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ナツキトリコ  作者:
第一部
8/41

第7話 私立探偵『ナツキトリコ』

 第7話 私立探偵『ナツキトリコ』


「おっはよー! ……あれ? 穂奈美〜梨子は?」

「おはよう未来。机の上にカバンはあるから学校には来てると思うんだけど……」


 穂奈美はぐるっと周囲を見回して、


「教室にはいないみたい」

「ふーん、なんか用事でもあったのかな?」


 その頃、私は――


「き、来た! 沢北君が来た……!」


 5組の教室に面する廊下へとついに姿を表した沢北春。いつも通り友人と見られる男子高校生と一緒に登校。


「そ、そうだ! 仲の良い友達についても調べとかないといけないんだった!」


 昨日のファミレスでのやりとりを思い出す。

 二人の観察を続けていると、彼らは7組の教室の前で足を止めた。そして少し言葉を交わした後、沢北君でない方の彼は教室の中へと姿を消す。


「なるほど……友人の彼は7組なのね。後でチェックしとかなきゃ……!」


 そして沢北春は一人5組の教室へと向かう。


 一人、一人だ……これは……チャンス?


 もちろん話しかけようなどと考えているわけではない。


「あぁ! もうよく見えない! あの窓枠が邪魔!」


 そもそも私はこうして教室棟とは反対の実習棟の廊下に身を隠しているのだから。

 さすがに朝のHR前のこんな時間から家庭科室やら書道室やらに用事のある生徒はいないようで、私は誰の視線を怖れる事もなく、万全の態勢で沢北春の訪朝ならぬ訪校を待ち構える事ができた。


 言えない。実は30分以上も前からここでこうしているなんて……そんなこと誰にも言えない……


「えぇっと……ズームはどうするんだっけ……?」


 昨日の夜、お父さんの部屋からこっそり拝借してきたこのバードウォッチング用の双眼鏡。勝手に持ち出すのは少し気が咎めたけれど、まさか事情を説明するわけにもいかない。

 私が鳥でなく、クラスメイトの男子を観察するために双眼鏡を……と知れば、お父さんきっと泣いてしまうだろう。

 まあ一日くらい借りたところで壊したりしなければきっとバレもしない。

 沢北君が5組の教室に入ってしまう前になんとかその姿を鮮明にこの眼に焼き付けたい!

 私は双眼鏡についているダイヤルらしいものを手当り次第回してみる。


「うわっ!」


 急に視界が肌色一色で埋め尽くされた。どうやらズーム調整のダイヤルを探り当てたようだ。


「でもこれじゃ、近すぎっ……!」


 視界から沢北君の肌色が外れぬよう必死に追いかけながら、ダイヤルを少しずつ戻す。


「こ、こんなくらいかな?」


 ようやく顔全体が確認できる程度にまで倍率を下げることに成功。どうやらさっきのどアップは頬のあたりを拡大していたようだ。

 さて、改めて沢北春を観察する。

 この角度からでは横顔しか確認することが出来ないのだが、彼と目が合うことを怖れて直視することが出来ないいつもの私から考えればそれで十分、二十分だった。


「あっ……左目の下にホクロ……みっけ」


 私がその日のHRに遅刻したことは言うまでもない。



 沢北春メモ その1 朝


 ◯朝は結構ギリギリの時間に登校する

 ◯登校は7組の友人(要素性調査)と一緒

 ◯7組から5組の教室までは一人で歩く

 ◯歩く姿は颯爽としていて素敵

 ◯左目の下にカワイイホクロ

 ◯名倉君の5万倍くらいカッコいい


 ********


「梨子ー朝どこ行ってたのー? カバン置いてるくせしてHRには遅れて来るし」

「あぁ、いやあちょっと用事が……」


 言えない! 向かいの棟の廊下から沢北君ウォッチングに精を出していましたなんてとても言えない!


「梨子ちゃん……何か隠してない?」

「梨子最近隠し事ばっかり! つまんない!」

「ごめんごめん……」


 やっぱ二人には勘付かれるよね……


 授業中も私は沢北君の観察を続けた。

 ……とはいってもやっぱり沢北君を直接見ることできないから情報収集源は主に音声のみ。

 私は精神を研ぎ澄まし、沢北君の声が含まれる周波数帯域のみを選択的に受信出来るように可聴域を調節する。要するに聞き耳を立てる、だ。

 しかしもちろんあの優秀な沢北君が授業中に無駄話などするはずも無く、私の聴覚が拾うのはもっぱら教壇に立つ先生の低周波ノイズばかりであった。


 こりゃ期待薄だなぁ……


 と希望の灯が消えかかっていたその時、何とも思いがけず幸運が訪れる。


「じゃあ……沢北君。そのページ、章が終わるまで読んで」


 なんと沢北君に教科書音読の任が下る。ありがとう、先生!


