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上書き保存

作者: さわ

 男の恋は新規保存、女の恋は上書き保存。そう聞いたことがある。

 それならば、わたしはさっさと上書きしなければならない。こんな忌々しい恋など忘れるために。


 ベランダに出る。視界に広がるのは人気のない公園。街灯の明かりが暗闇にぽつぽつと浮かんでいる。

 右手にはひんやりと冷たい金属の感触がした。余計なことを考えないうちにそれを握りこんで、大きく振りかぶる。そして、


「先輩のバーカ!」


 ――投げた。

 これでお別れだ。すべてと決別するのだ。すっかり夜が更けたせいでどこに飛んでいったかはわからないけれど、きっともう見ることはないだろう。――なんて思っていたら。


「いってぇ!」

「ええ!?」


 男の人の声。

 まさか、当たった? いやいや確率的に考えてありえない。そんな人がいたらついていなさすぎる。いや、この場合逆についている?

 じっと暗闇に目を凝らす。少し離れた街灯の近くにうごめく人影を発見した。

 その人はきょろきょろとあたりを見回したかと思うと、こちらを向いた。

 しまった。部屋の電気つけっぱなしでベランダに出てたら目立つよね。


「坂井ィ!」


 怒鳴られて、とっさにベランダの柱の陰に隠れる。


「わざとか坂井真美ー!」


 坂井真美、わたしの名前だ。

 なぜ知っているのだろう。ご近所さんに当ててしまったのだろうか。

 おそるおそる、顔だけ覗かせてその人物を観察する。

 下はジャージで上は半袖シャツ。梅雨入りしたばかりの夜の格好としてはちょっと肌寒そうだ。

 視線をそろそろと顔まで上げる。暗くてはっきりとはわからないけれど多分黒髪、ちょっとつり目でむすっとした表情をしていて――あれ?


「畑野?」


 隠れるのをやめて、ベランダの柵に身を乗り出す。

 こくん、と彼は頷いたのだった。






 大学に入学して浮かれていたことは否定できない。

 サークルに入って知り合った、気になっていたちょっとかっこいい先輩に告白されて舞い上がったことも素直に認める。

 女の子の扱いに慣れていて若干の胡散臭さは感じたけれど、「せっかく大学生なんだから恋しなきゃ!」という友達のよくわからない後押しもあって付き合うことになった。


 しかし、わたしが感じた胡散臭さを、わたしの勘を、信じてやるべきだった。

 付き合って一週間も経たないうちに、やたらと向こうから来ていたメッセージが来なくなった。少し鬱陶しく感じていたけれど、いきなりやむと寂しくなったりもする。友達は「それが駆け引きなんだって!」と恋のなんたるかを説いてくれた。

 付き合って三週間も経たないうちに、先輩が大学構内で女の子と手をつないでいるところを見かけた。友達は「やきもちやかせたいだけだって!」と微妙な励ましをくれた。

 付き合って一ヶ月も経たないうちに、サークルの他の先輩から「あいつ浮気してるよ」と教えてもらった。手をつないでいた女の子と浮気していたらしい。友達は「浮気は文化なんだって!」とどこかで聞いたような言葉をくれた。


 さすがにもう黙ってはいられなかった。

 別れましょう、とわたしは先輩に切り出した。

 しかし先輩は首を縦にふらず、わたしに誠実に謝った。少なくともそのときは誠実に見えた。そしてわたしはほだされてしまった。


 それからの一週間はきちんと付き合っていた、と思う。メッセージも復活した。

 けれど、ある日ぱたりとメッセージがやんだ。

 やはり先輩は浮気をしていた。


 別れましょう、とわたしは同じ言葉を伝えた。二度あることは三度あるのです、と添えて。

 先輩は真剣な表情で、三度目の正直だ、とわたしを説得した。その日に指輪を贈られて、今度こそはとわたしも思ってしまった。


 しかし、二度あることは三度あったのだ。



「しかも! わたしが振られたの。『いちいち浮気がどうのってうるさい』って。三回目の浮気が発覚したからわたしが呼び出したのにー!」


 もう先輩なんか信じない。そして友達の言うことにももう耳を貸してやるものか。


 わたしの愚痴を、畑野俊輔はむすっとした表情で聞いていた。わたしの話が不愉快だからではなく、黙っているとこういう表情になるのだ。

 彼は中学の同級生だ。会うのは卒業式ぶり。いまはわたしと同じ大学一年生で、野球部に入ったとか。そこは中学と変わらないけれど、丸刈りから流行の髪型になっただけでずいぶんと印象が変わったように感じる。


