プロローグ
老魔法使いジルフは途方に暮れていた。
帝国の筆頭宮廷魔法使いの地位にあり、人間族としては当代一とも賞賛される彼だが、できる事とできない事がある。
皇帝の命を受け異世界へとやってきたのはいいが、このままでは使命の達成が危ぶまれる。
「もし、そこの者――」
目の前を通り過ぎる女に声をかけるが聞こえていないかのように通り過ぎていく。事実聞こえていないのだろう。思わず後ろから肩を掴もうとしたがそれも叶わない。肩に触れることもなく女の身体を手が通過したからだ。
先程からと同じ事の繰り返しだ。
これだけ大勢の人間がいながら、誰もこちらを認識することはなく、こちらから干渉することもできない。
ジルフは知る由もないことだが、ここは平日の東京の通勤時間帯。
誰もが会社や学校といった各々の目的地に向けて忙しく歩いている。
「しかし、この世界には人間族しかいないのか?」
帝都でも見たことがないほどの多数の人間が忙しなく行き来しているが、エルフやドワーフといった亜人がひとりも見当たらない。
これほどの大都市でそれはジルフの常識ではありえないことだ。
疲れから壁に寄りかかるように座りながら、ジルフは目を細めて街並みを見やる。照りつける太陽が眩しかったからだ。
季節は初夏。
梅雨に入ったばかりで、久しぶりの晴れ日だが湿度は高い。
道行く人間たちはジルフからしたら変わった服装をしているが、異世界なのでこちらでは当たり前の格好なのだろう。
逆にジルフのようなローブ姿の人間は一人としていない。暑さからと、どうせ周りからは見えていないので袖を捲くっているが、筆頭宮廷魔法使いがする格好としては相応しくないだろう。
この世界に来てから既に2時間以上が経過している。
6時間が経過すると強制的に元の世界に引き戻される。時間の余裕はない。再度この世界に来られる保証はないし、来られるとしても相当な代償が必要になる。
今回でも大量の高純度の魔石と、帝国の国宝ともいえる古代帝国時代の遺産まで使ったのだ。失敗は許されない。
懐から手の平大の石を取り出しジルフは表情を固くする。
黒い石だ。太陽の光を受けて光ることもなく、それどころか光を侵食するかのような邪悪さとそれに相反するような神聖さが僅かに混じり形容しがたい風格を纏っている。
この石に導かれて跳んだ先がこの世界だ。そのせいで苦労している。だが、たしかにこの世界なら相応しい器がいるだろう。
もっとも、このままではなんの意味もない。もし失敗したらと思うと胃がキリキリする。
ため息を吐き、ジルフはうなだれた。
これまでも異世界に跳んだことはあるが、今回のようなことはなかった。問題なくその世界に実体化できた。
今のジルフはいうなれば幽霊のようなもので、だからこそ誰も気づかないのだ。普通ならローブ姿の老人が道に座り込んでいたら大抵の人は目をやるだろう。
「くそ、こんなことは前例がない……よりによってなぜ今回こんなことに」
通常なら魔法によって実体化するのだが、そのための魔法が使えないために未だに実体化できていないのだ。
魔法が使えない理由は分かっている。大気中にマナが全くないのだ。本当にこれっぽっちもない。その上、世界の法則が尋常ではないぐらいに強固だ。
魔法とは術者の魔力と大気中のマナを結合させ、それによって世界法則を一時的に変形させることで術者の望む現象を発生させる技術だ。
だがこの世界はジルフが知るいかなる世界と比べても、否、比較にならないほどに強固な世界法則によって構築されている。仮に大気中にマナがあったとしても、この世界で魔法を使える自信はジルフにはない。
まるで世界そのものが魔法など不要と排斥しているかのようだ。
これでは魔法を使うことは不可能に近い。例外があるとしたら、それこそ神かそれに準ずるほどの力を有する存在が、その莫大な魔力で無理やり行使する場合だろう。
無論それは極めて非効率なやり方であり、大量の魔力を消費するにも関わらず魔法の効果は著しく低くなる。
だからこそ、この世界では魔法が使われていないのだろう。
この世界の人間族たちは黒髪が多いことを除けば見た目はジルフの世界の人間族とほとんど同じだが、保有する魔力はとても人間族とは思えない。
これだけ多くの人間たちの全員がジルフを大きく上回る魔力を有しているのだ。
ジルフとて伊達に帝国の筆頭宮廷魔法使いであるわけではなく、人間族でありながらエルフや魔族にも負けないほどの魔力がある。人間離れしているとすら言われていたほどだ。――ならばこの世界の人間はどうなるのか。
まるで人の形をした竜や精霊が当たり前にそこいらを歩いているかのようだ。
確かにこの世界ならいるだろう。ジルフの世界や、これまで知られている世界にはいなかった器の候補が。