「はい」


 英語の教科書を手に立ち上がった彼は、しっかりと間を置いてからゆっくりと朗読を始めた。

 大き過ぎず、また小さ過ぎもしない。この教室の音場環境を正確に理解した音量。

 澱み、滞りの全く無い流れるような発音は、まるで春の小川をそこに見つけたかの様。

 10行にも満たない文章の、たった数十秒間の出来事であったが、私は彼の口から発せられる魔法の言葉にすっかり心を奪われてしまっていた。


「……らぎさん、聞いてますか? 柊さん」

「……へ? はい!?」


 そしてそんな私の目を覚ましてくれたのは、白馬に乗った王子様でも何でも無く……


「次、お願いします」


 先程まで仏のように崇めていた先生の、非情なご指名だった。




「しっかし、アレは笑ったよー。あまりに梨子が気づいてくれないもんだから、逆に当てた先生の方が困ってたもんね」


 昼休み。私は『沢北春メモ』に英語も上手い、完璧。と書き加えて、こうして梨子や穂奈美と昼食をとっている。


「梨子ちゃんって意外と抜けてるよね?」


 ううう……普通こういうのってお嬢様キャラの穂奈美が担当するべきポジションじゃない?

 可愛くて、優しくて、しっかりしてて……ってそんな何でも揃いの穂奈美。これで勉強も出来たら神様、私ホント怒るよ。

 あーでもきっと頭も良いんだろうな……


「あ、未来、穂奈美ちゃん、今日ヒマ? 私美味しそうなスイーツバイキングの店見つけたんだ。良かったら行ってみない?」

「お! 行く行くー! 乙女たるもの、甘いものを喰わずしては生きてゆけぬぞ! スイーツスイーツ♪」

「穂奈美ちゃんは?」

「そうね……夜はバイオリンのお稽古があるから帰らなくちゃならないけど、ちょっとだけなら」


 バ、バイオリン……さすがというべきか、やはりというべきか。


「でも……梨子ちゃんいいの?」

「うん、今日は大丈夫! みんなに隠し事しちゃってるお詫びもしたいし」

「いいよー梨子ー私は甘いものが食べれたらもう何も気にしないさー♪ 例え梨子が日本の秩序を脅かすCIA工作員だったとしても、私は何も聞かないさー♪」

「いや、未来、さすがにそれはない……」


 そう、今日の放課後は特に何の予定もなかった。

 昼休み以降名倉君と交代になる沢北君の取材の動向が気にならないでも無かったが、まあ私がヤキモキしたところで彼の仕事がはかどるわけでもない。

 時間的にはもう監視は引き継いでくれているはずだけど……彼の事だ、きっとどこかで何かやってくれていると信じよう。


 そんな事を考えながら未来達と談笑を続けていると、私は教室の後ろの扉から一人の男子生徒が入って来るのに気付いた。


 噂をすればなんとか……だ。いや、あくまで私の脳内シナプス間での、ごく狭い共同体内での噂話にすぎないのだが。


 入口のところで足を止め、左右をキョロキョロと見回している彼は誰かを探している風である。


 私……かな?


 いや、でもそれはない。なるべく校内での接触は避けようと昨日約束したばかりだ。

 不用意な行動は周囲のあらぬ誤解を招くというお互いの経験が導き出した共通解だった。


 ……ってことはまさか沢北君に直接……!?


 しかしそんな私の動揺を知ってか知らずか、彼は一度私と視線を交わすと全く別の生徒の所へと近づいていった。

 私はほっと胸を撫で下ろす。


 あれは……中津君? 知り合いだったのかな?


