
「……なあ、これからもこうやって何度か会って話さんか?これからもここには来てくれるんやろ?」
「もちろん。それに、こっちとしてもそれは嬉しい誘いだよ。俺の恋の悩みを聞いてくれて本当にありがとう、おっさん。最初は包丁でめった刺しにしたかったけど、今は感謝でハグしたいぐらいだ。あと、おつまみも旨かったしね」
「そうか、それはよかった」
中晴は立ち上がって屈伸をする。男は地面に置かれているスルメイカの空き袋を掴んでリュックサックに詰め込んだ。
「兄ちゃんとはいつか酒を飲み交わしたいなあ」
「二十歳になったらね。となると三年後か」
「それまで交流が続いてるとええなあ」
「何言ってるんだ、おっさん。俺達はもうマブダチだろ」
「ガハハ」
男は突き出た腹に手を当てて大笑いをし、中晴は腕を組みながらニヤリと頷いている。世の中広しといえども、真夜中の裏山で友達を作るのはこの二人ぐらいだろう。ひとしきり笑ったあと、男はリュックサックを背負って帰り支度をする。
「……中晴の兄ちゃん。今日は本当にいい酒が飲めたよ。久しぶりにがんばろうって気になれたわ。ワイの人生もまだ捨てたもんじゃないな」
「……おっさん、今辛いのかい?」
「ああ、ちっとな。挫折中や。だからこうやって穴の中に隠れて酒を飲んでる。でも今年こそは……」
そう言って男は背を向ける。そして顔だけ振り返った。
「なあ、来年またワイの名前を聞いてくれないか?もし、ワイが再起できたらその時は……胸を張って兄ちゃんに自分の名前を言ってみたいんや」
「その言い方だと、何が辛いかは言ってくれないんだな」
「まあな。これも男のプライドってもんや」
「いいさ、男同士だもんな。お互いがんばろう」
「ああ」
「ではまた、機会があればまたここで」
「おう」
二人は互いに背を向けて手を振った。これで二人の帰り道が同じだったら噴飯物であったが、幸いなことに二人は別々の道を降りていった。