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穴から出づる者

 5月!幼稚園児や小学生が楽しそうに遠足をしていそうな月だ。しかし残念なことに、この小説では幼稚園児や小学生はほとんど出てこない。なぜなら受験生と幼稚園児には接点がないからだ。それでも、昼間に外を出てみれば楽しそうに歩いている低学年の小学生の集団を見かけることもあるだろう。詳しくは書かないが、この小説には何かが足りないと不満を感じている読者はその光景を心ゆくまで想像すると良いだろう。


 この頃の中晴の生活は、朝から晩まで自宅で勉強漬けだった。もちろん中晴の隣には専属の家庭教師がいつもついている。どうやら外雨は本気で中卒の中晴を大学に合格させる気でいるようだ。


 朝八時になると車椅子の彼女が中晴の家にやってきてインターホンを鳴らす。これは授業開始の予鈴みたいなものだ。もし中晴が寝坊して玄関に出てこないようならば、合鍵で無理やり家に入って、ベッドで気持ちよさそうに寝ている中晴のほっぺを突いて起こしてくれる。それでも起きないようなら優しく声をかけてくれるが、最終的には文字通り叩き起こす。受験勉強は朝から勝負が始まっている。寝坊など許されることではないのだ。


 寝坊しない限り、中晴は基本的に朝食を自分で作るが、外雨に起こされた場合は彼女に簡単な朝食を作ってもらったりする。そして昼食と夕食は基本的に外雨が作る。流石にそれは申し訳ないと中晴が料理を手伝おうとすると、そんな暇があるなら勉強をしてくださいと外雨がやんわりと断る。車椅子に座って手足が機械化している彼女であったが、それでも料理をすることはそれほど難しいことではないようだ。補助用の椅子に座りながら楽しそうに料理をして、ときたま中晴の部屋を覗いては怠けていないかチェックをする。こうも至れり尽くせりでは中晴もまじめに勉強をせざるを得ない。


 夕食後の家庭教師は帰ったり帰らなかったりとまちまちだ。中晴の勉強が捗っていれば、自主勉強をがんばってくださいと言って早々に帰宅し、そうでないなら中晴の隣りに座って家庭教師を続ける。どちらにせよ10時までには外雨は自宅に戻る。流石に同棲してまで家庭教師をする気はないようだ。とはいえ、彼女の家庭教師の熱意は並々ならぬものではないことは容易に見て取れる。


 その熱意に応えるために必死で勉強する中晴であったが、ときには解けない問題に苦しみ、解いても解いても増えるばかりの問題集に苦しみ、寝ても覚めても勉強勉強の環境に苦しみ……とにかく彼は苦しんでいた。それでも彼が受験勉強を投げ出そうとしないのは、投げ出してはいけないとわかっているからであり、そして隣に外雨がいるからである。


 だがその外雨もまた中晴を苦しめていた。彼女の教え方が厳しいからではない。もちろんそれもあるが、中晴にとっては些細な問題である。彼女だ。彼女の存在そのものが中晴を苦しめているのだ。具体的に言えば存在というよりは彼女の艶かしい肢体であるが、その体に目を背けたところで中晴の苦しみは変わらない。外雨が中晴に勉強を教えようとするとき、彼女は二人の肩が触れ合うほどに密着してくる。もちろんそれは彼女の熱意の表れであるが、その近すぎる距離が彼を苦しませた。


 さらに外雨は絶妙にスキンシップが多かった。もともと外雨はあまりスキンシップをとるような人間ではないのだが、家庭教師になったおかげでその量が少し増えた。前述の近すぎる距離がまずそれであり、その他にも中晴ががんばって難しい問題が解けたら褒めて頭を撫でる、あまりに長時間中晴が問題集の前で悩んでいたら頬をつつく、などである。彼女からすればそれは円滑に勉強を教えるための行動の一つに過ぎないのであるが、中晴は頭を撫でられたり頬を突かれたりするたびに妙な気分になるのであった。


 その妙な気分を発散させるために、中晴は足繁く裏山の穴に通う。穴に向かって溜め込んだ気持ちを声にして出すだけで気持ちが紛れるのだろう。決して健全とは言いがたいが、多くの同い年が選ぶ発散行動に比べればだいぶ健全であった。



 ************************



 満月の夜の日のことである。その日の勉強もいつも通りであり、いつも通りにムラムラした中晴はその気持ちを抑えるためにいつも通りに裏山の頂上へ向かった。頂上では電灯が一つぽつんと明かりを灯している。上を見上げれば満月が光り輝いており、電灯無しでも草むらの地面がよく見えていた。頂上に置いてある電灯は道中に並んでいる電灯とはデザインが異なっていた。この電灯もダンジョンボスが設置したのだろうか。真相は闇の中である。


 いつものように、中晴は穴の中に身を乗り出して日中しまっていた気持ちを吐き出した。


「かわいいぞー!かわいいぞー!ほんとにほんとにかわいいぞー!うおー!!」

「うるせーぞハゲ!」

「うおっ……」


 穴の下から突然の大声が聞こえてきたので、中晴は驚いて腰を抜かしてしまった。何事かと思ってドキドキしながら穴の下をじっと眺めていると、穴の下から梯子を登ってくる音が聞こえる。思わず中晴は心のなかに浮かんだ疑問を口にする。