「梨子……あれ確かキミの助っ人君だよね? へぇ〜ウチのクラスに知り合いいたんだ」


 未来は私の視線の先にあるものに気づいたようで、物珍しそうにその様子を眺めている。


「み、みたいだね、私も知らなかった」

「梨子ちゃんに用があるんじゃなかったんだ……残念?」

「こ、こら! そんなんじゃないから!」

「ほーらあんまり大きい声出すとまた沢北君に笑われちゃうぞー」

「! ……バカ」


 どうやら私は彼女達の間でいじられ役としての地位を確立しつつあるようだ。


 ********


「おーい、中津ー」

「おお、名倉かっ! 久々だな!」


 中津は同じ中学出身で三年のときのクラスメイト。数少ない友人の中ではわりと親しい方だったのだが、卒業以来会う事も無く同じ高校に進学していた事さえすっかり忘れていた。

 だからさっき教室前に張り出されている5組の名簿を眺めていて、そこに旧友の名前を見つけたときは思わず懐かしい気持ちになったものだ。


「悪いな、すっかり同じ高校に通ってる事を忘れてたよ」

「いや、俺もお前が結局何組に入ったのか知らなくて顔出せなかったんだ」


 久々の友人との再会にしばらく近況を語り合った後、俺は本題に入った。


「で、だ、中津。話は変わるがこのクラスの沢北ってやつとは仲良いか?」

「ああ沢北? 取り分け仲が良いってほどじゃないけど、あいつ誰にでも人当たりいいからまあ軽く喋ったりはするぞ」

「なるほど……人当たりが良いとな……」


 俺は頭の中に素早く情報をメモしていく。


「沢北がどうかしたのか?」

「ここだけの話だ……あいつ実はとんでもないシスコンだったりしないか?」

「は?」

「スーパー運動音痴でもいい。あ、実は女だったとか? ……いや、でもさすがにそれは色々とマズイな……」

「名倉……お前が沢北をどんな人間に仕立て上げたいのかは知らんが、俺の知る限り、あいつに姉妹はいないし、スポーツマンだし、れっきとした雄だ」


 中津に肩を掴まれる。


「だよな……」


 やはり沢北は普通の人間らしい。小説の登場人物としてこれほど面白くない事はないが、まあ変な噂を聞かないということは梨子にとってみれば何よりも有難い情報だろう。


「なんだ? お前、沢北をライバル視でもしてるのか?」

「いいや、むしろ興味の対象とでも言うべきだな」

「名倉……お前そっち側の人間だったのか……」


 肩におかれた中津の手に一層力が込められる。どうやら勘違い甚だしい同情をしてくれているようだ。


「言うな、何も……」


 まあこれはこれでなかなか面白いシチュエーションなので、あえて訂正せずに話を合わせておく。

 その内何か話のネタにでもつかえる日がきっと……いや、来ないか。


 それにしても……


 ちらと沢北の方に目をやる。これは確かになかなかの美形である。

 よりにもよって誰が見ても男前と認めざるを得ないこの男を好きになるなんて、梨子も相当な面食いであるというか、身の程知らずというか……。

 いや、梨子の方もあれはあれで意外と男子に一目を置かれる存在だったか? となればこの二人の組み合わせもそう不自然ではないことになるが……


 違うな。


 俺は一人かぶりを振る。


 それは梨子のあの内面のダメっぷりを無視した上に初めて成立する仮定。

 とてもじゃないが今の梨子には越えなければならない壁がまだ相当数残っている。

 とりあえずこの場はそこで幕引きとし、残りの取材はまた放課後へと引き継ぐことにした。


 ********


「おい、お前昼休みどこ行ってた?」


 6限終了後、放課となる前に全校生徒には15分の掃除が課せられる。

 これは義務だ。義務には従わなければならない。そこはさすが西高といったところだろう。

 全校生徒は可及的速やかに自分の持ち場へと移動し、一言の不満も洩らさずにただ黙々と与えられた責務を全うする……はずなどもちろんなく。

 いくら進学校といえど、所詮高校生は高校生。入学式も終わり一週間も経てば、根っからの不真面目な奴は徐々にその頭角を現してくる。

 俺と絵里もダークサイドの筆頭構成員だ。

 俺達は先生の目を盗み見て(そもそも掃除の監視などする熱心な先生などいないのだが)、教室のベランダから中庭を見下ろし軽くサボタージュを決め込んでいた。


「ああちょっと用事だ」

「……またあの女のところか?」


 そう尋ねる絵里の声が少し怒気をはらんでいる気がする。どうも絵里はこのところ機嫌が悪い。


 あれか? 男が口にすると即セクハラに値する、女子特有のあれか?

 まあ考えてみればこいつも女だもんな。いくら男みたいに振る舞っていたところで、絶対的な身体の女性的性質には抗えんか……


「違う、男だ」

「悪い……私は何も聞いていない」

「待て、聞け。お前は限りなく『絶対』に近い確率で誤った判断をしている」


 どうしてこうも人間という生き物は想像力が豊かなんだ?


