最終話(第40話) 『ナツキトリコ』
最終話(第40話) 『ナツキトリコ』
「やっぱりちゃんと来てくれた」
少しばかり強過ぎる横風を身体に浴び、代わり映えのしない街並みをぼんやりと眺め下ろしていると、私は背中越しに彼の気配を感じた。
「柊さん……」
彼の歩みがはたと止まる。そしてしばらく待ってみても、彼はそれ以上近づこうとはしなかった。最後に聞こえた足音から察するに、おそらくまだ10メートルほど後方に彼はいる。
……そっか。
これが私と沢北君の今の距離。もう私達は以前のように馴れ合う事は許されない。二人を隔てる、この十分過ぎる程空けられた間隔が、彼の覚悟であり、ケジメなんだろう。
……そうだよね。
頭では理解していたつもりでいたのだが、心の何処かで『もしかしたら……』に期待していた部分もあったのかもしれない。しかし彼が築き上げたこの絶対不可侵領域を前にして、私は沢北春という人間の鉄のように硬い意志を知り、そんな淡い幻想は簡単に打ち砕かれる。
……いいの、これで。
諦めと納得の入り混じった苦笑いを空に向かって投げかけると、私はようやく後ろに向き直った。
「嘘は似合わないよ、沢北君」
それでも彼は来てくれた。別れを告げられたあの日は何を聞いてもごめんとしか言わなかった彼が、今はまた私の誘いに応じてくれている。
ほら、やっぱり話す事あるんじゃん……バカ。
昨晩、私は沢北君にメールを打った。
『明日はちゃんと学校に行きます。少し話をしよう? 終業式のあと、HRが終わったら屋上で待ってるね。』
そのメールに返信は無かったけれど、彼は今日ちゃんと私に会いに来てくれた。それはつまり、彼の方でも何かしら話すつもりがあったということ。そうでなければ、あの日のあの別れで私達は十分だ。二度も同じ辛さを味わう必要はない。
……これはちょっとした賭けだった。そして結果は私の勝ち。
「アメリカ……行っちゃうんだって?」
来てくれたはいいものの、俯いたままだんまりの彼に私は優しく声をかける。
そんな怖い顔しないでよ……別に沢北君を責めようなんて思ってないから。
「聞いたんだね、名倉君に……」
その言葉をきっかけに、固まってしまっていた彼の頭がゆっくりと持ち上がる。そして両の瞳が私を捉えると、能面のようだった彼の顔がパッと表情を取り戻す。
「はは……どうして言ってしまうかな? そりゃ反則だろう」
氷の仮面を剥ぎ取り、再び笑顔を灯らせた彼を見て、私はぐっと胸に込み上げてくる物を感じた。
――ああ、私はこんな風にする彼が好きだったんだ。
少し首を傾げ、『ね?』と同意を求めてくるかのような微笑み。楽しさを、可笑しさを、私と一緒に共有しようとしてくれる彼のさりげない優しさ。だから私はいつだって幸せだった。自分の分と沢北君の分、二倍の幸せを感じられた。
まだそう昔の事ではないのに、遠い過去の、懐かしい記憶のように思い出を振り返らなければならないのが悲しかった。
終わったのだ、あの日々は。私はそれを早く認めなければいけない。
「嘘をついてごめん。本当は僕はまだ柊さんの事を……」
「言わないで!」
私は彼の言葉を遮った。
駄目だよ……それ以上言われちゃ、私はきっとまた駄目になる。じっとしていられなくなる。この距離を一気に詰めてしまいたくなる。
「ううん、言わないで。私、わかってるから。これが沢北君の出した一番の答えなんだって、信じてるから」
どうしたって結果は変わらない。変わらないなら知らない方が良いことだってあると思う。いいや、本当はもうわかっちゃってるんだけど、それでもやっぱり想像するのと、彼の口から聞くのとでは重みが違う。圧力の次元が桁違いだ。
もう揺らがないようにと必死に頭を冷やし続けたこの数日間。ようやく固まりかけた気持ちの整理を、一瞬にして突き崩されそうな予感に私は怯えた。
「違うの。今日はちゃんとね、お別れをしに来たの」
そうだよ、沢北君。私は貴方の意に沿うつもり。沢北君の考えをちゃんと理解して、あれは沢北君一人の判断だったんだって後から責任を押しつけてしまわないよう、私は今日この決意を伝えに来た。
ほっとけばきっと沢北君は全部一人で背負ってしまう。私の事を気遣って、その重荷を一人で抱えこもうとする。だけどそれじゃなんか淋しいよ。二人の問題だよ? 二人で等しく分け合おう? そうすれば私達はお互い引け目を感じる事もなく、きっちりと今を清算して、それぞれに違う明日に進んで行ける。
そういうことなんだよね? 沢北君の描く未来って、そういうことなんだよね?
