王様の耳はロバの耳
午後二時くらいだろうか。外では桜の花びらが舞っている。桜が咲いているのだからおそらく4月だ。『おそらく』という単語を見た読者は「もしや10月なのでは……?」と訝しんでいるかもしれないが、ぬるいお茶でも飲みながら少し落ち着いて考えて欲しい。この小説は恋愛小説であってミステリー小説ではないのだ。地の文の記述にいちいち疑ってしまってはこの小説の本質を見落とす可能性がある。読者は全ての記述を信用して受け入れたほうがいいだろう。
中晴の部屋の壁にはカレンダーがかけられていた。カレンダーのページには大きく4月と書かれている。このカレンダーをどこまで信用するかは読者に委ねるが、まず間違いなく4月といって差し支えないと思われる。
部屋の隣には襖を挟んで居間がある。居間のちゃぶ台の上には少し埃かぶったような本が数冊置かれている。中晴が中学生だった頃に使っていた教科書や問題集だ。きっと押し入れから引き出してきたのだろう。外雨はお茶を飲みながらそれらの教科書をパラパラと眺めている。
外雨はチラリと襖の向こうに目をやった。襖の向こうでは勉強机に座った中晴が死んだ目で数学の問題を解いている。いや、それは『問題を解く』と表現するにはあまりに不適切か。何しろ中晴のシャープペンシルは全く動いていなく、中晴は問題集とにらめっこをしているだけだからだ。外雨は上品な四つん這いでちゃぶ台の前から移動し、勉強机の前のもう一つの椅子に座った。中晴の悩む姿が面白そうにニコニコと眺めている。
「悩んでいるようですね」
「悩んでいます」
中晴はシャープペンシルを捨てて頭を抱えた。
「どこがわからないのですか?」
「どこがわからないのかがわからないんです」
「……」
外雨の顔は残念そうな表情に変わった。やれやれと言いたそうな顔だ。
「中晴君、わからない事自体はいいんですよ。初めて解く問題なのですから、行き詰まって当然です。だから、どこで行き詰まっているのかぐらいは自分で把握して私に教えてください。そこがわからないと私もヒントの出しようがありません」
「わからないものはわからないんだからしょうがないでしょ。外雨さん、模範解答を教えてよ。俺はそれを後で覚えるから」
「駄目です。勉強と言うのは自分で考えるから意味があるんですよ。一見、遠回りのようですが、これが一番効果があるんです。そして、模範解答を暗記するのは近道のようでかなりの遠回りなのですよ」
「俺は遠回りでも構わないよ。出来るだけ楽をしながら学んでいきたいな」
「それならば、問題集の巻末に載ってある解答とにらめっこするだけで十分ですから、私は必要ありませんね。帰ってもいいですか?」
外雨は椅子の上でくるりと回り、中晴に背を向けた。中晴はすがるように彼女を止めようとする。
「ごめんなさい!考えるから……一人だと勉強を続けられる気がしない……」
「でしょうね。私もそう思います」
「自分で考えるか……。でも、これも問題文とにらめっこするだけで効率が悪いと思うんだよなあ」
「にらめっこではなく、考えるのです」
「はいはい」
中晴は腕を組んで目の前の数学の問題集を強く見つめた。そして目を閉じて思考に集中する。しばらくしてやっぱり頭を抱えた。
「全く……。では問題をゆっくりと読み上げてみてください」
「声に出しても一緒だよ」
「私は一緒だと思いませんから、読み上げてみてください。一文ごとに区切って」
「はいはい、では読み上げますよ……。『太郎はこれからシベリア経由で日本からヨーロッパに向かいます。』」
「はい、ストップ。この最初の文章の意味はわかりますね?」
「いや、全然わからないよ。なんでヨーロッパに向かうの?そもそも、太郎って誰さ」
中晴は疑問いっぱいの表情で外雨を見つめる。外雨は困った顔でうーん、と唸る。
「それは問題の本質ではないので考えなくてもいいです」
「考えないでいいのなら、この文章の意味はわからないままだよ」
「いいえ、この文章で大事なのは太郎が日本からヨーロッパに向かうということです。抽象化して考えて見ましょう。まず太郎をXと置いて……」
「Xってのは太郎より大事なの?」
「大事ですよ。どんな人間もXになりますからね」
「そりゃ大事だ……」
中晴は納得したように顎に手を添えて頷いた。
「そして日本とヨーロッパをAとBとします」
「ふむふむ。XとAとBだね」
「中晴君にもわかりやすいように図で書いてあげましょう」
外雨は中晴と肩をくっつけるように身を乗り出して、中晴の筆箱から鉛筆を取り出す。
「こっちの丸がAでこっちの丸がBです。そしてこの矢印がXの向かう方向で……」
外雨が熱心に中晴のノートに図を書き込む。中晴がゆっくりと呼吸をすると甘いシャンプーの香りがした。