「そうだ、お前今日暇ならちょっと付き合え。実は前から行ってみたいところがあってな……」


 そして次の瞬間にはあっさりと俺の話は流されている。

 この無茶苦茶な話題の転換も女子特有の性質だというから、よかった、絵里もやはり女ではあった。


「悪い、今日は用事がある」


 生憎俺はこれから沢北の下校に付き合わなければならない。付き合うといっても、それはもちろん勝手に付きまとうわけだが。


「……そうか」


 その時俺は不思議な物を見た気がした。


 暗く、淋しそうな目をする絵里。

 何でだろう。別に用事に付き合う、付き合わないとかそれこそ今まで何百回と繰り返して来たことのはずなのに、なぜかその時だけはとても悪い事をしてしまったような気がした。

 気がしてしまって俺は……


「あ、明日ならいいぞ! 明日はずっと暇だ!」


 得意でもない愛想笑いなんかもして、どうにか絵里の機嫌をとろうと試みた。だけど絵里は、


「いや、別に大した事じゃない。いい」


 どこか物憂げな表情を残したまま、教室の中へと戻っていった。


 おかしい……


 いつもなら「当たり前だ!」とか「ふざけるな! どうして私がお前の都合に合わせなくちゃならん!」とか、憎まれ口の一つや二つ飛んできそうなところなのに、今日の絵里はやけに静かだった。

 

 なんていうか……張り合いがない。


 絵里の後姿を目で追う。


 ――あいつは今何考えてるんだろう?


 そしてハッと息を呑む。


 何考えてるん……だろう……?


 俺はそんな自分の疑問に驚いた。

 絵里の考えている事がわからない自分に驚いた。俺にとってそれは信じられないくらい衝撃的な事実だった。

 絵里が何を考えているか、それを理解するのは掛け算の7の段をそらんじるより簡単なことのはずだった。

 特別それがすごい事だとは思わなかったし、幼い頃からずっとそうだったからいつのまにか俺達にとっての当然、自然ってそんなもんだと思っていた。

 幼馴染ってそんなもんだろ、そんな風に考えていたのだ。

 だから俺は余計に驚き、戸惑っていた。

 絵里の考えが読めない事の違和感に。


 ――俺達は変わってしまったのか?


 絵里が俺の知らない絵里になってしまう。理解出来ない存在になってしまう。赤の他人になってしまう……。

 そう考えただけで背筋がすうっと冷え、全身の肌が粟立つのを感じた。

 言いようのない不安に襲われる。


 変わったのはあいつか? ……それとも俺か?


「バーカ……そんな事考えてる場合じゃねえよ……」


 そうだ、俺には引き続き沢北の素性を調査するという大事な任務がある。今こんな事に気を取られていては――


 大事な……任務……?


 絵里の後を追って教室に戻ろうとしていた足がまた止まった。


 果たして俺がそう呼ぶこの遊びにも似た行為は、親友で幼馴染の絵里との付き合いよりも大事なことなのか?


 俺にとって本当に大事なことって……なんだ?


 わからなかった。

 俺はもう自分の考えている事すらわからなかった。


 ********


 それでも俺は下校中の沢北を追跡するという当初の計画を結局変更しなかった。


 事前の調べによると、沢北は毎朝学校まで自転車で通学しているとのこと。

 そしてその情報通りターゲットはたった今自転車にまたがって駐輪場から出てきた。すかさず俺も自転車でその後を追う。


 ボンの自転車で。


 明日は自分でノートを取るという条件で、今日一日尾行手段としてボンの自転車を借りる事にした。

 もちろん自転車の使えないボンは自宅までの3キロ近い道のりを歩いて帰らないといけないわけだが……そうか、明日の朝も歩いて登校しなければいけないのか……まあそこは俺も自分に痛みを課すという交換条件付きで無理矢理ボンを説き伏せた。