「沢北君、今までありがとう」
私はその言葉に遍く全ての想いを乗せた。ありったけの感謝と共に、今日の空のようにどこまでも透きとおった満点スマイルを目指した。
彼の事だ。多くを語らずとも、きっとこれだけで十分に私を理解してくれるだろう。
「柊さん……礼を言うのは僕の方だよ」
申し訳なさそうに顔を歪める彼。
ほら見ろ。ちゃんと伝わった。
「ううん」
私は首を振る。
「これもお互い様だよ。悪いのは沢北君じゃない。沢北君のお父さんでもない。誰も悪くない。何も悪くないんだよ。私達はただそういう運命だったって、それだけのこと。仕方ないんだ、きっと」
悲しいけど、短過ぎる別れだけど、辛いことばかりが後に残るわけじゃない。私はそれを見落としていた。そしてその事に気づかせてくれた人が――いる。
「だけど……これだけは約束して」
「……約束?」
彼の問うような視線に対し、私は大きく息を吸った。肩幅に開いた足をしっかりと地につけ、両手はぎゅっと握りしめ、そして、
「絶対に帰って来てね!! 私だけじゃない、皆待ってるから!!」
馬鹿みたいな大声を出した。空気がビリビリと震え、正面の彼は驚いて目を丸くしている。
遮る物も何もない、ほんの10歩分ほど先のところに彼はいるのに、それでも私は地球の裏側まで届かせるくらいのつもりで想いを放った。
この約束を、遠いアメリカの地でも彼がちゃんと思い出せるように。
「何年経っても沢北君の居場所はここにあるから!! その頃はもうお互い別の恋人がいるかもしれない……だけど絆はずっと繋がってるよ!! 沢北君言ったよね? また皆で旅行いこうって? 待ってるよ!! 私も、未来も、穂奈美も、名倉君も、来栖さんも、ボン君も、加西君も、皆で沢北君の帰りを待ってるからっ!!」
言い終わると、後には波を打ったような静けさだけが残る。
これだけ大きな声で叫べば、無限に思えるあの空の彼方だって、少しくらいこだまを返してくれそうな気もしたのだけど、さすがにそれは無理な願いというものか。
私はこの手で修正した。悲惨な末路を辿るはずだった私と沢北君の物語を、ほんのちょっぴり都合の良いように改竄してみせた。
まあ事実としては何も変わっちゃいないんだけど、要はそれを受け取る精神の在り方。同じ別れを否定的に捉えるか、肯定的に捉えるか、それだけの違い。でもこの違いは大きい。考え方一つでこうも人は救われる。
「……ハハハッ! これは早く帰って来ないと怒られそうだ」
そして、私の言葉を聞いた沢北君が大きく口を開けて笑う。声を上げて笑う。
最後に見た彼の笑顔は、私の記憶の中で一二を争うくらいに眩しくて、本当に、腹の底から彼は笑っていたのだ。
「うん、わかったよ。僕は必ず西高に戻ってくる。三年以内だ。皆が卒業してしまう前に必ず戻ってくる。そしたら皆でもう一度旅行に行こう。またあのコテージでもいい。約束するよ、絶対だ」
そう言い置いた彼の強い口調はおそらく自分に言い聞かせるためでもあったのだろう。この約束を忘れないよう、彼にとってもまた、私達との出会いは少なからず意味のあったものに違いない。大切なものであったに違いない。それがわかって私は嬉しかった。
きっと私のことだって……
自然と笑みがこぼれた。
そして、彼は旅立った。去って行く彼の背中は、どれだけ強く風に煽られようと凛としていて、颯爽と自分の道を突き進むその後ろ姿に、私はまた静かに憧れを抱くのだった。
――ああ、そうか。だから彼は『春』なんだ。
私は今ようやくその事に気づいた。
春は強くなければならない、優しくなければならない、美しくなければならない。春の訪れは生きとし生ける者の全てへ等しく慈愛を与え、彼らの希望とならなければならない。その意味で沢北春はまさしく春そのものだった。