残された時間は4時間を切っている。どうにかして方法を見つけなくては――。
決意も新たに身体を起こそうとした時だった。
「うお、なんだ何かのコスプレか?」
声に顔を上げるとそこには若い男がいた。
男は怪訝な顔をしてこちらを見ている。爺さんのコスプレとは初めて見た。いや、もしかしたらどっかの民族衣装か……とよく分からないことを呟いているが、ジルフはそれどころではなかった。
圧倒的だった。
男の保有する魔力はこの世界の他の人間族と比べても抜きん出ている。まるで過去に一度だけ見た古代竜や上位精霊にも匹敵、あるいは上回っているのではないかとすら思えるほどの魔力。
何よりこちらが見えている! ということは――。
「お主、私のことが見えているのだな?」
「え? いやそれは当たり前だと思うけど……」
コイツだ! これ以上の者など他には――この世界なら探せば他にもいるのかもしれないが――とにかく残された時間で出会える保証がない以上、選択肢はない。
何より石も目の前の男を求めているのを感じる。
「すまんが立ち上がるのに手を貸してくれないか?」
穏やかな表情を心がけて男に頼む。男は戸惑ったようだが、少し迷ってからおずおずと手を差し出してきた。
礼を言いながら男の手を握り、立ち上がる。やはり触れる。ならば問題ない。
ジルフが皇帝より命じられていたことは器の捜索だ。そう、いまジルフがもう一方の手で持つ石に封じられている――邪神の。
邪神は自らの復活に協力し、相応しい肉体を用意すれば力を貸してやると皇帝に告げ、皇帝はそれを受けた。
神がそれに相応しい肉体を得て力を振るえるならばまさに無敵だ。その力を持って覇道を征く。それが皇帝の望みだった。
邪神としても人間たちの世界に大した興味はなく、自分を封じた神々への復讐こそが目的なので互いに利害が一致していたがために協力関係が成立した。
また、邪神と呼ばれているが、真実邪悪な神であるとは限らない。敗者が悪く語られるのは世の常だ。それは神であっても変わらない。この石に封じられている神もかつては神界にあって主神に次ぐ地位にあった高位の神だった。それが現在の主要な神々に追い落とされ、今ではこんな石に封じられている有様だ。
そんな古神に皇帝は共感し、それが邪神との協力体制を築いた一因ではないかとジルフは予想しているが、真実は分からない。また、どうであれ大した違いはない。
しかし、邪神の器に相応しい者などそうそういるわけもなく、こうしてジルフが異世界まで来ることになったのだ。
「ありがとう、助かった」
「あ、いえ別に大したことでは。それよりもう手を離して――な、なんだ!?」
召喚のための魔法陣が青年の足元に出現する。同時に邪神の封印石から黒い霧のようなものが流れでてきて青年に襲いかかった。
気の早いことだ。元の世界へ召喚してから支配すればいいものを。僅かな間も惜しむかのように青年を乗っ取ろうとする邪神にジルフは苦笑した。
この世界ではジルフには魔法は使えないというのは先程も述べたとおりだ。
ならばどうするのか。
これも先に述べたが神と呼ばれるほどの力があればこの世界でも魔法は使えるのだ。もちろん大規模な魔法は難しいだろうが、召喚の魔法は然程高度なものではない。
ただし、召喚した対象を支配するにはそれ相応の力がいる。また、自分より上位の存在を召喚しようとしても拒絶されてしまうのが大半だ。
この男は明らかにジルフより上位の存在だ。魔力は比べるのが間違っているほどに差がある。
当然ながら召喚しようとしても拒絶されるだろう――通常なら。そして召喚者がジルフならば。いや、邪神といえども封印されているのだ。これほどの魔力の持ち主ならば、あるいは邪神による召喚にすら抵抗できるかもしれない。
しかしながらこの世界の住人は有り余るほどの魔力がありながら、魔法を使っている様子が全くなかった。
道を行き交う鉄の車を当初は魔導具の一種かと思ったが、しばらく観察しても魔力をまるで感じることはなく、更にこの世界の魔法を排斥しているかのような有り様から理解した。この世界の人間たちは魔法を知らないのだ。
それも当然だろう。大気中にマナがなく、強固な世界法則が魔法の発動を妨げる。これでは先天的にどれだけ魔力に恵まれていても魔法が発達するはずがない。
いったいこの世界の創造神は何を考えていたのだろうか。こんな世界では神の力ですら制限されるというのに。それともこの世界には神はいないのか。そんな世界が存在するとは想像すらしていなかったが、神のいない世界とはこのような世界ではないかとも思える。
いずれにせよここで重要なのは目の前の男も魔法を知らないということだ。
そして、召喚も魔法であり、魔法を知らないなら拒絶する方法も知らないということだ。