「一体誰だ……。地底人かな?」

「ワイや!」


 穴の底からまた声が響いてこだまする。中晴が目を凝らして穴の底をさらにじっと見つめていると、やがて下の方から黒い塊がずんずんと登ってくるのが確認できた。黒い塊は登るごとにハゲた頭頂部に変化していき、そのハゲた頭頂部の持ち主はリュックサックを背負いながら梯子を登ってきていた。中晴は少し後ずさりをする。小太りのハゲた男はついに穴から這い上がってきた。身長は中晴より少し大きいぐらいだが、横にも長いので身長以上の大きさにも見える。男は顔は酔っ払って赤くなっているが、穴を登ってきたせいで少し汗をかいている。


「ふいー」

「マジで誰だ……。なんで穴の底にいるんだ……」

「お前か!」

「何が!?」

「お前かって聞いとるんや!」


 ハゲた男は地面にどさっと座って、リュックサックをおろした。そして中からビールとおつまみを取り出す。

 事情がまだ飲み込めない中晴は恐る恐る男に質問をする。


「だから、何が……?」

「今更知らんぷりを決め込んでも遅いで」

「井戸の底に向かって毎回叫んでるのはお前やろ」

「えっ?いやいや?今日が初めてでございますが???」

「嘘つけ!」


 中晴は平静を保って手を横に振り知らんぷりをしていたが、傍目には図星なのがバレバレだった。


「ワイはのー、たまにこうやって穴の中でじっとしているんや。そうすると心が落ち着いて、今まで見えなかったものが見えそうになる気分になるからな」

「心が落ち着くって……あんた酔っ払っているじゃないか。酔っぱらいが穴の中で賢者気取りかよ」

「今日は満月が綺麗だからいいの!たまたまの酒や!たまのたまたまでワイのたまたまや!ヒック!」


 そう言ってハゲた男は陽気に笑う。


「そんで穴の下で休んでいると、何度かおんどれが穴に向かって叫んできてな。うるさいからいつかぶん殴ってやろうかと思ってたわ。まあ今日は機嫌が良いから殴らんけど、あんた良かったな!」

「何が良いもんか。こっちは恥ずかしくて今すぐあんたを殴り殺したい気分だよ」

「あん?ああーそうかそうか」


 男はさらにニヤニヤと笑う。


「誰にも聞かれたくないことがワイに筒抜けやったもんなあ」

「うわー、本当に殺してえ!八つ裂きにしてやりてえ!」


 中晴は悔しさのあまり地団駄を踏んだ。酒を飲んでもいないのに彼も顔を真っ赤にしている。


「まあまあ、男同士なんやからそう気にするなや。そうや!友情のしるしに一緒に酒でも飲むか?」

「俺は未成年だ。酒は飲めないからこのおつまみを頂くよ。むかついたから返事は聞かない」


 そう言って中晴は男の膝元に置いてあるスルメイカの袋を奪い取ってムシャムシャと食べ始めた。


「おいおい、勝手に食うなや。そのつまみは結構高いんやぞ」


 男は中晴を咎めたが、あまり気にしていないようだった。どうぞどうぞと言うように男はビールをぐびぐびと飲む。


「……で、兄ちゃん。その外雨さんっちゅーのは美人なんかい?」

「知らないな、そんな名前」


 中晴は恥ずかしそうにそっぽを向きながらスルメイカを食べる。不機嫌そうにも見える。男はその姿を見てガハハと大声で笑った。


「だーから、隠しても無駄やって。なんなら穴の下で聞こえたこと、全部聞かせてやってもええんやで。ワイはこれでも記憶力に自信があるんや」

「……あー、外雨さん。あの外雨さんね。うん、うん、俺の知っている女の中では一番かわいいかな」


 中晴はまるで今思い出したかのような素振りをした。傍から見れば滑稽この上ない。男はニヤニヤしながら中晴の膝近くに置いてあるスルメイカの袋に手を伸ばした。


「ほー、それは羨ましい。ワイもいつかお目にかかりたいな」

「酔っぱらいなんかには会わせたくないね」

「ハハハ!じゃー今日は無理やなー!」


 そう言って男はビール缶の中身をぐびぐびと飲み干す。中晴はスルメをもぐもぐと静かに食べている。あたりは急に静かになり、男は急に真顔になった。


「それで、外雨さんのおっぱいはどれくらいや」


 男の唐突な発言を受けて中晴も真顔になる。


「……結構でかい。カップのことはよく知らないけど、あれってDぐらいじゃないかな」

「ええな……ワイも揉みたい」

「も?他に外雨さんの胸を揉みたがる人がいるんだ。危ないなあ」

「だから今更知らんぷりすんなや!兄ちゃんもめっちゃ揉みたがっていたやないか!毎度毎度おっぱいおっぱい連呼しすぎやろ!」


 男は井戸の方向に指を指して中晴の痛い部分を指摘した。まるで他人ごとのように彼女を心配していた中晴は焦り出す。


「俺はそんな下品なこと言わないから!上品に胸をお触りしたいなって言ってるだけだから!」

「胸もおっぱいも一緒やろ!綺麗な日本語でごまかせると思うなよ!」


 中晴は必死になって自分を弁護するが、傍から見ればどちらも最低だ。男はリュックサックを漁って新しいビール缶を取り出して蓋を開ける。また辺りが静寂に包まれる。どこか遠くでふくろうが鳴いていた。

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