きっと私は桜の季節が来る度に何度でも思い出すのだろう。時期外れに人知れず咲いた一輪の柊の花に、そっと寄り添ってくれた暖かな春の事を。あの日掲示板の前で小さく芽吹いた、真っ白い花のように無垢だった恋心を。
彼の姿が見えなくなる。別れの挨拶はしなかった。
『さよならは言わないよ。また会えるから』
なんてどこかで聞いたようなセリフこそ吐かなかったものの、おそらくまあ彼はそんなつもりだったのだろう。
「さて……と」
最後に一波乱あった私の物語もこれでなんとか一段落。さすがに一件落着、無事解決、とまで割り切る事は出来ないが、それでもまあ禍根を残すような結果にならなかっただけでも今回は良しとしておこう。
結論から言わせてもらえば、辛酸っぱく、めちゃ苦い経験をしたわけだが、これも青春の内だ……なんて強がりを言えるようになるのはまだまだ先の事だろうか。だけどおかげさまで色々と学ばせてもらったこともある。思い残す事はあっても、後悔は無い。
今日はもう家に帰って休もうか。昨日はあれこれ悩み過ぎて寝れなかった分、どっと疲れがたまっている。いや、それとも未来達を誘ってパーッと盛大に…………なんてね。
「えーと……この続きはなんだったっけ?」
私は諦めたように首を振ると、カバンの中からすっかりお馴染みクタクタキャンパスノートを取り出す。
「なになに? ……『日本を発つ前に無事柊梨子との再会を果たした沢北春は、その思いの丈を伝えると、満足そうな笑みを浮かべ彼女の前から姿を消した。去った後もしばらくそこに彼の残像を見続けていた柊梨子だったが、ようやく肩の力も抜け、ほっと息をつこうとしたその時、屋上には入れ替わるようにして一人の男が現れた。――それは彼女の良く知る人物で、彼の登場によって今、この物語はもう一つの大きな結末を迎えようとしていた。』か……なんだこれ? なんかのナレーション?」
私はひとり顔をしかめる。もはや小説の片鱗も残さぬその内容に意地汚くケチをつけていると、
ザッ、ザッ……
靴底で地面を擦るような物音に、私はノートに落としていた視線を上げた。
「……おおっと、宣言通りだね。ってかこのタイミング……盗み聞きしてた?」
私の目の前には、仏頂面のやけに不機嫌そうな男が立っていた。
知っている。この男は本当は機嫌が悪いんじゃない。ただ人一倍光に弱くて、屋外では目をいっぱいに開けられないだけなのだ。
「違う、人聞き悪い事言うな。沢北が降りて来るのを下で待ってたんだよ。軽く挨拶もしておいた。その……一応友達だからな」
「そっか……うん、良くできました」
友達――その言葉が男のイメージに合わなさすぎてなんだか滑稽だった。
「で? どうしてここから先はセリフが書かれてないのかな?」
私は手に持ったノートをもう片方の手の甲でコンコンと叩く。
「……自分が話す内容をわざわざ書いて教える奴がいるか」
「ふーん、私と沢北君の分はご丁寧に一字一句用意してあったくせに……ってか私もう普通に話せるから必要無いって言ってたじゃない。なんか馬鹿にされてるみたいで腹立ったから全部違う事喋っちゃった」
「お、お前! 人の苦労を何だと思って……」
目の前の男は眩しそうにしながらも、さっきより少しだけ大きく見開いた目で私をキッと睨みつける。
「まあまあ」
しかし私は別段慌てる風もなく、余裕の表情でそれをなだめすかすのだ。
「じゃあそろそろ聞かせてもらおうかな? これから名倉君が私に見せてくれる『もう一つの結末』とやらを」
そう、男の名は名倉夏樹。
友達は少ない、勉強は出来ない、愛想は悪いの三拍子。筋金入りの恋愛小説オタクで、三次元に恋できない超ド変態。そのくせモデル並みにスーパー可愛い幼馴染がいて、星に詳しいちょっとお洒落な一面と、たまにドキッとするような優しいところがあって……なんか色々ずるい。
そんな彼が今日は私に一体どんな結末を用意してくれたというのだろう?