「……で、次の文章を見てください。太郎が時速200キロメートルで走ったと書いてありますね?」
そう言いながら外雨はXの隣に200と書き込む。
「そして次の文章では二郎が登場していますから、これをYと置いて……」
外雨は中晴の隣で解説をしながら黙々と図を書きくわえている。ところどころガタガタとしているが、その図は女子特有の丸っこい、かわいらしい外観をしており、中晴がこの図と大人っぽい外雨を見比べてみれば、意外だなという感想を持っていただろう。しかし、中晴はノートのことをすっかりと忘れて外雨の胸元を覗きこんでいた。
(外雨さんって意外と胸があるんだよな。よくもまあ、こんな立派な胸であれだけ動き回れるもんだ……)
中晴は外雨の胸を見つめながらぼんやりと、とあるダンジョンで外雨が剣を持ってスライムをばっさばっさとなぎ倒すシーンを思い出した。外雨が五体満足だったころの姿だ。中晴の想像の中で外雨が空中で三回転しているあたりで、隣から不意に彼女の声が聞こえてきて現実に引き戻される。
「中晴君」
「おおっと、目眩が……」
中晴はとっさに顔を背けて左手で顔を隠す。
「どこを見ていたのですか?」
外雨の表情はむっとしている。
「外雨さんがあまりにも美しいもので、つい」
「それはどうも。でも見ていたのは胸のほうですよね」
「いや、心が綺麗だなってちょっと心臓の方をね……」
「全く……勉強する気はあるのですか?」
外雨は呆れた表情で右手を頭に添える。
「あるよ。外雨さんが挑発的な服装をするからいけないんだよ」
「挑発なんかしていません。少しラフかなとは思いましたが」
外雨は鉛筆で中晴の頬をぷにぷにと押した。どうやらそこまで怒っているわけでもなく、ただただ呆れているようだ。そしてその表情からは若干の心配成分も窺える。
「そんな不まじめな態度では、いつまで経っても大学には行けませんよ」
「ごめんなさい……。反省してちょっと走ってきます」
中晴は椅子から立ち上がって玄関へと向かった。
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中晴の家から少し離れた所に小さな山があった。中晴の家の玄関がある方面を表とするならば、その山は中晴から見れば裏山である。しかしそれは万人の裏山ではない。そう、誰もが中晴の家に住んでいるわけではないのだ。人によってはそれを表山と呼ぶだろう。
これは余談であるが、中国には詩衣と呼ばれる衣の逸話がある。これは着るだけで誰もが素晴らしい詩を作れるようになるという伝説の衣だ。もちろん、伝説なだけあって誰も見つけたことはないのだが、ある中国の皇帝は中国全土を隈なく探しまわってこの衣を手に入れた。皇帝はこれを喜び、自らその衣を着て数々の詩を作ったが、ある日ぱったりと衣を脱ぎ捨てて城の裏山に衣を祀ってしまった。その噂を聞いた詩人たちはこぞって裏山に忍び込んで詩衣を盗もうとしたが、番人に皆捕まって死罪とされてしまった。昔の中国人ならば誰もが知っている『裏山之詩衣』である。この故事が日本に伝わったことにより『羨ましい』という言葉が出来たとか、出来なかったとか。
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玄関を飛び出した中晴は走った。黙々と、一言も喋ることもなく、黙々と。自宅の裏山の頂上を目指してずっと走った。
中晴が裏山の中腹あたりで景色を見渡すと、そこからは色とりどりのたくさんの住宅が見えた。中晴が住んでいる町はこの裏山を中心にして広がっているのかもしれない。中晴が景色を一瞥すると、また黙々と頂上に向かって走りだす。
しばらくしてようやく裏山の頂上に着く。裏山のてっぺんには井戸のような大きな穴が開いていた。この穴の下には昔ダンジョンがあったのだが、中晴と外雨が攻略して宝を全て持ち去ってしまった。ダンジョンボスを倒したことにより、穴からダンジョンに繋がる通路が封鎖されてしまっている今となっては、本当にただの穴である。知らない人から見ればちょっと変わった大きな井戸でしかないだろう。
山を走り登って息が切れた中晴は息を整えるために、座って少し休憩しする。そして、おもむろに立ち上がっては大きく息を吸い込んで、穴に身を乗り出しては轟くような大きな声で叫んだ。
「外雨さんは本当にかわいいなー!ちくしょー!」
穴の中では中晴の声がこだましていたが、穴の外には不思議と響いていなかった。この穴には死んだダンジョンボスの魔力がかすかに残っており、穴の壁が音を吸収していた。ダンジョンボスにとってダンジョンの防音性は必要不可欠である。中の惨状を外に知らせること無く、間抜けな人間たちをおびき寄せ続けたいからだ。