 畑野は憤懣やる方ない様子だったので、わたし達は近所のファミレスで話すことにした。わたしが投げたものが、ランニング中の畑野の頭に直撃したらしい。笑える。

 最初の方こそ畑野は痛いだの非常識だのとわたしを責め立てたが、「それは先輩のせいで」とわたしが話を切り替えると黙った。というより黙らせた。ちょうど愚痴を言う相手が欲しいところだったから。


「だからってなんでこれを投げるんだ」


 そう言って畑野がテーブルの上に置いたものを見て、わたしは顔をしかめた。


「うそ、拾ったの? 捨てたのに」


 銀の指輪。二回目の浮気発覚のとき、先輩がプレゼントしてくれたものだった。


「危ない捨て方すんな」


 眉間に皺を寄せて、畑野はコーラをすする。

 わたしはオレンジジュースの入ったコップを掴んで、意味もなくストローで中身をかき混ぜながら「だって」と呟く。


「もう見たくなかったの。それに、さっさと忘れたかったし。女の恋は上書き保存って聞いたことない? 次の恋にいきたいの! そんなの持ってたら運気下がりそう」


 手を離すと、ストローはぐるぐるとコップの中を回った。氷はからからと音をたてて、同じようにぐるぐるぐるぐる。

 忘れてやるのだ、あんなやつ。早く次の恋を見つけて、綺麗さっぱり忘れたい。


「今すぐ忘れなくたっていいんじゃね? すぐ忘れられないだろうし」

「いや。忘れる」

「まだ好きだって思ってんじゃねぇの」


 真正面からそう言われて、言葉に詰まった。


 浮気されても、今度はちゃんと付き合えるかもしれないと思うくらいには、しっかり好きだった。

 今日だって、また謝られるんだろうなとか、どう怒ろうとか、ほだされないようにしようとか、でもほだされるのかなとか、そんな風に考えていたのだ。でも、本当に、いろいろな意味で裏切られた。

 悔しくて情けなくて、じっとしていられなくて、目についた指輪を捨ててしまうことにした。


「忘れなくていいんじゃね」

「え?」

「忘れてまた同じようなやつにひっかかるのも嫌だろ」


 そう言う畑野のむすっとした表情が和らいでいる気がして、わたしは少し驚いた。

 わずかに口角が上がり、眼差しは暖かくて。いつの間にこんな表情ができるようになったのだろう。


「それにこれ、売れそうだからとっとけ」


 にやりと笑って畑野は指輪をこちらに寄こす。

 先程の珍しい表情は消えてしまった。


「……うん」


 小さく笑って、わたしは指輪をバッグに入れた。畑野に励まされるなんて、変な感じ。でも決して不快ではなくて、それどころか。


「あのね、次の恋は探すから、上書き保存で勝手に消えることはあるかも」


 そう宣言すると、畑野は目を丸くしたあと破顔した。


「前のやつよりいいやつならアリだ」

「いいやつかはじっくり見極めるよ」

「おー。じゃあ、そろそろ帰るか」


 家を出た時間が九時くらいで、それからずっと話し込んでいたから大分遅い時間になっているだろう。バッグの中の携帯電話を確認しようとして、ふと気づく。


「お財布持ってくるの忘れた」

「じゃあ、失恋したお前におごってやるよ」


 伝票を取って、畑野は立ち上がった。ランニングしていた畑野に手荷物はない。お財布も持っていなさそうだ。

 首を傾げたわたしに、畑野はおもむろにポケットに手を突っ込んでじゃらじゃらと小銭の音をさせた。ポケットに小銭だけ入れていたのか。ドリンクバーしか頼んでいないから、それで足りるのだろう。

 それなら、と思いつく。


「今度なにかおごる。愚痴にも付き合ってもらったし」

「ちゃんとした店でよろしく」

「しょうがないな」


 割に合わない気もするけれど、おごるついでにどこかに引っ張っていけばいいか、と思案する。いつか行こうと思いながら行けなかったデートスポットが結構あるのだ。

 オレンジジュースを一気に飲み干して、わたしも立ち上がった。溶けかけの小さな氷が、コップの中でからんと音をたてた。

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