「それはだな……」
「なになに?」
不意に口ごもり目を逸らした彼を少し訝しげに思いながらも、私は冗談半分わざとらしく耳に手を当て、ぐいと顔を近くに寄せる。
――そして最終章の幕は下ろされた。
「好き……なんだ」
「……え?」
「俺はお前の事が好きなんだよ、柊梨子」
「!」
最初の『え?』は聞き間違いかと思った分。だけど二回目ははっきりと名指しで告げられた。
驚いた私は思わず彼の顔をまじまじと見つめてしまう。正気かどうかを確かめる。
目はイッてない。変なクスリをやってる風ではなさそうだ。
「ちょっ、待って! 何言ってるの……? 名倉君、私リアルだよ? 現実の女の子は好きになれないんじゃなかったの?」
知らない人が聞いたらどれだけひどい言われ様だろう。だけど今は言葉を選んでもいられない。そんな気遣いできる余裕なんてないくらいに私は驚いていた。
「それはどうも克服されたみたいでな。実を言うと自分でもつい最近までその事に気づいちゃいなかったんだが……」
そう言って彼はすぐ横の落下防止用フェンスに背中からもたれかかる。手で庇を作って鬱陶しそうに太陽の光を遮ると、少し落ち着きを取り戻した様子で遠く、あらぬ方を眺む。
……ってこの局面で落ち着くなっ!
今度は私がいてもたってもいられなくなる。
結局いつだってそう。彼の言動に振り回されるのは決まって私。沢北君とドラマチックな別れを成し遂げた今日くらいは、何が起ころうと鷹揚としているつもりだったのに……
「でもっ……なんで私? 来栖さんは?」
「絵里は違う。俺が好きなのはお前だって言ってるだろ? 梨子」
平然とそんな事を言う。
恥ずかしくないわけがない。ただでさえ夏の熱気で火照った身体が、本当に火でもついたのかと思うくらい熱くなる。急に汗が吹き出してきて、おそらく今頃目も当てられないくらい真っ赤に染まっているはずの顔面を、私は必死に手で仰いで冷ます。
好き? 名倉君が……私の事を……?
それはほんの数ミリも予想しなかった展開だった。飼ってた犬が実は猫だった、ぐらいの衝撃。
「だけど……どうして?」
そしてやはり何度でも訊いてしまう。これが訊かずにいられるだろうか?
名倉君は女の子に興味が無いと言っていて、来栖さんというスーパービューティーと何やら良い感じで、私は私で沢北君の事が好きで、ちょっとイチャイチャしたりもしていて……ずっとそういう構図だったはずだ。画に描くと凄く単純で、サルでもわかる人間関係。いや、さすがにサルにはわかって欲しくない気もするけど……
「理由……そうだな強いて言うなら」
彼は寄りかかっていたフェンスから背中を浮かせ、ようやく自分の足で体を支えたかと思うと、それでも私に向き直ろうとはしなかった。恨めしそうに天上の火の玉を見つめ、不意にそれに腕を伸ばすと、今度は手の平で覆い隠すようにしてしまう謎の動作。
……この人本当に私と話してる自覚あるんだろうか?