 日米和親条約並みの不平等条約ではあるが。


「よし、行くぞ!」


 沢北を見失う事はつまるところこの作戦の失敗を意味する。

 そのため俺は物陰に隠れるだとか、十分に距離を離して追尾するとかそんな回りくどい方法をとっている余裕はない。

 そんな事をしている間に万が一沢北に撒かれでもしたらそれこそ元も子もない。

 そこで今回俺が採用した案はむしろ奴の前に堂々と姿を晒すことだった。名付けて灯台下暗しストラテジー。

 信号待ちなどの際はあたかも「いや、お前が俺の帰る方に行くだけだから」的なオーラを発しつつ、何食わぬ顔で隣に自転車を並べる。

 そう、心に隙をみせてはならない。

 不安や緊張といった類の負の波動は必ず日常生活空間との間に何らかの齟齬を生む。つまり、不審に思われる。

 あえてそこにいることを主張するのだ。そうやって積極的に存在を認めさせる事で、真に世界と調和する事が出来る。

 世と調和した存在はいわば空気となるのだ。空気のように自然だ。

 そして自然な空気である俺を、もはや沢北は気にするはずもない。


 長い下り坂にさしかかる。


 ん? そういえば以前どこかで同じような自論を唱えた覚えが……


 沢北車はどんどん加速する。

 くっ、離される訳にはいかない。こちらも負けじとペダルを漕ぐ。漕ぐ。


 そこで俺は思い出した。

 ああ、その時はとんでもない失敗に終わったんだ。

 待てよ、ということは……?


 次の瞬間、突如沢北車が俺の視界から消えた。

 いや、正確には急停車したのだ。

 てっきり坂を下りきるものだとばかり考えていた俺は、当然ながらブレーキをかけるのが遅れ、遅れた上にすっかり気が動転して、動転してハンドルが無茶苦茶にとられたもんだから、こけた。そりゃもう派手に。


 ガシャーン! ……カラカラカラ……


「つっ! いててて……」


 体ごとアスファルトに投げ出され、近くを歩いていた買い物帰りのおばさんから悲鳴が上がる。

 俺は痛みをこらえながらなんとか立ち上がった。

 よかった、とりあえず生命は維持しているようだ。

 どこか身体の一部が失われてないかと全身を見回してみたが、奇跡的にほとんど外傷は無いようだった。転倒した際についた右手の平の擦り傷くらい。

 しかし……自転車は5メートル先で無惨に死んでいた。


「ご、ごめん! 大丈夫!?」


 後ろから慌てたように沢北が駆け寄って来る。


「馬鹿野郎! 死ぬところだったぞ!」

「いや、まさかここまで派手にこけるとは思ってなかったから……でもやっぱり君、僕を追ってたんだね」


 くっ、やはりバレてしまったか……! というかこんな罠をかけられるという時点で最初から勘付かれていたということになる。

 空気論=死亡フラグの流れにもっと早く気づいておくべきだった……!


「でも……何の用だい? 見たところ、僕の知ってる人じゃないようだし……?」


 うっ、何と説明したものか……。

 まさか俺の正体を、この計画の全貌を明かす訳にはいかない……こいつだけには絶対知られてはならない事なのだ。

 しかし、では今現在のこの状況をどう説明する?

 どう説明すればこいつは疑うことなく、それ以上追及することなく、事態を収拾することが出来る?

 どうすれば? 一体どうすればっ!?


 そして軽いパニックに陥った俺は、気づけばとんでもないことを口にしていた。


「す、好き……そうだ! 俺は、お前の事が好きだ!」


 なんと、あろうことか俺は梨子より先に沢北に告白してしまったのだ。

 やってしまった……。

 だ、だが、人が人をこうも人アルマジロ、違う、人あるまじきストーキング行為を行使してまで追うことに、他に一体どんな理由が考えられる!?

 ……ああこの日をもって俺の人生は本当に終わったな。


「……ごめん。悪いけど僕、なんていうかその、君の期待に応える事は出来ないよ」


 しかし沢北はどこまでも真摯で、紳士だった。


 や、やめてくれ! あっさりと断ってさっさと帰ってくれ!

 同情されると余計惨めになるだろうが……! そもそも全然期待なんてしてませんから!


「僕はやはり女の子が好きな人間で、男の子をそういう目で見ることだけは出来そうもない。だけど、君が僕をそう思ってくれるのは素直に喜ぶべきことだと思う。そうなんだ、形は違えど人が人を愛するという行為は崇高で、この上なく美しい事に変わりは無いのだから。もし僕の今の答えを十分理解した上で、それでも僕を好きでいてくれるというのなら、僕は君と是非友達になりたい。友達、という別の愛のあり方で構わないというのなら、僕はむしろそんな君と積極的に友達になりたい。……どうかな?」


 ……こいつ、なんて良い奴なんだ!!


「よ、よろしく」


 差し出された右手を、つい俺は照れながら握り返してしまった。

 そんな経緯で俺と沢北は晴れて友達になったのでした。めでたしめでたし。……ん?


 その晩、電話で事後報告を行った直後から、俺の携帯番号はいよいよ梨子の拒否リストに登録されることとなる。


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