過去にも優れた力を持ちながら、魔法を知らないために抵抗できずに異界より召喚された種族があった。巨人族と呼ばれるその種族は、元の世界に戻ることもできずに現在は辺境に暮らしている。
召喚の魔法陣はいよいよその輝きを増し、とうとう黒い霧が青年の顔に覆いかぶさった。
やれやれ、一時はどうなるかと思ったがこれで役目は果たせそうだ。もっとも元の世界に戻ってからはまた忙しくなる。
もはや目の前の事態から興味が失せたジルフは、未来のことに考えを巡らせる。実際もうジルフにできる事はない。召喚も支配もすべて邪神によって行われるのだから。
よって、この後に起こったことはジルフにはどうしようもないことである。
青年を覆っていた黒い霧が何かに弾かれたように飛び散り、召喚の魔法陣にひびが入ったのだ。
◆
さて、ジルフ誤算があったとしたら、第一にこの地球がある世界が神の力ですら制限するような世界であったことだろう。そのせいで邪神の力も制限され、青年を支配するのに時間がかかってしまったのだ。
更にジルフはこの世界に神はいないのではないかと考えたようだが、この世界にも神々は存在している。ただし、他の世界のように現世に介入することなく、人間や他の動植物を静かに見守っているだけではあるが。
そのような神々であるが、自分たちの世界の人間に非道を働こうとするよその世界の神に好き勝手は許さない。
邪神が青年を支配しようとした時、この世界の神々の力により邪神の支配は妨げられ、更に召喚の魔法にも妨害が行われた。
このまま行けば召喚は失敗し、青年は何事も無く元の日常に戻れただろう。
しかし、この世界で力を制限されていたとしても邪神はまぎれもなく神の一柱であった。
この世界の神々の妨害にダメージを負ったが、それが邪神の怒りを誘発し、消耗を考慮せずに力を絞り出し召喚を続行させたのだ。
この世界で青年を支配しようとしても神々の邪魔が入る。ならば自分たちの世界に連れてきてから支配すればいい。
単純ながら間違ってはいない理屈。
異世界に連れ去られてはこの世界の神々の力でも邪神の支配を防げないだろう。この世界の神々はいずれも強大な力を有していたが、だからこそその力を抑えているのだ。
この地球がある世界が神の力をも制限するのもそのためである。
もしも神々が全力で異世界に介入しては、その世界に多大な被害を与えるだろう。
流石にひとりの人間を助けるためにそれは許容されない。大多数の異世界の人間たちには何の咎もないのだ。
たったひとりのために無関係の大多数を犠牲にするというのは神という立場では許されない。少なくともこの世界の神々はそう考えている。
だからこそこれが異世界に連れ去られようとしている青年にしてやれる精一杯である。召喚が完成する直前、神々はその加護を青年に与えた。
この世界の人間たちは他の世界よりも大きな素養をもって生まれてくる。だが、その大きな力が人間たち自身に害を及ぼすと考えられたために魔法やそれに類する力は与えられていない。
そのようなものはなくとも生きていけるし、進歩できる。現に人間たちは自分たちの知恵でもって文明を築いてきた。
神から力を与えられ、それに依存していては自立しているとはいえないだろう。神々は自分たちの子供たちに自らの足で立つことを望んだのだ。
まだまだ人間たちは成熟しているとはいえないが、少しずつ進歩している。自分たちの力で困難を乗り越えられると信じている。
だから、今まさに異世界に連れ去られようとしている青年とて簡単に負けはしない。そのための手助けもする。
この時与えられた神々の加護は邪神から身を隠すもの、万が一補足された場合に邪神の支配から守るためのものが大半だ。永続的なものではないが、青年が成長するまでの間彼を守ってくれるだろう。
能力的な強化は僅かしか行われていない。この僅かな時間では簡易的な加護しか与えられなかったためだ。この世界は神の力を制限する。それはこの世界の神であっても例外はない。そのためだ。
本来ならもっと力を与えてやりたかったが、簡易的な加護ではこの世界の人間に大した力は与えられないので仕方ない。
だが、神々はそのこと自体は大きな問題ではないと思っている。
何故か?
その必要がないからだ。
神々は笑う。異世界の者共よ、自分たちがどんな世界に手を出したのか身を持って知るだろう。なあ青年、目にもの見せてやれ。
「うわあああああああああ――!」
もっとも異世界に連れ去られる青年としては、神様助けてくれよと思うだろうが。
神の期待に応えられるか否か――それはこの先で語られることである。
初めて書いた作品です。
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