そんな疑問さえ湧いてくる。
「……例えば日曜の午後に街を歩いていて、ふと通りかかった喫茶店のディスプレイに偶然目が行ったとしよう。何の気なしに端からメニューを眺めていった俺は、思いがけず苺のパフェを前にして立ち止まる。照明をキラキラと乱反射させ、宝石のように照り輝く大粒の果実は、それだけで見る者の喉を唸らせるのに十分で――」
「『これを食べるなら是非お前と一緒がいいと思った。だから多分俺はお前が好きだ。』」
彼が言い終わらぬ内に私はその言葉を途中から引き継いだ。そしてそれが出来てしまったことの意味するところを知り、がっかりする。
「……ストロベリー・ラブだよね、それ。ユウがサキに告白するシーン」
「まあそんな感じだ」
彼は特に悪びれる様子もなく、相変わらず私より太陽にご執心のよう。
「そんな感じって……一世一代の告白まで小説の受け売りで済ますなんてどういうつもり? しかも名倉君苺パフェなんてキャラじゃないから。……はぁ」
呆れて物も言えなくなる。そんな私を他所に、
「まあそれは冗談で……」
何やら小さく呟いたかと思うと、彼は急につかつかと私の方に歩み寄ってきた。それはあっさりと私と沢北君の不可侵領域を侵犯し、太陽を背にして今度は私の前に立ちはだかる。
……何よ今更……
なんて思いながらも、詰められた距離にドキッとせずにはいられない。
「俺は本当にお前の事が好きみたいなんだ、梨子」
いつになく真剣な顔をした彼が至近距離で私と対峙する。これだけ近くに寄られると目を逸らすのもなんだか不自然に思われて、私の方も彼を真っ直ぐに見つめ返すしか仕様がない。そうして見上げた彼の表情は、逆光の中にあってはっきりと捉えることはできなかったのだが、私の理性を保つ上ではそれくらいで丁度良かったのかもしれない。
普段あまり気にすることのなかった分、ここに来て私は猛烈に彼を男性として意識してしまっていた。切れ長の目に、スッと伸びた鼻筋、細くやや尖った顎など、改めて眺め回してみると、確かにいつか未来も言っていたように少しくらいはクールでカッコイイ気がしないでもない……やっぱり彼はなんかずるい。
「『みたい』ってなによ。煮え切らないなぁ……」
そのくせ言ってる事はちぐはぐで、押しが弱いというか、勢いが無いというか……男らしさに全く欠ける。
「その、まあなんというか……これからも一緒にいてくれないか? その……今までとは違う形で……俺の彼女、に……」
ほーらほらほら。何、その『もしよかったら』的な? 『駄目だったらいいんだよ、全然』的な? これだから草食系根暗オタク男子は……! どうして『俺と付き合ってくれ!』の一言くらい言えないの? 何のために星の数ほども恋愛小説読んできたのよ!
――そして私は物語の意志に逆らうことに決める。
「ヤダ」
静かに、薄く開いた口から短く放たれたのは、文字通りの拒絶の言葉。それを聞いて、
「へ?」
と、呆けたような声を出す彼。
『なにそれ?』『どういう意味?』声に出さずとも何を考えてるかすぐにわかる彼の表情。きっと断られるとは思ってもみなかったのだろう。
……そういうところがまた甘くて癪に障るんだから。
「嫌なの。名倉君それ都合良過ぎじゃない? 沢北君と別れて傷ついた私のハートを横取りしようってわけ? そんなの全然無理だから! 私今でも断然沢北君が好きだから! 名倉君と付き合う? ダメだね! そんなのナンセンス! 断固拒否!」
「お、おい……」
伸ばしかけた手をわなわなと宙で震わせ、激しくうろたえる彼。いつもの高飛車な態度が私の手によって見るも無残に崩れ去って行くのが何とも言えないくらいに気持ち良く、ついついヒートアップしてしまう。
「まあそれでも? これまで私に協力してくれた恩と? こうして私を想ってくれているという気持ちに免じて? 少しは善処してあげようじゃない。そうね……まずは友達から始めるのなんてどうかしら? 私達はまだ友達ですら無いのだし? ふふっ、悔しかったら力ずくでも私を振り向かせて見なさいっ!」
極めつけに最後は見下す感じで「フン!」と鼻で笑う。これは来栖さんの真似をしてみたのだが、意外とサマになってたんじゃないかと思う。
「は? ちょっ……マジで……」
――ぶっ、ぶはあっ!!