中晴は穴に向かって大声で叫び続ける。
「なんで女の子の髪の毛ってあんなにいい匂いがするんだろうなー!」
「外雨さんの胸触ってみたいなー!触りまくってみたいなー!」
「どんな反応するんだろうなー!気になるなー!」
ひと通り叫んで満足した中晴は雑草が生えている地面に寝転んで空を見上げる。
「俺……絶対大学に落ちるだろうな」
「落ちたら外雨さんは悲しむのかな。怒るのかな。失敗はいい経験になるって言ってたから許してくれるかな……」
青い空には雲が浮かんでいた。中晴はなんとなくクリームパンが食べたいと思った。
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中晴が家に戻ると外雨が腕を組んでほっぺたを膨らませて待っていた。どうやらだいぶ怒っているようだ。
「反省すると言って二時間も走る馬鹿がどこにいますか!?そんな体力があるなら勉強してください!」
「いや、別にずっと走ってたわけじゃないけど……でも、やっぱり、ごめんなさい」
中晴は柄にもなくシュンとした表情で謝る。意外だったのか外雨は拍子抜けした。
「今日の中晴君は謝ってばっかりですね。らしくないですよ、一体どうしたのですか?」
「えっと、その……やっぱり俺には、こう……受験勉強は難しいというか、似合わないというか、才能がないというか……無理というか……。これはちょっとやるだけ無駄かな、と」
中晴は落ち込んだ格好で言い訳を始めていた。
「なんだ、そんなことでくよくよと悩んでいたのですか。中晴君ならば、ちゃんと真面目にしていれば大丈夫だと思いますよ」
「そうやっておだてても駄目だって。だって、中学生の問題すらロクに解けないんだよ。俺は本当だったら高校三年生なのに、頭は中学生並、もしかしたら小学生未満だし……」
「まあ、確かに……さっきは小学生並だとは思いましたが……」
外雨は頷きながら同意した。それを見て中晴は少なからずショックを受ける。
(あっ、そこは否定しないんだ……)
しばらく呆然とする中晴を眺めていた外雨だったが、やがて落ち着いた口調でなだめるように喋り始めた。
「そこまで落ち込む必要は無いですよ」
外雨の言葉は続く。
「数学の問題の前では小学生と一緒だとしても、中晴君には誰もが認める魔術や体術の実力があるではありませんか。魔術が出来るということは自然の論理が理解できるということ、体術が出来るということはどんな辛いことにも諦めない強い意志を持っているということ。そして、ダンジョンハンターとしては既に一流です。これだけの才能を持っているというのに、なぜそこまで自信を無くすのですか」
「でも、魔術と学校の勉強は全然違うし……」
「いいえ、全く同じです。見た目は全く違いますが、どちらも本質は論理的な謎に過ぎないのです」
「そうかなあ……」
「中晴君」
椅子に座っている外雨は中晴の右手をそっと掴んで自分の前に引き寄せる。そしてその右手を両手でそっと包み込んだ。
「中晴君のことは世界の誰よりも私がよく知っています。その私が大丈夫だと言っているのだから、それで納得してくれないでしょうか?」
「外雨さん……」
「だから、今は辛いかもしれませんが、じっと耐えて勉強してください。もう少ししたら、その学ぶ辛さが、学ぶ楽しさに変わりますから……。そういうふうに私はがんばって教えていきたいですから、中晴君もがんばってください」
「……」
外雨に説得されて自信を取り戻したのか、中晴の瞳には光が戻っていた。
「わかった。今は外雨さんを信じてがむしゃらに勉強してみるよ。落ち込むのは大学に落ちてから好きなだけすることにする」
「よかった。私の目が届くうちには中晴君を落ち込ませたりなんかしませんよ。合格するまで付きっきりで勉強させますからね」
「ありがとう……。じゃあ勉強の前にもうひとっ走りしてくるね」
「え」
自信を持って部屋の外に飛び出す中晴。外雨はそれを止めることも出来ず、呆気に取られながら彼の後ろ姿を眺めてしまった。もちろん中晴の行き先は裏山の頂上である。頂上にたどり着くと、やはり中晴は少し休憩をとってから穴に向かって大声で叫んだ。
「外雨さんいい人すぎだろ!ちくしょー!」
「そしてやっぱりやっぱりかわいいなー!」
中晴の声が穴の中でこだまし続ける。裏山の頂上は中晴の秘密のスポット。ここでならどんな気持ちも誰にも聞こえることなく発散できる。
だが上の文章には誤りがある。声が穴の外に逃げないので確かに秘密の処理には最適だが、穴の中はどうだろうか?
穴の下のさらなる下で何者かが中晴を睨んでいる。鬱陶しそうに彼を睨んでいる。気持ちを外に出す以上、誰かに知られることを完全に防ぐことなど絶対にできやしないのだ。