その時、顔面蒼白になった彼の後方で、詰めた息を一気に吹き出したような(事実、その通りであったのだが)謎の物音がした。
「え……なに?」
********
音のした方をハッと振り返る。
「バ、バカッ……未来!」
続いて耳に届いたのは明らかに人語。囁くように声を潜め、でも残念ながら馴染みのある名前が丸聞こえで、まったく危機感があるのかないのか……
「ごめんごめん、だってあまりに見事に振られるんだもん名倉君」
そして塔屋の陰からひょっこり姿を見せたのは、やはり福田未来。
「いや〜失敬、失態……失恋? あはははは!」と一人ツボに入る彼女の後ろを、苦虫を噛み潰したような顔でおっかなびっくりついてくるのが神宮寺穂奈美だ。
「お、お前らっ……!」
俺は唖然として言葉を失い、
「二人共何してるのっ!?」
梨子は隣で悲鳴のような声をあげる。
「いや〜バレちゃったら仕方ない。ほら行くよ、みんな」
「みんな……?」
福田は今『みんな』と言ったか? それはつまり……
「なっちゅわ〜ん!! 俺は絶対笑わねーよっ! なっちゃんの勇姿、ちゃんと見届けたからなあっ!」
目に涙をいっぱいに溜めて、泣き叫びながら気持ち悪く現れたのは、クラスイチ心の質量の軽い男。
「か、加西!?」
そしてそのヒョロヒョロの長身の陰から、ニョキっと生え出たように顔だけ突き出すちびすけは……
「お二人共、見てるこっちまで緊張してしまいましたよ」
「ボン君!?」
梨子は両手を口に当て、次々と現れる覗き魔達に驚きを隠しきれない様子。
しかしこの流れだと次あたりは……
「おい馬鹿者! 私はしくじるなと言ったはずだぞ!」
……やっぱり。
太陽よりも眩い金色に輝く長髪を、ファサっとかき上げ仁王立ち。
「絵里!? いや、マジでこれはその……」
絵里と呼ばれた幼馴染は息を呑むほど端正な顔立ちで俺を睨みつけたかと思うと、しかしその矛先をズイッと脇へずらし、
「それより米女!! お前夏樹を振るとは何様のつもりだ!」
「えっ、私!? 何、どういうこと!?」
とばっちりで罵られ、焦る米女こと柊梨子。
「まあまあ。柊さんも口ではそう言ってるけど、ねえ?」
そして満を持しての登場が……
「なっ、沢北もいるのか!?」
「もう空港に行ったんじゃなかったの!?」
ここに来て二人の混乱は最高潮に達する。
「いや、荷物を取りに教室に戻ったら福田さんと神宮寺さんに捕まってね……何があったのかと問いただされたわけだよ。屋上で柊さんとお別れの挨拶をしてたって話をしたら、『じゃあ梨子を迎えに行くね』と言われてしまって、それを慌てて止めようとした僕はうっかり『いや、今は名倉君がいるから……』なんて口を滑らせてしまったんだ」
ニコニコと微笑みながら今日もどこか涼しげに、憎らしいほど爽やかに振る舞う沢北春。
「お前、それものすごく偶然を装った悪意を感じるんだが……」
「いやいや、本当にそんなつもりはなかったんだよ。ごめん。そしたら話を聞いた二人がどんどん盛り上がっちゃって、『8組のみんなも誘って見に行こう』って話に……それが今のこの状況というわけ」
沢北は両手を左右に開き、困ったように少し肩を竦めてみせる。……欧米風に。
「バカ! 何冷静に説明してるの! 用事が済んだなら早くアメリカ行きなよ!」
しかし沢北は梨子から受けた非難を物ともせず、
「ハハハッ! 柊さんは冷たいなあ!」
スカッと気持ち良いくらいに笑い飛ばす。
あれ? 沢北ってこんなキャラだったっけ?
「もう知らない! バカッ!」
プイッと背を向ける梨子の隣で、俺はただ呆然とこの光景を眺めていた。そして一通り役者が出揃ったところで俺はへなへなと膝から崩れ落ち、さして綺麗でも無いコンクリの床に手をつく。
なんだよそれ……結局俺は見せもんにされてたってわけか? これでも人生初の告白だったんだぞ? 実は死ぬほど心臓がバクついてただぞ? そして振られたんだぞ? それを俺は今こんなにも笑われてるのか?
「……チクショー!!」
それは意思とは別のところで口をついて出た魂の叫びだった。
「お、名倉君が吠えた」
そしてそんな俺を福田がもの珍しげに眺め、またキャッキャと笑う。
ああ! そうかい、そういうことかい、天の神さんよ! てめえ一人で勝手に幸せになろうとしてんじゃねえってことか!? この仕打ちは!
別に俺一人良い気分になって終わろうなんて思ってなかったさ! とりあえず梨子とのことをなんとかして、それから二人で順に色々整理していくつもりだったんだよ! 絵里のこととか、ボンのこととか、あとはよくわからないけど、福田も神宮寺も加西も、もちろん帰ってきたときの沢北も、皆まとめて面倒みるつもりだった! だけどそれは認めないってか!? 俺が幸せになるのは、皆が幸せになるのと一緒じゃなきゃダメだってか?
……じゃあやってやるよ! 全部まとめて俺が叶えてやる! 積み木の城なんてもんじゃない。まっさらな更地の上に、今度はレゴで一からとんでもなく手の込んだ豪邸を作ってやる! 俺達がぶち壊してしまった関係も、そこまでやりゃ文句ないだろ!
福田! お前には屋内プレイングルームをくれてやる! シーソーもブランコもジャングルジムもお前の希望通りに何でも遊具を入れていいぞ! そこで気の済むまで遊ぶがいい!
神宮寺! お前には防音室だ! これでいつ何時だってバイオリンの練習が出来る! その代わり、月一回は居間で演奏会を開くこと! クラシックは駄目だ! わからん! 全部現代音楽にしろ!
ボン! お前にはカラオケボックスだ! 親からもらったその美声を活かして日々特訓に励め! そうだな、神宮寺の演奏と一緒に歌ってみるのもいいかもしれない。100点が出たら俺に教えろ!
加西! 見ろ! テニスコートだ! いくら練習嫌いのお前でも、これだけ近くにあったらラケットを振り回さずにはいられないだろう! ……いや、それでもお前は練習するようなキャラじゃないか。じゃあもし大会で好成績を残したら、特別に絵里のサービスショットをくれてやる! 俺しか知らない中学時代の絵里の写真達だ! どうだ、欲しいだろ!
そして絵里! お前は俺と同じ寝室だ! ダブルベッドだ! こうなったら本気でお前と恋愛してやる! ふははははっ、今日からお前はその身の貞操の危機に怯えながら毎夜を過ごすことになるのだ! ……いや、もちろん冗談だ。想像の中でもそんなに白い目で俺を蔑まないでくれ……
沢北! アメリカから帰ってきて、たまらなく日本が恋しくなってるだろうお前には茶の間をくれてやる! お茶は神宮寺辺りに淹れてもらえ! もちろん和服だ! くそっ……少し羨ましいぞ!
梨子! お前は俺に仇なした罰だ! 部屋なんかやらん! 廊下で寝ろ!
そして俺は……世界中のありとあらゆる恋愛小説を貯蔵、保管出来る、温度、湿度管理共にばっちしの超巨大地下書庫を作ってやる!!
どうだ! これなら全員幸せだろう! 恨みっこなしだ! 毎日毎日明日が楽しみで寝つけないくらいの毎日を、今日から俺がくれてやる! 覚悟しとけ! ……はっ? 本当に家が欲しい? 知るかっ、そんなもの! 欲しけりゃ三億包んでこい!
「くそぉー!! なめんじゃねえぞー!!」
そして俺は勢いよく立ち上がると、鬼のような形相で天に向かってタイマンを挑むのだ。
「お、なっちゃん遂にキャラ崩壊?」
果てしない妄想と、内に秘めた俺の決意など露知らず、周りの者はポカンと口を開ける。しかしすぐに揃って皆腹を抱えて笑い出すのだ。
『最後まで話を聞いた彼女は、沈黙し、少し考え込むような仕草をした。そしてややあって大きく頷いたその顔には、それだけで世界が明るくなりそうな満面の笑みが湛えられていたのだ……』
本当はそうなるはずだった。俺の小説では。
もちろんそれは梨子が俺の告白を受け入れてくれるという意味のハッピーエンドを指していて、だが知っての通り現実はそうはならなかった。
俺はあっさりと振られ、頑なに拒絶され、完膚無きまでに打ちひしがれ……
だけどこれもアリかな、と思うのだ。いや、変に強がっているのではない。だってこうして眺めてみれば、いつのまにか俺にはこんなに沢山の友人がいて、そいつらの顔といったらどいつもこいつも死ぬほど楽しそうに歪んでいて、その中でも梨子は一際苦しそうに咳き込みながら目の縁を拭っているのだ。
――忘れてた。梨子が笑うなら、俺はそれでいい。
********
「で……どうして俺が振られた女と一緒に帰らなきゃならん?」
屋上での(俺にとっては)惨劇の後、他の奴らは皆部活だとか、生徒会だとかそれぞれに理由をつけて早々と散ってしまい、結局俺と梨子だけがそこに取り残された。
「もうまだ怒ってるの? だからあれはちょっとやり過ぎたんだって! 確かに沢北君の事はまだ好きだけど、名倉君の事も嫌いじゃないよ。ほら、だから友達から始めようって言ってるじゃん」
「……」
二人並んで校門を出るのはいつぶりだろう。変な誤解をされるのを警戒して、結局四月のあの日以来になるのだろうか?
微妙にふてくされる俺と、いつもと変わらぬ調子で話しかけてくる梨子。
「大体名倉君がはっきりしないからだよ。男なら男らしく多少強引でも『彼女にしてやる!』くらいの気概を見せなきゃ。女の子はそーゆーの弱いんだよ」
「……」
そして俺はついさっき振られた女になぜかうるさくダメ出しをされながら帰り道を行くのだ。
「あっ、そうだ! 今度は私が名倉君のために小説書いたげよっか? 名倉君が私の心を掴むためのお話。まだノート残ってたよね? ……あ、そういやこの小説のタイトルってなんていうの?」
「さあな、そんなの考えた事もない」
……ったく、その気のない一言一言に俺が今も一々傷ついているのをわかっててこいつは言ってるのか? ……いや、わかってないだろうな。
「そうだなあ……私と沢北君のラブラブがメインになってるけど、それをずっと支えてきた名倉君という影の存在がいるわけだし……『夏樹と梨子』?」
顎に人差し指をあて、漫画のように上目で首を傾ける梨子。
「まんまかよ。もうちょっと洒落た名前考えられないのか?」
仕方なくおしゃべりに付き合ってやると、梨子はまた「うーん……」と首をひねり、
「じゃあ『ナツキトリコ』!」
閃いたようにポンと手を叩くのだ。
「カタカナにしただけだ」
そもそも実会話でどうして漢字表記とカナ表記の違いが伝わるのかは至極疑問だが……まあそこは気にしない。
「えー? 私は好きだけどな〜『ナツキトリコ』。なんか可愛いし!」
そしてニコッと微笑む彼女を見て俺は思うのだ。
つくづく面倒な女だ……
と。
どうして俺はこんな女を好きになってしまったのか……よりにもよって。
頑固者。短気。我が強くて身勝手で――
高校に入ってからというもの、あるべき俺の平穏な高校生活は瞬く間にこいつの登場で破壊され、静かに読書をする時間も失った俺は、成績も悪化し(俺は梨子のせいだと信じることにしている)、挙げ句の果てに親友を裏切ってまで挑んだ勝負に見事玉砕している。
だけど何度思い返してみても、どんな展開を想像してみても、俺はやっぱりいつだって梨子のために小説を書いてやると思うのだ。
「名倉君? どしたの、ぼーっとしちゃって?」
「おお……お前があまりにうるさ過ぎるから思考をシャットアウトしてしまっていた。すまん」
こうやって肩を並べて歩くなら、是非お前と一緒が良いと思うから。
『だから多分俺はお前が好きだ。』
……なんてな。
これが俺達の三ヶ月の記録。
これからもずっと続く、俺と梨子と、その仲間達の物語。
(完)
最後までお付き合い下さった皆様、本当にありがとうございました。そしてお疲れ様です。
これにて三月から連載を続けてきましたナツキトリコも終幕です。いかがだったでしょうか?
拙い文章ではあったとは思いますが、少しでも皆様のお気に召したのであれば誠に光栄であります。
もしよろしければ今後の参考に感想、評価などお願いします。
どんな事でもかまいません。どうぞお気軽に。
また、今後の執筆の予定に関しましては活動報告の方でさせて頂きたいと思います。
それでは応援して下さった読者の皆様、もう一度重ねて御礼を申し上げたいと思います。ありがとうございました。